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	<title>TRI-X &#187; 歴史</title>
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		<title>Vol.39：雷神の巻　対談インタビュー　燃え上がった炎は消えない</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/2561</link>
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		<pubDate>Wed, 25 Nov 2009 12:43:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[インタビュー]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロンJapan]]></category>
		<category><![CDATA[創刊]]></category>
		<category><![CDATA[勅使河原　義一]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=2561</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/11/4-8-72-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />トライアスリート達を取材する過程でも、彼らの無鉄砲さや無邪気さは、私にとってやや異人種とさえ映りました。どんどん直感的に突き進みながらも、それでいて慎重に事を構え取り組んでいくトライアスリートの気質が、従来のスポーツでは見られないトライアスロン独自の文化を築いていったのではないかと思います。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">雷神の巻</p>
<h3>対談インタビュー　燃え上がった炎は消えない</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-72-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-72-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">トライアスリート達を取材する過程でも、彼らの無鉄砲さや無邪気さは、私にとってやや異人種とさえ映りました。どんどん直感的に突き進みながらも、それでいて慎重に事を構え取り組んでいくトライアスリートの気質が、従来のスポーツでは見られないトライアスロン独自の文化を築いていったのではないかと思います。</p>
</div>
<p style="text-align: center;">ゲスト　元『トライアスロンJapan』編集長・勅使河原　義一<br />
インタビュア　『日本トライアスロン物語』編集主幹　桜井　晋</p>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #a329b7;">ハワイ渡航直前にカメラ捜し</span></p>
<p><strong>桜　井</strong>　「日本で唯一のトライアスロン情報マガジン」と謳った『トライアスロンJapan』（以下、ＴＪ誌と略す）が今年１月に廃刊されましたが、そのＴＪ誌の創刊以来、15年間にわたり我が国トライアスロンの現場を取材し続けてこられた元ＴＪ誌編集長の勅使河原義一さんに、1980年代のトライアスロン界のお話をお聞きし、この「雷神の巻」の締め括りにしたいと思います。<br />
<strong>勅使河原</strong>　今日、トライアスロンはオリンピック競技にもなりましたが、自分にとって今でも面白く興味深いのは草創期のことです。その点で『日本トライアスロン物語』の「風神の巻」、そして「雷神の巻」は、正にトライアスロンの激動期のことがつぶさに書かれていて大変、興味深く読ませて戴いております。それも登場する人々がプロやトップ・アスリートだけでなく、多くの一般のトライアスロン愛好者によって歴史が創り出されていく過程を記していて、歴史のうねりの大きさを感じます。物語に登場する人物や出来事など、当時を思い起こし懐かしむと共に、改めてトライアスロンの成長の歴史を知ることが出来ます。<br />
<strong>桜　井</strong>　『日本トライアスロン物語』を読んでくださり、有り難う御座います。それでは始めに、勅使河原さんのトライアスロンとの出会い、関わり等からお話をお聞きしたいと思いますが、矢張り㈱ランナーズ（09年11月より株式会社アールビーズと社名変更。以下、ここではラ社と呼ぶ）へ入社したことが切掛けとなったのですね。<br />
<strong>勅使河原</strong>　大学を卒業した私はジャーナリズムとは全く無縁の旅行会社に勤務していましたが、高校や大学時代から長距離走が好きで、毎年２月に開かれる青梅マラソン大会を目標に走っていました。それでラ社発行のランニング雑誌『ランナーズ』を創刊号から購読していましたのですが、ある時、その雑誌の中でラ社の社員募集広告が目に留まり応募したのです。そして採用され、ラ社へは翌82年１月に入社しました。私が27歳の時です。<br />
<strong>桜　井</strong>　その年には、アメリカで「Tri-Fed USA＝アメリカトライアスロン連盟」が設立され、またトライアスロン大会はアイアンマン・ハワイが２月と10月に２回開催されたほか、サンディエゴでは“USTSシリーズ”というショート・タイプの賞金レースが６月に開かれました。さらにヨーロッパでは、11月にフランスでニース・トライアスロン大会が行われる等、トライアスロンが国際的なブームを巻き起こしていました。しかし、日本ではトライアスロンは始まったばかり、トライアスロン大会は皆生、湘南、それに小松の３大会が開催されていましたが、トライアスロンの総人口は全国で1,000人余りだったと思います。</p>
<div id="attachment_2575" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-11.jpg"><img class="size-medium wp-image-2575" title="ハワイ島コナの空港にて、84年ハワイランナーズツアーのアスリートとショット撮影（写真中央が勅使河原氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-11.jpg" alt="ハワイ島コナの空港にて、84年ハワイランナーズツアーのアスリートとショット撮影（写真中央が勅使河原氏）" width="300" height="194" /></a><p class="wp-caption-text">ハワイ島コナの空港にて、84年ハワイランナーズツアーのアスリートとショット撮影（写真中央が勅使河原氏）</p></div>
<p> <br />
<strong>勅使河原</strong>　トライアスロンというよりも、当時はランニングの方が流行っていましたね。ですから私は、ラ社が行うホノルル・マラソン・ツアーの担当者として日本から参加する選手の募集を始め、参加ウェアの調達、旅行会社との交渉など、もっぱらツアー・コンダクターとして働いていたのです。もちろん好きなランニングに関わる仕事でしたから、それはそれで楽しく仕事をしました。<br />
<strong>桜　井</strong>　そうすると、トライアスロンに関わったのは何時からですか？　ラ社の『トライアスロンJapan』は84年12月に隔月間で創刊しましが…。<br />
<strong>勅使河原</strong>　そうです。その創刊号を発刊する為、橋本社長の命令で84年10月のアイアンマン・ハワイの取材に出掛けたのです。と同時に、ラ社では大会参加ツアーも企画しましたが、その結果、20名余りの選手が集まりましたので、私はそれら選手達を現地へ連れて行く仕事にも携わることになったのです。そして、いよいよハワイへ出掛ける日のことです。今晩の飛行機で旅立つその夕方、私は会社の棚や引き出しを開け閉めしながらカメラ等、写真撮影機材を探し回っていました。橋本社長はカメラマンでしたから写真の機材類は沢山、有ったのですが、ではどのカメラを、どのレンズを、どのストロボや三脚を、またどんなフィルムを用意したら良いか、正直、素人の私には判りませんでした。そんな私の様子を見ていた橋本は会議を中断して、写真機材をアセンブリした上、フィルムの感度に応じて撮影する方法などのテクニックを教えてくれたのです。橋本は「撮影出来ないと創刊号が出ない」とばかり焦った様子でしたし、私自身も今晩、成田からフライトするというのに、実に冷や冷やものでした。</p>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #a329b7;">トライアスリートは自己中心型</span></p>
<p><strong>桜　井</strong>　初めて目の当たりにしたアイアンマン・レースの印象は如何でしたか？<br />
<strong>勅使河原</strong>　大会の取材には、ドーバー海峡を横断した後、84年春にラ社に入社した大貫映子さんを伴って出掛けたのですが、兎に角、２人ともトライアスロンを観るのは初めてなので、無我夢中でレースを追い駈け、バンバン写真を撮りまくることに専念しました。スイムのスタート模様は壮観で、誰が撮っても好い写真になるなと思いました。選手達が一斉に海に飛び込み、水飛沫を上げながら大きな腕をブン回す様は、トライアスロンを初めて観る私達を圧倒しました。そしてバイク競技ですが、当時は撮影取材もラフに行えましたので、クルマを併走させながら撮ることが出来ました。この時はバイクでマーク・アレンが先行しましたが、ランに入ってデイブ・スコットが追い抜き優勝、そのデイブがフィニッシュする勇姿を撮ることが出来て良かったと思っています。また、日本人では明治大学の学生だった中山俊行選手が日本人トップの総合17位となり、日本人選手の活躍も目の当たりにしました。そして夜になり、ゴールゲートを取り巻く大勢の観衆に囲まれ、暗闇の中からライトを浴びて続々と帰ってくる選手の姿は、正に感動的です。私がコーディネートしたラ社のツアーに参加された方々の多くが無事、フィニッシュしたのですが、中でも永田　峻さんはゴールした後、盛んに「気持が好い、気持が好い」を連発していたのが印象的でした。</p>
<div id="attachment_2576" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-31.jpg"><img class="size-medium wp-image-2576" title="TJ誌創刊号に掲載されたデイブ・スコットのゴール・シーン" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-31.jpg" alt="TJ誌創刊号に掲載されたデイブ・スコットのゴール・シーン" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">TJ誌創刊号に掲載されたデイブ・スコットのゴール・シーン</p></div>
<p><strong>桜　井</strong>　それで、ハワイから戻りＴＪ誌創刊号の編集制作に携わりました。その創刊号の記事のほとんどを84年アイアンマン・レースの話で埋めた訳ですね。<br />
<strong>勅使河原</strong>　それこそハワイ大会でバンバン撮った写真を満載した上、トライアスロンに取り組むアスリートの声を沢山、採り上げました。ハワイでは、参加選手の多くが取材に協力的で、積極的にインタビューに応じてくれたこともあって、トライアスロンの現場の生の声を反映させる内容になったと思っています。彼らトライアスリートは実にポジティブかつエネルギッシュで、インタビューにモジモジ応えたりする人はいません。皆、明るく陽気でハキハキしていたことを、今でも思い出します。<br />
<strong>桜　井</strong>　本当にトライアスリートは、それまでにないスポーツ精神を持った人々が多かったですね。それはトライアスロンが運動競技というよりも、長い未知的な距離を、それも３種目の運動をこなしてゴールすることの苦しさと喜びを同時に味わい、「ゴールすれば、皆、鉄人」という自分との戦いに趣が置かれたスポーツだったからでしょう。この戦いに勝つ為には、常日頃のトレーニングから日常生活に至るまで自分自身をコントロールすることが課せられたという意味で、言わば自己実現型スポーツの誕生だったと思います。それはこれまで、『日本トライアスロン物語』に登場した多くのアスリート達の話を聞いてみても頷けます。<br />
<strong>勅使河原</strong>　後にＴＪ誌で「トライアスリートは、どんな人間か？」という企画記事を掲載したことがあります。その中でトライアスリートは実に自己顕示欲が強い、ある意味で露出症的な性格を持つ者が多く、また休日のほとんどの時間をトレーニングに割いて家族を顧みない、結構、自己中心型の身勝手な人間というイメージが定着していたことにも触れました。兎に角、当時のトライアスロンは今日のようなショート・タイプではなく、いきなりロング・ディスタンスのアイアンマン・レースでしたから、それなりのモチベーションを持って挑戦する必要があったのかと思われます。</p>
<div id="attachment_2577" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-21.jpg"><img class="size-medium wp-image-2577" title="勅使河原氏は海外へも積極的に足を運び取材活動を展開した" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-21.jpg" alt="勅使河原氏は海外へも積極的に足を運び取材活動を展開した" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">勅使河原氏は海外へも積極的に足を運び取材活動を展開した</p></div>
<p class="wp-caption-dt"><strong>桜　井</strong>　だからスポーツであっても競技ではない。今日ではオリンピック種目の競技となりましたが、昔の鉄人レースは日常生活やレースそのものも含めて自己研鑚を深めていくプロセスが重要でした。だからエリート選手は別として、一般の多くのトライアスリート達は他者に勝つことよりも、自己に勝つことに意義を感じ、またそのような人間同士の輪を求めていったと思います。<br />
<strong>勅使河原</strong>　確かに、当時のキーワードは「仲間」でした。気の合った者と一緒に練習をする、或いは共に飲食を楽しむ等、運動を通じた仲間づくりが盛んでした。トライアスロンのクラブは全国、津々浦々までつくられたのも、その為でしょう。トライアスロンの初期の頃はインターネットもなかったので、練習方法やクラブ活動、大会開催等、トライアスロン関わる情報を得ることが難しかったと思います。<br />
<strong>桜　井</strong>　その意味でＴＪ誌の存在はトライアスリートにとって貴重でした。私もＴＪ誌には80年代後半から連載記事を沢山、書かせて戴きましたが、毎回、それなりの反響がありました。矢張り啓蒙普及という観点からＴＪ誌が果たした役割は、大きなものがありましたね。<br />
<strong>勅使河原</strong>　普及という観点から、ＴＪ誌の編集制作に当たって、特にトライアスロン・クラブの紹介を心掛けた積もりです。クラブが制作している会報記事を紹介することによって、トライアスロンの取り組み方やトライアスリートの群像に照明を当てたのです。地方の小さなクラブ会報も採り上げましたが、その中には大変、興味深い体験談も書かれています。また、昔はトライアスロンの指導者が少なく、それこそトレーニング理論等というものは存在しません。それだけにＴＪ誌の記事作りも苦労をした覚えがあります。例えば、山本光宏選手が大学生の時代、彼の大学まで赴いてトレーニングの実践現場を取材する等、各現場をいろいろ取材したことが今でも懐かしく思います。それと、当時はトライアスロン大会の数も少なかったこともあって、その分、どんな大会でも取材に出掛けるよう努め、ＴＪ誌に紹介しました。86年に埼玉県長瀞町でたった１回だけ開催された「長瀞トライアスロン大会」というローカル大会へも足を運んだことを覚えています。</p>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #a329b7;">85年にトライアスロンが華開く</span></p>
<p><strong>桜　井</strong>　我が国のトライアスロンは81年の皆生大会から始まった訳ですが、振り返ってトライアスロンの本格的な普及、拡大の切掛けとなったのは、85年の時だったと思います。その年の４月に宮古島大会が開催されたのを始め、６月にびわ湖アイアンマン・レース、そして10月にショート・タイプの天草大会が行われ、一気にトライアスロンの炎が燃え上がったのです。この記念すべき85年の３大会について、『日本トライアスロン物語』では次の“火神の巻”で詳述していく予定ですが、その前段として勅使河原さんに、それら３大会を取材された当時の思い出や感想等をお聞かせください。<br />
<strong>勅使河原</strong>　おっしゃるように85年の宮古島大会がNHKのBS放送の電波に乗って日本全国に紹介されたのが、本格普及の第一歩だったと思います。私は宮古島大会の前日にカメラマンの本多ジェロさんと現地入りし、前夜祭に出席しました。NHKが衛星中継するというので注目が集まり、新聞や雑誌等、かなりの数のマスコミが取材に来ていたようです。中には『少年マガジン』誌もやって来ていて、大会の模様をモノクロ５・６頁で掲載していました。そんな賑わいを見せる一方で、宮古島は本州とは全く違うのんびりムードの別世界、タクシーの走る速度がなんと30Kmという長閑さでした。参加選手は248名（参加許可数）と少なかったので取材もかなりゆったりと出来、島内観光の気分でやれました。<br />
<strong>桜　井</strong>　大会は、島民の方々、ほぼ全員が「ワイドー・ワイド＝頑張れ・粘れ」と言って選手達に応援を送り、大変、盛り上がりました。そんな大会の様子をテレビで観た私達は、改めてトライアスロンの魅力を感じました。<br />
<strong>勅使河原</strong>　宮古島という、空も海も美しいロケーションが一層、魅力を引き付けたと思います。その美しい島の風景に溶け込みながら選手達は熱い汗を流し、トップの中山俊行選手がフィニッシュした時は、大きな拍手と歓声が起こりました。しかし、それよりも何も、兵庫県の榊原良明さんが最終走者として大勢の島民に囲まれてフィニッシュしたシーンは素晴らしく、私は鳥肌が立つほどの感動を覚えました。いずれにしても、この宮古島大会が開催され、成功を修めたことで、日本でもトライアスロンの人気は一気に加速されたと思います。</p>
<div id="attachment_2580" style="width: 262px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-41.jpg"><img class="size-medium wp-image-2580" title="第１回宮古島大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-41.jpg" alt="第１回宮古島大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手" width="252" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第１回宮古島大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手</p></div>
<p><strong>桜　井</strong>　続いて滋賀県の琵琶湖で行われた日本版アイアンマン・レースが、またもやテレビ中継され、トライアスロンとは全く無縁の人々にもかなり知れ渡ることになりました。この大会を取材して、どんな感想を持たれましたか？<br />
<strong>勅使河原</strong>　兎に角、ロング・ディスタンスのレースですので、取材はタクシーをチャーターして、ポイントごとに選手の通過するのを見ていました。私に割り当てられた取材命令は、フィニッシャー達のコメントを採ることと、ライバルと目される２人の若い日本人女性アスリートを追跡することでした。しかし、レース当日は台風の接近でコンディションは最悪、寒さに加えて風雨が強まり、ラン競技に入った頃は豪雨となり、本当にこのまま競技が続くのかと思ったほどです。<br />
<strong>桜　井</strong>　琵琶湖の水はかなり冷たく、本来ならばレースをやれる状況ではなかったと、後に関係者から話を聞いています。おまけに台風は現地をほぼ直撃しつつあり、よくも最後までレースが続けられたなと思いました。<br />
<strong>勅使河原</strong>　そんな中、アメリカからやって来たデイブ・スコットやスコット・モリーナ、ジェリー・モス等、スター選手を始め、この年からハワイ大会への予選会制度が始まった為、本戦のハワイ大会への出場権を賭けエントリーした海外選手もかなりいて、宮古島大会とは大分、違った競技色の強い雰囲気を感じました。実際、レースでは、84年のアイアンマン・ハワイで９時間を切る驚異的な記録で優勝したデイブ・スコットが、さらに総合タイムを15分も短縮したり、女性のジュリー・モスが総合３位でフィニッシュ、続く総合４位で日本人男子１位の城本徳満選手に25分余も速かったとは、驚くばかりでした。アイアンマンの記録更新の加速化と、世界の競技レベルの高さを目の当たりにした思いです。</p>
<div id="attachment_2579" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-61.jpg"><img class="size-medium wp-image-2579" title="震えるような寒さの中で85年びわ湖アイアンマン大会が行われた" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-61.jpg" alt="震えるような寒さの中で85年びわ湖アイアンマン大会が行われた" width="300" height="189" /></a><p class="wp-caption-text">震えるような寒さの中で85年びわ湖　アイアンマン大会が行われた</p></div>
<p><strong>桜　井</strong>　トライアスロンの競技化という観点では、熊本県本渡市で行われた天草大会が、我が国トライアスロンの歴史の１頁を飾る大会になったと思います。この大会はアメリカに本部を置く国際トライアスロン連盟の日本支部として、その年に発足した日本トライアスロン連盟がインターナショナル・スタンダード・タイプと称し、３種目の総合距離51.5Kmのスピード・レースを開催しました。如何でしたか？　遠く天草まで出掛けて取材してきた感想は…。<br />
<strong>勅使河原</strong>　大分、記憶が薄れているので仔細は述べられませんが、雷鳴の中、中山俊行選手がトップでフィニッシュしたことと、アイアンマン大会と比べ競技距離が短い為、レースがよりスピード化したとの印象を持ちました。また、連盟の会長となった野球人の長嶋茂雄さんが大会セレモニーに登場する等、大会運営や会場づくりを華やかに演出し、トライアスロン大会というよりもスポーツ・イベントというイメージを強く抱きました。</p>
<div id="attachment_2581" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-51.jpg"><img class="size-medium wp-image-2581" title="第１回天草大会のセレモニーに登場した長嶋茂雄氏（日本トライアスロン連盟会長）と、カール・トーマス氏（国際トライアスロン連盟会長）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-51.jpg" alt="第１回天草大会のセレモニーに登場した長嶋茂雄氏（日本トライアスロン連盟会長）と、カール・トーマス氏（国際トライアスロン連盟会長）" width="300" height="287" /></a><p class="wp-caption-text">第１回天草大会のセレモニーに登場した長嶋茂雄氏（日本トライアスロン連盟会長）と、カール・トーマス氏（国際トライアスロン連盟会長）</p></div>
<p> </p>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #a329b7;">トライアスロンに関わり幸運だった</span></p>
<p><strong>桜　井</strong>　この天草大会の舞台で、中山選手ら日本のエリート選手達によって結成された「チーム・エトナ」が紹介されました。このチームは同連盟に所属して、チーム・メンバーが活躍することにより、その後の連盟主催の大会のイメージ・アップを図っていこうという狙いが込められていたように思います。つまりトライアスロン大会をショー化することにより、メディアやクライアントに訴え掛けていこうという同連盟のイベント・ビジネスが、この年からスタートした訳です。そして翌年には仙台・中日（岐阜県海津町）・天草の大会が開かれ、アイアンマンとは全く趣向の異なる賞金付きのショート・トライアスロンが展開されていったのです。こうして観てみると、85年という年は日本のトライアスロン絵巻が本格的に華開いた年であり、同時に宮古島・びわ湖・天草という、それぞれ性格が異なるトライアスロンの典型が提案された年でもあったように思えます。その頃からトライアスロンと直に向き合い取材活動をされてきた勅使河原さんにとって、改めてトライアスロンとは何か？　また、その文化的な側面についてお話を戴きたいと思います。<br />
<strong>勅使河原</strong>　ＴＪ誌に携わる前からトライアスロンのことは知っていましたし、ハワイや皆生など初期的なトライアスロンの姿は、話に聞いたりしていましたが、その当時はレースの途中で選手が体重を量るなど特殊な競技だな…と思っていて、当時、ランニング志向だった私は特別な関心を抱くことがありませんでした。また、トライアスリート達を取材する過程でも、彼らの無鉄砲さや無邪気さは、私にとってやや異人種とさえ映りました。どんどん直感的に突き進みながらも、それでいて慎重に事を構え取り組んでいくトライアスリートの気質が、従来のスポーツでは見られないトライアスロン独自の文化を築いていったのではないかと思います。<br />
<strong>桜　井</strong>　勅使河原さんはＴＪ誌の創刊から２年後には編集人として実質的な編集長の役割を担い、さらにトライアスロンの取材、編集に磨きをかけていく訳ですが、最後にこれまでの約25年間に及ぶトライアスロンとの関わりを、どのように総括していますか？<br />
<strong>勅使河原</strong>　日本の歴史のほぼ始まりからトライアスロンに関われたことは、自分にとって財産だと思っています。それだけにトライアスロンというスポーツが誕生し、発展していく様子を間近に触れることができた訳で、トライアスロンに携われたことを幸運だったと思っています。それもこれも数多くのトライアスリートの皆さんや大会関係者の方々のご支援やご協力が私を支えてくれた訳で、本当に感謝しています。25年前に燃え上がったトライアスロンの炎は今後とも消えることはないでしょうが、しかし、決して炎の明かりが弱まることのないよう進化、発展していくことを見守っていきたいと思います。</p>
<div id="attachment_2584" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-721.jpg"><img class="size-medium wp-image-2584" title="徳之島トライアスロン大会に参加、完走した勅使河原氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-721.jpg" alt="徳之島トライアスロン大会に参加、完走した勅使河原氏" width="300" height="286" /></a><p class="wp-caption-text">徳之島トライアスロン大会に参加、完走した勅使河原氏</p></div>
<p><strong>【勅使河原義一氏プロフィール】</strong><br />
<span style="color: #99cc00;">1954年、東京・豊島区で生まれ育つ。慶應義塾大学文学部国文科を卒業後、旅行会社に勤務。82年１月に株式会社ランナーズ入社、スポーツ・イベントのコーディネーターとしてホノルル・マラソン大会ツアーを担当する。84年にはアイアンマン・ハワイのツアー担当者として日本人参加選手と共に現地入りし、大会の模様を撮影取材、帰国後、『トライアスロンJapan』創刊号を編集、制作する。以来、同誌の編集に携わり、88年７月に編集長に就任。90年には徳之島トライアスロン大会にチャレンジ、トライアスリートとなる。99年10月に㈱ランナーズを退社し、スポーツ・ディレクターとして各種スポーツ・イベントの開催に携わる傍ら、日本学生トライアスロン連合（学ト連）の役員として活動を展開。02年４月には㈱ランナーズの傍系子会社㈱ラントップのスポーツ・イベントにレース・ディレクターとして事業参加する。現在、日本学生トライアスロン連合副理事長。</span></p>
<div id="attachment_2585" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-81.jpg"><img class="size-medium wp-image-2585" title="勅使河原義一氏近影（千葉県船橋市にて、09年８月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/11/4-8-81.jpg" alt="勅使河原義一氏近影（千葉県船橋市にて、09年８月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">勅使河原義一氏近影（千葉県船橋市にて、09年８月撮影）</p></div>
<p><span style="color: #993300;">《次回予告》<br />
1985年から始まる80年代後半の時代は、我が国トライアスロンの本格的な成長、発展の先駆けとなる。その端緒となったのが85年４月の宮古島、６月のびわ湖アイアンマン、10月の天草の３大会だった。そこで次回以降を“火神の巻”と称し、これら３大会を現地取材を踏まえ、かつ当時の大会主催者、ボランティア、参加選手、組織、スポンサー、マスコミ等の関係者の証言を元に、その歴史的展開を詳述していく。次回・物語本編では、宮古島大会を開催する為の様々な関係者の動静を述べる。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
</div>
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		<title>Vol.13：風神の巻　第１章その8(座談会)後編：ｱｲｱﾝﾏﾝ・ﾊﾜｲと日本のｱｽﾘｰﾄたち</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1427</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1427#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 13 Jun 2009 04:12:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1427</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/aoki-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />僕がその年の２月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか？
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その8(座談会)後編</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">ｱｲｱﾝﾏﾝ・ﾊﾜｲと日本のｱｽﾘｰﾄたち</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">僕がその年の２月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか？</p>
</div>
<p>【出席者】<br />
<span style="color: #ff00ff;">ゲスト　　堀　直之＆堀　陽子　トライアスロン・スペシャリスト</span></p>
<p><span style="color: #69be2c;">青木忠茂　フォト・ジャーナリスト<br />
市川祥宏　スポーツ・コーディネータ<br />
北村文俊　（社）東京都トライアスロン連合会長<br />
鈴木　進　トライアスリート</span></p>
<p><span style="color: #96a739;">司　会　　桜井　晋　『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹</span></p>
<p>　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>肥満児だってアイアンマンになれる！</strong><br />
<span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　では、か弱きトライアスリートでありながら、思いがけずハワイを完走してしまったという青木さんのお話をお聞きしたいと思います。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki.jpg"><img class="alignleft size-full wp-image-1429" title="aoki" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aoki.jpg" alt="aoki" width="283" height="213" /></a><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　船橋の青木です。僕がハワイ大会に出場したのは1985年の大会ですが、後にも先にも出場はその大会1回だけです。出場選手約1,000人のうち日本人は100名ほどでした。桜井さんがおっしゃるように、私はか弱きトライアスリートだったのですが、幸いにもその頃のハワイ大会は申し込めば誰でも出場できたし、選手としてエントリーすることができました。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　本当に!!</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　いえ、85年はそうではありません。前年の84年までは予選がなくエントリーすれば書類審査だけで出場することができました。しかし、85年は日本のびわ湖でアイアンマンが開催されることとなり、同大会で年代別３位に入らないと出場することができなかった筈です。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　実はそうなのです。でも、僕がその年の２月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか？</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　肥満児がよくもまあ決意しましたね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　そうでしょう。実は84年６月頃に雑誌でハワイ大会の写真を見たのです。ランナーズ社の『アスリートブック』だったかも知れない。その雑誌には「アイアンマン」という言葉が記されていました。「鉄人」というと、どこか錆臭いけれど、「アイアンマン」は響きがいいですね。だから僕は「アイアンマン」になりたい！　そう思ったのです。それで千葉県柏市のシクロウネへロードレーサーを見物に出掛けたら、そこで憧れのアイアンマン、髭の市川さんにお会いしました。「へえ、これがアイアンマンか。顎鬚なんか生やしちゃって」などと思いつつ、羨望と感動で身も心も震える思いでした。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　市川さんも、こんな肥満児が本気で出場するのかどうか、疑ったのではないですか？</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　本当に、希少価値的存在ですね。でも、私もトライアスリートの仲間が一人でも欲しかったから誘いました。とにかくトライアスロンをやる人間なんて、当時は周囲を見回してみても誰一人いない時代です。まあ、デブでもいいか！　という気持です。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　その時、市川さんからJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）の名刺を貰いました。今でもその名刺を持っていますよ。でも僕の職業はカメラマンですから、サラリーマンと違って土日は休みが取れません。そんなこともあってクラブに入って皆さんと一緒に行動を共にすることができないし、自分なりに一匹狼でいたかった気持もありました。でも、その後、市川さんから電話で何回もお誘いいただき、また85年に入ってATC（オールジャパン・トライアスロン・クラブ）を創立するという話も出てきて、それで皆さんの仲間入りをさせていただいたというわけです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span>　<br />
　では、85年当時はハワイに向けて一生懸命トレーニングに励んでいたのですね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　もちろんです。その年に行われた第１回宮古島大会の頃は泳げなかったため出場しませんでしたが、６月のびわ湖大会に向けて練習を積み重ねました。というのも、後になって市川さんから「ハワイ大会に出場するには、びわ湖大会に出て権利を取る必要がある」と言われたからです。「なーんだ。無条件で出られるわけではないんだ」と内心がっかりしましたが、何しろアイアンマンになりたい一心です。出たくないけれど、びわ湖大会にエントリーしました。それで大会の１～２週間前に、ようやく４Kmほど泳げるようになったのです。結果は２時間30分のタイムリミット寸前の２時間27分30秒、ブービーで完泳しました。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　バックストロークではなかったの。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　れっき！　としたクロールですよ。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　それにしても、当時のタイムリミットは結構、緩かったね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ハワイ大会の制限時間は２時間15分でした。ハワイでは２時間7分で泳ぎました。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　まあ犬掻きであろうとなんだろうと、肥満児がそこまでできたのだから、たいしたものです。でも、よくハワイの出場権が取れましたね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　そこはレースディレクターの市川さんから推挙していただいたからでしょうね。目に見えない神のお召ぼしが働いたということでしょう。当時は、その程度、緩やかだったのです。とにかくハワイ大会に出場することが決まった時、市川さんは「ハワイの海は宇宙遊泳。泳ぎが苦手でも大丈夫ですよ」なんて無責任なことを言ってました。なんのことはない。びわ湖大会では台風が接近して、スイム以外はほとんど雨の中だったし、ハワイ大会はハリケーンがやってきて海は大荒れでした。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　びわ湖大会は水温もかなり低かったですね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　18℃という発表でしたが、実際はもっと低かったと思います。大会側も開催直前になって水温が低いからウェットスーツの着用義務を通達してきて、それで慌ててチョッキのようなウェットスーツを調達しました。当時、清水仲治先生は釣り具屋さんから釣り用のジャケットを着て泳いでいました。釣り用ですよ。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　イエローとライトブルーのツートンカラーのウェットスーツでしたね。山下光富君も着ていましたが、それを山下君はデイブ・スコットにあげちゃったようです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　&#8230;.郵便局員の山下君ですね。あの頃は中山俊行君をはじめ山本光宏君、飯島健二郎君などが一緒になって、<br />
大井埠頭でバイクの練習をしていましたね。ATCの練習会でしたが、みんな若くて元気でした。その当時、彼らが所属していたATCの会長だった清水先生を知っていますか？</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　お名前を聞いた覚えはあります。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　「あま色の髪の乙女」を作った元ヴィレッジシンガーズの清水さんのお父さんですよ。清水先生が亡くなられて、年末にみんなで弔問に行きましたね。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　お通夜の晩でした。木枯らしが吹いて寒かったですね。先生は、私が何かと当時の「日本トライアスロン協会」の批判をするので嫌っているようでしたが、亡くなってしまうと淋しい限りです。淋しいといえば、今日はMSPO主宰者の清本　直さんが欠席です。仕事が立て込んでいて時間が取れないとのことでした。それで彼からメールで「私自身はハワイの出場経験がありません。1991年にびわ湖のアイアンマンでクオリファイを獲得したのですが、その当時は、ハワイはいつでも行けるなどと思っていて、あえてエントリーしなかったのです。今になって取り返しのつかない事態になってしまい残念でなりません」とのことです。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　会えると思っていたのに残念だな。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　清本さんはトライアスロンをビジネスにしていますが、トライアスリートとして汗と涙を流してきただけにトライアスロンに対する理解が深いですね。今のスポーツ計測のビジネスがもっともっと発展していって欲しいものです。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　トライアスロン大会の会場では、いつも一生懸命、仕事していますね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ハワイへ行きたかったら、鈴木さんみたいにお金を積んで、特別枠で出場すればよかったのに…。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　とんでもない。私はちゃんとびわ湖大会で権利を取って行ったのです。本当です。嘘は言いません。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　青木さんのように、コネを使って行く手もありましたね。では最後に、鈴木さんのアイアンマン道中記をお聞かせください。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>レースよりも珍道中が面白い！</strong></p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/suzuki.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-1431" title="suzuki" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/suzuki.jpg" alt="suzuki" width="283" height="213" /></a><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　私は地球の旅の岡村さんにお世話になり、89年から92年まで４年連続してハワイへ行かせてもらいました。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　89年とは、顔に似合わず晩生（おくて）ですね。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　いやいや、顔に似合って謙虚でしょ。89年のハワイ大会でトライアスロンの王者デイブ・スコットがマーク・アレンに負けた、その年のびわ湖大会で権利を取りました。それにしても、北村さんや市川さんたちがアイアンマンのベースづくりをしてくれたお陰で、後進者ながら皆さんのいいところ取りをしてアイアンマンになれたのだと思っています。その頃はATCのクラブ活動も大変、活発で、漫画家の古川益三さんをはじめATC多摩支部の連中と一緒にハワイへ乗り込みました。みんなでコナベイホテルのコンドミニアムに寝泊りしたのですが、ゴキブリも出たりして大騒ぎのアイアンマン珍道中でした。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　想像できるね。多摩支部の皆さんは元気が良かったから。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　だからレースそのものより、大会周辺にまつわる話の方が面白いですよ。例えば、コナへ向かうためホノルルで飛行機を乗り替えるトランジット中に、「Ozaki」という名札を付けた男性が寄ってきて「おまえはアイアンマンか」と、たどたどしい日本語で尋ねてくるのです。「そうだ」と言ったら、大変、好意的に話しかけてきて、そのうち彼が当時、人気歌手だった尾崎紀代彦の叔父さんだということが判り、びっくり仰天した覚えがあります。彼はホノルル空港で働いており、奥さんは「ビョウシ」だと言いました。「そうですか。亡くなられたのですか」などと思っていたら、病死ではなくて美容師とのことでした。なんだかアイアンマン・レースよりも、そんなことが印象的な思い出として残っています。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　鈴木さんは昔から我々が関心を持たないことに感動する人でしたね。それよりもレースの思い出はないのですか？</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　&#8230;89年の大会は、11時間半ほどでフィニッシュしたのですが、当時のゴールゲート周辺は、次々とフィニッシュする選手たちを前方から照明ライトを当てていました。だからゴール周辺の観客やボランティアたちは選手の顔や姿が良く確認できるわけですが、選手はただ眩しいだけで周囲をよく見ることができません。ただただ光の世界に吸い込まれていく思いでした。それで「なるほど、欧米人は光をこのように使うのか」などと関心しました。アイアンマンの思い出と言えば、ミスター尾崎と照明ライトの２つです。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ゴールへ向かう山の上から晧晧と照明に照らし出されたフィニッシュ地点が見え、歓声も聞こえるのですが、自分もやがてあそこに辿り着くのかと思うと胸の熱くなるものを感じますね。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　91年に観戦ツアーに当選してハワイの大会を観に行ったのですが、フィニッシュする選手はみんな泣いていました。私も感激して、必ず出てフィニッシュしようという気持になりました。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　陽子さんは、いつハワイに出場したの？</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　95年からです。翌年の96年は休んだけれど、今年で９回目の出場となります。村上純子さんとは一度、一緒に走ったことがありますけれど、今年また一緒に参加します。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　堀さんは、いつですか？</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　98年の20周年記念大会に出場しました。総合300番前半ぐらい、10時間40分ほどでフィニッシュしました。でも、ニュージーランドに住むようになってから仕事に追われ、練習もしないし、落ち目になってしまいましたけれど…。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　アイアンマン・ハワイでよく耳にするのですが、観戦者やボランティアたちが選手を応援する際「You are Great」と言います。日本では「頑張れ」としか言わないけれど、「ユーアー・グレイト」と言って選手を褒め称えます。いい言葉だなと思います。なんと言ってもボランティアが素晴らしいですね。ハワイの大会はボランティアがあってこそ成り立っている大会の典型でしょう。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　ボランティアが素晴らしいからか、アイアンマン・ハワイって、独特の雰囲気がありますね。日本では味わえないものを感じます。だからハワイへの旅はロマンかも知れない。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　アイアンマン・ハワイが世界の人々を魅了したのは、何といっても1982年のジェリ－・モスという女性選手が脱水症状になってゴールゲート目前で倒れ、這いずりながらゴールを目指した劇的なシーンでした。アメリカのABCテレビがその模様を放映し、それが引き金となりトライアスロン・ブームの旋風が世界的に巻き起こりましたね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　私たちもその映像を見ましたが、みな感動していました。そういえば、モスとアレンの夫妻は元気だろうか？</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　とっくに別れてしまいましたよ。でもモスは03年のハワイ大会に出場していました。11時間ほどでフィニッシュしていましたが、昔と変わらない感じです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　仲良さそうだったのに…。エリン・ベーカーとスコット・モリーナ夫妻は元気かな。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hori.jpg"><img class="alignleft size-full wp-image-1432" title="hori" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hori.jpg" alt="hori" width="283" height="213" /></a><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　今年３月のニュージーランド・アイアンマンに来ていました。旦那のスコット・モリーナも復帰したようで、去年のハワイ大会に40歳代で出場していました。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　スコット・モリーナといえば、仙石元則さんと共に第１回琵琶湖大会では珍事がありましたね。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　モリーナがランの途中で草むらにしゃがみこんで用を足していましたね。また、その一部始終をテレビカメラが撮っていたのには呆れました。同じく仙石さんのバイクのチェーンが切れてしまい、雨降る中で泣きながら、石でピンを押し込み治そうとしてる模様を、いつまでもカメラが撮っていましたね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　新品のチェーンだった聞きましたが、よくもまあ切れたものです。</p>
<p><span style="color: #c52fad;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　石で叩いて治るわけがないのに…。初期の頃だけに皆、バイクの知識を持ち合せていなかったようですね。</p>
<p><span style="color: #800000;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　よしんばチェーンが切れたとしても、いつまでも石で叩いているなんて、どう見てもテレビ局のやらせとしか思えませんね。それはともかく、テレビがアイアンマン・レースを初めて日本に紹介したのは84年のハワイ大会だったと思いますが、この時、中山俊行君らと共に日本のトップレベルにあった梅沢智宏君がバイクで２回パンクに見舞われ、泣いている様子が映されていたことを覚えています。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　すでに梅沢君は、交通事故で死んでしまいました。惜しい選手でした。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　数多くのアイアンマンが生まれ育つ過程で、沢山の人生ドラマもありました。思い出は尽きません。またの機会に昔を振り返りながら、トライアスロンの素晴らしさを語っていきたいと思います。有難うございました。</p>
<p> ※この座談会記事は04年５月27日に東京･中野の割烹居酒屋「鯉作」で行われたものを要約したものです。</p>
<p>【次号予告】次回からいよいよ日本を舞台としたトライアスロン物語が始まります。その「風神の巻　第２章」は皆生トライアスロン大会の発祥と同大会にまつわる人々の物語です。</p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞アイアンマンに魅せられた日本のトップ選手たち</h3>
<p class="mceTemp"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3nin1.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-1436" title="3nin1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3nin1.jpg" alt="3nin1" width="300" height="225" /></a></p>
<p>  <br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>日本人にとっては、実に厳しい大会だ</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【中山俊行】</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nakayama1.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1438" title="nakayama1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nakayama1-300x225.jpg" alt="nakayama1" width="300" height="225" /></a>　ハワイ大会に初めて出場したのは私が20歳の時、1983年のことだった。以後、合計９回出場したが、もっとも良い成績を修めたのは初回の84年の17位で、あとは20位から30位を行ったり来たりだった。一番悪い時は120位まで落ちてしまったこともある。<br />
ハワイ大会では日本人としてトップの位置で頑張っていたけれど、それにしても大会コースは日本人向きでない、非常に厳しいコースだと思っている。トップテンを目指すものの、その道は容易ではなく険しい道のりだと感じていたが、宮塚君はそれを克服し、２度もトップテンに入る偉業を成し遂げた。<br />
その後も日本人が挑戦しているが、田村君も谷君もことごとくはね付けられてきている。そして今は新たに小原君が挑戦している。果たしてどういう結果が出るか、非常に楽しみだ。また村上純子さんが今年40歳になって再度、出場するが、そのチャレンジ精神には大いに敬服する。<br />
ハワイ大会はコースも良いし、大会の中味も素晴らしい。極めてシンプルなこの難コースは、とてもチャレンジのしがいがある大会と言えるだろう。現役を引退した今でも出場したいと思っている。最近はドラフティングが横行して収拾がつかないなど問題も多々、発生しているようだが、アイアンマン・レースのチャンピオンシップ大会としてハワイ大会がこれから先も輝き続け、そして世界のトライアスリートたちを魅了し続ける素晴らしい大会として存続していって欲しいものだ。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>力の限り戦い、成果をあげることが、すべて</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【山本光宏】</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yamamoto.jpg"><img class="alignleft size-full wp-image-1439" title="yamamoto" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yamamoto.jpg" alt="yamamoto" width="283" height="213" /></a>　僕は、中山さんが17位になった84年に、初めてハワイ大会に出場した。同じ東京の大井埠頭で練習していた飯島さんも一緒だった。その当時、トライアスロンといえば皆生大会しかなかった時代だったから、僕たちの視線は常に皆生とハワイに向いていた。だからハワイ大会は、僕たちトライアスリートの最終的な目標であり到達点として位置付けていた。<br />
またその頃、僕たちはトライアスロンを新しい競技スポーツとして「日本に広めていこう」という熱い思いを抱き、日々、練習に励んでいた。中山さんと共に「自分たちが日本のトライアスロンの歴史をつくっていくのだ」という気持だった。その中山さんには「お前を、俺の練習パートナーとして認める。一緒にやろう」とハッパをかけられた。おかげで中山さんからバイクのテクニックを学んだし、意識の高さや精神面での集中力の重要性を学んだ。<br />
その後、宮塚君という新鋭が登場してきた。僕も選手としてライバル意識を燃やした。そして1988年８月の玄海大会では、宮塚君に勝って優勝した。引き続き「これならばハワイで彼に勝てるだろう」と思えるハードな練習をこなし、ハワイに臨んだ。そして、その年のハワイ大会のレース前日に、ラン・コースをジョグしている宮塚君と擦れ違った。目線が合って、お互いの健闘を称えるようにニコッと笑ったことを今でも覚えている。同時に武者震いがした。結果的に彼には勝てなかったけれど、力を出し切っての総合17位という記録に満足している。<br />
やはり僕の目標はハワイ大会で力の限り戦い、成果をあげることであったことは違いない。ハワイ大会を完走した、その達成感は、トライアスロンの醍醐味そのものである。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>強い者が勝つ、まぐれのないステージだ</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【宮塚英也】</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyatsuka.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1440" title="miyatsuka" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyatsuka-300x225.jpg" alt="miyatsuka" width="300" height="225" /></a>　俺が憧れていたのは、アイアンマンよりも競技スポーツ性が高いショートタイプのトライアスロンで、アメリカが本場だったUSTSという51.5Kmのショート・トライアスロン・シリーズに挑戦しようというのが、トライアスロンの世界に入ったきっかけだった。<br />
ハワイ大会に出場したのは1988年だったが、実は前年の87年びわ湖大会でハワイの権利を取っていた。でも、ほとんど興味が湧かなかったので、その年は行かなかった。それで、周りからは「なぜ行かない？　なぜ行かない！」と、さんざん言われた。そして翌年の88年に同じくびわ湖で権利を取った時、「これでハワイへ行かなかったならば、周りは何をいうかわからない。よし！　行ってやろう」と決めたのだ。<br />
ショート志向だった俺だが、たまたまロングの能力もあったからだろう。ラッキーにもハワイ初挑戦で９位に入った。24歳の時である。しかし、まぐれということもある。だからもう一度、トップテンに入れば皆が認めるだろうと思いチャレンジしてきた結果、６年後の94年大会で10位になった。この時の10位の方が、９位よりも嬉しかったのは言うまでもない。<br />
それにしても、ハワイのアイアンマン・レースは強い者が勝つ、番狂わせがないというところがいい。当然のことだが、ハワイ大会はそのことを見事に演じてくれるステージだ。現役を引退した今、改めてアイアンマンの素晴らしさを感じている。</p>
</div>
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		<title>Vol.12：風神の巻　第１章その8(座談会)前編：ｱｲｱﾝﾏﾝ・ﾊﾜｲと日本のｱｽﾘｰﾄたち</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1335</link>
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		<pubDate>Fri, 12 Jun 2009 08:22:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/swim1-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />今回は、アイアンマン・ハワイの話の絞めくくりとして、過去にハワイ大会に出場、完走したトライアスリートである当編集委員会のメンバーにお集まりいただくとともに、トライアスロンのプロフェッショナルとして世界を股にかけ活躍されておられる堀　直之、堀陽子ご夫妻をゲストに迎え、アイアンマン大会出場の思い出やその意義などについて自由に語っていただきました。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その8(座談会)前編</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">ｱｲｱﾝﾏﾝ・ﾊﾜｲと日本のｱｽﾘｰﾄたち</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/swim1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/swim1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">今回は、アイアンマン・ハワイの話の絞めくくりとして、過去にハワイ大会に出場、完走したトライアスリートである当編集委員会のメンバーにお集まりいただくとともに、トライアスロンのプロフェッショナルとして世界を股にかけ活躍されておられる堀　直之、堀陽子ご夫妻をゲストに迎え、アイアンマン大会出場の思い出やその意義などについて自由に語っていただきました。</p>
</div>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf2146.jpg"></a>　トライアスロンの発祥やハワイ島を舞台として日本人８名が参加した第４回アイアンマン大会の話を綴った『日本トライアスロン物語』風神の巻　序章並びに第１章が前回で終わりました。　しかし、これですべてが語り尽くせた訳ではありませんし、1980年前後に世界各地で生まれ始めたトライアスロン大会の話も沢山あります。でも、この物語は、あくまで日本のトライアスリートたちの話を主軸に据えておりますので、取りあえず海外のトライアスロンの話は一端、終えて、これから日本国内のトライアスロン大会やトライアスリートたちの物語を書き綴っていきたいと思います。　そこで今回は、アイアンマン・ハワイの話の絞めくくりとして、過去にハワイ大会に出場、完走したトライアスリートである当編集委員会のメンバーにお集まりいただくとともに、トライアスロンのプロフェッショナルとして世界を股にかけ活躍されておられる堀　直之、堀陽子ご夫妻をゲストに迎え、アイアンマン大会出場の思い出やその意義などについて自由に語っていただきました。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/swim1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1340" title="swim1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/swim1-300x197.jpg" alt="swim1" width="300" height="197" /></a>  </p>
<p>【出席者】</p>
<p> <span style="color: #ff00ff;">ゲスト　　堀　直之＆堀　陽子　トライアスロン・スペシャリスト</span></p>
<p><span style="color: #800000;">　青木忠茂　フォト・ジャーナリスト</span><br />
<span style="color: #800000;">　市川祥宏　スポーツ・コーディネータ</span><br />
<span style="color: #800000;">　北村文俊　（社）東京都トライアスロン連合会長</span><br />
<span style="color: #800000;">　鈴木　進　トライアスリート</span></p>
<p> <span style="color: #99cc00;">司　会　　桜井　晋　『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹</span></p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf2272.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1341" title="dscf2272" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf2272-300x225.jpg" alt="dscf2272" width="300" height="225" /></a></p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　<strong>本当は抜きたくないけれど</strong></p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　すでにお酒も大分回って舌の滑り具合が良くなってきたところで、そろそろハワイ・アイアンマン大会にまつわるお話を始めたいと思います。ところで今回は、４日前に長崎の五島列島で行われたアイアンマン・ジャパン大会において見事、女子部門で総合優勝を飾られた堀陽子さんと、その夫の堀直之さんがゲストとして出席していただきました。ニュージーランドからの遠征、お疲れさまです。そして長崎大会での女子総合優勝、おめでとうございます。ご夫婦で長崎大会に出場されたそうですが、まず初めに陽子さんから感想をお聞かせください。 <a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf2213.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1344" title="dscf2213" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf2213-300x225.jpg" alt="dscf2213" width="300" height="225" /></a></p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　皆さまのお陰で優勝することができました。有り難うございます。優勝の感激は今までに味わったことがない、特別なものでした。ですから私もゴールした瞬間、思わず「やったぁー!!」と叫んでしまいました。夢にまで見ていたアイアンマン初タイトルを手中に収め、その喜びと、苦しかったラン勝負から解放されたからか、思わず口から出てしまったのです。強敵オーストラリアのマリッサ選手と一緒に苦しんだからこそ、自分も限界に近いところまで頑張れたのだと思います。自分がここまで思い切り目標に挑戦できるのも、日頃からサポートしてくださっている皆さまのお陰です。心から感謝申し上げるとともに、今後ともさらに上を目指し努力していきたいと思います。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　ところで、直之さんは意を決して長崎に出たと聞きましたが、成績はどうだったのですか？</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong> </span><br />
　いま一息の結果だったと思いますが、自分なりに良く戦えたかなと思っています。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　一時、直之さんは成績の方も芳しくなかったようですが、今回の成績を見る限り大分、復活してきた感じですね。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　はい、これからも果敢にチャレンジしていきたいですね。陽子に負けないように…。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span><br />
　どっちが速いの？</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　昔は直之さんだったけれど、今は私の方が15分くらい先にフィニッシュしています。スイムはどうしても直行さんより遅れをとりますが、いつもバイクの途中で抜いてしまうのです。「いるいる」などと思いながら、追い抜いていくのです。本当は抜きたくないけれど…。</p>
<p><span style="color: #993300;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　でも、夫婦でトライアスロンを楽しんでいるって、素晴らしいよね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span>  <br />
　羨ましいですね。今後とも日本を代表するトライアスリートとして頑張って欲しいね。</p>
<p> </p>
<p>     　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>日本でもアイアンマンをやらないか</strong></p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　では、話を編集委員のメンバーに戻して、はじめにトライアスリートの草創期からクラブリーダーを務めトライアスロンの普及、発展に取り組まれてきた市川さんに、ハワイ大会参加の経緯と当時の思い出話をお聞かせください。 <a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf2243.jpg"><img class="alignleft size-medium wp-image-1351" title="dscf2243" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf2243-300x225.jpg" alt="dscf2243" width="300" height="225" /></a></p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　私がトライアスロン大会に参加したのは、1982年７月に行われた皆生トライアスロン大会です。このとき皆生温泉の宿で一緒になった大阪の脇田重男さんと、その年の10月に行われるハワイ大会へ行こうと約束しました。でもハワイ大会までわずか２ヵ月余りの日数しかないうえ、皆生大会を完走し終えて私も脇田さんもすっかりへばってしまい、ハワイへ行く気がすっかり失せてしまったのです。それで翌年の83年大会に期した訳ですが、残念ながらその年の皆生大会で、バイクでこけて怪我をしてしまい、またもや出場を見送ることになってしまいました。したがってハワイへ行ったのは84年のことで、矢後潔省さんが設立したJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）の選手兼ツアー・マネージャーとして参加したのです。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span> 　<br />
　当時は誰でも出場できたそうですね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　本当に、その当時は葉書さえ出せば誰でも出場できました。今のように予選レースで出場権を獲得する必要もなく、しかも制限時間は83年に17時間に短縮されたものの、比較的ゆるやかでしたから参加しやすかったですね。</p>
<p><span style="color: #993300;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　それで私も85年の大会に出場できたのです。83年にはリタイアしたものの女優の丘みつ子なども参加したりして、その頃から日本でもトライアスロン・ブームに火がつきましたね。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span>　<br />
　確か女子マラソンの松田千枝さんも出場、完走していたよね。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span>　<br />
　それは北村さんが出場された82年の大会でした。日本人女性として初めてアイアンマン・レースを完走した訳です。それで、どうでしたか？　市川さんは完走されたのですね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　ええ、なんとかかんとかゴールしました。それにしても、アイアンマンの大会運営はさすがだなと感心しました。日本で皆生大会しか経験していない私にとって、ハワイ大会の参加はスポーツ・イベントの運営、開催という観点から大変、勉強になりました。</p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　ハワイ大会の素晴らしさは、大会運営に献身的に関わるボランティアがいるからだと思います。エイドステーションのボランティアも本当に積極的に自ら動くというか、良く活動しています。見習うべき点ですね。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span>　<br />
　その当時から市川さんはスポーツ・コーディネータとして活動を始められたようですね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　結果的にそうなったのですが、実は84年のアイアンマン・ツアーには日本テレビのスタッフのほかに、後に琵琶湖大会をアレンジすることになった電通の西郷さん（故人）も参加されました。それで私たち一行は、現地でハワイ大会のレース・ディレクターを務めるバレリイ・シルクとも会いました。その時、シルクから「日本でもアイアンマン大会をやらないか」と話を持ち掛けられたのです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　なぜ西郷さんが関わってきたのですか？  <a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf22531.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1353" title="dscf22531" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf22531-300x225.jpg" alt="dscf22531" width="300" height="225" /></a></p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span>　<br />
　彼は、かつて英国のウィンブルドン・テニスの日本における放映権を掌握していましたが、その後は電通の文化事業部に所属しテニスとは無関係になってしまいました。そんな折、トライスロンに興味を持ちシルクに近づき、ついにアイアンマンの日本開催の権利を買い取ったのです。だから日本でアイアンマンを開催しない訳にいかなくなった。それで私たちは日本へ戻り、約３ヵ月間をかけて琵琶湖大会のコースづくりを行いました。実は琵琶湖のほかに千葉県の館山市も開催候補地としてあがっていて、シルクが来日し矢後さんと3人で南房総へ赴きアイアンマン・レースのディレクションを行ったこともあります。結果的には実現しませんでしたが…。</p>
<p><span style="color: #993300;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　館山は若潮マラソンの舞台だったし、また84年にたった１回行った&#8221;ラフ・ウォーター・スイム&#8221;という遠泳大会が行われたことがあったからでしょう。その若潮マラソンは当時25kmのロードレースで、フルマラソンではなかったですね。その時、僕は「府中商工」と記されたランニングシャツを着た女性と終始併走状態で走ったことを覚えています。その女性こそ、鈴木さんの奥さんだと判ったのは、トライアスロンを始めてからのことです。それで「府中商工」というのは、府中市の商工会議所ではないことを知りました。</p>
<p> </p>
<p>     　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>郵便局へ行って50万円を借りた </strong></p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞ </strong></span><br />
　そうでしたか。縁は異なものですね。さて、では次にトライアスリートの草分け的存在でもあります北村さんに、ハワイ大会に参加された思い出話を聞かせてください。  </p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　80年12月に朝日新聞に掲載されたアイアンマンの記事を見て触発されたというか、自分もチャレンジしてみたいという気持になってトライアスロンの道へ踏み出すことになりました。その新聞記事には81年ハワイ大会に出場する日本人選手の話が掲載され、それを見た私は早速、そのうちの一人でリーダー格だった堀川稔之さんに会いに行きました。しかし２ヶ月後の81年２月が大会なので、時間的な余裕がないため翌年まで待つことにしたのです。ただ３種目のトレーニングは積んでいたので、行こうと思えば行けなくもなかったけれど、行くからにはそれなりの成果を得たかったからです。それで１年待って、82年のハワイ大会は２月と10月の２回、変則開催された訳ですが、私は２月の大会に参加しました。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>＜堀直之＞</strong></span><br />
　なぜ、その年だけ２回も開催されたのですか？</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　私が聞き及んだところは、80年の冬にニューヨークが大寒波に襲われたこともありまして、北米の人たちは２月の開催ではとても練習ができないので、主催者側に秋の開催を要請していたようです。ともあれ、永谷誠一さんや堀川さんが参加された81年はすでに２月開催が決まっていたし、82年から切り替えるにも時間が空き過ぎてしまうので、その年は２回も開催することになったのです。ついでながら81年大会の開催場所が、それまでのオアフ島からハワイ島に移ったのは、オアフ島の交通渋滞が激しくトライアスロンを開催するゆとりがなくなったとの話です。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span><br />
　その結果、ハワイ大会は毎年、満月の土曜日に開催されるようになったのですね。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span>　<br />
　コナ市は街灯が一つもないので暗い。それで月が出れば明るいから、夜でもレースができるでしょ。でも決して満月という訳ではなく、満月に一番近い土曜日に開催しています。</p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span>　<br />
　それとハワイ島の10月は雨が少ない。ハワイの雨は日本のジメジメした雨季と違ってシャワーのように雨が降りますが、10月は雨の心配も少ないのでレースがしやすい訳です。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span>　<br />
　続けて北村さんのチャレンジを聞かせてください。  </p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span>　<br />
　話を戻しますと、いざハワイ大会に向け私は立川のサイクル・レーシングクラブ「なるしま・フレンド」のメンバーとなり、毎日曜日にクラブランに参加しました。トレーニングをみっちりやれたのは良かったのですが、肝心のハワイの遠征費用をどう捻出するかが問題でした、当時の私は31歳と若く、だから給料も安かったからです。それで結局、郵便局へ行って50万円を借りました。</p>
<p><span style="color: #ff9900;"><strong>＜鈴木＞</strong></span>　<br />
　えぇ、50万円もかかったの？  </p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span>　<br />
　当時の円レートは240～250円とドル高だったからね。今の２倍以上の経費に相当しますよ。でも、幸い家族の理解も得られ、ランナーズ社の30名ほどのツアーメンバーとして、歌手の高石ともやさんや日本料理の板前の服部健一さんたちと一緒に日本を発ちました。</p>
<p><span style="color: #339966;"><strong>＜市川＞</strong></span><br />
　まだ借金ができるからいいな。その服部さんは今、九州の屋久島で民宿を営んでいて、そこを熊本の永谷さん達が合宿所に使っているそうです。</p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　本当に！　そうそう、私たちはコナ市で一番上等な「キングカメカメハ」というホテルに宿泊したのですが、そこでツア・コンダクターの上地さんがカセットコンロや鍋、それに食材を買い集めてきて、服部さんがホテルの部屋で日本料理を造ってくれました。それと私たちのランナーズのツアーは東芝ツーリストという旅行会社でしたが、その旅行会社のベテランのツア・コンダクターが何かと面倒を見てくれて、レース終了後にお汁粉をつくってくれましたよ。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;"><strong>＜堀陽子＞</strong></span> 　美味しそう、いいなあ。 <a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf21461.jpg"><img class="alignleft size-medium wp-image-1357" title="dscf21461" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf21461-300x225.jpg" alt="dscf21461" width="300" height="225" /></a></p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　今考えれば、暢気で楽しい旅でした。レースもトランジションでのんびり着替えたり、食料を補給したり、「長丁場だし、慌ててもしょうがない」などとランナーズ社の説明会で堀川さんから話を聞いていたからです。それで、ランで四国の渡辺克巳さんに抜かれてしまい、日本人２位になってしまいました。総合タイムは11時間57分55秒で、渡辺さんとは1分22秒差でした。今流にトランジットを素早くやっていれば、日本人１位になって当時のお色気テレビ番組「11PM」にゲスト出演していた筈です。結局、出演したのは渡辺さんでした。</p>
<p><span style="color: #993300;"><strong>＜青木＞</strong></span><br />
　それにしても北村さんは先駆的なアスリートで、私たちは北村さんからトライアスロンのことをたくさん学びました。たとえば、今やアイアンマン･レースで主流になっているバイクボトルをサドル後方に取り付けるなど、北村さんは昔から実践的な工夫をされ、それを僕たちはいろいろ真似たりもしましたね。</p>
<p><span style="color: #c12987;"><strong>＜北村＞</strong></span><br />
　主催者が用意してくれる訳ではないからね。長丁場のレースを完走するために、自分で考案しなければならなかったのです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜桜井＞</strong></span><br />
　先駆者は先駆者なりの工夫と努力が課せられていたということでしょう。さて一息入れて、続きは次号でお話しましょう。</p>
<p> ※この座談会記事は04年５月27日に東京･中野の割烹居酒屋「鯉作」で行われたものを要約したものです。</p>
<p>  【次号予告】<span style="color: #3366ff;">座談会後編とエリート選手として日本のトライアスロン界をリードしてきた中山俊行、山本光宏、宮塚英也の「トライアスロン談義」を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞アイアンマン・ハワイ最多出場の偉大な日本人　　【仙石元則】</h3>
<p> <a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg0196.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1359" title="cimg0196" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg0196-300x225.jpg" alt="cimg0196" width="300" height="225" /></a>　アイアンマン･レースがハワイ島で開催されるようになって今年で26回目になります。そして私がハワイ大会に初出場したのは1986年、アイアンマン大会が始まってから９年目のことです。その年にアジア地域で初めて日本の滋賀県･琵琶湖周辺でアイアンマンが開催されることとなり、同大会で年代別３位に入ればハワイ大会へ出場することができるようになりました。<br />
　その第１回びわ湖大会は、関西地方に台風の接近が予測された中でのスタ－トとなりましたが、スイムは波も風も無く比較的、楽に泳ぎ切ることができました。ところが水温は17～18度前後と大変低く、現在と違ってウェットス－ツなど使用していませんから、リタイアした選手がかなり出ました。そしてバイクに入った途中から雨風が強くなり、台風が本格的に近づきつつあるのを肌で感じ始めました。ランに移る頃には雨も強く降り出し、ほとんどの選手が土砂降りの中でのゴ－ルでした。</p>
<p>　それにしても、私のアイアンマン初戦は散々なレ－スで、20年過ぎた今でも忘れることができません。バイク･ライディングに関してはまったくの素人、メカもこれまた無知という私がスイムを終え180kmのバイクへとスタ－トした訳ですが、なんとスタ－ト20kmで大トラブルが発生、購入して２ヵ月しか経っていないバイクのチェ－ンが切れたのです。チェ－ンが切れるなどという事態は、知識として持ち合わせていません。チェ－ンは外れるもの程度しか頭に無く、「外れたら掛け直せばいい」くらいしか考えていなかったのです。<br />
　切れたチェ－ンを見ながらこれをどのようにして直すのか、当時はチェ－ンカッタ－などという道具を知る由もありませんので、路肩で30分ほど呆然としているだけでした。そのうち観客が集まり出しましたが、「手伝ったら選手が失格になる」と教えられていたのか、観客たちもただ私の様子を眺めているだけでした。</p>
<p>　かれこれ１時間ほど経った頃です。ある人が「道端の草の中にマイナスドライバーが落ちているよ」と教えてくれたので、ドライバーと石で作業すること１時間、なんとかピンを入れ終え、再スタ－トをする時には沿道の人たちから拍手をいただきました。こうして記念すべき初のアイアンマンを13時間14分、総合153位の成績で完走しました。後に雨の降る中、泣き顔でドライバーと石でチェーンを叩いて修理している場面がテレビ放映され、なんとも言えない気持でした。 <a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg0194.jpg"><img class="alignleft size-medium wp-image-1360" title="cimg0194" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg0194-300x225.jpg" alt="cimg0194" width="300" height="225" /></a><br />
　85年はアイアンマン･ハワイへの出場権が取れたのですが、エントリー用紙の欄に「選ばれたらハワイ大会に出場しますか」という欄にチェックを入れておかなかったため、私より順位の下の人にハワイの出場権を獲得されてしまいました。こうして何がなんだかわからないうちに、私の第１回アイアンマン大会が終わったのです。</p>
<p>　翌86年は10時間28分のタイムでアイアンマンの権利を獲得、ハワイに初出場し、13時間00分の総合633位の成績で完走を果たしました。翌年からは３種目の練習のやり方やバイクの調整、修理などもできるようになり、トライアスロンに対する体力、技能が少しずつ向上して、成績もコンスタントにあげられ、ハワイ出場回数を順調に伸ばすことができました。 　<br />
　しかし、93年のハワイ大会は出場が危ぶまれる事態が起きました。アイアンマンの１ヵ月前に台湾の日月単で開催された第１回インターナショナル･サン･ムーン･レークトライアスロン大会にマイケル･トーリーズ選手らと招待され出場しましたが、レースが終わり帰国の途につく台北の町で中華料理を食べたのです。ところが、帰国した翌日から食中毒にかかってしまいました。まる１週間、寝たきりで何も食べられず、その１週間後にアイアンマン･ハワイを控えていて、一時は出場を諦めたほどです。それでもフラフラの状態で飛行機に乗り込み、なんとかハワイに到着、療養が効いたのか、到着後は食事もできるようになって、無事スタートすることができました。それでなんとかアイアンマンの連続出場が途切れないで済んだのです。<br />
　97年には12回連続出場を達成しましたが、翌年の98年はびわ湖大会が中止となり、連続出場のピンチを迎えてしまいました。この年は日本人に対し120名の出場枠が与えられていましたが、それが抽選ということになってしまったのです。もちろん私も応募しましたが見事に外れ、連続は12回で途切れてしまったのです。ちなみに、びわ湖大会も連続13回出場し中止されましたが、13年連続出場者は私を含め8名しかおりません。</p>
<p>　55歳を過ぎてから体力の衰えとともに怪我と故障に見舞われ出し、痛みとの戦いで調整が巧くいかず苦しい期間が続きました。それでもアイアンマンを12年も続けていると、レ－スでも何処で休んで何処で頑張るか、身体が覚えてしまっているようで、99年はなんとか13回目の出場、完走を果たしました。2000年になり年齢も60歳を越し１年１年を身体と相談しながら勝負している訳ですが、故障の箇所も数多く医療費や身体のケア－代が嵩みます。挙げ句に医者からも見離され、「若いうちから身体を酷使しているのだから止めるか、休むか、我慢するか、自分で選択するしかない」と下駄を預けられる始末です。<br />
　それでも、なんとか00年、02年と出場、15回出場を達成することができましたが、来年は65歳と区切りの良い年齢になりますので、16回目のアイアンマンにトライしようと思っています。現在アジアでは、アマプロを通じて私の15回出場が最高記録ですが、今年は日本人で14回目の選手が追従してきていますので、なんとか通算出場記録をキープしたいと思っています。<br />
　振り返れば、この20年間でハワイ大会を含めアイアンマンレ－スを47回出場しました。日本人では今年51回目の出場を達成したトライアスリートがいるそうですので、来年中には追越したい気持です。</p>
<p> 　【仙石元則のアスリート人生】<br />
　1940年1月生まれ。55年・57年に全国高等学校駅伝大会東京代表として出場。69年第４回全日本リュージュ選手権大会優勝。72年第11回オリンピック札幌大会エキストラコーチ。82年第10回ホノルルマラソン大会出場。85年第1回アイアンマンびわ湖大会出場。86年第９回アイアンマン・ハワイ大会出場。92年第1回ワールドカップ・ゴールドコースト大会出場。93年第3回台湾サンムーンレイク国際大会出場。94年第3回タイ・プーケット国際大会出場。第10回アイアンマン・ニュージーランド大会出場。00年第1回アイアンマン・チェジュ大会出場。01年第2回アイアンマンマレーシア大会出場。02年第24回アイアンマン・ハワイ大会出場～86年より通算15回出場。第19回アイアンマン・ニュージーランド大会出場～連続10年出場。第2回アイアンマン・ドイツ大会出場。第31回ホノルルマラソン出場～82年より通算20回出場</p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞東京・中野の酒場<span style="font-size: x-small;">「炙屋」にて</span></p>
</div>
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		<title>Vol.11：風神の巻　第１章その7：ｱｲ・ｼｬﾙ・ﾘﾀｰﾝ・ﾈｸｽﾄ・ﾓｰﾆﾝｸﾞ</title>
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		<pubDate>Thu, 11 Jun 2009 07:02:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/8-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />この素晴らしいイベントに対し、時間とエネルギーと能力を与えてくれたすべての人々に、私たちの最高のmahalo＝マハロ（感謝の意）を贈る。私たちは1982年に再びあなたたちと共にいることを待ち望み、世界で最も偉大な耐久系イベントの歴史に新たな１ページを記すことを待ち望んでいる]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その7</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">ｱｲ・ｼｬﾙ・ﾘﾀｰﾝ・ﾈｸｽﾄ・ﾓｰﾆﾝｸﾞ</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/8-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/8-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">この素晴らしいイベントに対し、時間とエネルギーと能力を与えてくれたすべての人々に、私たちの最高のmahalo＝マハロ（感謝の意）を贈る。私たちは1982年に再びあなたたちと共にいることを待ち望み、世界で最も偉大な耐久系イベントの歴史に新たな１ページを記すことを待ち望んでいる</p>
</div>
<p>　<span style="color: #a232ae;"><span style="color: #c43ab4;">「第４回ノーチラス国際トライアスロン大会は、疑いもなく人間の究極の挑戦であり、1981年は人間の耐久力を見せ付ける世界で最も劇的な年になるだろう。このレースの参加者は、世界から尊敬、賞賛、畏敬の念を受けるのに価するだろう」</span>　<span style="color: #000000;">(訳；島田青児、以下同)</span></span></p>
<div id="attachment_1304" style="width: 167px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/72.jpg"><img class="size-full wp-image-1304" title="バレリイ・シルク" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/72.jpg" alt="バレリイ・シルク" width="157" height="230" /></a><p class="wp-caption-text">バレリイ・シルク</p></div>
<p>　このコメントは1981年、2月14日（土曜日）にハワイ島カイルア・コナで開催された第４回ハワイ・トライアスロン大会のパンフレットの中に記された大会主催者のメッセージである。</p>
<p>　そして、この大会からレース・ディレクターとして登場したのが、過去の大会でボランティアを務めてきたバレリイ・シルクという女性で、彼女を頂点に総勢約900名のボランティアが大会運営に当たった。また、今日のトライアスロンの原型を成す競技ルールも、このとき策定され、バイクのドラフティング禁止条項なども明記された。</p>
<p>　さて、第４回大会に出場した８名の日本人の中で最年長の堤　貞一郎（57歳）は、出場選手368名の最終泳者となってスイムをフィニッシュした。それもその筈である。堤は3.84Kmのスイム・コースを、すべてバック・ストローク（背泳）で泳いだのだ。それでなくても１年前はカナヅチだった堤である。バックの方がクロールよりも「浮き易い、息継ぎが楽だ」という理由だけで、地元の熊本市内の室内プールで、わずか半年間、付け刃的に覚えに過ぎない。<br />
　だからスイムに一抹の不安があった。そこでスイムキャップとスイムパンツの内側に発泡スチロールを隠し入れ、浮き易いよう細工したのだ。しかも、バックでは進む方向が見えないので、小さな手鏡をスイムパンツと下腹の間に挟み込み、泳ぎながら進行方向を確認しようとしたのである。しかし、その手鏡の効用はある筈もなかった。</p>
<p>　号砲が鳴って永谷誠一と共にしんがりから泳ぎ出した堤だが、最初から海の上をジグザク行進、早くも最終泳者を見守るサーフボードの少年を従えた。そして何度もコースから外れ、その都度、係員から注意を受けた。折り返してきたトップの選手とぶつかりもした。あるいは、堤自身が途中、何度かサーフボードに掴まって休もうとすると、係員から「ノー」と声が発せられた。<br />
　こうしてほうほうの体で堤がスイムをフィニッシュした時は、スタートから４時間余り経った午前11時を回っていた。疲労困ぱいのうえ、寒さで身体から血の気が失せ、陸に上がってきた時には意識もうろうの状態だった。そこで、日本人女性のボランティア数名からマッサージを受けること約１時間、堤はようやく元気を取り戻し立ち上がった。そして周囲のボランティアや観客に向かって、</p>
<p><span style="color: #2ba12d;">「I shall return next morning＝明日の朝、戻ってくるよ」</span></p>
<p>と発し、自転車にまたがったのである。</p>
<div id="attachment_1305" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/8.jpg"><img class="size-medium wp-image-1305" title="大会スイム（撮影；三宅　寛カメラマン）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/8-300x188.jpg" alt="大会スイム（撮影；三宅　寛カメラマン）" width="300" height="188" /></a><p class="wp-caption-text">大会スイム（撮影；三宅　寛カメラマン）</p></div>
<p>　</p>
<div id="attachment_1306" style="width: 193px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4.jpg"><img class="size-medium wp-image-1306" title="のんびり、ゆっくりのサイクリング（写真提供；㈱ランナーズ）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4-183x300.jpg" alt="のんびり、ゆっくりのサイクリング（写真提供；㈱ランナーズ）" width="183" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">のんびり、ゆっくりのサイクリング（写真提供；㈱ランナーズ）</p></div>
<p>　バイク・スタートはお昼過ぎ、それからおよそ12時間かけ180Kmのバイク・コースを時速平均15Kmで走破した。変速付きの実用自転車にフラットバーのハンドル、ドリルで風穴を空けたヘルメットに、指先と踵の両端部分を切り抜き風通しの良い細工をほどこしたスニーカー・シューズ、斜めラインをピンク色で染めたバイク用Ｔシャツ、バイク出発時に観客からもらったレイを首に掛け、永谷と同じく日の丸の刺繍をほどこしたフロントバックに飲食物を詰め込み、ラジオを聞きながらのんびりゆっくり、サイクリングを楽しんだのだ。</p>
<p>　 堤が最後のランに出発したのは夜中の12時である。だから、大会主催者から配られた一辺が30Cmの三角形をした蛍光塗料付き夜間反射板を尻部に装着した。そしてメッシュタイプのランシャツ、旧海軍の旭日を描いたランパン、白いキャップには造花を添えて走り出したのである。<br />
　とはいえ、実際に走ったのは最初の15Kmほど、あとは暗闇の夜道をトボトボ歩き通したのだ。それというのも、バイクでつくったマメが膨れてしまい、痛くて走れなかったのだ。<br />
　そんな堤の姿を見掛けオフィシャルのユニホームを着た若者たちが、堤が歩く周囲をクルマのライトで照らしたり、眠くなってフラフラ歩く堤に話し掛け、ついには左右から肩を抱き抱え、眠気覚ましに歌を歌ってくれた。伴走してくれたクルマの運転台には、助手席に子供を乗せた母親が終始、堤を見守った。</p>
<p><span style="color: #2ba12d;">「Please go back your home＝どうぞ帰ってください」</span></p>
<p>堤は何度も「帰ってくれ」と言ったが、母親は聞き入れてくれない。</p>
<p>　ランをスタートしてから８時間40分余り、堤はカイルア・コナに戻って来た。午前９時少し前、堤の姿を見たコナの街のクルマが、次々とクラクションを鳴らし始めた。ランナーを出迎え、歓迎しているのだ。<br />
　それより６時間余り前の午前２時過ぎ、ゴール地点のピアまであと３kmの地点で堤と擦れ違い、フィニッシュしてから一端、ホテルへ戻った永谷も堤のことが気になり、フィニッシュ地点で待っていた。クラクションを聞きつけ、ゴール周辺には大会役員やボランティア、そしてコナの市民もゾロゾロ集まって来た。</p>
<p>　そこへフラフラになった堤の姿が現われた。永谷は堤に駆け寄り肩を抱きかかえた。するとその時、現地の水兵たちが８人乗りカヤックのパドルをいっせいにかざしてトンネルをつくり、ゴールへの花道をつくってくれたのである。現地の最高の栄誉令をもって、彼らは熱狂的に堤を出迎えたのだ。割れんばかりの歓声と拍手の嵐に中で、両サイドから人の波にもまれながら、堤と永谷の２人は一歩一歩、脚を引きずりながらゴールへと向った。<br />
　堤のトータルタイムは25時間44分02秒、完走者299名のうち298位のブービーでフィニッシュした。</p>
<p>　大会の翌々日、バイク・スタート地点となった「コナ・サーフホテル」で表彰式が行われたが、そこで堤は&#8221;サプライズ・プライズ&#8221;という&#8221;ビックリ賞&#8221;を受賞した。すっかり元気を取り戻していた堤は、表彰式の壇上で次のようにスピーチし、聴衆を笑わせたのである。</p>
<p><span style="color: #2ba12d;">「I am afraid that the sea level of Pacific Ocean have been declined, because I have drunk a much of water in my swimming.＝私がスイムで沢山、海水を飲んだので、太平洋の水位が下がってしまいました」</span></p>
<p>　こうして、日本人８名が参加した第４回ハワイ・トライアスロン大会は幕を閉じた。大会パンフレットのメッセージは、最後に次のように結んでいる。</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「この素晴らしいイベントに対し、時間とエネルギーと能力を与えてくれたすべての人々に、私たちの最高のmahalo＝マハロ（感謝の意）を贈る。私たちは1982年に再びあなたたちと共にいることを待ち望み、世界で最も偉大な耐久系イベントの歴史に新たな１ページを記すことを待ち望んでいる」</span></p>
<p>【次号予告】<span style="color: #0000ff;">ハワイ・アイアンマン大会をめぐる物語は今回で終わります。そこで次回は、締めくくりとして『日本トライアスロン物語』編集委員会の委員並びにゲストを交え、アイアンマン・ハワイとは何か？　アイアンマン・ハワイは日本人に何をもたらしたのか？　など、あれこれ好き勝手な話を座談会形式で掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞「蝶」そして「トライアスロン」への探検と冒険の旅　　【西澤　孝】</h3>
<p>　トライアスリートが水泳、自転車、陸上の３種目を連続して行う競技者ならば、私はトライアスリートではないし、もとよりトライアスロンの愛好者でもない。そんな人間が、なぜトライアスロンに魅せられ、日本人として初めてハワイの大会に挑戦したのか？　</p>
<div id="attachment_1309" style="width: 230px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1309" title="網を持ち西イリアンの山中で蝶を追う西澤氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/2-220x300.jpg" alt="網を持ち西イリアンの山中で蝶を追う西澤氏" width="220" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">網を持ち西イリアンの山中で蝶を追う西澤氏</p></div>
<p>　ハワイの大会に出場したのは、私が29歳になろうとする時だったが、それまでの私の人生は、世界の蝶を追い求める探検と冒険の旅であった。</p>
<p>　少年の頃から長野県にある両親の実家へ行っては、野や山や河でトンボや蛇や魚などを追いかけ回していたのを端に発し、中高校生時代はクラブ活動として生物部へ入部し、毎週のように蝶の採集に出掛けていた。そして大学に入ってからは授業もそっちのけ、海外の未踏地への探検に思いを馳せつつ、旅費を稼ぐためアルバイトに勤しんだ。</p>
<p>　青空を背景に力強く天空を羽ばたく蝶。自然が造り出した造形美に、私はすっかり魅せられ、取り付かれてしまったのだ。そして、いつの日か、まだ誰も見たことがない幻の蝶を何がなんでも自分の手で採取して標本箱に飾りたいという強い願望を抱くようになった。その思いが大学１年生の時、叶った。アフガニスタン・ヒンズークシュ山脈の高地（標高3,000～5,000m）へ、初めて海外探検に出掛けたのである。 1971年６月、「昆虫同好会」の先輩２人と共に旅立った。目的は言うまでもない。地球上に生息する３種類の幻の蝶のうち、氷河時代の落し子といわれるアポロチョウの仲間で、そのうち最も美しいとされるアウトクラトールウスバアゲハの採集だ。35年前、ドイツ人の収集家コッチュがアフガニスタン北部で発見したが、産地を秘したまま死んだ。私たちは樹木がほとんどない荒涼としたヒンズークシュ山脈の山中を歩き回り、巨大な毒蜘蛛の恐怖と戦いながら、目指すアウトクラトールの探査に夢中になった。その結果、35年振りの採取に成功し、かつコッチュが死ぬまで明らかにしなかった生息地を２個所、発見したのである。<br />
 <br />
　そんな蝶狂いだった私だが、スポーツはというと、中学や高校のスポーツクラブに所属しなかったものの、陸上競技、柔道、バレーボール、バスケットボールなどを一通りこなした。たとえば陸上では、100mを12秒フラットで走ったし、ジャンプは垂直飛びで１m５cm、立ち幅跳びは３m10cm、100mを逆立ちして歩き、腕立て伏せは連続して300回できた。飛び抜けて優れた運動能力というわけではないが、どちらかというと瞬発系の運動が得意だった。そのうえ、海外探検の訓練のため、自宅の浅草橋から皇居を１周回って戻るランニングも頻繁にやっていたし、20歳の年に北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで日本縦断徒歩旅行を敢行した。しかし、水泳は苦手だった。</p>
<p>　とはいえ、20歳台前半は相変わらず蝶を追い求める日々を送っていたわけで、アフガニスタンに次いで1973年～1977年には西イリアン（西ニューギニア）、インドネシア・モルッカス諸島など未踏地へ探検すること９回に及んだ。特に西イリアンへは計６回、単身で踏査し、ニューギニア沿岸諸島の密林もしくは高地だけに生息するという幻の大型蝶トリバネチョウを５種類、日本人として初めて採取に成功した。なかでも1976年の第４回西イリアン・アルファック山脈への探検調査では、1910年以降、見つかっていないというロスチャイルドトリバネチョウの生態写真撮影に世界で初めて成功したほか、高地性ジャノメチョウの新種を発見、「カロラータ」と名付け世界に発表した。<br />
　また同じ年の第５回西イリアン中央山脈探検調査では、最も華麗なキメラトリバネチョウを採取網の中に捕らえることができた。白い網の中に、ビロードのような黒地に黄金色と緑の豪華な羽模様がバサバサと音を立てているのを見て、私は喩えようもない感動と満足感が入り乱れ頭の中がクラクラしたのを覚えている。</p>
<div class="mceTemp">
<dt class="wp-caption-dt"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/31.jpg"></a></dt>
<dd class="wp-caption-dd"> </dd>
</div>
<div id="attachment_1328" style="width: 310px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/63.jpg"><img class="size-medium wp-image-1328" title="西イリアン中央高地に住むヤリ族と共に" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/63-300x198.jpg" alt="西イリアン中央高地に住むヤリ族と共に" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">西イリアン中央高地に住むヤリ族と共に</p></div>
<div id="attachment_1332" style="width: 260px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/32.jpg"><img class="size-full wp-image-1332" title="1976年８月に西イリアン中央高地ウィッセル湖付近（標高1,900m）で採集した「キメラトリバネチョウ」" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/32.jpg" alt="1976年８月に西イリアン中央高地ウィッセル湖付近（標高1,900m）で採集した「キメラトリバネチョウ」" width="250" height="179" /></a><p class="wp-caption-text">1976年８月に西イリアン中央高地ウィッセル湖付近（標高1,900m）で採集した「キメラトリバネチョウ」</p></div>
<p>　そして翌年1977年、私が25歳の時、第６回西イリアン中央高地で長期滞在した際、特効薬とされているクロロキンでも効かない熱帯熱マラリアに罹った。帰国後も41～42℃の熱にうなされ、体力、気力は失せ、すっかりやせ細ってしまった。専門医が見つからずに隔離され、おまけに病院をたらい回しされた挙げ句、幸いにも東京大学医科学研究所で新薬を服用することができ、１年半かかって全快した。その時、私は27歳になっていたが、生きがいを失ってしまった私の日常生活は、ただただ空虚感で満たされていた。</p>
<p>　しかし体力づくりにと、父親が会員だった晴海のドゥ・スポーツプラザへ通い水泳を習った。そうしてようやく体力の回復が実感できるようになった頃、水泳のコーチから1.5kmの遠泳大会への出場を勧誘された。その遠泳大会が開催される1980年７月、大会前日に宿泊先の同部屋で勝屋　弦さんと出会ったのである。勝尾さんは暗い部屋の片隅で一人、ビールを飲んでいた。</p>
<p><span style="color: #85ac34;">「来年の２月にハワイでトライアスロンという、水泳と自転車とマラソンを連続して行うスポーツ大会がある」</span></p>
<p> 呟くように語る勝尾さんの話を聞きながら、いつの間にか私の心はトライアスロンに挑戦することを決めていた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「今度は蝶に代わってトライアスロンだ」</span></p>
<p>　トライアスロンという蝶を捕まえてやろう！　という思いだった。３つの種目をこなすトライアスロンというスポーツに大きな魅力を感じたのも事実だが、それよりも何も、日本人がまだ誰もやっていないことに強い興味と関心を覚えた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「やれるところまでやってみよう」</span></p>
<p>　私の身体の心棒に熱いものが流れた。勝尾さんと会ってから１週間後にロードレーサーを購入し、以来、夜の11時頃まで運動を行うなど、徹底的なトレーニング三昧の生活を送った。それで疲労が嵩じて電柱にクルマをぶつけたり、記憶を失って鍵を紛失するなど、いくつかのトラブル、アクシデントも発生した。でも、その年の終りの頃、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「これでハワイに行ける」</span></p>
<p>との感触を得た。</p>
<div id="attachment_1313" style="width: 210px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/5.jpg"><img class="size-full wp-image-1313" title="スイムは日本人トップでフィニッシュした（撮影；三宅　寛カメラマン）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/5.jpg" alt="スイムは日本人トップでフィニッシュした（撮影；三宅　寛カメラマン）" width="200" height="288" /></a><p class="wp-caption-text">スイムは日本人トップでフィニッシュした（撮影；三宅　寛カメラマン）</p></div>
<p>　そう！　ハワイ・アイアンマンは私にとって蝶を追いかける旅と同じように、探検であり冒険の対象だったのだ。しかし、その冒険はたった1回で終わってしまった。大会では勝尾さんに次いで日本人２位でゴールしたものの、自分としてはバイクもマラソンも不本意な結果に終わったので、翌年も出場するつもりでトレーニングを続けた。ところが練習途上で、ハッと思い当ったのだ。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「前回よりタイムを縮めるだけでは面白くない。自分はスポーツ競技者ではない。自分が得意なことは、新しいことにチャレンジすることである。今更、物真似・二番煎じでは意味がない」</span></p>
<p>そう思った私はピタッと練習を止めた。そしてそれ以降、今日までトライアスロンをやることはない。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">【西澤　孝プロフィール】<br />
　1952年2月東京・浅草橋で生まれ育つ。中高校生時代は北海道大雪山系から南北アルプス、沖縄・西表島に至る日本全国を蝶の採集に回る。1971年アフガニスタン・ヒンズークシュ山脈の高地を探検。1973年～1977年にかけ西イリアン、インドネシア・モルッカス諸島など未踏地へ探検。その間、新種・新亜種を含め幾多の貴重昆虫を発見するとともに、赤痢、コレラ、マラリアなどの熱帯病を体験する。1977年中央大学法学部卒業。同年第６回西イリアン中央高地を探検した際、強度マラリアを発病して帰国、闘病生活に入る。1981年第4回ハワイ・トライアスロン大会に出場し、日本人２位で完走を果たす。そのかたわら大手流通グループの衣食住ブランドの商品開発に携わり、世界各地の繊維産地を巡る。1990年自然の生態系・生物をテーマにした商品の企画・開発・販売会社「カロラータ㈱」を設立し代表取締役に就任。</span></p>
<div id="attachment_1315" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/91.jpg"><img class="size-medium wp-image-1315" title="西澤氏近影（東京・文京区の自社「カロラータ」前で04年5月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/91-300x225.jpg" alt="西澤氏近影（東京・文京区の自社「カロラータ」前で04年5月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">西澤氏近影（東京・文京区の自社「カロラータ」前で04年5月撮影）</p></div>
</div>
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		<title>Vol.10：風神の巻　第１章その6：好奇心が強く自立心が旺盛な男たち</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1283</link>
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		<pubDate>Thu, 11 Jun 2009 03:52:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/hawai-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />いかにしてトライアスロン出場を諦めさせるか、その根拠となるデータを採るつもりで日本を出立した私が、ホノルルから成田に向かう機内では、どのようにして安全に競技を行わせるかを真剣に考えているのに気がつき、苦笑せざるを得ませんでした]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その6</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">好奇心が強く自立心が旺盛な男たち</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hawai-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hawai-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">いかにしてトライアスロン出場を諦めさせるか、その根拠となるデータを採るつもりで日本を出立した私が、ホノルルから成田に向かう機内では、どのようにして安全に競技を行わせるかを真剣に考えているのに気がつき、苦笑せざるを得ませんでした</p>
</div>
<p>　&#8221;人類の極限への挑戦&#8221;と謳った第４回ハワイ・アイアンマン大会に参加した日本人８名のうち、先頭でフィニッシュしたのは当時、神奈川県鎌倉市に在住していた会社員、勝尾　弦（32歳）だった。<br />
　トータル・タイムは12時間44分15秒で総合101位である。東京・晴海のドゥ・スポーツプラザのトレーニング仲間で日本人２位だった西澤　孝（28）のタイム14時間02分40秒、同170位を時間にして１時間以上、差をつけた。初めてのトライアスロン、しかも日本人が過去に誰一人として経験したことのない海外で行う初めてのスポーツ競技、何もかも初めて尽くしながら、勝尾は見事な成績で完走したのである。<br />
 <br />
　それでいて勝尾は、自分なりにこのハワイの大会を楽しんでいた。今時のトライアスリートはトランジション・タイムを少しでもロスなく短縮しようと必死な形相で着替えているが、勝尾たち日本人選手はトライアスロンというスポーツを存分に楽しむこと、そして自分流のやり方で完走を果たすことが最大の目的で、タイムを競うという概念には乏しかった。</p>
<p>　それにしても勝尾のバイクは速かった。バイク・コース約180Kmはアップダウンが繰り返し続き、しかも太陽を遮る樹木は見当たらず、気温は35度以上にものぼる灼熱の世界だが、そこを勝尾はおよそ６時間半で走り切ったのだ。コース途中での体重チェックやエイドステーションでの休憩タイムを除くと、全行程を時速、約30Kmで走破したことになる。その間、勝尾を抜いた選手はわずか１人、あとは追い抜くばかりだったという。おそらく当時のトライアスリートでアイアンマン・ディスタンスのバイク・パートを、このスピードで走り抜ける者は少なかったであろう。</p>
<p>　高等学校２～３年生の時代は自転車競技部に所属、国体への出場は叶わなかったものの、団体ロードレース競技で東京都３位に入るなど、サイクリストとして鍛えた成果が生きたと言うべきか。バイク終了時点で勝尾は総合40～50番手につけたが、次は苦手のランで、今度は抜かされる羽目になってしまった。ランも月間250～300Kmの練習量をこなしたのだが、過去に左脚の靭帯を切ったため練習量が300Km以上を超えると痛むので、それ以上できなかった。それでも、この大会のラン・パートを約４時間40分で走り抜き、日本人のトップでフィニッシュ・ラインを踏んだのである。 　</p>
<div id="attachment_1284" style="width: 209px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hyousi.jpg"><img class="size-medium wp-image-1284" title="見事、完走した日本人８名の写真は1981年５月号『ランナーズ』誌』の表紙を飾った。（写真提供：㈱ランナーズ社）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hyousi-199x300.jpg" alt="見事、完走した日本人８名の写真は1981年５月号『ランナーズ』誌』の表紙を飾った。（写真提供：㈱ランナーズ社）" width="199" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">見事、完走した日本人８名の写真は1981年５月号『ランナーズ』誌』の表紙を飾った。（写真提供：㈱ランナーズ社）</p></div>
<p>　そのほか勝尾とともにドゥ・スポーツプラザを拠点にトレーニングを積んだ日本人選手たちも、海外で行う初挑戦のトライアスロン大会を自分なりに、その力を存分に発揮して見事、完走した。<br />
　西澤　孝は勝尾に続く日本人２位でフィニッシュしたし、村松鉄郎（28歳）も小林　登（38歳）と共に手をつないでゴールイン、堀川稔之（47歳）はバイクのメカ・トラブルに悩ませられたものの余裕を余して完走し、島田勇生（39歳）もフラフラになりながらフィニッシュ、それぞれ「鉄人」の称号を得たのである。</p>
<p>第４回ハワイ大会・日本人出場・完走者<br />
　勝尾　 　弦　12時間44分15秒　101位<br />
　西澤　 　孝　14時間02分40秒　170位<br />
　小林　 　登　14時間48分09秒　210位<br />
　村松　鉄郎　14時間48分09秒　211位<br />
　堀川　稔之　15時間27分22秒　238位<br />
　島田　勇生　17時間25分43秒　275位<br />
　永谷　誠一　19時間46分30秒　295位<br />
　堤貞　一郎　25時間44分02秒　298位</p>
<p> </p>
<p>　<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/machi.jpg"><img class="alignright size-medium wp-image-1285" title="machi" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/machi-225x300.jpg" alt="machi" width="225" height="300" /></a>勝尾はハワイから帰国する飛行機の中で、改め心の中で誓った。<br />
しかし、その思いはすぐに砕けた。帰国後、会社の社長から呼び出され、</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「そろそろ仕事をしなさい」</span></p>
<p>と言われたのである。以来、勝尾は国内、海外を含めトライアスロン大会に出場することはなかった。</p>
<p><span style="color: #22ab19;">「トライアスロンはお金と暇がないと、なかなかできない贅沢な競技ですね。でも、今でもジョギングは続けていますよ。土曜・日曜の休日は１時間半くらい、距離にして10Km～15Kmくらい走っています。自宅近くの梨畑の道をね」</span></p>
<p>　勝尾が言う通り、第４回ハワイ・アイアンマン大会に出場した日本人８名は皆、「好奇心が人一倍強くて、自立心が旺盛な人たち」だった。しかし、その後もトライアスロンを長く続けたのは永谷誠一、１人だけある。<br />
 </p>
<p>【次号予告】<span style="color: #b93bb9;">日本人８名の中の最年長者・堤　貞一郎の奮戦振りなど第４回ハワイ大会のフィナーレをお送りします。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロン界の恩師・岩根久夫先生　　【桜井　晋】</h3>
<p>　日本のトライアスロンの歴史を語るとき、トライアスロン界の父である堤　貞一郎先生とともに、わが国のトライアスロン・ドクターとして活躍された東京医科大学の岩根久夫教授（当時は助教授）のことを忘れてはならない。堤先生は1983年の第３回皆生トライアスロン大会のスイムで事故に遭われ死亡されたが、岩根先生は97年９月、教鞭を執る東京・新宿の東京医科大学の校舎にて過労からか脳溢血で倒れ、10日後に死亡された。享年64歳だった。</p>
<div id="attachment_1287" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscfkousya.jpg"><img class="size-medium wp-image-1287" title="東京・新宿の東京医科大学公衆衛生学の学舎" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscfkousya-300x225.jpg" alt="東京・新宿の東京医科大学公衆衛生学の学舎" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">東京・新宿の東京医科大学公衆衛生学の学舎</p></div>
<p>　その岩根先生がトライアスロンと初めて接触したのは、やはりハワイ島で行われた第４回大会である。当時、東京・新宿のドゥ・スポーツプラザのフィットネス施設内の診療所でクラブ会員に対しカウンセリングを行っていた時、ハワイ大会に出場しようという勝尾　弦氏と西澤　孝氏の２人が相談やってきたのだ。大会前年の1980年10月のことである。<br />
　西澤氏は知る人ぞ知る蝶々の蒐集家。蒐集先のパプアニューギニアで、マラリアの特効薬クロロキンが効かない抗クロロキンマラリアにかかり79年に入院、九死に一生の末、退院するという病歴があるだけに、トライアスロンへの挑戦は内心、不安でもあった。そこで同じ東京・晴海のドゥ・スポーツプラザの「ミリオンメーター・スイミングクラブ」のトレーニング仲間である勝尾氏に相談したところ、岩根ドクターに相談してみようということになったのだ。しかし、２人の話を聞いた岩根先生は、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「そんな、無謀なことはやめなさい」</span></p>
<p>と、即座に否定したのだった。でも２人の心は、すでにハワイに飛んでいた。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「せっかくだから、やります」</span></p>
<p>　ドゥ・スポーツプラザを経営する日新製糖（株）の社宅が東京・豊洲にあり、そこを拠点に村松鉄郎氏や堀川稔之氏らとともに、猛烈なトレーニングを積み重ねてきた２人である。簡単に諦め切れるものではない。２人の決意を聞いた岩根先生は、無言のまましばらく考えていたが、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「では、皆さんの身体をみてあげよう」</span></p>
<p>　こうして勝尾氏をはじめとする晴海のドゥ・スポーツプラザ会員だった４名、それに堀川氏が経営する会社の社員の後輩に当たる島田勇生氏と小林　登氏の合計６名が再び岩根ドクターを訪ね、全員、血液検査を受けたのだった。検査の結果は、肝機能が一時的に低下していた堀川氏を除き全員合格だったが、それでも心配の虫が収まらなかった岩根先生は、トライアスロンの医学的・科学的データの収集とトライアスロンの生命に及ぶ危険性を知らしめようと、彼ら６名とともにハワイへ同行することを決心した。こうして岩根先生のトライアスロン選手に対する血液採取と医学的研究活動が始まったのである。</p>
<div id="attachment_1288" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/me.jpg"><img class="size-medium wp-image-1288" title="ハワイ大会でボランティアと会話する岩根先生（写真左端）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/me-300x210.jpg" alt="ハワイ大会でボランティアと会話する岩根先生（写真左端）" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">ハワイ大会でボランティアと会話する岩根先生（写真左端）</p></div>
<p> 　岩根先生の愛弟子であり岩根先生の遺志を受け継いで、トライアスロンの医科学的研究を続けておられる東京医科大学教授の勝村俊仁氏は、当時の様子を次のように振り返る。</p>
<p><span style="color: #35a151;">「医科学の立場から申し上げると、トライアスロンというスポーツが人間の身体に悪影響を及ぼすことは自明の理でしたが、当時はそのエビデンス（証拠）がありませんでした。それで岩根先生は、血液検査などを行い実際に証明しようとハワイに行かれたのです。心電計をはじめ注射器や採血容器などをカバンに一杯、詰めて行きましたが、血球成分を血清と血漿とに分ける遠心分離器は持参できませんので、コナ病院の検査技師に協力を依頼しました。<br />
　その頃、私は岩根先生の研究を傍らで見ていただけでしたが、面白そうな研究でもあり、ハワイ島も楽しそうなので、３年後の1984年から岩根先生に同行し、以来、毎年アイアンマン大会へ行くようになりました」</span></p>
<div id="attachment_1290" style="width: 235px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf1609.jpg"><img class="size-medium wp-image-1290" title="岩根先生の遺志を引き継ぎ、トライアスロン医科学に取り組んでいる勝村俊仁東京医科大学公衆衛生学教授　（03年12月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf1609-225x300.jpg" alt="岩根先生の遺志を引き継ぎ、トライアスロン医科学に取り組んでいる勝村俊仁東京医科大学公衆衛生学教授　（03年12月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">岩根先生の遺志を引き継ぎ、トライアスロン医科学に取り組んでいる勝村俊仁東京医科大学公衆衛生学教授　（03年12月撮影）</p></div>
<p>　そしてまた勝尾氏は、岩根先生の思い出を次のように話す。</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「岩根先生にはスポーツと医科学のことをたくさん教えていただきました。私たちの血液を採取し、その結果を逐一、報告してくださいましたが、その一例として、脳下垂体から分泌する麻薬様な物質βエンドルフィンがトライアスロンという長時間に及ぶ運動を続ける源泉になっていること、というかβエンドルフィンが過酷な運動を続ける肉体の防衛機能を担っていることなどをお聞きしたのです。実際、第４回大会で岩根先生が検査した私たちの血液中βエンドルフィンの分泌量は、スタート時よりもフィニッシュ時の方が10数倍も上昇していたそうです。このβエンドルフィンの分泌に関わる研究成果は、岩根先生が民間レベルの研究として世界で初めて明らかにしたものではないでしょうか。しかも岩根先生はハワイの遠征費用も、またその後、たびたび行った私たちの血液採取並びに検査にかかる諸費用も、すべて自費でまかなわれました。私がフィニッシュした時、先生が<span style="color: #ff0000;">『勝尾くん、よくきた、よくきた!!』</span>といって本当に喜んでくれた顔を、今でも忘れることはできません」</span></p>
<p>　トライアスロンが始まって四半世紀を経た。この間、私はトライアスロンに関する文章を読み、かつまたトライアスロン界の多くの人々と接触し、トライアスロンの生命と文化の歩みを学んできたつもりである。その過程で今なお私の胸に染み入る文章がある。トライアスロンのことを描いた数多くの文章の中で、かくも美しく、トライアスロンの何たるかを見事に表現した文章である。それは、岩根先生が日本人８名の選手とともに第４回ハワイ・アイアンマン大会の現地へ乗り込み、そこで遭遇した光景を後にランナーズ社発行の『トライアスロン入門』の中で述べた手記だ。<br />
　岩根先生が不慮の事故で亡くなられてから早や６年半ほどになる。かつて岩根先生と新宿の酒場で酒を酌み交わしトライアスロンの将来について語らった思い出を想起しつつ、先生が書き認めた文章を紹介したい。</p>
<p>　「まる24時間に及ぶ、長い長いトライアスロン・デイでした。体は疲労していましたが、床について目を閉じた私の網膜に、くっきりと焼き付いた光景がありました。それは、人影もまばらになった夜中の３時過ぎに、ようやくたどり着いたアメリカ人選手と、彼を迎える奥さんと子供の姿でした。３人は抱き合い、何回も何回もキスを繰り返したあげく、人気のなくなった街を肩を並べて帰っていきました。その彼らの背に、無人のフィニッシュラインの真上にかかる月が、優しく光を投げかけている光景は、一瞬、私の心の琴線に触れる何かを感じさせました。決して良い成績ではなかったけど、この苦しい競技に打ち勝った父親の姿は、小さな坊やにはどんなに大きく見えたことでしょう。父は無言でゴールし、子供も無言で父に抱きつきました。私には持ち合わせない、無言の教育を見た心地がしました。いかにしてトライアスロン出場を諦めさせるか、その根拠となるデータを採るつもりで日本を出立した私が、ホノルルから成田に向かう機内では、どのようにして安全に競技を行わせるかを真剣に考えているのに気がつき、苦笑せざるを得ませんでした」（桜井　晋著『新トライアスロン入門』1989年6月発行）</p>
<div id="attachment_1291" style="width: 260px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hawai.jpg"><img class="size-medium wp-image-1291" title="ハワイ島の夕暮れ" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/hawai-250x300.jpg" alt="ハワイ島の夕暮れ" width="250" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">ハワイ島の夕暮れ</p></div>
</div>
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		</item>
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		<title>Vol.9：風神の巻　第１章その5：冒険と遊びの１日</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1253</link>
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		<pubDate>Wed, 10 Jun 2009 01:29:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1253</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/runners1-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />朝７時、いよいよカイルア桟橋からスイムをスタートすると思うと、永谷誠一（54歳）、堀川稔之（47歳）にも、いささかの緊張と興奮が襲ってきた。あれほど夢に見たアイアンマン大会のスタート台に今、立っている。そのために、たくさんの練習を積み重ねてきた。今さら後へは引けない。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その5</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">冒険と遊びの１日</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/runners1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/runners1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">朝７時、いよいよカイルア桟橋からスイムをスタートすると思うと、永谷誠一（54歳）、堀川稔之（47歳）にも、いささかの緊張と興奮が襲ってきた。あれほど夢に見たアイアンマン大会のスタート台に今、立っている。そのために、たくさんの練習を積み重ねてきた。今さら後へは引けない。</p>
</div>
<p class="wp-caption-dt">　朝７時、いよいよカイルア桟橋からスイムをスタートすると思うと、永谷誠一（54歳）、堀川稔之（47歳）にも、いささかの緊張と興奮が襲ってきた。あれほど夢に見たアイアンマン大会のスタート台に今、立っている。そのために、たくさんの練習を積み重ねてきた。今さら後へは引けない。<br />
　緊張に震えていたのは永谷や堀川だけではない。この第４回ハワイ・アイアンマン大会に参加した日本人最年長の堤　貞一郎（57歳）、かつて明治大学でウェイトリフティングの選手だった島田勇生（39歳）と小林　登（38歳）、東京・晴海のドゥ・スポーツプラザでトレーニング積み重ねた勝尾　弦（32歳）をはじめ村松鉄郎（28歳）と西沢　孝（28歳)の日本人全員が幾多の思いを胸に秘め、万感の思いでカイルア桟橋の浜辺でスタートの合図を待っていた。</p>
<div id="attachment_1256" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/runners1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1256" title="＜写真＞ランナーズ1881年5月号より　提供；㈱ランナーズ、以下同 " src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/runners1-300x239.jpg" alt="＜写真＞ランナーズ1881年5月号より　提供；㈱ランナーズ、以下同 " width="300" height="239" /></a><p class="wp-caption-text">＜写真＞ランナーズ1881年5月号より　提供；㈱ランナーズ、以下同 </p></div>
<p>　それにしても、トライアスロンは昔も今も変わらない。スタートするまで胸の動悸は高鳴る一方だが、いざスタートを切って海の中へ飛び込めば緊張は解け、いつの間にか魚の心となって泳いでいるのだ。海という大自然の真只中で波を掻き分け、水飛沫をあげて進んでいく。<br />
　永谷も地元の室内プールでたくさん泳いできたとはいえ、海で泳ぐのは今回が初めてである。一抹の不安が胸を過ぎる。しかし、ザブンと海へ飛び込んでしまえば、不安も緊張もなくなるだろう。スタートの号砲が鳴ってからしばらくして、永谷は堤とともに最後尾から海へ入り、ゆっくり泳ぎ出した。かたや堀川は、</p>
<p><span style="color: #d30cbf;">「だめだったら、やめればいい」</span></p>
<p>　そんな気持でスタートを待っていた。やるべき練習はやってきたのだ。運を天に任せる心境だった。とはいえ、スイムは得意の種目である。いささか自信がある。そのスイムを堀川は、およそ１時間33分でクリアした。拍手と声援が飛ぶ中、カイルア桟橋の浜辺に上がってきた堀川は、観衆に向かって軽く手を振り笑顔を見せた。そしてバイクへと移っていったのだが、このバイク・パートでアクシデントが発生した。</p>
<div id="attachment_1258" style="width: 196px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/horikawa3.jpg"><img class="size-medium wp-image-1258" title="１時間33分でスイム・フィニッシュした堀川（同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/horikawa3-186x300.jpg" alt="１時間33分でスイム・フィニッシュした堀川（同）" width="186" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">１時間33分でスイム・フィニッシュした堀川（同）</p></div>
<p>　ほぼ１年前に購入したチネリのロードレーサーだが、バイク・スタートから50Km余り走った地点でスポークが１本抜け落ち、おまけにリムが割れてしまったのだ。ハプナビーチのエイド・ステーションで止まり、ただちにメカ・サービス隊に連絡を取った。しかし、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「ゴーバック・トゥ・ザ・タウン!!」</span></p>
<p>　修理できないといわれ、コナに戻るよう繰り返し指示されたのだ。エイド・ステーションでそんなやり取りをしている間に、一緒に日本から連れ立ってきた島田と小林の２人が走り抜けていく。堀川の顔の形相が、だんだん険しくなっていった。エイド・ステーションに着いたのが10時45分頃。それから１時間余り経った12時頃、堀川は決心した。</p>
<p><span style="color: #d30cbf;">「このまま走り出そう」</span></p>
<p>それから10分後、堀川は破損したホイールのまま走り出したのだ。でもポンプの具合が悪く、タイヤに空気が十分、入らない。しかもホイールは、左右にグラグラ振れて走りづらい。</p>
<p>　一方、永谷はというと、海の中で足がツルやら、止まってマッサージをするやら、ほうほうの体でやっとスイムを終えた。海から上がってきたところで気分も悪く、自分が何をしているのかわからない、ややパニック状態だった。それでも白いショートパンツを履き、バイクをスタートしたのだ。<br />
でも、昨夜からほとんど寝ていない。バイクを走り出したまでは良いが、早くも10Kmほど走ったところで、あまりにも眠いので自転車を路上に置くと、10分余り寝てしまった。しかし、それからは気持もしっかり戻り、サイクリング気分で走っていくことができた。ハワイ島に降りそそぐ灼熱の太陽は選手達の素肌を焼け焦がすが、バイクで風に吹かれる心よさが、せめてもの慰みとなった。<br />
５マイル（８Km）ごとに給水場があり、そこには相当数のボランティアたちがバナナや水を手渡ししてくれる。</p>
<p>　前回大会までは食事や給水、あるいは事故対策など一切をすべて自己責任で行うため、自身の応援部隊をつけることが義務づけられていたけれど、今大会からエイド・ステーションが設置され、食事や給水は主催者が用意してくれるのだ。　</p>
<div id="attachment_1259" style="width: 310px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/bora.jpg"><img class="size-medium wp-image-1259" title="永谷はビキニ姿のボランティアの写真を撮りながら走った。（写真提供；毎日新聞）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/bora-300x226.jpg" alt="永谷はビキニ姿のボランティアの写真を撮りながら走った。（写真提供；毎日新聞）" width="300" height="226" /></a><p class="wp-caption-text">永谷はビキニ姿のボランティアの写真を撮りながら走った。（写真提供；毎日新聞）</p></div>
<p>　そんなことともつゆ知らず、日本から持参し、あるいは現地のスーパーマーケットで買い込んだ食糧や飲料を、永谷は自転車のフロントバックの中に詰め込んでいた。前面に日の丸を刺繍したバックの中には、夜中にホテルでつくった一口握り飯、行動食に最適だと思い持参した餅米が原料の朝鮮飴、それに稲荷寿司や納豆まで入れていたが、実はカメラもこっそり忍び込ませていた。</p>
<p>　何度目かのエイド・ステーションに着いた時、そこへ毎日新聞の記者・須田泰明とカメラマン・草刈郁夫の２人に出会った。そこで永谷はすかさず２人にビキニ姿の３人娘と一緒に並んだ記念撮影を頼んだのである。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「お願いしまっす」</span></p>
<p>毎日新聞の２人は快く引き受けた。しかし、永谷が余りにも呑気で楽しそうなので、</p>
<p><span style="color: #ff9900;">「まだ競技中ですよ」</span></p>
<p>と忠告された。永谷は笑いながら、</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「よかたい、よかたい」</span></p>
<p>　とにかく時間制限のない旅である。思い切り遊びたい。それが今大会に託した永谷の思いだった。</p>
<p>　その後、堀川はアップダウンの厳しいバイク・コースをフラフラ走りながら、なんとかハウイを折り返し、帰路、ホイールが故障した地点のハプナビーチのエイド・ステーションでホイールを交換、夕方の午後６時、バイク・フィニッシュ地点のコナ・サーフホテルに到着した。メカトラブルのため、約180Kmのバイク・コースを走り切るのに９時間余を要した。<br />
　しかし、10分後に堀川はラン・ウェアに着替えて出発、最後まで歩くことなく、コナに戻る42.195kmを走り切った。記録は15時間27分22秒、238位だった。</p>
<p>　永谷はバイクもランもエイド・ステーションに何度も立ち寄り、熊本県人会の人たちが差し入れてくれる伊勢エビ料理や味噌スープなどの食事を楽しみつつ、またマッサージも受けながら、夜中の午前２時半頃にフィニッシュした。記録は19時間46分30秒、295位であった。</p>
<div id="attachment_1261" style="width: 229px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/naga.jpg"><img class="size-medium wp-image-1261" title="疲れ切った永谷だが、心は充足していた（同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/naga-219x300.jpg" alt="疲れ切った永谷だが、心は充足していた（同）" width="219" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">疲れ切った永谷だが、心は充足していた（同）</p></div>
<p>【次号予告】<span style="color: #d30cbf;">堤　貞一郎の奮戦振りなど第４回ハワイ大会のフィナーレを記します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p>
</blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロンは敗者にこそ、惜しみない称賛が与えられる　　【草刈　郁夫】</h3>
<p>　20数枚の電送写真を日本に送り終えたのは、午前１時過ぎだった。日付はすでに２月15日に変わっている。昨日14日のハワイ・アイアンマン大会で撮ったフィルムは約30本。それを現像、焼き付け、乾燥させた後、東京本社へ写真電送したのだ。１枚の写真を焼き付けるのに３分～４分、電送するのに５分～10分かかる。<br />
　だからジョン・ハワードとリンダ・スウェニィの男女それぞれ１位の選手がフィニッシュした姿を撮り終えた19時頃、急いでホテルへ引き返し、写真伝送の作業に取りかかった。<br />
この第４回大会を２月16日付け夕刊に全４ページの特集記事として掲載することが決まっていたので、締め切りという制約上、少しでも早く写真を送らなければならなかった。しかも、今朝にはオアフ島へ移動して、ハワイアン・オープン・ゴルフの模様を取材する。日本の青木　功選手が優勝するかもしれない、との予測もあって、本社から取材命令が下っていたのである。 　</p>
<div id="attachment_1264" style="width: 231px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/bike8.jpg"><img class="size-medium wp-image-1264" title="アップダウンが激しく、照り返しで炎熱地獄化したバイク・コースを懸命にペダルを踏む選手達（写真提供；毎日新聞） 　" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/bike8-221x300.jpg" alt="アップダウンが激しく、照り返しで炎熱地獄化したバイク・コースを懸命にペダルを踏む選手達（写真提供；毎日新聞） 　" width="221" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">アップダウンが激しく、照り返しで炎熱地獄化したバイク・コースを懸命にペダルを踏む選手達（写真提供；毎日新聞） 　</p></div>
<p>　それで、ハワイ島からオアフ島へ飛び立つ一番機のチケットを確保するため、朝の５時過ぎにホテルを出た。すると遠方から人々の声援がかすかに響き、しらじらと東の空が明るむ彼方に人の走る姿が点描のように見えた。紛れもなく、昨日の朝７時過ぎにカイルア・ピアからスタートしたトライアスロンの選手である。</p>
<p>「まだ走っている！」</p>
<p>　感動的な光景だった。走っているというよりも、重い足と身体を引きずりながらゴールゲートへと向かっていた。早速、クルマをピアの方へ回してもらうと、なんとゴールゲートの付近では、大会の役員やボランティアが選手を迎えていたのだ。20時間余り運動をし続け、ぼろぼろの姿になってフィニッシュする選手を、私は何枚か写真に収めた。しかし、その写真は翌日、オアフ島から再び東京へ伝送したが、締め切りに間に合う筈もなかった。</p>
<p>「これがトライアスロンなのだ。撮るべき写真は勝者の姿ではなく、もっと別にあった」</p>
<p>　私は心の中で呟きながら、今回の撮影取材は失敗したと思った。いつものスポーツ競技の報道という視点で、勝者ばかりを真正面から取材してしまったのだ。</p>
<p>　記者（ライター）の須田泰明さんと一緒にクルマに乗り、２人で大会の全コースを回った。私たち２人は、この過酷とも言える３種目の競技を連続して行うトライアスロンを、日本に紹介するためにやってきた。トライアスロンというスポーツ・イベントを取材したという点で、確かに私は与えられた任務をまっとうした。しかし、トライアスロンというスポーツの本質に迫ることができなかったと思った。</p>
<p>　トライアスロンというスポーツは、勝者に光が当てられだけでなく、24時間も運動をし続け、ぼろぼろの姿となってフィニッシュする、いわば敗者にも惜しみない称賛が贈られる。いやむしろ、トライアスロンは敗者にこそ、勝者以上の賛美と栄光の光が当てられるといってもよい。<br />
　第４回ハワイ・アイアンマン大会が開かれた1981年は、日本が高度経済成長の絶頂期でもあり、その後バブル経済へと傾斜していく時期であった。そんな日本の社会の中にあって「忍耐」とか「努力」などという言葉が、やたらダサク聞こえる時代でもあったが、トライアスロンはまさしく忍耐と努力で完走した者に惜しみない称賛が与えられるスポーツであった。</p>
<p>　その日、私はオアフ島へ渡ってハワイアン・オープンの模様を撮影取材した。そして仕事を終え、日本へ帰る飛行機に乗るまでのわずかな時間ではあったが、ワイキキビーチを散歩した。２晩徹夜した眠い眼をようやく見開きながら、長ズボンを履いて砂浜を歩いた。こうして日本からハワイ島へ、そしてオアフ島を巡る４泊５日の旅が終わった。</p>
<p>　私の撮影取材は失敗したが、人間として共感できるスポーツに出会ったことを、今もなお嬉しく思っている。</p>
<p>＜プロフィール＞1946年、東京に生まれる。東京写真短期大学卒業後、毎日新聞社写真部入社、報道カメラマンの道を一筋に歩む。写真部デスクを経て、現在は編集委員。第４回ハワイ大会の時は35歳だった。</p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.8：風神の巻　第１章その4：日本のﾄﾗｲｱｽﾛﾝの原点はここから始まる</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1228</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1228#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 08 Jun 2009 09:16:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/sr1-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />それにしてもカイルア・ピアのゴール地点は、観衆たちの凄まじい口笛と歓声、それにハワイアン・バンドの音楽とダンサーたちのフラダンスが加わる賑やかさに包まれていた。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その4</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">日本のﾄﾗｲｱｽﾛﾝの原点はここから始まる</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sr1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sr1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">それにしてもカイルア・ピアのゴール地点は、観衆たちの凄まじい口笛と歓声、それにハワイアン・バンドの音楽とダンサーたちのフラダンスが加わる賑やかさに包まれていた。</p>
</div>
<p><span style="color: #17a917;">　「このヘトヘトとなる競技は、アリー通りのカイルア桟橋で、２月14日土曜日の、だいたい午前７時に始まる。銃声と同時に参加者はコナの海へ飛び込み、沖合に停泊する大きな船（ボート）の転向ポイントを目指して1.2マイルを泳ぐ。そして選手はボートの周りをぐるりと回って、早々にカイルア桟橋に姿を現わす。それからバイクウェアに着替え、クイーン・カアフマヌ道路の黒色の火山岩層地帯を通ってハウイへと北に112マイルのバイクレースを始める。ハウイで選手は体重を量るが、これは安全措置として、選手が危険なレベルまで体重が減っていないかどうかを調べるためだ。それから選手はクイーン・カアフマヌ道路を経由してカイルア・コナへと引き返すのだが、このときハプナ・ビーチパークで２回目の計量をするために止まる。そしてケアウホウ湾のコナ・サーフホテルでバイクを終え、そこで26.2マイルのマラソンを始める前に３回目の計量を行う。マラソンはコナ・サーフホテルから始まり、ケアホール空港へと北に向かう。そして、カイルアへ戻る最後の道程を進み、カイルア桟橋でレースをフィニッシュする」　<span style="color: #000000;">（訳；島田青児）</span></span></p>
<p>　この文章は、日本人が初めて出場、参加した第4回ハワイ・アイアンマン大会のパンフレットに記されたレース案内である。その第４回大会はパンフレットの案内通り1981年２月14日の土曜日（日本時間15日未明）、米国ハワイ州ハワイ島カイルア・コナで開催された。</p>
<p>　この年からロケーションをオアフ島からハワイ島に移して行われ、以来、今日までアイアンマン・ハワイはハワイ島で開催されている。ロケーションを変更した理由は、オアフ島の交通渋滞が激しくなり大会開催が困難になってきたことと、オアフ島より比較的、海が穏やかなためだ。</p>
<p>　参加選手は、永谷誠一、堀川稔之ら日本人８名を含めアメリカ、カナダ、ニュージーランド、オランダの５カ国から合計368名（うち女性24名）を数えた。年齢は14歳から73歳まで、なかには全盲や小児麻痺で片足が不自由な障害者も参加した。</p>
<div id="attachment_1233" style="width: 240px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sr1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1233" title="第４回大会スイム＆ランコース図" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sr1-230x300.jpg" alt="第４回大会スイム＆ランコース図" width="230" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第４回大会スイム＆ランコース図</p></div>
<p>　大会当日の天候は晴れ。スイム・スタート地点はカイルア・ピアと呼ぶ、かつて牛の積出港だった突堤のあるビーチから、海岸線を左手に見ながら外洋へ南へと泳ぎ出し、中間点を折り返す2.4マイル（3.84km）である。朝６時、まだほの暗い砂浜には、選手をはじめ選手の家族や応援・観戦者、レース・ディレクターのバレリイ・シルクをはじめとする大会役員、それにランナーズ誌のカメラマン橋本治朗、毎日新聞記者の須田泰明、同カメラマンの草刈郁夫など日本のジャーナリストたちも集まり、今かとばかりスタートを待ち構えていた。</p>
<p>　スタートの予定時刻は午前７時。椰子の木が立ち並ぶ堤防側の東の空が明るんでくると、鮮やかなオレンジ色のスイムキャップをかぶった368名の精鋭たちが、ゾロゾロと海の中へ移動を開始した。彼らは沖合に浮かぶオレンジ色のマストが２本立ち並ぶボートを目指して泳ぐのだ。しかし、定刻の７時を過ぎてもスタートの合図がない。５分経っても、10分経っても…だ。</p>
<p><span style="color: #800080;"><strong><span style="color: #8f1e8f;">「ピュー、ピュー」</span></strong></span></p>
<p>ついに選手たちが口笛を鳴らし始めた。そんな中、午前７時15分、</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>「ズドーン」</strong></span></p>
<p>という号砲がビーチ周辺に響き渡り、スイムのスタートが切られたのだった</p>
<p>　レースは、51分後にカリフォルニア州出身のハンセン・ビルが先頭でスイムをフィニッシュ、また前回の大会では３位、自転車ロード競技で６回も全米チャンピオンに輝き、モントリオール大会までオリンピック選手として３回の出場経験を持つジョン・ハワードは、昨年の自身のスイムタイムをおよそ40分も短縮させる１時間11分12秒でフィニッシュ、得意のバイク112マイル（179.2km）へと旅立った。</p>
<div id="attachment_1235" style="width: 243px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/bike6.jpg"><img class="size-medium wp-image-1235" title="第４回大会バイクコース図" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/bike6-233x300.jpg" alt="第４回大会バイクコース図" width="233" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第４回大会バイクコース図</p></div>
<p>　バイクコースは、スイムゴール地点のカイルア・ピアからコナの町中を通り過ぎ10Kmほど行くと、4,170mのマウナ・ロア山に連なるカラオ・ホノコアフから流れ出した溶岩が道の両側に広がる国道19号線を、折り返し点のハウイまで約80kmをひた走る。コースには太陽を遮る樹木は見当たらず、気温は35度以上にものぼる灼熱地獄の世界、しかも折り返しまでの40Kmはアップダウンが繰り返し続いた。</p>
<p>　ハワードはハウイの折り返しでトップに立ち、そのままバイク・フィニッシュ地点のケアウホウ湾のコナ・サーフホテルまで、２位以下に約11分の差をつける５時間03分29秒のタイムで走り切った。</p>
<p>　最後のランは、コナ・サーフホテルを出発しコナに戻る26.2マイル（42.195km）。ランも炎天の下、過酷な戦いが繰り広げられ、レース半ばでハワードは第２回大会のチャンピオン、トム・ウォーレンに追い詰められたが、懸命な頑張りで逃げ切ることに成功した。ハワードがフィニッシュしたのは夕方の５時近く、早や空が暮れ始めようとしていた。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>「水だ！ 水をくれ」</strong></span></p>
<p>ハワードはゴール地点を越えると、叫びながら水飲み場に直接、走り込み、グイグイ水を飲んだ。そして彼に駆け寄った報道陣に対し、</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>「途中、何度か止めようかと思った。だが、自分にとってオリンピックで金メダルを獲るよりも、このレースで勝った意味は大きい。しかし、もうダメだ！」</strong></span></p>
<p>　そう言いながら、その場にへたり込むばかりの疲労困ぱい振りである。テキサス州出身、33歳の会社員であるハワードのランタイムは３時間23分48秒、総合タイムは９時間38分29秒だった。</p>
<p>　残念ながらカリフォルニア州出身、37歳になるウォーレンはハワードに遅れること約25分の10時間04分38秒、第２位でフィニッシュすると、そのままバッタリ倒れ込み、担架で医務室へと運び込まれた。３位には、同じくカリフォルニア州出身で後にデイブ・スコットと雌雄を競うことになるスコット・ティンリーが10時間12分47秒で入った。ちなみに前回の第３回大会を優勝したスコットは足膝の故障のため欠場している。<br />
 <br />
　一方、女性はアリゾナ州出身の22歳の大学生リンダ・スウェニィがトータル12時間00分32秒のタイムで優勝した。スイムは女子２番手の１時間02分07秒でフィニッシュ、次いで６時間53分28秒でバイクを終了した時点でも２位を維持、マラソンでトップに立って４時間04分57秒で走り終えた。スウェニィは、高校生時代は水泳の選手、大学に入ってからマラソンを始め、最高タイム２時間58分の記録を持つサブスリー・ランナーである。</p>
<p>　それにしてもカイルア・ピアのゴール地点は、観衆たちの凄まじい口笛と歓声、それにハワイアン・バンドの音楽とダンサーたちのフラダンスが加わる賑やかさに包まれていた。割れんばかりの拍手に迎えられ、椰子の葉で作られたゴールテープを切ったスウェニィは、報道陣の質問に対し、</p>
<p><span style="color: #e08600;"><strong><span style="color: #e87717;">「それほど苦しいレースではなかったわ」</span></strong></span></p>
<p>と言って、待ち構えていた恋人と熱い抱擁を交わした。 </p>
<p>【次号予告】<span style="color: #cd31b7;">「第４回ハワイ・アイアンマン大会」に出場、完走した日本人８名の奮闘の模様をお伝えします。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞僕が帰るところ～それがハワイのアイアンマン・ゴール　　【高石ともや】</h3>
<div class="mceTemp">
<dt class="wp-caption-dt">
<div id="attachment_1244" style="width: 310px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/takaishi1.jpg"><img class="size-full wp-image-1244" title="高石ともや氏近影～京都の自宅にて（03年８月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/takaishi1.jpg" alt="高石ともや氏近影～京都の自宅にて（03年８月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">高石ともや氏近影～京都の自宅にて（03年８月撮影）</p></div>
<p>　僕がハワイ・アイアンマン大会に出場したのは、1982年２月のことである。永谷さんら日本人８人が初めて出場した翌年のことだった。しかし、このときスイムとバイクを終えた後、ランに入って咳が止まらず、無念にもリタイアした。</p>
</dt>
</div>
<p class="mceTemp">　それから３年後、第９回大会に出場し、完走した。そのときだった。僕はスゴイものを見てしまった。それは最終ランナーを迎えるゴールの光景だった。ゴールゲートを取り囲む大勢の観衆が、声を張り上げ、口笛を吹き、拍手を打ち鳴らし、最終走者を迎えた。<br />
「よく帰ってきた。おまえは偉い。素晴らしい」</p>
<p class="mceTemp">　最終ランナーは、競技でいえば敗者である。しかし、声援はトップの選手のフィニッシュよりも上回った。まるで英雄を迎えるかのように、大歓声がコナの町の夜空を支配していた。とても言葉では言い表わすことができない、感動的なシーン。大会のその場にいるだけで、みんなが幸せになれた。</p>
<p class="mceTemp">　次々とゴールする選手たちを、みんな待っていて、迎えてくれるスポーツ。それがトライアスロンなのだ。だから勝者にならなくてもよい。敗者でも褒め称えられる。自分なりに精一杯の力を尽くし、完走さえすればよいのだ。その意味で、トライアスロンは、３回、変身を繰り返しながら&#8221;ゴールするスポーツ&#8221;とも言えるだろう。</p>
<p class="mceTemp">　自分を待っている人がいるから、最後まで走り切れる。自分を迎えてくれるみんながいると思うから、ゴールを目指して頑張れる。僕を迎えてくれるところ、僕が帰るところ、それがハワイ・アイアンマン大会のゴールである。</p>
<p class="mceTemp">＜高石ともや氏プロフィール＞<br />
1941年12月、北海道雨竜町にて出生。1966年フォークシンガーとして独立、「受験生ブルース」がヒットする。1970年アメリカへ１人旅し、帰国後、ジョギングを始める。1975年福井県名田庄村村民運動会マラソンで優勝。1977年第４回ホノルルマラソン大会に出場、３時間10分02秒で初マラソンを完走。1981年第１回皆生トライアスロン大会に出場、１位でフィニッシュ。1982年ハワイ・アイアンマン大会に初出場したが、ランでリタイア。1985年ハワイ・アイアンマン大会に再挑戦し11時間31分29秒、総合288位でフィニッシュ。その後、ハワイ島3日間510Kmのウルトラ・トライアスロンやシドニー～メルボルン間1,018Kmのウルトラ・マラソンなどに出場、完走する。今年10月、18年振りにハワイ・アイアンマン大会へ出場、完走する。</p>
<p class="mceTemp"> </p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.7：風神の巻　第１章その3：肥後もっこすのアイアンマン珍道中</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1205</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1205#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 08 Jun 2009 07:16:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/sakura2-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />ハワイ島についた熊本の２人は、コナ市のホテルに入った。そしてホテルへ着くと早速、輪行袋から自転車を取り出し、組み立て始めたのである。永谷は大会用につくったスポルティフにスタンド、ライト、フロントバックなどを備え付けた。スタンドを付けたのはバイクの途中で休憩することを考えていた。また暗くなれば、ライトで道を照らさなければならない。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その3</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">肥後もっこすのアイアンマン珍道中</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sakura2-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sakura2-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">ハワイ島についた熊本の２人は、コナ市のホテルに入った。そしてホテルへ着くと早速、輪行袋から自転車を取り出し、組み立て始めたのである。永谷は大会用につくったスポルティフにスタンド、ライト、フロントバックなどを備え付けた。スタンドを付けたのはバイクの途中で休憩することを考えていた。また暗くなれば、ライトで道を照らさなければならない。</p>
</div>
<p>　「第４回ハワイ・アイアンマン大会」、正式には「4th ANNUAL INTERNATIONAL TRIATHLON on the BIG ISLAND OF HAWAII」と呼ぶ。この第4回大会は、日本人にとって記念すべき大会だった。なぜならば、日本人が初めてトライアスロンに挑戦し、わが国トライアスロンの歴史の１ページを書き綴ったからである。</p>
<p>　日本人としてこの大会に出場したアスリートは８名である。うち６名は堀川稔之をはじめとする東京ならびに東京近郊に在住する20歳から40歳台の男性アスリート達であり、あとの２人は九州・熊本に在住する永谷誠一と堤　貞一郎である。当時、永谷は54歳、堤は57歳と、いずれも50歳の大台に乗っていた。</p>
<p>　そんな２人を、永谷の両親とカントリー・ミュージック歌手である弟チャーリーは熊本空港まで見送った。母親は目にうっすらと涙を溜め、今生の別れを思わせるかのような風情だった。確かにハワイ観光旅行とは違う。初めて足を踏み入れるハワイ島で、スイム1.2マイル（3.84Km）、バイク112マイル（179.2Km）、ラン26.2マイル（42.195Km）という未知の距離を泳ぎ、こぎ、走るのだ。それ相応の覚悟は持たざるを得ない。その意味で日本人８人にとってハワイ・アイアンマン大会は未知への挑戦であり、あまりにも冒険的なイベントであった。</p>
<p>　ハワイ島についた熊本の２人は、コナ市のホテルに入った。そしてホテルへ着くと早速、輪行袋から自転車を取り出し、組み立て始めたのである。永谷は大会用につくったスポルティフにスタンド、ライト、フロントバックなどを備え付けた。スタンドを付けたのはバイクの途中で休憩することを考えていた。また暗くなれば、ライトで道を照らさなければならない。そして何よりも長時間のサイクリングとなるので食糧が不足しないよう、永谷はおにぎりやお煎餅やアンパンや蜜柑やレモンなど飲食物がたっぷりと入るフロントバックを用意した。エイドステーションで飲食物が供給されることを、永谷はまったく知らなかったからである。</p>
<p>　かたや堤はというと、自転車の組み立てに四苦八苦。永谷と同じスポルティフに、フラットバーのハンドルを取り付けた。その１台の自転車を組みあげるまで汗ダクダクになりながら、なんと５時間もの時間を要した。自転車の組み立てに馴れていないせいもあったが、何事も自分が納得するまで作り込む彼の性格がそうさせた。事実、外科手術用の道具も手製のものを使っているという念の入れようである。</p>
<p>　だから大会用のバイク・ヘルメットは工事用のドリルで穴を空け、風通しの良いようにした。ラン用の運動靴も踵の部分と指先の部分を切り抜いて、やはり風通しの良い細工をほどこした。ウェアはというと、バイク用は白地のＴシャツにピンク色で斜めラインを描いた自家製、ランシャツはアメリカ製のメッシュタイプのものを、着丈が長いので裾を２つに折り込んで縫い、小物入れ用として２つのポケットを作った。白いランニング・キャップには造花を添え、眼鏡は手製のゴムバンドを取り付けた。さらにスイムでは、浮き易いようにスイムキャップとスイムパンツの中に詰め込む包装資材用の発砲スチロールを持参してきた。</p>
<p>　そのスイムだが、実は、堤はろくに泳げなかった。トライアスロンへの出場を思い立つ以前はカナヅチ同然と言っても過言でない。それで永谷と同じプールに通い練習に励んだわけだが、大会参加の今日に至るまでスイムはすべてバックストローク（背泳）で押し通してきた。堤にとってバックが一番浮き易く、息継ぎも楽だったからである。とはいえバックでは進む方向が見えない。そこで堤はスイム競技用に、日本から手鏡を持参した。泳ぎながら、その手鏡で進行方向を確認しようというのである。手鏡は紐で吊り下げ、スイムパンツの間に差し込むつもりである。</p>
<p>　レース用の自転車やグッズを用意し終えると永谷と堤は、コナの街へ買い物に出掛けた。滞在中の食糧の買い出しに行ったのだ。２人は広大なスペースのスーパーマーケットの店内を歩きながら食料品を物色しているうちに、同じ日本人の老夫婦に出会った。そこで永谷は、</p>
<p> </p>
<div id="attachment_1208" style="width: 310px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sakura2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1208" title="偉大なパートナー奥様とツーショットの永谷誠一氏（03年９月、熊本市内の居酒屋「さくら」にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sakura2-300x210.jpg" alt="偉大なパートナー奥様とツーショットの永谷誠一氏（03年９月、熊本市内の居酒屋「さくら」にて撮影）" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">偉大なパートナー奥様とツーショットの永谷誠一氏  （03年９月、熊本市内の居酒屋「さくら」にて撮影）</p></div>
<p><span style="color: #ff0000;">「あのーもし、コナには熊本県人会の方々がおいでると聞いたが、会長さんの福原さんはどちらにおられるか、ご存じなかでしょか」</span></p>
<p>　熊本県人会の福原会長は熊本県三加和村の出身である。そして県人会の人々は、コナ市では山稜でコーヒー栽培を営んでいる人たちが多いと聞いていた。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>「それは私ですたい」</strong></span></p>
<p>　なんと！　偶然にも尋ね人とばったり出くわしたのである。それで翌日、山の中腹にあるコーヒー園内の日本料理店「手島レストラン」において60名ほどの県人会メンバーが集まり、２人の激励・歓迎会が開かれたのである。招かれた２人は、練習を兼ね自転車で山腹にあるレストランまで走っていった。<br />
ちなみに、堀川をはじめとする６名の東京組みと熊本の２名は、前日の晩に同じ宿泊しているホテルで会食し、相互に情報交換を行っている。</p>
<p>　こうして８名の日本人はコナの街に滞在し、「第４回ハワイ・アイアンマン大会」の日に備えた。しかし、大会前日、永谷も堤も一睡もしなかった。それというのも、明日のレースに備え堤のユニホーム作りが一晩中、続いていたからである。</p>
<p><span style="color: #00b700;"><strong>「どぎゃんかな？　こんなもんで、よかろうか」</strong></span></p>
<p>堤は自ら作るレース用グッズを頭上にかざし、いちいち永谷に聞いてくる。スイムキャップは、空気の入った発砲スチロールを幾重にも縫い付けて作った。頭をなるだけ浮くように工夫したのである。そして「とんがり帽子」のように高くとんがったスイムキャップを自ら頭にかぶり、堤は首を左右上下に振ってみせた。<br />
次にスイムパンツだが、膝上まであるバミューダパンツを持参し、これに同じく発砲スチロールを沢山、縫い付けた。出来あがって自ら履いたが、まるで腰部と尻に座布団を巻いているような格好である。そして、すべて出来あがったところで堤は、両手と両足を広げながらポーズをとり、</p>
<p><span style="color: #00b700;"><strong>「写真を撮ってはいよ」</strong></span></p>
<p>撮り終わると、堤はバイクウェアを身に着ける。そしてまた、ランニング姿になって永谷に写真を撮ってくれと言う。もう２人とも寝てはいられない。起床したは午前２時、３時には朝食を摂り、５時には選手の受付けを済ました。</p>
<p><span style="color: #f2640c;"><strong><span style="color: #f87a39;">「さあ、どぎゃんもこぎゃんも、しょうがなか。どうなっと、きょう１日、おもさん遊ぶばい」</span></strong></span></p>
<p><span style="color: #f2640c;"><strong><span style="color: #f87a39;">　</span></strong></span>薄暗い朝の中で、永谷は大きく背伸びをした。</p>
<p>【次号予告】<span style="color: #0000ff;">日本人８名が出場、完走を果たした「第４回ハワイ・アイアンマン大会」のレース内容をお伝えします。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<div class="mceTemp">
<h3>＜トライアスロン談義＞ロマンを追い求めている人～永谷誠一氏　　【市川祥宏】</h3>
<p>　私がトライアスロンを始めたのは、今から23年前にさかのぼる。1982年の第２回皆生トライアスロン大会に出場したのが最初だった。実はこのとき初めて、永谷さんとお会いしたのである。すでに永谷さんは堤先生とともに全国的に名が知られた、日本を代表するトライアスリートであり、私たちトライアスロンを目指す者にとって憧れの人であった。</p>
<p>　その憧れの人に一度で会ってみたい。ならば皆生大会に出場するしかない。鳥取県米子市まで足を運ぼう。私は、そう決意した。</p>
<p>　永谷さんは皆生大会のスイム・スタート会場にいた。私は遠くから彼の姿を眺めた。<br />
「これからトライアスロンを大いに楽しみましょう。今日１日、みんなでゆっくり遊びましょう」<br />
永谷さんは笑顔を満面に浮かべ、不安と恐怖に駆られる私たち選手に、そんなエールを投げかけていた。</p>
<p>　その永谷さんと実際に出会い、言葉を交わしたのはバイクをスタート後、間もなくことである。当時のバイクコースは、国道を横断するために橋下をくぐった後に土手の階段をバイクを担ぎあげたのだが、その時、私のインフレータがバイクから外れ、土手の下に転がり落ちてしまったのだ。そこで急いで戻ってインフレータを取り戻そうとした時、</p>
<p>「はい、どうぞ。がんばらなっせ」</p>
<p>　なんと、永谷さんと永谷さんの娘さんである美加さんの親子が、私のインフレータを拾いあげてくれたのだ。</p>
<p>「ありがとうございます」</p>
<div id="attachment_1213" style="width: 310px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ichikawa11.jpg"><img class="size-medium wp-image-1213" title="市川祥宏氏近影～生まれ育った東京・浅草橋の酒場で、今年でオロロン・トライアスロン大会女子７連覇を達成した村上純子さんとツーショット（03年９月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ichikawa11-300x225.jpg" alt="市川祥宏氏近影～生まれ育った東京・浅草橋の酒場で、今年でオロロン・トライアスロン大会女子７連覇を達成した村上純子さんとツーショット（03年９月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">市川祥宏氏近影～生まれ育った東京・浅草橋の酒場で、今年でオロロン・トライアスロン大会女子７連覇を達成した村上純子さんとツーショット（03年９月撮影）</p></div>
<p>　それが永谷さんに対して投げかけた私の初めての言葉であった。必死の様相で土手を下っていった私とは異なり、永谷さんは余裕の笑顔で私を励ましてくれた。</p>
<p>　その時の永谷さんの笑顔の表情は、20年余を過ぎた今でもはっきり覚えている。その日、フィニッシュ後にお礼の言葉を交わしてから、以来、今日に至るまで、私は永谷さんにトライアスロンの楽しみ方や人生の生き方、考え方など、さまざまなことを学び教えられた。その教えや言葉は私の身体の中に染み込み、折にふれ元気づけられてきた。</p>
<p>　そのように永谷さんは、人に元気を与える不思議な力を持った人であり、いつも青年のようにロマンを追い求めている人である。</p>
<p> </p>
<p>＜市川祥宏氏プロフィール＞<br />
1942年東京で出生。青少年時代は陸上競技選手として中長距離部門で活躍する。ハワイ・アイアンマン大会の模様を雑誌で見てトライアスロンへの挑戦を思い立ち、1982年の第２回皆生トライアスロン大会に出場する。84年、トライアスロン仲間と「全日本トライアスロンクラブ＝ATC」を設立し、理事長に就任。以来、トライアスロンの指導者として、またスポーツ・コーディネータとしてトライアスロン大会の開催、運営に携わり、今日に至る。2001年には日本学生トライアスロン連合副理事長として「FIS世界学生トライアスロン選手権」の主導的役割を果たした。「トライアスロンを発展させる会」幹事ならびに『日本トライアスロン物語』編集委員。</p>
</div>
</div>
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		<item>
		<title>Vol.6：風神の巻　第１章その2：熊本の血が騒いだ</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1182</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1182#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 07 Jun 2009 05:01:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/604hiraki1-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />サイクリングならまだしも、バイク・トレーニングなんてまったくわからない。どうやって走るのか？　ギアはどこにかければよいか？　とにかく、「距離をこなせば、なんとかなるたい」そんな気持で永谷は練習に励んだ。夏から秋、そして冬へと季節は移り変わり、アイアンマン・レースに挑戦する前年の年が暮れていった。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その2</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">熊本の血が騒いだ</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/604hiraki1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/604hiraki1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">サイクリングならまだしも、バイク・トレーニングなんてまったくわからない。どうやって走るのか？　ギアはどこにかければよいか？　とにかく、「距離をこなせば、なんとかなるたい」そんな気持で永谷は練習に励んだ。夏から秋、そして冬へと季節は移り変わり、アイアンマン・レースに挑戦する前年の年が暮れていった。</p>
</div>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/598korega.jpg"></a></p>
<div class="mceTemp">
<dt class="wp-caption-dt"></dt>
</div>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/598korega1.jpg"></a></p>
<div id="attachment_1188" style="width: 310px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/598korega2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1188" title="＜写真＞1980年２月21日号『週間文春』" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/598korega2-300x225.jpg" alt="＜写真＞1980年２月21日号『週間文春』" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">＜写真＞1980年２月21日号『週間文春』</p></div>
<div id="attachment_1189" style="width: 310px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/604hiraki1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1189" title="＜写真＞1980年２月21日号『週間文春』" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/604hiraki1-300x225.jpg" alt="＜写真＞1980年２月21日号『週間文春』" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">＜写真＞1980年２月21日号『週間文春』</p></div>
<p>　日本人として初めてハワイ・アイアンマン大会に出場し完走したアスリートは８名である。そのうち６名は堀川稔之をはじめとする東京ならびに東京近郊に在住する20歳から40歳台の男性アスリート達であった。<br />
では、あと２名はどこの誰か？</p>
<p>　東京から遠く離れた九州・熊本の地に「山想」という山岳用品の販売などアウトドアショップを営む永谷誠一という男と、もう一人、永谷が営むショップからほど近い熊本市内に外科医を開業していた堤　貞一郎という２人の男がいた。当時、永谷は53歳、堤は56歳という、２人とも50歳を過ぎた中高年である。この２人は旧知の間柄ではない。地元のマラソン大会で知り合い、スポーツを通じ「遊び心」で意気投合した。</p>
<p>東京と熊本。この二つのかけ離れた地でありながら、実は堀川も永谷も、同じ1980年２月21日号の『週間文春』のグラビアページを見て、トライスロンへの挑戦を思い立ったのである。</p>
<p><span style="color: #c524bf;">「ムムッ、なんちゅうこつか。パンツまで脱いでしもて、なんばすっとか？　おおごつばい」</span></p>
<p>永谷は週間誌のグラビアページを何度も何度もめくった。そして、めくりながら胸の高鳴りを抑えることができなかった。</p>
<p><span style="color: #c524bf;">「自分もやってみたか。できるかどうか、わからんばってん、出てみたかと」</span></p>
<p>アスリートの血が騒ぐとでもいうのだろうか。『週間文春』の記事を読み返すたびに、永谷は全身の血潮が熱くなるのを感じた。そして何度も戦慄するのを覚えた。</p>
<p>　雄大な阿蘇をはじめ日本国中の山脈を踏破してきたアルピニストの永谷でもある。だから、体力には自信があった。熊本市内を流れる白川で、子供の頃から我流のクロールで泳ぎ遊んできている。トレーニングというほどではないが、自宅の菊池郡西合志町から熊本市内の「山想」まで片道10kmの道のりを、毎日のようにランドナー（旅行用サイクリング車）で通っている。マラソンは地元の熊本日々新聞社が主催する「熊日30kmロードレース」とか、別府～大分間の「別大マラソン」、そして「ホノルル・マラソン」に出場するなど、50歳を過ぎても、なお健脚ぶりを誇っていた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/602herf.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-1193" title="602herf" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/602herf.jpg" alt="602herf" width="197" height="263" /></a>　「ホノルル・マラソン」でオアフ島へ旅行したこともあって、永谷にはアイアンマンレースが身近に感じたことも事実だ。そこで早速、㈱ランナーズの社長であり、『週間文春』のグラビア写真を撮った橋本治朗へ問い合わせた。</p>
<p><span style="color: #c524bf;">「わたしゃあ、ぜひとも出てみたかばってん、どぎゃんしたらよかと、教えてくだはりまっせ」</span></p>
<p>その永谷の願いは、橋本から堀川に伝えられる。そして80年の夏、堀川から郵便で「第４回ノーチラス・アイアンマン大会」のエントリーフォームが届いたのである。エントリーフォームは娘の美加に翻訳してもらった。</p>
<p>　エントリーフォームの書き込みを終えた永谷は、来年２月の大会に向けトレーニングを開始する。その頃、「山想」からほど近い熊本市内に室内プールができたのを幸いに、スイミングはもっぱらそのプールに通った。<br />
ランは毎朝、自宅から10Kmの行程を走った。当時は１km当たり４分ほどで走った。<br />
そしてバイクは、近くの自転車店で大会出場用にスポルティフ（サイクリング用快速車）をつくった。それで熊本の名勝・標高666mの金峰山へのヒルクライムを、何度となくやったのだ。サイクリングならまだしも、バイク・トレーニングなんてまったくわからない。どうやって走るのか？　ギアはどこにかければよいか？　とにかく、</p>
<p><span style="color: #c524bf;">「距離をこなせば、なんとかなるたい」</span></p>
<p>そんな気持で永谷は練習に励んだ。夏から秋、そして冬へと季節は移り変わり、アイアンマン・レースに挑戦する前年の年が暮れていった。</p>
<p>【次号予告】<span style="color: #49af31;">日本人８名が出場、完走を果たした「第４回ハワイ・アイアンマン大会」の模様をお伝えします。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<div class="mceTemp">
<h3>＜トライアスロン談義＞堤　貞一郎先生の想い出　　【永谷誠一】</h3>
<div id="attachment_1197" style="width: 310px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81hawai2.jpg"><img class="size-full wp-image-1197" title="81年アイアンマン大会を完走した堤　貞一郎氏（『ランナーズ』81年5月号より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/81hawai2.jpg" alt="81年アイアンマン大会を完走した堤　貞一郎氏（『ランナーズ』81年5月号より）" width="300" height="298" /></a><p class="wp-caption-text">81年アイアンマン大会を完走した堤　貞一郎氏  （『ランナーズ』81年5月号より）</p></div>
<p>「なんや、妙な格好ば、しとらすな」</p>
<p>　マラソン大会のスタートの号砲を待つ選手の群れの中に、一人の中高年がヨレヨレのスポーツウェアを着て、そのうえシワシワ、ダラダラのロングパンツをはいて立っていた。毎年、秋10月に行われる「河内マラソン大会」に出場した時のことだ。</p>
<p>スタートを待つ選手のほとんどが若者ばかり、それもみなランパンにランシャツの姿だというのに、一人、彼の異様な姿ばかりが目に留まった。今でも覚えているが、上はエンジ色のトレーナー、下はグリーンのパンツ。それも洗濯をし過ぎたあまりか、それとも使い古したせいか、ダラーとしてしまって、まったく締まりがない。</p>
<p>　さて、その日のマラソン大会の距離は18Km。スタート後は多くの選手達に紛れ、彼の姿を見失ったが、私がゴールして帰りの送迎バスに乗り込もうとしていた矢先、異様な姿の彼がゴール地点である小学校のグランドに入ってきた。同じ中高年同士、私はゴールする彼に声援を投げかけた。しかし、その時は、別々のバスで熊本市内へ戻った。</p>
<p>　それから２ヶ月後のことである。12月に行われる「甲佐マラソン大会」で、再び彼と出会ったのである。それにしても彼が身にまとう衣服はやはりシワシワ、ダラダラ、ヨレヨレ。それもウェアの色柄がカラフルなだけに、なんともみすぼらしく映る。しかし、彼は少しも周囲にはばかることなく、前回と変わらぬ風貌でスタートの号砲を待っていたのである。</p>
<p>「河内マラソン大会」の帰り際、軽く挨拶を交わしたよしみもあって、私は彼に近づき、</p>
<p>「マラソンはランパン、ランシャツがよかとですよ」と話しかけた。</p>
<p>「そぎゃんもんかな。ばってん、わしはこつでよか」</p>
<p>　そういって彼は一向に気にしない。<br />
　今日は熊本市内から甲佐町まで24Kmのマラソンである。私は、ほぼ１キロ４分のペースで走り切った。そしてゴール後、やはり彼が気になった。とそのうち、ゴール地点に収容車が着き、そこから彼がニコニコしながら降りてきたのである。<br />
「なあんだ。リタイアしたのか」と思ったが、実はそうでなく、コース途中で具合の悪くなった選手を介抱していたと言う。自分は医者なので、見過ごすわけにはいかなかった。それで結局、介抱がてら収容車に乗り込んできた、とのことである。</p>
<p>　そんなわけで今回、彼と私は一緒の送迎バスで熊本市内まで戻った。バスの中で話し合い、それで彼が私の店から500mほどの処に住む外科医である堤　貞一郎先生であることを知った。<br />
　それからというものマラソンを通じた中高年同士の付き合いが深まり、ついに２人で「天草パールライン・マラソン大会」を企画し、大会開催を実現させたのである。今から30年前の1974年のことである。その時、私は47歳、堤先生は50歳である。</p>
<p>　それから６年後の1980年、私は「第４回ハワイ・アイアンマン大会」への出場を心に決めたが、その時、堤先生にもエントリーフォームを見せたら、彼はこう言ったのである。</p>
<p>「おるも出て、してみたか」</p>
<p>　こうして私たち２人はトライアスリートの道を歩み出したのである。</p>
<p> </p></div>
<p> </p></div>
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		<title>Vol.5：風神の巻　第１章その1：日本人の挑戦が始まった</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1138</link>
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		<pubDate>Sun, 07 Jun 2009 02:31:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[発祥]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1138</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/tri12-100x100.jpg" border="0" alt="" class="fl bdr" />その１年前の時、堀川は、「これならば自分にもできる」と確信した。そして今、目前にある２月21日号『週間文春』のグラビアページを飾っている第３回大会の模様を見て、挑戦を決意したのである。1980年２月、堀川が47歳の時だった。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p> 
<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第１章その1</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">日本人の挑戦が始まった</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri12-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri12-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">その１年前の時、堀川は、「これならば自分にもできる」と確信した。そして今、目前にある２月21日号『週間文春』のグラビアページを飾っている第３回大会の模様を見て、挑戦を決意したのである。1980年２月、堀川が47歳の時だった。</p>
</div>
<div id="attachment_1156" style="width: 235px" class="wp-caption alignright"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri13.jpg"><img class="size-medium wp-image-1156" title="＜写真＞週間文春" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri13-225x300.jpg" alt="＜写真＞週間文春" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">＜写真＞週間文春</p></div>
<p><span style="color: #ff0000;">「じゃあ、やってみるか」</span></p>
<p>堀川稔之は心の中でつぶやいた。誰に言うという訳でもなかった。昨年見た米国『ランナーズ』誌に掲載されていた第２回ノーチラス・アイアンマン大会の写真が、ずーっと脳裏に焼きついていて離れなかった。この１年間、心の奥底で「いずれは挑戦してみよう」と思い続けていたのだ。その１年前の時、堀川は、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「</span><span style="color: #ff0000;"><span style="color: #ff0000;">これならば</span>自分にもできる」</span></p>
<p>と確信した。そして今、目前にある２月21日号『週間文春』のグラビアページを飾っている第３回大会の模様を見て、挑戦を決意したのである。1980年２月、堀川が47歳の時だった。そこで堀川は、橋本治朗に連絡をとった。</p>
<p><span style="color: #23ab20;">「橋本さんのお話をぜひ聞かせて欲しい」</span></p>
<p>　第３回アイアンマン大会の模様を写真に収め、『週間文春』と『ランナーズ』にそれぞれ写真を掲載した橋本に、大会への参加条件や手続き、競技ルールや装備品、それに大会の雰囲気など、現地の情報をできるだけ仔細に聞きたかった。<br />
橋本は快く引き受け、江東区豊洲の「ドゥ・スポーツ」へやってきた。そこで堀川は、一緒にトレーニングを積みハワイ大会に出場した西沢　孝ら仲間とともに、橋本の話に耳を傾けたのである。</p>
<p>　橋本の話を胸にしまい、堀川はアイアンマン挑戦のためのトレーニングを開始した。<br />
水泳選手として馴らした若い頃から、そして今は市民マラソン・ランナーとして日々、トレーニングに励んでいたので、<br />
<span style="color: #ff0000;">「やってやれないことはない」</span>と思っていた。問題はバイクだが、これも<span style="color: #ff0000;">「やればできる」</span>という自信があった。そこで早速、ロードレーサーを購入した。&#8221;チネリ&#8221;というイタリア製の、細身のフレームパイプが魅力のロードレーサーだ。当時のサイクリストが憧れていたレーサーである。価格35万円の新品を購入した。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri2hiraki1.jpg"></a><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri2hiraki2.jpg"><img class="alignleft size-medium wp-image-1142" title="tri2hiraki2" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri2hiraki2-300x225.jpg" alt="tri2hiraki2" width="300" height="225" /></a>　その&#8221;チネリ&#8221;をクルマに積んで、東京・杉並の自宅から山梨県の西湖という、静かな湖の周辺にある峠道をのぼった。いわゆるヒルクライム・トレーニングである。ほとばしる汗を何度も何度も拭いながら、息も荒々しくあえぎながらのぼっていった。あまりにもきついのぼりなので、その峠を堀川は「地獄峠」と命名した。それでものぼってまたおりて、２回のぼった。この練習を毎月、４回やった。また信州・蓼科高原にある別荘を基点に、行程12.3kmの麦草峠までのヒルクライムも行った。</p>
<p>スイミングは月平均で２万mを泳いだ。会社の勤務が終わると「ドゥ・スポーツ」のプールへ通う。一回当たりの練習量は３kmである。水泳はお手のものだから、この程度のトレーニングは堀川にとって訳はなかった。</p>
<p>ランニングは毎月、約280Kmをメドに走った。１回当たりに走る距離は、だいたい15Kmである。これも通勤ランを含め会社勤務の前後にやった。これらバイク、スイム、ランの３種目を３ヶ月間、「そつなくこなすことができれば、ハワイ・アイアンマン大会で完走できる」と堀川は読んだのだ。</p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
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<h3>＜トライアスロン談義＞アイアンマンへの道～がむしゃらに距離をこなした日々　　【北村文俊】</h3>
<p>　早くも20年余りの歳月が経った。1980年11月頃だったろうか。朝日新聞紙上で、翌年２月にハワイ島で行われる&#8221;鉄人レース&#8221;を目指して堀川さんたち６名がトレーニング励んでいる、という記事を見つけた。同じ水泳・ランニングでも、スピードより距離を得意とする自分にぴったりだ。ぜひ出場したい！　と思い、朝日新聞社に連絡先を問い合わせ、すぐさま堀川さんたちに会いに行った。<br />
お話を伺った結果、大会まであまりに準備期間が短すぎるので81年の出場はあきらめ、次回の82年大会を目指すことにした。完走だけなら何とかなるだろうが、行くからには少しでもよい成績を出したいと考えたからである。それから1年間に行ったことは、ハワイのためのトレーニングと、81年から始まった第１回皆生トライアスロン大会への参加であった。</p>
<p>　当時の私はというと、水泳は大学院時代から毎日のようにやっており、初島～熱海間の団体競泳大会も何度か出場していた。趣味として自転車にも乗っていて、ロードレーサーも所有していた。自転車通勤もしていたが、ロードレースには出場しておらず、したがってシュープレート付きのバイクシューズなどは持っていなかった。マラソンは青梅大会など市民レベルのレースなどに参加しており、記録は忘れたが並のランナー程度だったように思う。<br />
ともあれハワイ・アイアンマンを目指すには、まずは最も経験の少ない自転車の強化をと考えた。当時住んでいた昭島市から近い立川市の「なるしまフレンド」という市民サイクル・レーシング・クラブに入会し、早速バイクシューズを買った。日曜祝日は通常クラブランの日で、数10～200km程度走り、近場でレースなどのイベントがあるときは参加、出場するという、ほとんど自転車三昧のアスリート生活を送った。</p>
<p>　ランニングは出勤前や昼休みに走っていたが、たまたま堀川さんが通勤ランで中央区京橋の会社から皇居周回を経て杉並の自宅まで走って帰るのに遭遇して、こんな方法もあるのだ！　と刺激を受けた。以来、週１～２回は、三鷹までの片道20km弱の通勤ランを始めた。<br />
水泳は職場近くの市営プールで、これまた昼休みに1.5～2km程度泳いだ。ということで、天気さえ悪くなければ毎日、朝昼晩、トライアスロンのうち２種目をこなすトレーニング生活が続いた。さらにウェイトトレーニングも加えて、筋力の強化も図った。</p>
<p>　そして、大会２週間前に申し込み、急きょ出場することになった「皆生トライアスロン大会」は、よい刺激になった。とりわけ暑さ対策と、給水の重要性を身に沁みて感じた。とにかく、がむしゃらに距離をこなすことばかりを考えていた。今考えれば、もっと合理的なトレーニングをすれば、記録も伸びたのではと思う。でも、その年11月の河口湖マラソン大会で、自己最高の3時間12分台を出した。</p>
<p>　こうして私は、82年２月の第５回ハワイ・アイアンマンにチャレンジする準備を整えたのである。それにしても、私も若かった。当時、あれだけの練習量がこなせたのだから。それもひとえにハワイという大きな目標があったからである。</p>
<div id="attachment_1147" style="width: 235px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri3kao1.jpg"><img class="size-full wp-image-1147" title="北村氏近影（03年７月、東京にて撮影） " src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/tri3kao1.jpg" alt="北村氏近影（03年７月、東京にて撮影） " width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">北村氏近影（03年７月、東京にて撮影） </p></div>
<p> </p>
<p>【北村文俊　プロフィール】</p>
<p>1950年東京生まれ。<br />
小中高と体育は大の苦手だった。ただ持久力はあったようで、大学時代の1969年の夏休みに、中古をオーバーホールしたボロ自転車で&#8221;福岡⇒東京&#8221;を９日間で走破する。大学院時代に水泳を開始。仲間に引っ張られてマラソンも始める。さらに、趣味で自転車いじりも本格化するなどスポーツの楽しさに目覚め、水泳指導員の資格も取った。卒業後も仲間との関係、スポーツとの付き合いは続き今日に至る。<br />
『日本トライアスロン物語』編集委員会委員。</p></div>
</div>
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