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	<title>TRI-X &#187; 発祥</title>
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		<title>Vol.22：風神の巻　第２章その9：トライアスロンは冒険だった</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1624</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1624#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 19 Jun 2009 00:58:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/dscf0168-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />この年の10月30日、皆生トライアスロン協会が発足した。トライアスロンをお祭りイベントとしてだけでなく、競技スポーツとして定着させると共に、大会運営をしっかりとした組織の下で展開していこうという狙いだった。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その9</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トライアスロンは冒険だった</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0168-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0168-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">この年の10月30日、皆生トライアスロン協会が発足した。トライアスロンをお祭りイベントとしてだけでなく、競技スポーツとして定着させると共に、大会運営をしっかりとした組織の下で展開していこうという狙いだった。</p>
</div>
<p>　</p>
<p> 皆生温泉旅館組合が60周年記念事業として1981年に開催した日本で初めてのトライアスロン大会は、実は１回限りのイベントとして企画されたものだが、その翌年も、またその翌年以降も開催され、今日現在、わが国で最も長いトライアスロンの歴史を刻む大会として存続している。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「選手達の強い要望もありましたが、第1回大会が終わってボランティアや役員スタッフなど大会に携わった者も心温まるもを感じていました。だから、これ切りでなく、来年も開催しようということになったのです」</span></p>
<p>　第1回大会が終えて、福本安穂や片桐　隆、石尾寿朗らKT実行委員会の面々は思いを同じくしたのだ。</p>
<div id="attachment_1626" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0215.jpg"><img class="size-medium wp-image-1626" title="第１回から第５回の大会パンフレット" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0215-300x225.jpg" alt="第１回から第５回の大会パンフレット" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">第１回から第５回の大会パンフレット</p></div>
<p>　そして第２回大会はスイム３Km、バイク103.6Km、ラン40Kmと、３種目の距離がそれぞれ延長され、1982年７月に開催された。参加選手も100名と２倍に膨れ上がり、なんと熊本のワサモン集団は総勢20名余りがトラックとバス２台で皆生温泉へ乗り込んだという。また「トライアスロン」の名を聞き付けたアスリート達が冒険心に燃えて全国各地から集まった。後述の『トライアスロン談義』に登場する脇田重男や市川祥宏もそれぞれ大阪、千葉から参加した。市川は当時のことを次のように振り返る。</p>
<p><span style="color: #35ba1b;">「不安と恐怖心に苛まれながら、皆生大会へ出場しました。大学時代は陸上の中長距離ランナーとして鍛えてきましたので、陸の上のランやバイクは何とかこなすことはできるだろうと思っていましたが、何しろスイムが苦手ですから、スタート寸前まで、いや泳ぎながらも終始、不安が付き纏っていたのです。大袈裟ですが、死ぬ覚悟さえしたほどです。これは私だけでなく、同じ旅館に泊まり出会った脇田さんもそうですが、初めて参加した多くの人が抱いた気持だと思います。日本でトライアスロンが始まった1980年代前半は、アスリートにとってトライアスロンは冒険だったのです」</span></p>
<div id="attachment_1627" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg3051.jpg"><img class="size-medium wp-image-1627" title="市川祥宏氏（06年７月、千葉・船橋にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg3051-225x300.jpg" alt="市川祥宏氏（06年７月、千葉・船橋にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">市川祥宏氏（06年７月、千葉・船橋にて撮影）</p></div>
<p>　この第２回大会の完走者は98名、トップに立ったのは第１回大会の優勝者である下津紀代志の体育教師であった熊本県出身の田上栄一（31歳）で、総合タイムは８時間35分26秒だった。２位には第1回大会にも出場した東京都出身の北村文俊（32歳）、３位に神奈川県出身の高山信行が入った。第1回大会優勝者の高石は欠場、下津は総合8位でフィニッシュした。また、女子は永谷誠一の娘である永谷美加（23歳）が優勝、以後、第４回大会まで連続優勝を続ける。</p>
<div id="attachment_1628" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/82course.jpg"><img class="size-medium wp-image-1628" title="競技距離が延長され、３種目のトランジットも辛うじて繋がった第２回大会のコース図" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/82course-300x208.jpg" alt="競技距離が延長され、３種目のトランジットも辛うじて繋がった第２回大会のコース図" width="300" height="208" /></a><p class="wp-caption-text">競技距離が延長され、３種目のトランジットも辛うじて繋がった第２回大会のコース図</p></div>
<p>　翌83年の第３回皆生トライアスロン大会に出場した市川は、バイクで事故を起こしリタイアした。スピードの出し過ぎか？　ガードレールに突っ込み、左股を切り裂き病院へ運ばれたのである。ところが市川の事故よりももっと悲惨な事故が、この第３回大会で発生した。この皆生大会の開催の立ち上げをバックアップし「トライアスロン界の父」と呼ばれた堤　貞一郎がスイム競技中に溺れるという、致命的な水難事故が発生したのだ。<br />
　大会当日の天候は良好だったが、三保湾の海は大きくうねっていた。堤は、そのうねりに呑まれ溺れてしまったのだ。前年の第２回大会では、神戸大学の学生で水泳選手だった息子が３Kmのスイム・コースを一緒に泳いでサポート、約２時間半をかけ泳ぎ切ったのだが、今回は単独で挑戦し無念にも波の力に屈したのである。堤は自衛隊の飛行機で熊本の病院に運ばれたが、意識不明のままその後、約３年間眠り続け還らぬ人となった。</p>
<p>　この年の10月30日、皆生トライアスロン協会が発足した。米子市観光協会と皆生温泉旅館組合の関係者たちが中心となってつくった日本で初めてのトライアスロン競技団体で、第3回大会が210名（うち女性７名）と多くの参加選手を集め全国的に皆生の名が知られるようになったのを機に、設立の運びとなったのである。トライアスロンをお祭りイベントとしてだけでなく、競技スポーツとして定着させると共に、大会運営をしっかりとした組織の下で展開していこうという狙いだった。</p>
<p>　それから７年後、皆生大会は参加選手の定員500名という規模で1990年７月に第10回記念大会が開催された。この第10回を記念して大会スポンサーである山陰信販が寄贈したのが「トライアスロン発祥銘板」である。その銘板には日本人として初めてトライアスロンにチャレンジした第１回大会の参加者53名の名が刻まれている。そして地元・米子市出身の彫刻家・石田　明が第５回記念大会の時に制作、完成させたブロンズ像（作品名；夏）と共に“日本トライアスロン発祥記念碑”として皆生温泉海水浴場の砂浜に設置された。</p>
<div id="attachment_1629" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0168.jpg"><img class="size-medium wp-image-1629" title="海水浴場の砂浜に立つブロンズ像" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0168-225x300.jpg" alt="海水浴場の砂浜に立つブロンズ像" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">海水浴場の砂浜に立つブロンズ像</p></div>
<div id="attachment_1630" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0162.jpg"><img class="size-medium wp-image-1630" title="「日本トライアスロン発祥記念銘板」に刻まれた自分の名を指差す北村文俊氏（03年７月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0162-300x225.jpg" alt="「日本トライアスロン発祥記念銘板」に刻まれた自分の名を指差す北村文俊氏（03年７月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">「日本トライアスロン発祥記念銘板」に刻まれた自分の名を指差す北村文俊氏（03年７月撮影）</p></div>
<p> 　それから10年後の2000年７月、大会20周年を記念して第１回大会に参加したメンバーの同窓会が大会前日に開かれた。永谷と高石ともやの呼び掛けでこの日、皆生温泉に集まったのは21名、うち５名が翌日の記念大会に出場したのである。その５名のうち、54歳で出場してから20年の歳月を経て74歳となった永谷だが、ランに入って左大腿筋が断裂、18Kmで制限時間オーバーとなりリタイアした｡永谷がトライアスロンでリタイアしたのは、これが初めてだが、以後、トライアスロン大会には出場していない。</p>
<div id="attachment_1631" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/20.jpg"><img class="size-medium wp-image-1631" title="第20周年記念大会に参集した第1回大会の勇者20人の面々（前列左から渡辺克巳、大川俊夫、塩澤光久、萩原清光、永谷誠一、北村文俊、城　菊郎、宇山雄司、後列左から沓掛修一、飯田秀樹、緒方　隆、鎌田秀明、岩本克雄、辻　由紀子、高石ともや、村上好美、小西章平、榎本　隆、増田真一、圓岡操夫）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/20-300x194.jpg" alt="第20周年記念大会に参集した第1回大会の勇者20人の面々（前列左から渡辺克巳、大川俊夫、塩澤光久、萩原清光、永谷誠一、北村文俊、城　菊郎、宇山雄司、後列左から沓掛修一、飯田秀樹、緒方　隆、鎌田秀明、岩本克雄、辻　由紀子、高石ともや、村上好美、小西章平、榎本　隆、増田真一、圓岡操夫）" width="300" height="194" /></a><p class="wp-caption-text">第20周年記念大会に参集した第1回大会の勇者20人の面々（前列左から渡辺克巳、大川俊夫、塩澤光久、萩原清光、永谷誠一、北村文俊、城　菊郎、宇山雄司、後列左から沓掛修一、飯田秀樹、緒方　隆、鎌田秀明、岩本克雄、辻　由紀子、高石ともや、村上好美、小西章平、榎本　隆、増田真一、圓岡操夫）</p></div>
<p>　わが国トライアスロンの栄光の歴史を刻む皆生トライアスロン大会。その大会讃歌として大会15周年記念に高石ともやが作詞・作曲し、自ら歌った皆生トライアスロンの歌「サマータイムドリーム」の一節を紹介し、皆生トライアスロン大会にまつわる物語を、これで一先ず終わる。</p>
<p><span style="color: #3366ff;">伝えておくれ、勇者の伝説<br />
山よ大山<br />
オー、サマータイムドリーム<br />
過ぎゆく夏の稲妻のように<br />
走りゆく君<br />
オー、サマータイムドリーム<br />
</span> <br />
《次回予告》<br />
<span style="color: #19ab16;">９回にわたって連載した皆生トライアスロン大会の物語は今回で終了し、次回から湘南ハーフトライアスロン、小松トライアスロン、久留米トライアスロン、玄海トライアスロンの各大会の話を綴っていきます。その後、JTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）やATC（オールジャパン・トライアスロン・クラブ）など全国各地で誕生したトライアスロン・クラブ、さらには日本トライアスロン協会や日本トライアスロン連盟の創立の動きなどを紹介した後、宮古島トライアスロン大会、琵琶湖アイアンマン大会の物語を記していく予定です。このため当編集委員会では今後、これら各大会の開催や組織化に関わる関係者の取材を展開していきますので、ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞皆生で生まれ、皆生で育てられた　　【脇田　重男】</h3>
<p><span style="color: #cd27c7;">「えらかったねえ」</span></p>
<p>　約10時間をかけてようやく完走した私は風呂に浸かりながら、同じ湯に入っていた男性に語り掛けました。男性とは初対面でしたが、たまたま同じ時間にフィニッシュして、旅館の風呂で出会ったのです。すると、立派な顎鬚を蓄えた男性は大きく頷きながら、</p>
<p><span style="color: #60ed11;">「ほんとうに、きつかったね」</span></p>
<p><span style="color: #cd27c7;">「初めてでっか？　トライアスロンは」</span></p>
<p><span style="color: #60ed11;">「ええ、初めてなので恐ろしかったけど、何とか完走しました」span&gt;</span></p>
<p><span style="color: #cd27c7;">「僕も初めて。ほんま、しんどかった」</span></p>
<p>　私が湯船の中で話し掛けた相手は、千葉県出身の市川祥宏さんであり、その市川さんも私とは1分差もないほぼ同タイムの総合18位でゴールしたことを知りました。</p>
<p>　そう、私がトライアスロンに初めて挑戦したのは、1982年に開催された２回目の皆生大会でした。私が35歳の時です。前年の8月に朝日新聞で第1回大会の記事を見て、</p>
<p><span style="color: #cd27c7;">「よおし！　俺もやったるわい」</span></p>
<p>　体内の血が逆流したかのような思いでした。３種目をこなす自信はありませんでしたが、子供の頃から体育は得意だったし、高校生の時は陸上競技部に所属してもっぱら長距離走をやっていましたので、何とかできるだろうという気持でした。早速、その年の9月からランニングを開始、スイミングも自己流の平泳ぎを止めてクロールの練習を積み、ほぼ１箇月でマスターしました。また、それまで吸っていた煙草も１週間後に止め、年末にはロードレーサーも購入、第２回皆生大会への出場体制を整えていったのです。<br />
　そして、いよいよ皆生へ向かう時は、自分の骨を拾ってもらう積もりで実兄にクルマで同行してもらいました。その決死の覚悟で挑戦した結果は、総合16位、タイムは10時間4分15秒でした。</p>
<p>　それからというもの私はトライアスロンの魅力に憑かれ、2002年までの21年間、55歳の歳まで皆生大会に出場しました。トライアスロンに関して言えば、まさに私は皆生で生まれ育てられたようなものです。その間、大会主催者の方々には沢山、お世話になり、また数多くのトライアスリートと出会いトライアスロンの素晴らしさを分かち合ってきたのです。市川さんとも出会い、同じ経験、同じ思いを持てたことを、今でも喜んでいます。<br />
　ところで、私の皆生大会への出場が最後となったのは02年の第22回大会でした。スイムの中間点に差し掛かった頃、同じ参加選手から喧嘩を吹っかけられたのです。その不快な思いが競技中、付きまとい、バイク競技が終了した時点でリタイアを決めました。その後、今日まで皆生大会はもちろん、他のトライアスロン大会にも出場していません。</p>
<p>　やはり出場するからには自分の力を目一杯出し切りたい。しかし、最早トレーニングを積むこと自体が辛いし、あるいは辛くてもそれを克服する情熱を失いかけています。いまや皆生を完走することさえ容易でないというのが実状です。でも、トライアスロンを続けてきたからこそ、その経験が私の人生を豊かにし、かつ深められてきたと思います。<br />
　だから、これからもトライアスリートとしての生活を続ける積もりですが、レースでは順位やタイムへのこだわりを捨てて、生涯スポーツとしてトライアスロンを自分なりに楽しんでいこうと思っています。そしていつの日かきっと、皆生に戻ります。</p>
<div id="attachment_1635" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf02251.jpg"><img class="size-medium wp-image-1635" title="脇田重男氏（03年４月、大阪にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf02251-300x225.jpg" alt="脇田重男氏（03年４月、大阪にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">脇田重男氏（03年４月、大阪にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.21：風神の巻　第２章その8：トップの選手２人が手を繋ぎ合いゴールした</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1601</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1601#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 18 Jun 2009 04:53:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1601</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/06031-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />トップの２人が皆生温泉街に入ってきた。いよいよフィニッシュする。２人を迎え称える拍手が栄光のゴール・ラインに鳴り響いた。そのゴール・ラインを後に「フィニッシャーズ・ストリート」と呼び、今日に及んでいる。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その8</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トップの選手２人が手を繋ぎ合いゴール</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06031-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06031-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">トップの２人が皆生温泉街に入ってきた。いよいよフィニッシュする。２人を迎え称える拍手が栄光のゴール・ラインに鳴り響いた。そのゴール・ラインを後に「フィニッシャーズ・ストリート」と呼び、今日に及んでいる。</p>
</div>
<p>　</p>
<p> “スピードは時として美しい　しかし、耐える姿はなお美しい　あなたの人生の１ページに「完走」の二文字を刻んでください”</p>
<p>　大会主催者が参加選手たちに贈ったメッセージである。そのメッセージにある通り、53名の選手達は「完走」の二文字を目指して、三保湾の海で泳ぎ、大山を巡る山道で自転車を漕ぎ、そして今、最後の種目のランに入った。</p>
<p>　ランは鳥取県西部健康増進センターから皆生温泉街を通り抜け、境港市の水産加工団地を折り返す36.5Kmのコースである。米子市から漁獲水揚げ量で国内を代表する境港市まで続く弓ヶ浜半島を往復する。国道の裏道の松林が続く一本道を走り、時には歩道橋を渡ったりするコースだ。</p>
<div id="attachment_1606" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06151.jpg"><img class="size-medium wp-image-1606" title="辛くても頑張って走る選手達" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06151-300x195.jpg" alt="辛くても頑張って走る選手達" width="300" height="195" /></a><p class="wp-caption-text">辛くても頑張って走る選手達</p></div>
<div id="attachment_1605" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06171.jpg"><img class="size-medium wp-image-1605" title="辛くても頑張って走る選手達" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06171-300x235.jpg" alt="辛くても頑張って走る選手達" width="300" height="235" /></a><p class="wp-caption-text">辛くても頑張って走る選手達</p></div>
<p>　それにしても暑い。朝から雲一つない炎天の下、選手達は余りの暑さに喘いだ。この日、最高気温は28.8℃にも達したという。選手達の体力の消耗を心配して、主催者側はコース途中で何度か体重計測を行った。ハワイ・アイアンマン大会の真似をしたのである。この体重計測のルールとは、水泳終了後、自転車・マラソンの競技中、体重を測定することによって、体重が極度に減少した選手に対し競技中止を命ずるというもの。しかし、体重計測で失格になった選手は誰一人いなかった。</p>
<div id="attachment_1607" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0606.jpg"><img class="size-medium wp-image-1607" title="ランの途中で体重測定" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0606-300x195.jpg" alt="ランの途中で体重測定" width="300" height="195" /></a><p class="wp-caption-text">ランの途中で体重測定</p></div>
<p>　<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0616.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1608" title="0616" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0616-143x300.jpg" alt="0616" width="143" height="300" /></a>そしてスイム・スタートから６時間ほど経った午後1時頃、ゼッケン51番の下津紀代志（熊本県出身、22歳）と同58番の高石ともや（福井県出身、39歳）の２人が、互いにトップを譲らず併走を続けていた。しかし、ゴールが近づく頃、高石は言った。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「お互い、ここまで頑張ったのだ。最後は一緒にゴールしよう」</span></p>
<p>　その高石の提案に下津も深く頷いた。</p>
<p>トップの２人が皆生温泉街に入ってきた。いよいよフィニッシュする。２人を迎え称える拍手が栄光のゴール・ラインに鳴り響いた。そのゴール・ラインを後に「フィニッシャーズ・ストリート」と呼び、今日に及んでいる。</p>
<p>　下津と高石は共に手を取り合い、その手を空に突き上げてゴールテープを切ったのである。総合タイムは６時間27分33秒。ちなみに２人の３種目のタイム・スプリットはスイムが高石49分24秒、下津52分54秒、バイクが下津２時間34分25秒、高石２時間45分10秒、ランが下津２時間45分33秒、高石２時間48分33秒だった。（トランジション・タイムは除く）第３位にはゼッケン５番で鳥取市出身の森本謙一（32歳）がトップと約23分差の６時間50分27秒で入った。また、出場者２人を数えた女子選手のうち、ゼッケン28番の辻　由紀子（熊本県出身、31歳）は10時間22分47秒、総合38位でフィニッシュした。ちなみに、計測はすべて手動のストッポッチで行われたという。</p>
<div id="attachment_1609" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06031.jpg"><img class="size-medium wp-image-1609" title="高石選手(写真左）と下津選手（写真右）が共に手を繋ぎ合いフィニッシュした" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06031-300x200.jpg" alt="高石選手(写真左）と下津選手（写真右）が共に手を繋ぎ合いフィニッシュした" width="300" height="200" /></a><p class="wp-caption-text">高石選手(写真左）と下津選手（写真右）が共に手を繋ぎ合いフィニッシュした</p></div>
<p>　鳥取県西部健康増進センターがあるゴール地点に灯かりが点された。すでにフィニッシュした選手達は旅館の風呂に入り夕食を済ませる者もいたが、一方でまだゴールを目指し走っている者もいた。結局、最終走者は参加選手中の最高年齢者、広島県呉市から参加した66歳の小田　治（ゼッケン８番）で、総合タイムは13時間15分00秒、夜８時過ぎのフィニッシュだった。出場選手53名中、完走者は49名、残り４名はスイムで１名、バイクで３名がリタイアしたのである。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07031.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1611" title="07031" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07031-300x225.jpg" alt="07031" width="300" height="225" /></a><br />
 <br />
　その夜、選手達と大会役員・ボランティアとの交流を深める完走パーティが開かれた。そして、すべての大会行事が終了し自宅に戻った競技委員長の福本安穂は、日記に次のように記した。</p>
<p><span style="color: #339966;">　「みんなの力の結集により私のアイデアが実をむすんだ。涙がこぼれそうに嬉しい。来年も来て貰える様にがんばろう」</span></p>
<div id="attachment_1613" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06211.jpg"><img class="size-full wp-image-1613" title="完走パーティでは高石ともやのギターの音色と歌が会場に響き渡った" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06211.jpg" alt="完走パーティでは高石ともやのギターの音色と歌が会場に響き渡った" width="300" height="197" /></a><p class="wp-caption-text">完走パーティでは高石ともやのギターの音色と歌が会場に響き渡った</p></div>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞故郷に錦を飾ることができた　　【小原　工】</h3>
<p>　私がトライアスロンと初めて出会ったのは、中学２年生の時でした。暑い夏の晩、父親のクルマに乗って米子市内の夜道を走っていた時、助手席に座っていた私の目に黄色く光るペンライトを片手に持ちながら走っている人達の姿が映ったのです。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「お父さん、あれは何？」</span></p>
<p>　私は父親に聞きました。</p>
<p><span style="color: #339966;">「トライアスロンだよ。水泳と自転車をやって、今、最後のマラソンを走っているのだ」</span></p>
<p><span style="color: #ff0000;">「えぇっ、こんなに遅くまで…」</span></p>
<p>　私は驚きを隠せませんでした。それと同時に、なんて凄いスポーツなのだろう！　と思いました。この中学生の時、私が抱いたトライアスロンの印象が、その後の私のスポーツ人生に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。</p>
<p>　しかし私のスポーツ人生は、青少年時代においてはトライアスロンではありませんでした。それは競泳と水球です。中学生の時は400mと1,500ｍ自由形の選手として活動しました。また、大学時代は水泳部に所属し、水球に夢中になりました。実は、その水泳部の１年後輩に吉村　純君がおりまして、彼はトライアスロンの同好会をつくり自らトライアスロンに挑戦していました。同じ後輩の佐久間規全君は、私より水泳が遅かったにもかかわらず仙台国際トライアスロン大会ではスイムをトップであがってきたのです。</p>
<p>　さらに大学の先輩として八尾彰一さん（現チーム・テイケイ監督）が、日本のトップ・トライアスリートとして活躍するなど、私の大学時代は周囲にトライアスロンに関わる人達がいたため、嫌がうえにも私はトライアスロンに強い関心を持たざるを得ませんでした。それで大学３年生の夏休みに帰省した際、皆生トライアスロン大会を改めて自分の目で見、確かめることにしたのです。そして、改めて関心と強い興味を覚えました。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「なんて！　凄い競技だろう。自分も挑戦してみたい。でも出来るだろうか？」</span></p>
<p>　特にバイクの速さには驚きました。山を下るスピードは優に時速60Kmを越えていたと思われます。トップの選手達がはるか向こうの坂の頂上（いただき）にいたかと思うと、見るみる間に近づき、私の目の前を風のように通り過ぎ、また反対の坂の頂上に向かって身体を左右に揺らしながら登っていくのでした。トライアスロンを目の当たりに見た私は、この時、感動と共にトライアスロンにチャレンジしていく決意を固めたのです。</p>
<p>　私がトライアスロンに初めて出場したのは23歳の時、皆生トライアスロン第10回記念大会でした。その当時、陸上競技と水泳をやっていた弟の充（当時19歳）と共に出場しました。私も弟に負けずランニングが得意だったし、もちろん水泳は誰にも負けないくらいの自信を持っていましたので、総合で10位以内はいけるだろうと思っていました。しかし、蓋を開けてみると、実に私が甘かったことに気付かされました。事実、スイムはトップであがり、バイクも中盤までトップを維持し続けましたが、後から弟が追い付いてきたのです。弟は私に、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「兄貴、一緒に行こう！」</span></p>
<p>　そう言って私を励ましてくれましたが、すでに疲労困憊していた私はその後もズルズル落ち込んでいって、結局、バイクは６番目にゴール。ランでは暑苦しさで目の前が真っ白になる始末、途中10Kmほど歩き、総合50位でようやくゴールしたのです。ちなみに、この10回記念大会の総合の部・優勝者は磯野公男さん、２位が細田恵誠さん、そして３位が弟でした。</p>
<p>　この初めてトライアスロンに挑戦し失敗した貴重な体験が、私をトライアスロンにのめり込ませてくれたのです。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「何年かかるか判らないけれど、きっといつの日か、故郷で優勝しよう」</span></p>
<p>　それから私は仕事をしながら、トライアスロンの練習に打ち込んでいきました。その私の願いは、早い機会に叶えることができました。翌年の第11回大会は、谷　新吾さんに優勝を譲ったものの総合２位となり、翌年の第12回大会では優勝、２位の弟と共に兄弟でワンツー・フィニッシュすることができたのです。</p>
<p>　その後、私はトータル距離51.5Kmのショート・ディスタンス・トライアスロンに専念し、ワールドカップや世界選手権などの大会を経てシドニー・オリンピックに出場を果たし、日本人として最高位の成績を収めることができました。そしてまたショート・トライアスロンと離れ、再びロング・トライアスロンの皆生大会に復帰、一昨年の第24回大会と昨年の第25回記念大会を連続して優勝しました。</p>
<p>　思えばオリンピックという、当初、考えてもみない世界に入った私ですが、その私がトライアスロン発祥の地に育ち、故郷の大会で多くのことを学ばせて戴き、その結果、世界のトライアスロンの舞台で活躍できたということは、本当に意義深いことだと思っています。それもこれも皆生トライアスロン大会があったからであり、同時に皆生の多くの人々が私の背中を後押ししてくれたお陰だと感謝しています。</p>
<div id="attachment_1615" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/062676.jpg"><img class="size-medium wp-image-1615" title="第24回大会で優勝インタビューを受ける小原選手（04年７月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/062676-300x225.jpg" alt="第24回大会で優勝インタビューを受ける小原選手（04年７月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">第24回大会で優勝インタビューを受ける小原選手（04年７月撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.20：風神の巻　第２章その7：53名の英雄が泳ぎ出した</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1588</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1588#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 18 Jun 2009 02:48:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/0606-05-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />眩しい太陽の陽射しを避けるかのように、浜辺に集まった選手や役員スタッフが額に手を翳し三保湾の海に視線を注ぐ。選手たちは、まるで太陽の子のように黒々と日焼けした身体を露わに、二本の足ですっくと浜辺に立ち、スタートの合図を待っていた。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その7</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">53名の英雄が泳ぎ出した</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0606-05-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0606-05-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">眩しい太陽の陽射しを避けるかのように、浜辺に集まった選手や役員スタッフが額に手を翳し三保湾の海に視線を注ぐ。選手たちは、まるで太陽の子のように黒々と日焼けした身体を露わに、二本の足ですっくと浜辺に立ち、スタートの合図を待っていた。</p>
</div>
<p>　</p>
<p> 日本海に臨む美保湾の海は凪いでいた。その三保湾を包むかのように、日野川が流れる皆生温泉から日本三大漁港のうちのひとつ境港まで、ゆるやかな弓形の曲線を描いた弓ヶ浜（夜見ヶ）半島が延びている。<br />
　第1回皆生トライアスロン大会は、美保湾の最も奥まった皆生温泉の海岸に造られた海浜公園前の浜辺から、トライアスロンの最初の種目・スイムがスタートする。竹棹を両側に立てたスタートラインの旗が、朝の風に靡いている。天候は朝から快晴、空は晴れ渡っていた。</p>
<p><span style="color: #e816be;">「今日も熱くなるぞ」</span></p>
<p>　誰かが叫ぶように言い放った。眩しい太陽の陽射しを避けるかのように、浜辺に集まった選手や役員スタッフが額に手を翳し三保湾の海に視線を注ぐ。選手たちは、まるで太陽の子のように黒々と日焼けした身体を露わに、二本の足ですっくと浜辺に立ち、スタートの合図を待っていた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「ピーッ」</span></p>
<p>　午前７時きっかり、大会役員がホイッスルを鳴らした。</p>
<div id="attachment_1590" style="width: 179px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0606-05.jpg"><img class="size-medium wp-image-1590" title="スタートの合図は，ホイッスルの一吹きだった(皆生大会１５周年記念誌より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0606-05-169x300.jpg" alt="スタートの合図は，ホイッスルの一吹きだった(皆生大会１５周年記念誌より）" width="169" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">スタートの合図は，ホイッスルの一吹きだった(皆生大会１５周年記念誌より）</p></div>
<p><span style="color: #3366ff;">ザブ、ザブッ、ザブ、ザブッ、ザブ、ザブッ………。</span></p>
<p>　波飛沫をあげながら、選手たちが海に入っていく。スイム2.5Kmの競技がスタートしたのだ。そして、この瞬間、わが国におけるトライアスロン・スポーツのドラマが始まったのである。53名の選手達は次々と海の中へ入り、自動車のチューブをブイ代わりに設置したコースを泳ぎ出していった。</p>
<p>　浜辺に残ったのは大会役員スタッフと選手の家族や友人など大会関係者がほとんどで、一般の観戦者はごくごく少ない。KT実行委員会のPR不足もあってか、この第1回大会は地元には今ひとつ浸透しなかったようだ。</p>
<div id="attachment_1591" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0609.jpg"><img class="size-medium wp-image-1591" title="三保湾の海へ53名の選手が一斉に泳ぎ出した" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0609-300x194.jpg" alt="三保湾の海へ53名の選手が一斉に泳ぎ出した" width="300" height="194" /></a><p class="wp-caption-text">三保湾の海へ53名の選手が一斉に泳ぎ出した</p></div>
<p>　しばらくして…とでも言えばよいか、スタートして選手達の姿が見えなくなってから束の間、浜辺で観戦している人々がアッと驚くばかり、早くもスイム2.5Kmを泳ぎ切り浜辺に向かってくる選手が見えた。</p>
<p><span style="color: #ff9900;">「エエッ、まさか！　もうゴールするの？」</span></p>
<p>　浜辺の観戦者たちは口々に驚きの声をあげた。スイムをトップであがったのは熊本の「ワサモン集団」のうちの一人、ターザンのニックネームを持つエドウィン・スタンプ（ゼッケン34番）である。</p>
<p>　スタンプはアメリカ出身の22歳、熊本市内でYMCAの英語教師をしている。タイムは32分32秒。浜辺で選手たちのゴールを迎える役員スタッフ達は、スタンプの余りの速さに舌を巻いた。だがスタンプは、バイクのスタート地点までクルマで搬送されるため、後続の選手がゴールしてくるのを待たなければならない。</p>
<div id="attachment_1593" style="width: 305px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06201.jpg"><img class="size-medium wp-image-1593" title="表彰式でスイムの健闘を称えられたエドウイン・スタンプ" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06201-295x300.jpg" alt="表彰式でスイムの健闘を称えられたエドウイン・スタンプ" width="295" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">表彰式でスイムの健闘を称えられたエドウイン・スタンプ</p></div>
<p>　それもこれも地元・米子警察署の強い意向で山陰地方の大動脈・国道９号線を横断することが許可されなかったため、スイム・ゴールから８Kmほど離れた淀江町西尾原まで、選手達をクルマで搬送しなければならなかったのである。まさに苦肉の策として設置されたバイク・スタート地点であった。</p>
<p>　クルマは旅館の送迎バスや乗用車など合計10台、スイムをフィニッシュした選手が４名揃ってからピストン輸送でスイム・ゴールとバイク・スタート地点を往復した。しかし、クルマのスピードも搬送コースもマチマチ、中には気を利かした運転手が抜け道を使って先に出たクルマを追い抜かすこともあった。</p>
<p>　バイク・スタート地点の淀江町西尾原は、すでに大山の麓。ここから折り返し地点の中山町樋口まで厳しいアップダウンの道程が待っている。でも当時のバイク・コースは未舗装個所が数多く、選手たちはあちこちでパンク事故に遭遇した。しかし、「大会を通じ様々なトラブルが生じたものの、選手たちに決定的なダメージを与える事故は一つもなかった」と競技副委員長の片桐　隆は当時を振り返る。</p>
<p>　そしてラン出発地点である皆生温泉内にある鳥取県西部健康増進センターのトランジション・エリアでは、バイク63.2Kmのコースをようやく走り切った選手たちがくつろいでいた。ほとんどの選手がラン・ウェアに着替えながらエイドステーションの飲食物を食べながら、飲みながら談笑している。このトランジション・エリアは、戦うスポーツ競技の場というよりも、楽しく和気あいあいとしたレクリエーションの場のような雰囲気が漂っていた。</p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞スポーツと縁遠い者が挑戦した　　【飯田　秀樹】</h3>
<p>　2000年夏７月、第1回皆生トライアスロン大会の出場者達が集まる「日本初の鉄人同窓会」が、第20回大会の前日に行われました。永谷誠一さん、高石ともやさん両氏の呼び掛けに再び皆生温泉に集った鉄人は21名、その中で明日のレースに出場する者が５名おりました。そのうちの３人が私と、私の中高校生時代からの友人であり、共に第1回大会に出場、完走した鎌田秀明君と塩澤光久君です。</p>
<p>　鎌田君とは中学生の時に、塩澤君とは高校生の時に知り合い、意気投合したのです。それもスポーツではなく音楽で、です。その後、私達３人は社会人となってからジャズ・バンドを結成するなど切っても切れない仲となり、今日までほぼ40年に及ぶ付き合いが続いています。また私達３人は、トライアスロンよりも実はテニス仲間としての絆が強いのです。</p>
<p>　鎌田君は大学時代、東京工業大学の水泳部に所属するバリバリのスイマーだったし、塩澤君は高校時代は体操選手でした。それに対し私はスポーツマンというには余りにお粗末な「タダの普通の一般の人」に過ぎませんでした。つまり鎌田君や塩澤君から見れば、スポーツに関しては「最も縁遠い男」だったのです。</p>
<p>　それでも私は鎌田君に誘われ、熱海～初島間の遠泳大会に参加していました。この遠泳大会は総距離12Kmを１チーム３名が同時にスタートし、いずれも４時間以内に泳ぎ切る（うち一人が脱落してもチームは失格）というレースです。もちろん３人の中で鎌田君が一番速かった訳ですが、塩澤君は船上の監督専門、私12Kmを完泳する喜びに魅せられ、毎年、参加していました。そんな私達「三馬鹿トリオ＝チーム名アパッチ」は皆生トライアスロン大会の開催の報せを聞くと、前後の見境もなく挑戦する決心をしたのです。私が33歳の時でした。</p>
<p>　鎌田君や塩澤君が参加するのは解らなくもありませんが、スポーツに最も縁遠い私は自信もない癖に、２人にすっかり騙され出場する羽目になったのです。何という冒険、何という無鉄砲！　面白半分、興味津々というのが本当の気持でした。</p>
<p>　私達は８月18日、新調したバイクを輪行袋に詰めて、東京駅から特急寝台「出雲」に乗り込みました。そして翌19日の朝、米子駅に着くとバイクを組み立てザックを担ぎ、サイクリングで宿泊先の皆生温泉の旅館「松風閣」へ向かったのです。</p>
<div id="attachment_1595" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/061.jpg"><img class="size-medium wp-image-1595" title="＜スタートを待つ三馬鹿トリオ＞写真前列右からしゃがみ込んでいるのが飯田選手、その左手に立っているのが塩澤選手、その左のゴーグルに手を掛けているのが鎌田選手（写真提供；株式会社ランナーズ）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/061-300x201.jpg" alt="＜スタートを待つ三馬鹿トリオ＞写真前列右からしゃがみ込んでいるのが飯田選手、その左手に立っているのが塩澤選手、その左のゴーグルに手を掛けているのが鎌田選手（写真提供；株式会社ランナーズ）" width="300" height="201" /></a><p class="wp-caption-text">＜スタートを待つ三馬鹿トリオ＞写真前列右からしゃがみ込んでいるのが飯田選手、その左手に立っているのが塩澤選手、その左のゴーグルに手を掛けているのが鎌田選手（写真提供；株式会社ランナーズ）</p></div>
<p>　当日のレース結果は、鎌田君が７時間58分43秒で総合17位、塩澤君が10時間44分18秒で同41位、そして私が９時間44分24秒で同35位でした。</p>
<p><span style="color: #339966;">「なんとしても完走しなければならない」</span></p>
<p>　その一念で、何とか辿り着いたゴールでした。スポーツマンではない普通の人間の割には、我ながら良くできたと思っています。それ以来、人には「トライアスロンはおにぎりやバナナを食べながら遠足気分でやれる、年配や一般者向きのゆったりとした楽しいスポーツ」だと説いています。また「鉄人」というより、生き方の技術を学ぶという意味で「哲人」になれますと。</p>
<p>そして私は、大会終了後のその晩、開かれたパーティ会場で誓いを立てました。</p>
<p><span style="color: #339966;">「来年もやらなきゃ」</span></p>
<p>　それで第２回大会以降も出場した訳ですが、完走したのは第１回と第２回大会の２回のみ。記念の20回大会は第１回、２回大会で使用し大切にしていた片倉のスポルティーフ（スポーツ快速車）のバイクを使い、18年振りの風景に懐かしさを感じながら参加しましたが、ランで膝が痛んで折り返しでタイムアウト、続く21回、22回大会はランで熱中症気味でリタイアという具合に、満足な結果を得ることができませんでした。<br />
　でもいつかきっと、皆生トライアスロンを完走したいという気持は抱き続けています。私もすでに57歳。私が出場する時には、シニアコースも設けて欲しいと願っています。</p>
<div id="attachment_1596" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0603.jpg"><img class="size-medium wp-image-1596" title="飯田秀樹氏近影（06年3月、千葉県印西市にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0603-225x300.jpg" alt="飯田秀樹氏近影（06年3月、千葉県印西市にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">飯田秀樹氏近影（06年3月、千葉県印西市にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
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		<title>Vol.19：風神の巻　第２章その6：“ブルキマン・レース”が始まった</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1566</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1566#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 16 Jun 2009 06:39:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1566</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/06229-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />1981年８月20日、木曜日。山陰・鳥取県米子市の皆生温泉において、わが国では初めてのトライアスロン大会が開催された。その名も“KAIKE SPA TRIATHLON '81”である。地元の旅館組合の青年部を中心とした役員達が中心となり、ほぼ半年間の準備を経て、ようやく漕ぎ着けたトライアスロン・イベントだ。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その6</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">“ブルキマン・レース”が始まった</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06229-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06229-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">1981年８月20日、木曜日。山陰・鳥取県米子市の皆生温泉において、わが国では初めてのトライアスロン大会が開催された。その名も“KAIKE SPA TRIATHLON ‘81”である。地元の旅館組合の青年部を中心とした役員達が中心となり、ほぼ半年間の準備を経て、ようやく漕ぎ着けたトライアスロン・イベントだ。</p>
</div>
<p>　1981年８月20日、木曜日。山陰・鳥取県米子市の皆生温泉において、わが国では初めてのトライアスロン大会が開催された。その名も“KAIKE SPA TRIATHLON &#8217;81”である。地元の旅館組合の青年部を中心とした役員達が中心となり、ほぼ半年間の準備を経て、ようやく漕ぎ着けたトライアスロン・イベントだ。その機動力となって開催準備に奔走したのが福本安穂副実行委員長兼競技委員長や片桐　隆競技副委員長などKT実行委員会の面々である。<br />
　午前５時、KT実行委員会のメンバーが海岸に集まる。夜半は波が立ち海は荒れ気味だったが、明け方になると幸い波も静まり、今朝はうねりがわずかに残っているばかりだった。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「海上保安部の巡視艇も来てくれた。お天気も良さそうだし、これならできる。よしっ！　やろう」</span></p>
<p>　岩佐甲子郎を実行委員長とするKT実行委員会は大会実施を確認し、役員スタッフはそれぞれ持ち場に着いた。</p>
<div id="attachment_1567" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0607.jpg"><img class="size-medium wp-image-1567" title="スイム・スタート地点には竹棹で作ったスタートラインの旗が風に靡いた" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0607-300x170.jpg" alt="スイム・スタート地点には竹棹で作ったスタートラインの旗が風に靡いた" width="300" height="170" /></a><p class="wp-caption-text">スイム・スタート地点には竹棹で作ったスタートラインの旗が風に靡いた</p></div>
<p>　大会ロケーションは、皆生温泉内にある鳥取県西部健康増進センター（現鳥取県営米子屋内プール）をスタート＆ゴールとするスイム（水泳）2.5Km、バイク（自転車）63.2Km、ラン（マラソン）36.5Kmである。このトライアスロンの３種目の距離は当初、ハワイ大会の距離を参考にスイム３Km、バイク100Km、ラン40Kmが想定されていたが、スイムのスタート地点、バイクの発着点、ランの折り返し地点など、様々な制約要因から使用可能な道路が限られ、少しづつ短縮されたのだ。また、スイムの距離は大会前日まで3.2Kmの予定だったが、海岸のテトラポットによる護岸工事のため2.5Kmに変更された。<br />
　大会にかかる総予算は約600万円。これを米子市の観光行政費、皆生温泉旅館組合費、選手参加費で賄った。もうこれ以上、お金がかけられないギリギリの予算である。だからコース案内用の看板も役員スタッフが手作りでこしらえた。当初、協賛スポンサーを募る話があり、エージェントである博報堂と交渉したものの、結局、スポンサーの名がつく冠大会は止めることにしたのである。しかし、大塚製薬からは発売して間もないポカリスエットが協賛された。</p>
<p>　ボランティア・スタッフは、旅館の規模に応じて従業員が派遣されたが、後からエイドステーション要員として米子北高等学校の生徒約120名、それに給水と通信を担う陸上自衛隊（米子駐屯部隊）も加わり総勢約300名余りに達した。ちなみに、高校生たちにはボランティア日当2,000円が配られたが、旅館組合の役員・従業員は、もちろん無償奉仕である。そのほか大会関係９市町村の町内会・婦人会などに所属する地域住民の人々もサポートに駆け着けた。<br />
　また、日本で初めて行われるトライアスロンを取材しようと集まったマスコミは、NHK米子支局をはじめ57社に及んだ。その中で、毎日新聞がこの第1回大会を“ブルキマン・レース”と称した。</p>
<div id="attachment_1568" style="width: 260px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06229.jpg"><img class="size-full wp-image-1568" title="第１回大会のボランティアＴシャツ" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06229.jpg" alt="第１回大会のボランティアＴシャツ" width="250" height="188" /></a><p class="wp-caption-text">第１回大会のボランティアＴシャツ</p></div>
<p> 　参加申し込みがあった選手は当初、56名を数えたが、結局、出場者は53名となった。内訳は男子51名、女性２名。出場者の中には、その年の２月、日本人として初めてハワイ・トライアスロン大会に出場したゼッケン29番の堤　貞一郎（熊本県出身、57歳）、同33番の永谷誠一（熊本県出身、54歳）、同48番の堀川稔之（東京都出身）の３名が顔を揃えた。この冒険に挑む勇敢な女性２名は、ゼッケン３番の成宮芳子（神奈川県出身、50歳）と、堤が誘ったドクター仲間の辻　由紀子（ゼッケン28番、熊本県出身、31歳）である。出場選手のゼッケン・ナンバーは参加申し込み順で決められ、ゼッケン1番は地元・米子市在住で参加選手中、最小年齢者の小西章平（鳥取県出身、19歳）に与えられた。</p>
<div id="attachment_1569" style="width: 260px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0602.jpg"><img class="size-full wp-image-1569" title="勇敢な女性２名。成宮芳子さん（写真左）と辻　由紀子さん（写真右）。（皆生大会15周年記念誌より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/0602.jpg" alt="勇敢な女性２名。成宮芳子さん（写真左）と辻　由紀子さん（写真右）。（皆生大会15周年記念誌より）" width="250" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">勇敢な女性２名。成宮芳子さん（写真左）と辻　由紀子さん（写真右）。  （皆生大会15周年記念誌より）</p></div>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp"> ＜トライアスロン談義＞自転車のパンクさえなければ優勝できた　　【村上　好美】</h3>
<p>  <br />
<span style="color: #a73ec1;">  「ほーう、地元・米子市の皆生温泉でやるのか。よし！　挑戦してみよう」</span></p>
<p>　第１回皆生トライアスロン大会の開催を知ったのは、その年の５月頃、ラジオのニュース番組で知りました。その時、私は34歳。市民マラソン・ランナーとして大いに張り切っていた頃でしたので、３種目をこなす長距離のトライアスロンも十分こなせる自信がありました。27～28歳の時に２時間41分というフルマラソンの自己最高タイムを叩き出して以来、山陰・近畿地方のマラソン大会にことごとく出場、また100Kmマラソンや24時間駅伝にも参加するなど、もっぱら長距離レースで奮戦していたからです。<br />
　それで陸上競技の仲間だった同じ米子市出身の大川俊夫君、宇山雄司君、小西章平君の３人と一緒に出場することにしたのです。３種目のランになれば誰にも負けないという思いでレースに臨んだのでしたが、結果は７時間47分45秒、同じ鳥取県出身の小坂雅彦さんと同着の総合13番目のゴールでした。<br />
　それというのもバイクの折り返し手前でパンクの憂き目に遭い、大幅な時間ロスを被ったからです。バイクを曳いてトボトボ30分余り歩き、ようやく住民の方に助けられチューブラータイヤを交換することができたのです。残念無念の一言、今でもパンクさえなかったなら、優勝できたと思っています。トップとのタイム差が約40分だったことを考えると、私も優勝戦線に十分、加わることができた筈です。20年余り経った今日でも悔しい思いは残っています。</p>
<p>　それからというもの、私は皆生トライアスロン大会に13回目まで連続出場・完走しました。第2回大会から13回大会まで、地元選手ということもあって「ゼッケン１番」を戴き、その栄誉に応えようと必死で頑張りました。しかし、第８回大会ではバイクで飛ばし過ぎ、ランに入って500mほどで歩いてしまい、およそ9時間かけてゴールという大会史上、ランのワースト記録をつくってしまったようです。<br />
　第14回大会では腰を痛めて欠場、それ以来、皆生大会には選手として参加してはいません。しかし、選手の時代に沢山のボランティアの方々からお世話になり、その有難さをしみじみ感じていますので、そのお礼の気持で、今はボランティアとしてお手伝いさせて戴いております。でも、いつかはきっと選手として出場し、時間内に完走したいと思っています。誰に勝とうというのではなく、参加選手の皆さんと共に、和やかに爽やかに走り切りたいと願っています。</p>
<div id="attachment_1571" style="width: 260px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06152.jpg"><img class="size-full wp-image-1571" title="ボランティア姿の村上好美氏（第23回大会の表彰パーティ会場に於いて）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/06152.jpg" alt="ボランティア姿の村上好美氏（第23回大会の表彰パーティ会場に於いて）" width="250" height="188" /></a><p class="wp-caption-text">ボランティア姿の村上好美氏（第23回大会の表彰パーティ会場に於いて）</p></div>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.18：風神の巻　第２章その5：沢山の協力者のお陰で用意万端、整った！</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1551</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1551#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 16 Jun 2009 03:58:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/umi-100x100.gif"="0" alt="" class="fl bdr" />平身低頭、ただただ平謝り、お願いするよりほかになかった。そうしたKT委員会メンバ-の気持が通じたのか？大会当日の朝、皆生温泉海岸の沖合に巡視艇が一艘、停泊していたのである。朝の４時、海岸にやってきた福本や石尾は、巡視艇を見て胸の詰まる思いがした。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その5</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">沢山の協力者のお陰で用意万端、整った</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/umi-100x100.gif" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/umi-100x100.gif" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">平身低頭、ただただ平謝り、お願いするよりほかになかった。そうしたKT委員会メンバ-の気持が通じたのか？大会当日の朝、皆生温泉海岸の沖合に巡視艇が一艘、停泊していたのである。朝の４時、海岸にやってきた福本や石尾は、巡視艇を見て胸の詰まる思いがした。</p>
</div>
<p>　警察の対応は最後まで頑なだったが、一方で大会開催に向け当初から親身に協力してくれる人々、団体、機関は数多くにのぼった。なかでも大会開催に前向きに取り組み、協力を惜しまなかったのは放送局や新聞社などマスコミである。<br />
　競技委員長の福本安穗とは米子市ロータリークラブで懇意な関係にあったこともあって、NHK米子支局の佐々木局長は福本の協力要請にすぐさま応えてくれた。３月の段階で佐々木は、参加規定や競技規則が盛られた第４回ハワイ・トライアスロン大会のパンフレットのコピー並びに大会の模様を放映したビデオテープを取り寄せ、福本に提供したのである。さらに、大会当日のレース実況はもとより、開催に至る準備段階でもヘリコプターを動員するなど度重なる取材を通じてテレビ放映し、米子市をはじめ鳥取県など地域社会に皆生トライアスロンの名を知らしめてくれた。<br />
　一方、新聞社も日本で初めてトライアスロン大会が開かれるというので、熱心な取材活動と皆生大会の宣伝を展開した。KT委員会が初めて大会開催を報道発表したのは７月21日だったが、その４日後の25日には朝日新聞が全国版で大々的に記事掲載した。それで皆生トライアスロン大会のことが一挙に全国的規模で知られるようになったのだ。NHKと同じく開催準備期間中に何度も現地取材を行い、７月には大阪本社の運動部記者が皆生温泉へ乗り込みコースを視察した。</p>
<div id="attachment_1553" style="width: 276px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81message1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1553" title="主催者による大会開催メッセージ（第１回大会パンフレットより）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81message1-266x300.jpg" alt="主催者による大会開催メッセージ（第１回大会パンフレットより）" width="266" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">主催者による大会開催メッセージ（第１回大会パンフレットより）</p></div>
<p>　開催準備が進むにつれ、次に大きな課題となったのはレース・シミュレーションに対応したボランティア体制を、どう築くかであった。そのためにも関係団体・機関への協力要請が不可欠である。７月に入って福本らKT委員会のメンバーは、まずスイム・スタート地点にほど近い西部健康増進センターを訪問した。ホールや医療設備、シャワーやトイレが完備している現在の鳥取県営米子屋内プールの施設を競技本部として使用させてもらうためである。<br />
　次にエイドステーション要員を確保するため、ロータリークラブのメンバーである米子北高等学校の校長に協力を要請した。同校の生徒をボランティア要員として派遣してもらうためだ。もちろん、校長は快く引き受けてくれた。これで各旅館から派遣された社員スタッフを含め、およそ200名ほどのボランティアを確保することができたのである。そして大会には選手はもちろんのことボランティアを加え、傷害保険をかける契約を東京海上火災保険と結んだ。数あるスポーツの中でイベント参加者全員に対し障害保険をかけた事例は初めてではないか？　と福本は回顧する。</p>
<p>　また、水難やバイク競技中の落車事故など救急対策に備えるため、皆生温泉内にある山陰労災病院に協力をお願いし、大会当日に専門の医師を派遣してもらうことになった。<br />
　では、バイクコースの安全をどう確保すればよいか？　そこでKT委員会が当初から当てにしていたのが米子市に駐屯していた陸上自衛隊の部隊である。４月の訪問・挨拶に次いで、７月16日に改めて協力要請に伺った時は、</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「行動計画はすべて年度始めに作っていますからね。途中から、しかも準備期間もなく部隊を動かすことはできません」</span></p>
<p>と難色を示されたが、その後25日にKT委員会は自衛隊広報部へ書類を提出するとともに、特に大山山麓のバイクコースにおける無線車の配備を再度、お願いしたのである。その結果、無線車のガソリン代の負担と隊員たちへ弁当を支給することで、ほぼ協力を得られることになった。</p>
<div id="attachment_1554" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/2629.gif"><img class="size-full wp-image-1554" title="霊峰：大山を望むバイクコース" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/2629.gif" alt="霊峰：大山を望むバイクコース" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">霊峰：大山を望むバイクコース</p></div>
<p>　さらにバイクコースとして一部、使用する一級河川・日野川の堤防には、鳥取県河川局の特別の計らいでコース案内板の設置許可をもらった。こうしてKT委員会のメンバーたちは夏場の熱い最中を、汗をかきながら関係諸団体・機関を訪問し、大会開催へと一歩一歩、準備を進めていったのである。<br />
　とはいえ、KT委員会が協力要請をすっかり失念していた相手が一つあった。海上保安庁･境海上保安部である。肝心なスイムコースである海上の安全を監視してもらうためにも同保安部の協力は欠かすことができない。だが、大会開催の前日まで協力要請どころか挨拶することすら忘れていたのだ。大会前日の８月19日、全国から続々と選手が到着している頃、KT委員会のメンバーはラン折り返し地点がある境港市の同保安部を訪ねた。すると、</p>
<p><span style="color: #d826bc;">「今頃なんですか！」</span></p>
<p>　強い調子の応えが返ってきたのである。</p>
<p><span style="color: #a2aa2c;">「許可申請も出さずに、ほんとうに申し訳ありません。しかし、何とかご協力のほどをお願いいたします」</span></p>
<p>　平身低頭、ただただ平謝り、お願いするよりほかになかった。そうしたKT委員会メンバ-の気持が通じたのか？大会当日の朝、皆生温泉海岸の沖合に巡視艇が一艘、停泊していたのである。朝の４時、海岸にやってきた福本や石尾は、巡視艇を見て胸の詰まる思いがした。</p>
<div id="attachment_1555" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/umi.gif"><img class="size-full wp-image-1555" title="大会前日、スタートの幟も立った" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/umi.gif" alt="大会前日、スタートの幟も立った" width="300" height="197" /></a><p class="wp-caption-text">大会前日、スタートの幟も立った</p></div>
<p> </p>
<p>【次号予告】第1回皆生トライアスロン大会のレースの模様や参加選手たちの思い出をお伝えします。<br />
 </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。 </p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞ワサモンの祭　　【永谷　誠一】</h3>
<p> <br />
 <br />
<span style="color: #f8064a;">「日本でもトライアスロン大会を開きたか、バッテン」</span></p>
<p>　1981年2月、堤貞一郎先生と第４回ハワイ・トライアスロン大会に出場、無事、完走し、日本へ帰る飛行機の中で私たち二人は、そんなことを語り合いました。でも、ハワイ並みのトライアスロン大会をやるようなロケーションやボランティア組織、それに関係諸機関の理解と協力という点を考えると、日本で開催するのはとても不可能なような気がしました。<br />
　しかし、その年の５月、皆生温泉旅館組合青年部の福本さんと片桐さんの２人が熊本へ訪ねて来られ、</p>
<p><span style="color: #99cc00;">「皆生温泉で、日本で初めてのトライアスロン大会を開催したいのです。是非ともお知恵を貸してください」</span></p>
<p>と言うのです。これは願ったり叶ったり、皆生の人たちも私たちもトライアスロンをやりたい！　の一心から意気投合、全面的に協力することになったのです。それで翌６月には、堤先生が大会コースの視察や競技ルールを吟味するため、皆生温泉へ赴きました。<br />
　さて、そうなると私もじっとしてはいられません。堤先生が幹事長、私が会計を担当していたランニング・クラブ「熊本走ろう会」のメンバーや市営プールで出会ったアスリートたちにトライアスロン大会参加の話を持ち掛け、仲間づくりを始めたのです。すると、そこは流行にはすぐさま飛びつきたがり屋の熊本県人“ワサモン”ですから、我も我もとばかり最終的に９名の選手が集まりました。</p>
<p>　その名も、第１回大会で歌手の高石ともやさんと手をつなぎ１位でゴールした下津紀代志君（当時22歳）、総合22位の緒方　隆さん（同35歳）、23位の江口隆昭さん（同49歳）、スイムをダントツ1位であがった33位のアメリカ人・エドウィン・スタンプ君（同22歳）、37位の長廣健治さん（同38歳）、紅一点38位で完走した辻　由紀子さん（同31歳）、熊本放送のアナウンサーで43位でフィニッシュした岩本克雄さん（同37歳）、それに10位に入った私（同54歳）とリタイアした堤先生（同57歳）です。<br />
　若い下津君は第２回大会の優勝者で体育教師の田上栄一さんから優秀なアスリートとして紹介され、スタンプ君は市民プールでの練習中に出会い、皆生トライアスロン大会への出場を勧誘したわけです。これら熊本勢の選手９名のほか、私たちのロードレーサーをつくってくれた「工士サイクル」の工士（くし）さんがメカニシャンとして参加、さらには「熊本走ろう会」の仲間や私の妻・安子など家族の者も加わり、最終的にワサモンの集団は20名余りに膨れあがりました。</p>
<p>　1981年８月18日（火曜日）、私たち一行は自転車を輪行袋に包み、熊本駅から国鉄の夜行列車に乗りました。そして翌19日朝、米子駅に着いてから自転車を組み立て、皆生温泉へと乗り込んだのです。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「さあ、いっちょ、遊びバイ」</span></p>
<p>　宿泊した「松風閣」の２階から望める海を見ながら、私は明日の大会でもハワイ大会と同じく、大いに楽しみ遊ぶ決意を新たにしたのです。</p>
<div id="attachment_1560" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/920.gif"><img class="size-full wp-image-1560" title="奥様・安子さんと共にくつろぐ永谷誠一氏(03年９月撮影)" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/920.gif" alt="奥様・安子さんと共にくつろぐ永谷誠一氏(03年９月撮影)" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">奥様・安子さんと共にくつろぐ永谷誠一氏(03年９月撮影)</p></div>
</div>
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		<title>Vol.17：風神の巻　第２章その4：息詰まった挙句に妙案が出た</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1505</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1505#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 14 Jun 2009 04:37:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1505</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/w04-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />息詰まった挙句に妙案が出た。というか、それより他に打つ手がなかった。すなわち、スイムゴール地点から約８Kmほどの淀江町西尾原という大山の麓にバイク・スタートのためのトランジション・エリアを設けようというのだ。大会開催の1週間前のことだった。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p> 
<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その4</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">息詰まった挙句に妙案が出た</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/w04-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/w04-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">息詰まった挙句に妙案が出た。というか、それより他に打つ手がなかった。すなわち、スイムゴール地点から約８Kmほどの淀江町西尾原という大山の麓にバイク・スタートのためのトランジション・エリアを設けようというのだ。大会開催の1週間前のことだった。</p>
</div>
<div id="attachment_1507" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/w04.jpg"><img class="size-medium wp-image-1507" title="大会前日、選手達に競技コースを説明する。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/w04-300x217.jpg" alt="大会前日、選手達に競技コースを説明する。" width="300" height="217" /></a><p class="wp-caption-text">大会前日、選手達に競技コースを説明する。</p></div>
<p><span style="color: #2d991e;">「警察の許可を取らなければ開催できない。どうしたらよいか」</span></p>
<p>　KT委員会のメンバーたちは頭を抱えた。6月9日、片桐が勤める皆生御苑においてKT委員会を開き、その結果、大会開催に前向きな市役所を通じて警察へ説明書を提出することにした。また、この間、旅館組合専務理事の間瀬が米子警察署の交通課長と同郷の隠岐島の出身であることが判った。だから同郷の誼（よしみ）で間瀬から交通課長へ再度、依頼することにした。<br />
　その５日後の13日、交通課長から署長へ道路使用許可に関わる稟議（りんぎ）が回った。その結果、開催の基本的な了解は得られる見込みとなったのだ。とはいえ、具体的なバイクとランの競技コースの道路使用許可について、警察とは最後まで駆け引きをしなければならなかった。<br />
　特に警察側は、バイクコースで山陰の大動脈・国道９号線を横切ることに強い難色を示した。しかし、国道を一部使用しなければ、スイムからあがってバイク競技へ移ることはできない。加えて警察は、ランコースについて次のような注文を出していた。</p>
<p><span style="color: #99b422;">「ランの全コース上の信号をトライアスロンのためにストップする訳にはいけません。ですから選手は、すべて歩道を走ってもらいます」</span></p>
<p>　KT委員会が２市５町にまたがる競技コースの最初の案を警察側に示したのは５月だったが、コース案は変更に次ぐ変更を重ねたものの、いずれもことごとく却下された。間瀬は米子警察へ日参し説明、説得に当たったものの、一向に首を縦に振ってくれない。ちなみに、間瀬の警察通いは延べ100日を超えたという。<br />
　７月７日、KT委員会は競技ルールを作成するとともに、改めて警察に対し道路使用許可申請を正式に提出した。その結果、ランコースは国道の裏道の松林の道や横断歩道橋を使用するなどして、境港までの往復路36.5Kmのコースが出来あがった。だがバイクコースは、大会開催月の８月になっても許可が下りない。</p>
<p><span style="color: #2d991e;">「どうしよう？　どうするか？」</span></p>
<p><span style="color: #ff0000;">「仕方がない。最後の手段だ。選手を運ぶしかない」</span></p>
<p><span style="color: #2d991e;">「何処へ？」</span></p>
<p><span style="color: #ff0000;">「バイク・スタート地点を国道を越えた大山側に設置して、スイムを終えた選手をそこまで運ぶのです。輸送は旅館の送迎バスや乗用車を使えば良いでしょう」</span></p>
<p>　息詰まった挙句に妙案が出た。というか、それより他に打つ手がなかった。すなわち、スイムゴール地点から約８Kmほどの淀江町西尾原という大山の麓にバイク・スタートのためのトランジション・エリアを設けようというのだ。大会開催の1週間前のことだった。早速、その案を警察に提示したところ、大会前日の８月19日、第１回皆生トライアスロン大会の全競技コースの道路使用許可が下りたのである。</p>
<div id="attachment_1514" style="width: 218px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81s1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1514" title="第1回大会スイムコース" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81s1-208x300.jpg" alt="第1回大会スイムコース" width="208" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第1回大会スイムコース</p></div>
<div id="attachment_1514" style="width: 218px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81s1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1514" title="第1回大会スイムコース" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81b1-210x300.jpg" alt="第1回大会スイムコース" width="208" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第1回大会バイクコース</p></div>
<div id="attachment_1514" style="width: 218px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81s1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1514" title="第1回大会スイムコース" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81r1-206x300.jpg" alt="第1回大会スイムコース" width="208" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第1回大会ランコース</p></div>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞夢があったし、好きだからやれた　　【高木　均】</h3>
<p>　東京の大学を出てイベント製作会社に勤務していた私が、郷里の米子市に戻ったのは30歳のときでした。そして広告代理店「株式会社山陰事業者＝現株式会社エス・アイ・シー」に入社、イベント担当として仕事に従事することになりました。1980年、私が31歳のときです。<br />
　その年の秋、皆生温泉旅館組合の方々が皆生温泉開発60周年記念事業のイベントを検討されていました。「健康なイメージをアピールしたい。日本で初めてのユニークなイベントをやりたい」といった趣旨で、いろいろ協議されていましたが、翌年春にトライアスロン大会を開くことが正式に決まったのです。<br />
　それで私も大会開催に向け準備委員会の一員として参加することになり、何でも屋の通信連絡係として第１回大会開催に向けた作業を開始しました。しかし、トライアスロン大会をどう運営すればよいか？　いやそれよりもトライアスロンってどんなスポーツなのか？　ろくに知らない者ばかりがやろうというのですから、議論も作業も右往左往の連続です。おまけにバイクとランのコースづくりで警察との交渉は難航を極め、苦しい準備作業を強いられました。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「こんなことで参加選手や地域社会が受け入れてくれるのだろうか」</span></p>
<p>　準備段階の過程で、一時は疑心暗鬼になったこともあります。でも、私たちには「日本で初めてトライアスロン大会を開く」という夢がありました。何でも初物ずくしで冷や冷やものでしたが、今思うと「好きだからやれた」のだと思います。以来、私は大会運営のサポート役として25年間、皆生トライアスロンに携わってきたのです。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「今日まで続けてきてよかった！」</span></p>
<p>　改めて四半世紀の時代の流れを感じています。</p>
<div id="attachment_1524" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/takagi.jpg"><img class="size-medium wp-image-1524" title="高木　均氏近影（オフィスにて）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/takagi-300x225.jpg" alt="高木　均氏近影（オフィスにて）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">高木　均氏近影（オフィスにて）</p></div>
</div>
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		<item>
		<title>Vol.16：風神の巻　第２章その3：お前たちの遊びに付き合ってはいられない!!</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1491</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1491#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 14 Jun 2009 03:53:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/81course-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />警察の権限である道路の使用許可をお願いにあがったものの、けんもほろろ、まったく相手にしてくれず、門前払いの格好となった。トライアスロン大会開催で最も重要な道路使用許可の可否について、早くも壁にぶち当たったのである。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p> 
<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その3</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">お前たちの遊びに付き合ってはいられない!!</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81course-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81course-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">警察の権限である道路の使用許可をお願いにあがったものの、けんもほろろ、まったく相手にしてくれず、門前払いの格好となった。トライアスロン大会開催で最も重要な道路使用許可の可否について、早くも壁にぶち当たったのである。</p>
</div>
<div id="attachment_1494" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81title1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1494" title="第1回大会は「皆生温泉60周年記念事業」として行われた。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81title1-300x115.jpg" alt="第1回大会は「皆生温泉60周年記念事業」として行われた。" width="300" height="115" /></a><p class="wp-caption-text">第1回大会は「皆生温泉60周年記念事業」として行われた。</p></div>
<p>　1981年4月22日、皆生温泉旅館組合理事会のメンバーであり青年部が中心となって構成された「皆生トライアスロン準備委員会＝通称；KT委員会」が正式に発足した。主な構成メンバーは、実行委員長に旅館組合長の岩佐甲子郎、行政とマスコミ対応の担当窓口として旅館組合専務理事の間瀬庄作、事務局長には旅館組合事務長の松田芳彦、そのほか女子事務員２名である。また、競技委員長には福本安穗、副委員長に片桐　隆、水泳部長に石尾寿朗、自転車部長に織田　学、マラソン部長に前田仁志という布陣だった。<br />
　ちなみに、間瀬は皆生温泉で旅館「浦島」を経営しながら、組合専務理事、米子市市議会議員（後に平成８年から４年間、市議会議長）という三足のわらじを見事にこなしていた。トライアスロンに関しても、行政・警察・漁協などの交渉ごとには市議会議員としての力を大いに発揮し、第1回大会を開催する大きな原動力となった。</p>
<div id="attachment_1495" style="width: 276px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81message.jpg"><img class="size-medium wp-image-1495" title="大会メッセージ" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81message-266x300.jpg" alt="大会メッセージ" width="266" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">大会メッセージ</p></div>
<p>　さて、大会開催に当たり彼らKT委員会のメンバーが最も苦心したのは大会ロケーションの設定、つまり３種目の競技コースをどうデザインするかであった。とにかくKT委員会の面々はトライアスロンの運営・管理については、まったくの素人である。日本では前例のないスポーツ・イベントを開催するわけだから、要領を得ることができないのも無理はない。ハワイ大会の見様見真似、それに熊本の永谷、堤の話を参考に手探り状態で準備を進めるよりほかになかったのだ。</p>
<p>　ところで、KT委員会が発足する以前の4月10日、福本や片桐ら皆生温泉旅館組合青年部の一行は、トライアスロン・コースを下見した。もとより彼らが頭で描いたコース・ロケーションは漠然としていたが、スイムは皆生温泉海岸において、バイクは松林が続く境港までの往復、ランは大山山麓を巡るコースを想定していたのである。でも実際に、どのようなコースをどのように辿ればよいか？　その結果、３種目の競技距離がどうなるか？　思案に思案を重ねるばかりだった。</p>
<div id="attachment_1496" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81course.jpg"><img class="size-medium wp-image-1496" title="第1回大会コース案内図" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81course-300x175.jpg" alt="第1回大会コース案内図" width="300" height="175" /></a><p class="wp-caption-text">第1回大会コース案内図</p></div>
<p>　何しろ開催まであと４ヵ月の期間しかない。競技コースを決めて、しかるべき関係諸機関の理解と協力を得なければならない。特に競技コースの道路使用許可については管轄の米子警察署の承諾を得ることが必須である。許可を貰わなければ大会開催に漕ぎ付けることができない。KT委員会発足５日後の４月27日、委員会一行は朝９時から挨拶回りに出掛けた。</p>
<p>　まず陸上自衛隊米子駐屯部隊の司令官を表敬訪問、次に米子警察署の署長並びに交通課長に会い開催趣旨を説明、最後に米子市役所の教育長、体育課長、観光課長の３人に面会し特段の協力を要請した。しかし、この段階は初めの一歩、単に挨拶しただけに過ぎず、実際のところ自衛隊、警察、役所がどこまで協力してくれるのか、計り知ることはできなかった。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「立案から大会開催まで、わずか５ヵ月間。日程的に土台、無理な計画なのだから…。皆が皆、イエスと言って協力してくれる訳ではない」</span></p>
<p>　福本をはじめKT委員会の面々は、誰しも不安を拭い去れないでいた。実際、その不安は後日、明らかになった。挨拶回りから丁度、１ヵ月後の5月27日、KT委員会一行が再度、米子警察署を訪問した時のことである。</p>
<p><span style="color: #981dc3;">「お前たちの遊びに付き合ってはいられない」</span></p>
<p>　警察の権限である道路の使用許可をお願いにあがったものの、けんもほろろ、まったく相手にしてくれず、門前払いの格好となった。トライアスロン大会開催で最も重要な道路使用許可の可否について、早くも壁にぶち当たったのである。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞ずさんな大会だったが、心の通い合う大会が開けた　　【石尾　寿朗】</h3>
<p>　私が皆生トライアスロン大会に携わったのは、38歳の時でした。皆生温泉旅館組合開発委員会のメンバーの一人として、第1回大会は水泳部長を担当し、第２回大会が競技副委員長、堤先生が事故に遭われた第3回大会は競技委員長を務めました。<br />
　その第１回大会の開催に当たっては、何もかも初めてだということもあって開催準備に四苦八苦、コース設定では地元警察の強い意向も働き何度も計画を変更するなど、容易ならざる思いを沢山、経験しました。そうして何とか、大会開催のお膳立てを整えましたが、今考えれば何もかもが稚拙と言うか、ずさんと言うか、</p>
<p><span style="color: #28ae1d;">「よくも、あれでやれたものだ！」</span></p>
<p>と思っています。<br />
　私は水泳部長でしたのでスイムコースの設定に当たりましたが、コースガイド用のブイは自動車タイヤのチューブを使って間に合わせました。またバイクはスタート地点が離れていましたので、スイム・ゴールした選手を数人単位で旅館のバスやトラックに乗せましたが、そのバスやトラックのスピードも選手を輸送するコースもクルマによってマチマチで、スイムを後からあがった選手がバイク・スタート地点へ先に着いてしまこともありました。<br />
　一方、選手はといえば、ロードレーサーではなく泥除けの付いた自転車に乗った人もいたり、工事用のヘルメットを被って走っている人もいたり、本当にバラバラでした。ボランティア・スタッフは地元の高校生のほかは、急きょ駆り出された旅館の下足番や風呂場の人たち。誰もかも初めてのことなので見様見真似で運営に当たりましたが、今日のような痒いところに手が届くほど選手をサポートできた訳ではありません。<br />
　そんなことで当時の毎日新聞は皆生大会のことを<span style="color: #ff00ff;">“アイアンマン・レース”</span>ならぬ<span style="color: #00ccff;">“ブルキマン・レース”</span>と称しましたが、確かに言われてみればそうだったかも知れません。しかし、大会を終えて選手や私たち主催者はお互いに心が通い合えたというか、</p>
<p><span style="color: #28ae1d;">「何かジーンと胸の暖まるものを感じていました」</span></p>
<p>　それで1回で終える積もりでしたが、選手たちの強い要望もあり、来年も続けて開催しようということになったのです。</p>
<div id="attachment_1498" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0144.jpg"><img class="size-medium wp-image-1498" title="第23回大会では実行委員長を務めた石尾氏（03年7月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0144-225x300.jpg" alt="第23回大会では実行委員長を務めた石尾氏（03年7月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第23回大会では実行委員長を務めた石尾氏（03年7月撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.15：風神の巻　第２章その2：寝食を忘れ、本業をすっぽかす</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1474</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1474#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 14 Jun 2009 01:44:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/81mk-100x100.gif"="0" alt="" class="fl bdr" />寝食を忘れて…といっては大袈裟かもしれない。しかし、本業の旅館業をすっぽかすほど、大会開催に向け精力的に動き回った。８月20日の大会開催まで、あと５ヶ月しかない。それまでに考えられる手立てはできる限り打っておかねばならなかった。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その2</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">寝食を忘れ、本業をすっぽかす</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81mk-100x100.gif" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81mk-100x100.gif" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">寝食を忘れて…といっては大袈裟かもしれない。しかし、本業の旅館業をすっぽかすほど、大会開催に向け精力的に動き回った。８月20日の大会開催まで、あと５ヶ月しかない。それまでに考えられる手立てはできる限り打っておかねばならなかった。</p>
</div>
<div id="attachment_1476" style="width: 271px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81mk.gif"><img class="size-medium wp-image-1476" title="第1回大会シンボルマーク" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81mk-261x300.gif" alt="第1回大会シンボルマーク" width="261" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第1回大会シンボルマーク</p></div>
<p>　福本安穗をはじめとする皆生温泉旅館組合・開発委員会のメンバー10名は、大会開催に向けて立ち上がった。1981年3月22日、同組合青年部の面々が中心となり、「皆生トライアスロン準備委員会」（通称；KT委員会）を発足させたのである。<br />
　主なメンバーは「白扇」の福本、「皆生御苑」の片桐　隆（食糧部長）、「東光園」の石尾寿朗（水泳部長）、「松風閣」の織田　学（自転車部長）、「菊水本館」の前田仁志（マラソン部長）、同組合事務長の松田芳彦、それと行政の立場から米子市観光課係長と広告代理店「株式会社　山陰事業者＝現エス・アイ・シー」イベント担当の高木　均らが加わった。競技委員長には福本、副委員長に片桐が就任した。<br />
　福本は早速、自分が所属する米子市のロータリークラブと青年会議所の会員仲間に対して協力要請のオルグ活動を始める。NHK米子支局、陸上自衛隊米子駐屯部隊、米子北高等学校、境海上保安部、鳥取県河川局などに所属している友人、知人に声をかけ、トライアスロン大会開催の説明と援助・支援のお願いに歩いたのである。</p>
<div id="attachment_1477" style="width: 310px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/05vo.gif"><img class="size-medium wp-image-1477" title="第１回大会エイドステーションのボランティアたち" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/05vo-300x193.gif" alt="第１回大会エイドステーションのボランティアたち" width="300" height="193" /></a><p class="wp-caption-text">第１回大会エイドステーションのボランティアたち</p></div>
<p>　例えば、福本と同じロータリークラブのメンバーであるNHK米子支局の佐々木支局長には、ハワイ・アイアンマン大会の競技規則や参加規定など、その年に永谷誠一や堤　貞一郎が出場した第４回ハワイ大会のパンフレットの英文コピーを取り寄せてもらい、翻訳作業を行った。さらにハワイ大会の模様を映像に納めた門外不出のビデオテープも借りることができた。また、米子北高等学校の校長にもお願いして、同校生徒をエイドステーション要員として参加、協力してもらう約束を取り付けた。<br />
　このようにコネクションをフルに活用して、福本をはじめKT委員会のメンバーたちは米子市から境港市に至る弓ヶ浜半島一帯の関係団体・機関に対し、大会開催の説明と協力要請に飛び回った。寝食を忘れて…といっては大袈裟かもしれない。しかし、本業の旅館業をすっぽかすほど、大会開催に向け精力的に動き回った。８月20日の大会開催まで、あと５ヶ月しかない。それまでに考えられる手立てはできる限り打っておかねばならなかった。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「どだい無理な計画だ。でも、やるしかない」</span></p>
<div id="attachment_1479" style="width: 231px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81message1.gif"><img class="size-medium wp-image-1479" title="大会メッセージ（福本安穂＆堤貞一郎）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81message1-221x300.gif" alt="大会メッセージ（福本安穂＆堤貞一郎）" width="221" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">大会メッセージ（福本安穂＆堤貞一郎）</p></div>
<p class="wp-caption-dt">　福本も片桐も同じ思いだった。また、トライアスロン経験者の話も聞いて、競技コースの設定や競技ルールなどを検討しなければならない。何しろ、日本で初めて行うイベントである。お手本がない。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「では、熊本へ行こう！　行って堤先生や永谷さんに詳しいお話をお聞きしよう」</span></p>
<p>　５月に入り福本と片桐の２人は、熊本の永谷、堤の２人に会いに行った。ハワイ・トライアスロン大会の様子や、実際に出場、参加した実体験に基づき、トライアスロンのやり方を教えてもらおうというのだ。競技委員長と副委員長の２人は、大阪経由で飛行機を乗り継ぎ、熊本へ飛んだ。</p>
<p> </p>
<p> 【次号予告】<span style="color: #800000;">皆生トライアスロン大会の開催準備とコース決定までの経緯を振り返ります。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞熊本人と皆生人の深い絆ができた　　【片桐　隆】</h3>
<p> </p>
<div id="attachment_1481" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf148.gif"><img class="size-full wp-image-1481" title="片桐　隆氏近影（03年7月撮影、皆生グランドホテル天水にて）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf148.gif" alt="片桐　隆氏近影（03年7月撮影、皆生グランドホテル天水にて）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">片桐　隆氏近影（03年7月撮影、皆生グランドホテル天水にて）</p></div>
<p>　私は福本安穗さんと同じ京都市の出身で、皆生温泉に来たのは1974年でした。大阪に本社がある観光会社の役員だった私は、皆生温泉の旅館「皆生御苑」へ派遣されたのです。26歳の時でした。それから７年後の33歳の時に、皆生温泉旅館組合開発委員会のメンバーの一人として、わが国で初めてのトライアスロン大会に競技副委員長として携わることになったのです。<br />
　 いざ大会が８月に開催することが決まったのを受け、「トライアスロンを少しでも理解しよう。運営の方法も学ばなければ」という思いで、競技委員長の福本さんと２人で熊本へ行きました。その年の２月のハワイ大会に出場し完走された堤貞一郎先生と永谷誠一さんをお訪ねするためでした。忘れもしません。私の誕生日である５月8日のことです。<br />
　 しかし、私にはもう一つ、目的がありました。それは熊本に在住するカントリー・ミュージック歌手のチャーリー永谷の歌声を聴くことです。私はカントリーが大好きだったし、その上、チャーリー永谷のファンだったのです。熊本に行く目的はトライアスロンよりも、むしろカントリーの方が大きかったかもしれません。<br />
　 熊本では、永谷さんが経営されているアウトドア用品店「山想」にお寄りした後、永谷さんのご案内で堤先生のご自宅兼病院をお訪ねしました。そして私たちが皆生温泉でトライアスロン大会を開催する旨を申し述べたところ、永谷さんも堤先生も大変、喜ばれました。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「それはよかこつ！　わしらも、なんとか日本でトライアスロンをやりたかったバッテン」</span></p>
<p>　お二人とも大喜び。堤先生は開業中にもかかわらず、患者さんが訪れないことを幸いに、トライアスロンの魅力を熱っぽく語られました。延々４時間ほど、私たちは何一つ質問することもできず、お二人の話をただただお聞きして、最後に皆生温泉へご招待する旨を申し上げたのです。実際にロケーションを視察して戴きコース設定をお願いしました。もちろんお二人は快くお引き受けくださりました。</p>
<p>　お話を聞き終わった頃は夕方になっていました。私たちはお二人に辞す旨のご挨拶を述べながら、</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「実は、私がカントリー・ミュージックが大好きでして、これから熊本市内にあるチャーリー永谷のお店へ行こうと思うのですが、何処にあるかご存知ですか？」</span></p>
<p>と尋ねたのです。そうしたら、なんと！　永谷さんが、</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「それは私の弟たい。よっし！　ならばみんなで飲みにいこう」</span></p>
<p>ということになったのです。もちろん、その晩の私がチャーリー永谷の歌とバーボン・ウィスキーに酔いしれたのは申すまでもありません。この時、トライアスロンだけでなくカントリー・ミュージックを通じて熊本人と皆生人の深い絆ができたと思います。というわけで、熊本詣の私の目的は２つとも叶えることができました。</p>
<p>　翌６月20日、堤先生が皆生温泉に来られ、その晩は自転車部長を務める織田　学さんの旅館「松風閣」で「堤先生の話を聞く会」が催されました。そして翌日、私たちはクルマ３台を連ねてコースを下見しましたが、途中、堤先生は持参の自転車でバイクコースを実走されました。熱心に精力的にコースを回られたお姿が、今でも目に浮かびます。こうして日本で初めてのトライアスロン大会開催のお膳立てが出来上がっていったのです。</p>
<div id="attachment_1482" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/22.gif"><img class="size-medium wp-image-1482" title="向かって右から片桐　隆、堤貞一郎、福本安穗（米子空港にて）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/22-300x266.gif" alt="向かって右から片桐　隆、堤貞一郎、福本安穗（米子空港にて）" width="300" height="266" /></a><p class="wp-caption-text">向かって右から片桐　隆、堤貞一郎、福本安穗（米子空港にて）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.14：風神の巻　第２章その1：なに!!　殺人レースだと？</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1457</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1457#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 13 Jun 2009 05:36:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>
		<category><![CDATA[皆生]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/douzo-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />福本の提案に反対する者はいなかった。開発委員会のメンバーは、トライアスロンが何であるか、ほとんど知らなかったが、全員、興味津々の様子だった。「よし、やってみよう！」　一堂は声を揃えた。

]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第２章その1</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">なに!!　殺人レースだと？</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/douzo-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/douzo-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">中山俊行選手はラスト500ｍ当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった！」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。</p>
</div>
<p><span style="color: #339966;">　「先月、ハワイに行ったのですが、トライとかいう新しいスポーツが始まったそうです。なんでも一人の選手が水泳、自転車、マラソンの３種目を続けて行うスポーツだそうです。どうでしょう。私たちもやってみては…。日本ではまだ誰もやっていませんし」</span></p>
<div id="attachment_1458" style="width: 210px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kaikepf.jpg"><img class="size-full wp-image-1458" title="「皆生温泉」案内" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kaikepf.jpg" alt="「皆生温泉」案内" width="200" height="150" /></a><p class="wp-caption-text">「皆生温泉」案内</p></div>
<p>　1981年３月、皆生温泉旅館組合の開発委員会の席上で、青年部の一人である福本安穗はこう切り出した。福本は２月に、彼が所属する鳥取県米子市のロータリークラブや青年会議所のメンバー８名と、オアフ島へゴルフ旅行に行った。そこで隣のハワイ島で開催されていたアイアンマン・ハワイ大会の様子を聞いたのだ。堤貞一郎や永谷誠一、堀川稔之ら８名がチャレンジした第４回大会の話である。福本は大会を観た訳ではないが、現地で話題になっていたことと、帰国後もNHKテレビで大会の一部模様が放映され、また週刊誌にも採り上げられるなどで、トライアスロンのことが印象に残っていた。</p>
<p>　ところで、この開発委員会は皆生温泉旅館組合の青年部のメンバーが中心となって構成されていた。組合員である旅館やホテルの商売や宣伝に結びつくアイデアを出し合おうというのである。会合場所となった「皆生グランドホテル」に集まったのは、旅館組合長であるホテル「清風荘」社長の岩佐甲子郎を中心に「皆生グランドホテル」社長の伊坂　博、「白扇」専務の福本安穗、「東光園」常務の石尾寿朗、「皆生御苑」専務の片桐　隆、「松風閣」社長の織田　学、「菊水本館」の前田仁志、「菊水別館」専務の柴野憲史、「ひさご家」の松本雄介、それに事務局長の松田義彦らである。<br />
　20歳台後半から40歳台前半の、いわゆる旅館の若旦那衆の会合である。今年で皆生温泉開発60周年を迎えるに当たり、</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「何か記念行事をやろうではないか」</span></p>
<p>という相談だった。前年の秋頃から話に出され、持ち越されてきた懸案事項である。　</p>
<div id="attachment_1460" style="width: 210px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tera1.jpg"><img class="size-full wp-image-1460" title="&lt;皆生温泉神社&gt;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tera1.jpg" alt="&lt;皆生温泉神社&gt;" width="200" height="150" /></a><p class="wp-caption-text">&lt;皆生温泉神社&gt;</p></div>
<p class="wp-caption-dt">　ところで「皆生＝かいけ」とは、出雲の稲佐の浜から泡となって流れた魂が海岸に流れ着き、新しい身体と心が蘇生されて皆、生まれ変わったとの言い伝えから「皆生」と呼ぶようになった。その後1900年（明治33年）に地元の魚師たちが海中から泡立つ泉源（塩化物泉）を発見、その後1922年（大正11年）に有本松太郎らが皆生温泉土地株式会社を創立し、本格的な泉源の発掘が始まった。以来、旅館街が形成されてから60年の歳月を経て、山陰地方屈指の温泉街として発展してきたのである。<br />
　海に向かって横約１キロ、縦約500メートルの地に旅館やホテル20軒余りが建ち並ぶ皆生温泉。すぐ目の前は日本海美保湾の海、美しい松林が林立する弓ヶ浜（夜見ヶ浜）半島、そして北方に聳える中国地方の最高峰（標高1,709m）の大山（だいせん）を眺める風光明媚な温泉街である。<br />
　しかし、当時、旅館組合の面々が頭を抱える問題が生じていた。それは、この温泉街の一角に、トルコ風呂（今日ではソープランドと呼んでいる）が建ち並ぶ歓楽街が出現していたからである。この悪いイメージを、</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「なんとしても払拭しなければならない」</span></p>
<p>　世の中の景気上昇に伴い観光客・宿泊客が増えるのは嬉しいことに違いなかったが、トルコ風呂まで繁盛しては困る。それで皆生温泉開発60周年を記念してイメージチェンジのイベントをやろうというのである。では、何をやるか？　具体案はなかった。でも、健康なイメージをアピールできるスポーツを開催しよう。それもできるなら日本で初めて行うイベントを開いて、もの珍しさ目新しさを対外的にアピールしよう。また、皆生ならではの海や山など美しい自然を生かしたイベントをやりたい。ちなみに、鳥取県下には温泉地が10個所あるが、そのうち海に面する温泉は唯一、皆生だけだったので、特に海をアピールしたイベントが考えられていた。</p>
<div id="attachment_1461" style="width: 210px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/douzo.jpg"><img class="size-full wp-image-1461" title="皆生温泉の砂浜に「有本松太郎」の銅像" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/douzo.jpg" alt="皆生温泉の砂浜に「有本松太郎」の銅像" width="200" height="267" /></a><p class="wp-caption-text">皆生温泉の砂浜に「有本松太郎」の銅像</p></div>
<p><span style="color: #ff9900;">「何ですか、そのトライとかいうのは？」</span></p>
<p><span style="color: #339966;">「鉄人レースとか言って、人間の体力の限界に挑戦するスポーツです」</span></p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「なに!!　殺人レースだと？」</span></p>
<p><span style="color: #339966;">「いいえ、殺人ではなく、鉄人レースと言ってました。私もはっきりわかりません。とにかく現地で耳にしただけですから。でも、先月、開催された大会では日本人が８人出場したとのことです」</span></p>
<p><span style="color: #ff9900;">「どんなことをやるのですか？」</span></p>
<p><span style="color: #339966;">「海で泳いで、自転車を漕いで、マラソンの３種目を一人でやるようです。よく知りませんが…」</span></p>
<p><span style="color: #800080;">「それならば、皆生でもできそうだね」</span></p>
<p><span style="color: #000080;">「海で泳ぐのであれば、皆生にふさわしいイベントだ」</span></p>
<p>「それに新しいスポーツだし、話題性もある」</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「健康的で明るいし、皆生のイメージを変えることができるかもしれない」</span></p>
<p><span style="color: #800000;">「面白そうだから、やってみよう」</span></p>
<p><span style="color: #ff6600;">「でも、いつやるの」</span></p>
<p><span style="color: #000080;">「水泳があるから、やっぱり夏でしょう」</span></p>
<p><span style="color: #339966;">「しかし、夏休みの繁忙期は難しいね。無理だよ」</span></p>
<p><span style="color: #3366ff;">「じゃあ、お盆明けかな。それでも、あと5ヵ月しかないけれど」</span></p>
<p>　福本の提案に反対する者はいなかった。開発委員会のメンバーは、トライアスロンが何であるか、ほとんど知らなかったが、全員、興味津々の様子だった。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「よし、やってみよう！」</span></p>
<p>　一堂は声を揃えた。<br />
　その翌４月、岩佐を実行委員長、福本を実行副委員長兼競技委員長とする「皆生トライアスロン準備委員会」が発足したのである。</p>
<div id="attachment_1462" style="width: 210px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fuku.jpg"><img class="size-full wp-image-1462" title="実行副委員長であり競技委員長を務めた福本安穗（1981年当時）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fuku.jpg" alt="実行副委員長であり競技委員長を務めた福本安穗（1981年当時）" width="200" height="258" /></a><p class="wp-caption-text">実行副委員長であり競技委員長を務めた福本安穗（1981年当時）</p></div>
<p> </p>
<p>　【次号予告】<span style="color: #993300;">トライアスロン大会を開催するまでの皆生温泉旅館組合の人々の奮闘振りと、熊本クレージートライアスロンクラブ勢の友好関係について綴ります。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞日本にトライアスロンを呼び込んだ男　　【福本　安穗】</h3>
<p> <br />
　出身地の京都から私が皆生温泉にやってきたのは29歳の時だった。来た先は「白扇」と呼ぶ和風の割烹旅館で、私は専務取締役として旅館の経営に携わるかたわら、皆生温泉旅館組合の会計理事並びに青年部の一員として活動していた。旅館組合の若手の一人として常に新しいことを提案しながら、皆と一緒に皆生温泉の広報宣伝と地元の発展に奔走していたのである。</p>
<p>　そして私が45歳の時だった。米子青年会議所理事長（元）の坂口允彦氏らと共にハワイへゴルフ旅行に行った際、トライアスロンというニュースポーツがあることを知った。しかし、その時はよもやトライアスロンを自分の街でやろうなどとは思いもよらなかった。</p>
<p>　でも、京都人は新しもの好き、恐いもの知らずである。京都生まれの私は旅館組合の会議で、大胆にもトライアスロンの開催を提案したのである。そして私の提案を、皆が受け入れてくれた。大変、嬉しかった。でも内心、大変、不安だった。なぜなら大会開催まで、あと5ヶ月しかなかったからだ。</p>
<p><span style="color: #99cc00;">「果たしてやれるだろうか。提案したまでは良いが、土台、無理な計画である。時間もそんなにない。第一、どうすればできるのか？」</span></p>
<p>　心の中に不安が襲っていた。その不安を振り解くように、私は大会開催に向けて行動を開始した。仕事を抛っぽり出し、挨拶と説明とお願いと報告に毎日、米子市の街中を駆けずり回った。私だけでない。旅館組合の青年部は額に汗して一生懸命、働いた。</p>
<p>　それにしても、今思うと、よく開催できた！　と思う。沢山の協力者がいたからだ。地元・米子市のロータリークラブや青年会議所の友人、知人達が親身になって協力してくれたからである。娘には、後になって、</p>
<p><span style="color: #ff9900;">「お父さん、遊んでいるばかりと思っていたけれど、結構いいことしていたんだね」</span></p>
<p>と言われた時、心から嬉しかった。やって良かったと思っている。</p>
<p>　その時から皆生トライアスロン大会は今年で25年の歳月を経て、いまもなお評判の良い大会として発展してきている。皆生温泉旅館組合の皆さんをはじめ関係者の努力のお陰である。</p>
<div id="attachment_1464" style="width: 210px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fukumoto.jpg"><img class="size-full wp-image-1464" title="福本安穗近影（2004年8月、大阪・梅田にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fukumoto.jpg" alt="福本安穗近影（2004年8月、大阪・梅田にて撮影）" width="200" height="150" /></a><p class="wp-caption-text">福本安穗近影（2004年8月、大阪・梅田にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.13：風神の巻　第１章その8(座談会)後編：ｱｲｱﾝﾏﾝ・ﾊﾜｲと日本のｱｽﾘｰﾄたち</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1427</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1427#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 13 Jun 2009 04:12:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1427</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/aoki-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />僕がその年の２月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか？
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その8(座談会)後編</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">ｱｲｱﾝﾏﾝ・ﾊﾜｲと日本のｱｽﾘｰﾄたち</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">僕がその年の２月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか？</p>
</div>
<p>【出席者】<br />
<span style="color: #ff00ff;">ゲスト　　堀　直之＆堀　陽子　トライアスロン・スペシャリスト</span></p>
<p><span style="color: #69be2c;">青木忠茂　フォト・ジャーナリスト<br />
市川祥宏　スポーツ・コーディネータ<br />
北村文俊　（社）東京都トライアスロン連合会長<br />
鈴木　進　トライアスリート</span></p>
<p><span style="color: #96a739;">司　会　　桜井　晋　『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹</span></p>
<p>　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>肥満児だってアイアンマンになれる！</strong><br />
<span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　では、か弱きトライアスリートでありながら、思いがけずハワイを完走してしまったという青木さんのお話をお聞きしたいと思います。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki.jpg"><img class="alignleft size-full wp-image-1429" title="aoki" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki.jpg" alt="aoki" width="283" height="213" /></a><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　船橋の青木です。僕がハワイ大会に出場したのは1985年の大会ですが、後にも先にも出場はその大会1回だけです。出場選手約1,000人のうち日本人は100名ほどでした。桜井さんがおっしゃるように、私はか弱きトライアスリートだったのですが、幸いにもその頃のハワイ大会は申し込めば誰でも出場できたし、選手としてエントリーすることができました。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　本当に!!</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　いえ、85年はそうではありません。前年の84年までは予選がなくエントリーすれば書類審査だけで出場することができました。しかし、85年は日本のびわ湖でアイアンマンが開催されることとなり、同大会で年代別３位に入らないと出場することができなかった筈です。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　実はそうなのです。でも、僕がその年の２月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか？</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　肥満児がよくもまあ決意しましたね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　そうでしょう。実は84年６月頃に雑誌でハワイ大会の写真を見たのです。ランナーズ社の『アスリートブック』だったかも知れない。その雑誌には「アイアンマン」という言葉が記されていました。「鉄人」というと、どこか錆臭いけれど、「アイアンマン」は響きがいいですね。だから僕は「アイアンマン」になりたい！　そう思ったのです。それで千葉県柏市のシクロウネへロードレーサーを見物に出掛けたら、そこで憧れのアイアンマン、髭の市川さんにお会いしました。「へえ、これがアイアンマンか。顎鬚なんか生やしちゃって」などと思いつつ、羨望と感動で身も心も震える思いでした。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　市川さんも、こんな肥満児が本気で出場するのかどうか、疑ったのではないですか？</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　本当に、希少価値的存在ですね。でも、私もトライアスリートの仲間が一人でも欲しかったから誘いました。とにかくトライアスロンをやる人間なんて、当時は周囲を見回してみても誰一人いない時代です。まあ、デブでもいいか！　という気持です。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　その時、市川さんからJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）の名刺を貰いました。今でもその名刺を持っていますよ。でも僕の職業はカメラマンですから、サラリーマンと違って土日は休みが取れません。そんなこともあってクラブに入って皆さんと一緒に行動を共にすることができないし、自分なりに一匹狼でいたかった気持もありました。でも、その後、市川さんから電話で何回もお誘いいただき、また85年に入ってATC（オールジャパン・トライアスロン・クラブ）を創立するという話も出てきて、それで皆さんの仲間入りをさせていただいたというわけです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span>　<br />
　では、85年当時はハワイに向けて一生懸命トレーニングに励んでいたのですね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　もちろんです。その年に行われた第１回宮古島大会の頃は泳げなかったため出場しませんでしたが、６月のびわ湖大会に向けて練習を積み重ねました。というのも、後になって市川さんから「ハワイ大会に出場するには、びわ湖大会に出て権利を取る必要がある」と言われたからです。「なーんだ。無条件で出られるわけではないんだ」と内心がっかりしましたが、何しろアイアンマンになりたい一心です。出たくないけれど、びわ湖大会にエントリーしました。それで大会の１～２週間前に、ようやく４Kmほど泳げるようになったのです。結果は２時間30分のタイムリミット寸前の２時間27分30秒、ブービーで完泳しました。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　バックストロークではなかったの。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　れっき！　としたクロールですよ。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　それにしても、当時のタイムリミットは結構、緩かったね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ハワイ大会の制限時間は２時間15分でした。ハワイでは２時間7分で泳ぎました。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　まあ犬掻きであろうとなんだろうと、肥満児がそこまでできたのだから、たいしたものです。でも、よくハワイの出場権が取れましたね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　そこはレースディレクターの市川さんから推挙していただいたからでしょうね。目に見えない神のお召ぼしが働いたということでしょう。当時は、その程度、緩やかだったのです。とにかくハワイ大会に出場することが決まった時、市川さんは「ハワイの海は宇宙遊泳。泳ぎが苦手でも大丈夫ですよ」なんて無責任なことを言ってました。なんのことはない。びわ湖大会では台風が接近して、スイム以外はほとんど雨の中だったし、ハワイ大会はハリケーンがやってきて海は大荒れでした。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　びわ湖大会は水温もかなり低かったですね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　18℃という発表でしたが、実際はもっと低かったと思います。大会側も開催直前になって水温が低いからウェットスーツの着用義務を通達してきて、それで慌ててチョッキのようなウェットスーツを調達しました。当時、清水仲治先生は釣り具屋さんから釣り用のジャケットを着て泳いでいました。釣り用ですよ。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　イエローとライトブルーのツートンカラーのウェットスーツでしたね。山下光富君も着ていましたが、それを山下君はデイブ・スコットにあげちゃったようです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　&#8230;.郵便局員の山下君ですね。あの頃は中山俊行君をはじめ山本光宏君、飯島健二郎君などが一緒になって、<br />
大井埠頭でバイクの練習をしていましたね。ATCの練習会でしたが、みんな若くて元気でした。その当時、彼らが所属していたATCの会長だった清水先生を知っていますか？</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　お名前を聞いた覚えはあります。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　「あま色の髪の乙女」を作った元ヴィレッジシンガーズの清水さんのお父さんですよ。清水先生が亡くなられて、年末にみんなで弔問に行きましたね。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　お通夜の晩でした。木枯らしが吹いて寒かったですね。先生は、私が何かと当時の「日本トライアスロン協会」の批判をするので嫌っているようでしたが、亡くなってしまうと淋しい限りです。淋しいといえば、今日はMSPO主宰者の清本　直さんが欠席です。仕事が立て込んでいて時間が取れないとのことでした。それで彼からメールで「私自身はハワイの出場経験がありません。1991年にびわ湖のアイアンマンでクオリファイを獲得したのですが、その当時は、ハワイはいつでも行けるなどと思っていて、あえてエントリーしなかったのです。今になって取り返しのつかない事態になってしまい残念でなりません」とのことです。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　会えると思っていたのに残念だな。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　清本さんはトライアスロンをビジネスにしていますが、トライアスリートとして汗と涙を流してきただけにトライアスロンに対する理解が深いですね。今のスポーツ計測のビジネスがもっともっと発展していって欲しいものです。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　トライアスロン大会の会場では、いつも一生懸命、仕事していますね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ハワイへ行きたかったら、鈴木さんみたいにお金を積んで、特別枠で出場すればよかったのに…。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　とんでもない。私はちゃんとびわ湖大会で権利を取って行ったのです。本当です。嘘は言いません。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　青木さんのように、コネを使って行く手もありましたね。では最後に、鈴木さんのアイアンマン道中記をお聞かせください。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>レースよりも珍道中が面白い！</strong></p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/suzuki.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-1431" title="suzuki" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/suzuki.jpg" alt="suzuki" width="283" height="213" /></a><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　私は地球の旅の岡村さんにお世話になり、89年から92年まで４年連続してハワイへ行かせてもらいました。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　89年とは、顔に似合わず晩生（おくて）ですね。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　いやいや、顔に似合って謙虚でしょ。89年のハワイ大会でトライアスロンの王者デイブ・スコットがマーク・アレンに負けた、その年のびわ湖大会で権利を取りました。それにしても、北村さんや市川さんたちがアイアンマンのベースづくりをしてくれたお陰で、後進者ながら皆さんのいいところ取りをしてアイアンマンになれたのだと思っています。その頃はATCのクラブ活動も大変、活発で、漫画家の古川益三さんをはじめATC多摩支部の連中と一緒にハワイへ乗り込みました。みんなでコナベイホテルのコンドミニアムに寝泊りしたのですが、ゴキブリも出たりして大騒ぎのアイアンマン珍道中でした。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　想像できるね。多摩支部の皆さんは元気が良かったから。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　だからレースそのものより、大会周辺にまつわる話の方が面白いですよ。例えば、コナへ向かうためホノルルで飛行機を乗り替えるトランジット中に、「Ozaki」という名札を付けた男性が寄ってきて「おまえはアイアンマンか」と、たどたどしい日本語で尋ねてくるのです。「そうだ」と言ったら、大変、好意的に話しかけてきて、そのうち彼が当時、人気歌手だった尾崎紀代彦の叔父さんだということが判り、びっくり仰天した覚えがあります。彼はホノルル空港で働いており、奥さんは「ビョウシ」だと言いました。「そうですか。亡くなられたのですか」などと思っていたら、病死ではなくて美容師とのことでした。なんだかアイアンマン・レースよりも、そんなことが印象的な思い出として残っています。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　鈴木さんは昔から我々が関心を持たないことに感動する人でしたね。それよりもレースの思い出はないのですか？</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　&#8230;89年の大会は、11時間半ほどでフィニッシュしたのですが、当時のゴールゲート周辺は、次々とフィニッシュする選手たちを前方から照明ライトを当てていました。だからゴール周辺の観客やボランティアたちは選手の顔や姿が良く確認できるわけですが、選手はただ眩しいだけで周囲をよく見ることができません。ただただ光の世界に吸い込まれていく思いでした。それで「なるほど、欧米人は光をこのように使うのか」などと関心しました。アイアンマンの思い出と言えば、ミスター尾崎と照明ライトの２つです。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ゴールへ向かう山の上から晧晧と照明に照らし出されたフィニッシュ地点が見え、歓声も聞こえるのですが、自分もやがてあそこに辿り着くのかと思うと胸の熱くなるものを感じますね。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　91年に観戦ツアーに当選してハワイの大会を観に行ったのですが、フィニッシュする選手はみんな泣いていました。私も感激して、必ず出てフィニッシュしようという気持になりました。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　陽子さんは、いつハワイに出場したの？</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　95年からです。翌年の96年は休んだけれど、今年で９回目の出場となります。村上純子さんとは一度、一緒に走ったことがありますけれど、今年また一緒に参加します。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　堀さんは、いつですか？</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　98年の20周年記念大会に出場しました。総合300番前半ぐらい、10時間40分ほどでフィニッシュしました。でも、ニュージーランドに住むようになってから仕事に追われ、練習もしないし、落ち目になってしまいましたけれど…。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　アイアンマン・ハワイでよく耳にするのですが、観戦者やボランティアたちが選手を応援する際「You are Great」と言います。日本では「頑張れ」としか言わないけれど、「ユーアー・グレイト」と言って選手を褒め称えます。いい言葉だなと思います。なんと言ってもボランティアが素晴らしいですね。ハワイの大会はボランティアがあってこそ成り立っている大会の典型でしょう。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ボランティアが素晴らしいからか、アイアンマン・ハワイって、独特の雰囲気がありますね。日本では味わえないものを感じます。だからハワイへの旅はロマンかも知れない。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　アイアンマン・ハワイが世界の人々を魅了したのは、何といっても1982年のジェリ－・モスという女性選手が脱水症状になってゴールゲート目前で倒れ、這いずりながらゴールを目指した劇的なシーンでした。アメリカのABCテレビがその模様を放映し、それが引き金となりトライアスロン・ブームの旋風が世界的に巻き起こりましたね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　私たちもその映像を見ましたが、みな感動していました。そういえば、モスとアレンの夫妻は元気だろうか？</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　とっくに別れてしまいましたよ。でもモスは03年のハワイ大会に出場していました。11時間ほどでフィニッシュしていましたが、昔と変わらない感じです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　仲良さそうだったのに…。エリン・ベーカーとスコット・モリーナ夫妻は元気かな。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hori.jpg"><img class="alignleft size-full wp-image-1432" title="hori" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hori.jpg" alt="hori" width="283" height="213" /></a><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　今年３月のニュージーランド・アイアンマンに来ていました。旦那のスコット・モリーナも復帰したようで、去年のハワイ大会に40歳代で出場していました。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　スコット・モリーナといえば、仙石元則さんと共に第１回琵琶湖大会では珍事がありましたね。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　モリーナがランの途中で草むらにしゃがみこんで用を足していましたね。また、その一部始終をテレビカメラが撮っていたのには呆れました。同じく仙石さんのバイクのチェーンが切れてしまい、雨降る中で泣きながら、石でピンを押し込み治そうとしてる模様を、いつまでもカメラが撮っていましたね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　新品のチェーンだった聞きましたが、よくもまあ切れたものです。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　石で叩いて治るわけがないのに…。初期の頃だけに皆、バイクの知識を持ち合せていなかったようですね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　よしんばチェーンが切れたとしても、いつまでも石で叩いているなんて、どう見てもテレビ局のやらせとしか思えませんね。それはともかく、テレビがアイアンマン・レースを初めて日本に紹介したのは84年のハワイ大会だったと思いますが、この時、中山俊行君らと共に日本のトップレベルにあった梅沢智宏君がバイクで２回パンクに見舞われ、泣いている様子が映されていたことを覚えています。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　すでに梅沢君は、交通事故で死んでしまいました。惜しい選手でした。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　数多くのアイアンマンが生まれ育つ過程で、沢山の人生ドラマもありました。思い出は尽きません。またの機会に昔を振り返りながら、トライアスロンの素晴らしさを語っていきたいと思います。有難うございました。</p>
<p> ※この座談会記事は04年５月27日に東京･中野の割烹居酒屋「鯉作」で行われたものを要約したものです。</p>
<p>【次号予告】次回からいよいよ日本を舞台としたトライアスロン物語が始まります。その「風神の巻　第２章」は皆生トライアスロン大会の発祥と同大会にまつわる人々の物語です。</p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞アイアンマンに魅せられた日本のトップ選手たち</h3>
<p class="mceTemp"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3nin1.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-1436" title="3nin1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3nin1.jpg" alt="3nin1" width="300" height="225" /></a></p>
<p>  <br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>日本人にとっては、実に厳しい大会だ</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【中山俊行】</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nakayama1.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1438" title="nakayama1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nakayama1-300x225.jpg" alt="nakayama1" width="300" height="225" /></a>　ハワイ大会に初めて出場したのは私が20歳の時、1983年のことだった。以後、合計９回出場したが、もっとも良い成績を修めたのは初回の84年の17位で、あとは20位から30位を行ったり来たりだった。一番悪い時は120位まで落ちてしまったこともある。<br />
ハワイ大会では日本人としてトップの位置で頑張っていたけれど、それにしても大会コースは日本人向きでない、非常に厳しいコースだと思っている。トップテンを目指すものの、その道は容易ではなく険しい道のりだと感じていたが、宮塚君はそれを克服し、２度もトップテンに入る偉業を成し遂げた。<br />
その後も日本人が挑戦しているが、田村君も谷君もことごとくはね付けられてきている。そして今は新たに小原君が挑戦している。果たしてどういう結果が出るか、非常に楽しみだ。また村上純子さんが今年40歳になって再度、出場するが、そのチャレンジ精神には大いに敬服する。<br />
ハワイ大会はコースも良いし、大会の中味も素晴らしい。極めてシンプルなこの難コースは、とてもチャレンジのしがいがある大会と言えるだろう。現役を引退した今でも出場したいと思っている。最近はドラフティングが横行して収拾がつかないなど問題も多々、発生しているようだが、アイアンマン・レースのチャンピオンシップ大会としてハワイ大会がこれから先も輝き続け、そして世界のトライアスリートたちを魅了し続ける素晴らしい大会として存続していって欲しいものだ。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>力の限り戦い、成果をあげることが、すべて</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【山本光宏】</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yamamoto.jpg"><img class="alignleft size-full wp-image-1439" title="yamamoto" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yamamoto.jpg" alt="yamamoto" width="283" height="213" /></a>　僕は、中山さんが17位になった84年に、初めてハワイ大会に出場した。同じ東京の大井埠頭で練習していた飯島さんも一緒だった。その当時、トライアスロンといえば皆生大会しかなかった時代だったから、僕たちの視線は常に皆生とハワイに向いていた。だからハワイ大会は、僕たちトライアスリートの最終的な目標であり到達点として位置付けていた。<br />
またその頃、僕たちはトライアスロンを新しい競技スポーツとして「日本に広めていこう」という熱い思いを抱き、日々、練習に励んでいた。中山さんと共に「自分たちが日本のトライアスロンの歴史をつくっていくのだ」という気持だった。その中山さんには「お前を、俺の練習パートナーとして認める。一緒にやろう」とハッパをかけられた。おかげで中山さんからバイクのテクニックを学んだし、意識の高さや精神面での集中力の重要性を学んだ。<br />
その後、宮塚君という新鋭が登場してきた。僕も選手としてライバル意識を燃やした。そして1988年８月の玄海大会では、宮塚君に勝って優勝した。引き続き「これならばハワイで彼に勝てるだろう」と思えるハードな練習をこなし、ハワイに臨んだ。そして、その年のハワイ大会のレース前日に、ラン・コースをジョグしている宮塚君と擦れ違った。目線が合って、お互いの健闘を称えるようにニコッと笑ったことを今でも覚えている。同時に武者震いがした。結果的に彼には勝てなかったけれど、力を出し切っての総合17位という記録に満足している。<br />
やはり僕の目標はハワイ大会で力の限り戦い、成果をあげることであったことは違いない。ハワイ大会を完走した、その達成感は、トライアスロンの醍醐味そのものである。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>強い者が勝つ、まぐれのないステージだ</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【宮塚英也】</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyatsuka.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1440" title="miyatsuka" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyatsuka-300x225.jpg" alt="miyatsuka" width="300" height="225" /></a>　俺が憧れていたのは、アイアンマンよりも競技スポーツ性が高いショートタイプのトライアスロンで、アメリカが本場だったUSTSという51.5Kmのショート・トライアスロン・シリーズに挑戦しようというのが、トライアスロンの世界に入ったきっかけだった。<br />
ハワイ大会に出場したのは1988年だったが、実は前年の87年びわ湖大会でハワイの権利を取っていた。でも、ほとんど興味が湧かなかったので、その年は行かなかった。それで、周りからは「なぜ行かない？　なぜ行かない！」と、さんざん言われた。そして翌年の88年に同じくびわ湖で権利を取った時、「これでハワイへ行かなかったならば、周りは何をいうかわからない。よし！　行ってやろう」と決めたのだ。<br />
ショート志向だった俺だが、たまたまロングの能力もあったからだろう。ラッキーにもハワイ初挑戦で９位に入った。24歳の時である。しかし、まぐれということもある。だからもう一度、トップテンに入れば皆が認めるだろうと思いチャレンジしてきた結果、６年後の94年大会で10位になった。この時の10位の方が、９位よりも嬉しかったのは言うまでもない。<br />
それにしても、ハワイのアイアンマン・レースは強い者が勝つ、番狂わせがないというところがいい。当然のことだが、ハワイ大会はそのことを見事に演じてくれるステージだ。現役を引退した今、改めてアイアンマンの素晴らしさを感じている。</p>
</div>
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