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	<title>TRI-X &#187; 普及</title>
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		<title>Vol.37：雷神の巻　第４章その6：ＪＴＲＣが核分裂</title>
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		<pubDate>Sat, 27 Jun 2009 06:01:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />こうしてＡＴＣは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第６章その７</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">ＪＴＲＣが核分裂</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">こうしてＡＴＣは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。</p>
</div>
<p>　<br />
 1984年10月のアイアンマン・ハワイに42名のアスリートを送り込んだJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）は、発足してからほぼ２年の歳月を経て、全国に23支部を設けると共に、会員数は総勢300名を超える大所帯となった。その中でクラブ運営の要として活動したのが会長の矢後潔省（きよみ）であり、次いで副会長の白川春雄と市川祥宏（まさひろ）、それに東京支部長の猪川三一生（みちお）や神奈川支部長の中山俊行だった。<br />
　そのほか会員メンバーであり「全国トライアスロン協議会」の代表幹事である清水仲治（なかじ）や新たに事務局を担った吉田三千代らが、JTRCの全国的な活動を支えた。その活動のシンボルが２箇月に１回、発行する『トロピカーナ』と称するB４版サイズのクラブ会報だった。彼らJTRCの幹部達は、この会報を毎月1回、全国各支部の会員に送る為、横浜市磯子区にある清水宅に市川や猪川、中山らが集まり発送作業に携わった。彼らはクラブ活動を通じて多くの人々をトライアスロンへ勧誘し、共に楽しみながら普及、発展させていこうという気持に満ち溢れていた。</p>
<p>　しかし、その『トロピカーナ』の会報作りで、会長の矢後と清水が制作方法等で対立した。その結果、清水は怒ってJTRCを脱会したのだ。また、クラブ運営面で矢後の、やや独裁的な振る舞いが、会員の中から不平不満や批判が出ていたことも事実だった。<br />
　84年10月のハワイ大会が終わった翌11月、JTRC内は激動した。JTRC会員のうち東京・神奈川・千葉を中心とした関東地域の会員は総勢80名ほどだが、このうち猪川を中心とした東京支部のメンバー20余名が、東京駅前の東洋インキ製造株式会社の本社ビル内の酒場に集まった。</p>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「清水先生の脱会でも分るように、矢後さんのやり方は、独裁的過ぎる」</span></p>
<p>　<span style="color: #339966;">「矢後さんの居る静岡がクラブ活動の中心になっているが、これからのことを考えるとJTRCの本部が静岡ではやりにくい」</span></p>
<p>　<span style="color: #993366;">「我々、首都圏での練習会を、もっと活発化させたい」</span></p>
<p>　<span style="color: #80ab00;">「その為には矢後さんに会長を降りてもらうか、或いはJTRCを脱会して我々が新しいクラブを創るかどうかだ」</span></p>
<p>　様々な意見が出た。その結果、JTRCを脱会し、首都圏を中心としたトライアスリートの為の新しいトライアスロン・クラブを結成する方向性が確認された。折りしも、来月９日には東京・有楽町のニュー東京ビルで、JTRCの忘年会パーティが開かれようとしている矢先のことである。<br />
　翌12月、新クラブ結成の為の会合が、東京・品川の大衆酒場で行われた。集まったのは清水、市川、猪川、小野泰正（やすまさ）の４名である。清水は「全国トライアスロン協議会」の代表幹事を務めていたものの、83年の第３回皆生大会を最後にトライアスロンから足を洗い、好きな自転車で海外旅行を楽しんでいる最中だったが、市川の説得でトライアスロンに復帰したのである。</p>
<div id="attachment_1859" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kaihou.jpg"><img class="size-medium wp-image-1859" title="85年2月に刊行したATC会報第１号" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kaihou-300x165.jpg" alt="85年2月に刊行したATC会報第１号" width="300" height="165" /></a><p class="wp-caption-text">85年2月に刊行したATC会報第１号</p></div>
<p> <br />
　そして新クラブの名称は、市川が命名した。その名も「全日本トライアスロンクラブ」、英語でAll Japan Triathlon Club（略称ＡＴＣ）と名乗った。略称は本来ならば「AJTC」だが、この４文字だとJTRCに似通った印象があるとして、敢えて「ＡＴＣ」の３文字にしたという。　<br />
　こうしてＡＴＣは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。しかし、エリート選手として活躍中だった東京の中山、飯島健二郎、山本光宏はＡＴＣメンバーには加わらなかった。すでにその時、水面下ではエリート選手達による選手会結成構想、そして翌1985年２月に発足したプロ・トライアスリートによる「チーム・エトナ」発足の話が密かに進められていたからである。</p>
<div id="attachment_1860" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima.jpg"><img class="size-medium wp-image-1860" title="85年４月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったＡＴＣのメンバー達" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-300x198.jpg" alt="85年４月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったＡＴＣのメンバー達" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">85年４月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったＡＴＣのメンバー達</p></div>
<p> 　JTRCに次ぎ我が国では２番目の大所帯となるトライアスロン・クラブは、こうして発足し、その後、田中宏昭や井口太郎、宮塚英也、遠藤栄子、村上純子といった日本を代表する選手を排出したほか、肥後照一、久保欽司、仙石元則、平井太郎、早川征志、北村文俊、中山嘉太郎、高村公子、後藤　翠、鈴木令子といった数々のアイアンマン、トライアスロンの強者を擁するに至った。85年以降、会員数が減退していったJTRCとは対照的に、ＡＴＣの会員数は最盛期には約800名近くに上ったのである。</p>
<div id="attachment_1861" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/party.jpg"><img class="size-medium wp-image-1861" title="大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/party-300x206.jpg" alt="大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏" width="300" height="206" /></a><p class="wp-caption-text">大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏</p></div>
<p>　JTRCもＡＴＣも共にアマチュアのトライアスリートが集まったクラブだが、後に両クラブの主要メンバー達は、「全国トライアスロン協議会」から発展し1986年３月に設立された「日本トライアスリート協会」の主導権争いを行うことになる。一方、JTRC会長の矢後は、２年後の87年には日本のトライアスロン界から一切、身を引いた。<br />
 <br />
《次回予告》<br />
<span style="color: #7eb318;">日本人トライアスリートのプロフェッショナル集団「チーム・エトナ」の発足と、トライアスロンをイベント・ビジネスとして展開しようと活動していた日本トライアスロン連盟（JTF）のオーナーである高木省三氏らの動静を紹介すると共に、当時、大学生でありながら日本のエリート選手として大活躍した山本光宏氏の当時の思い出を《トライアスリート談義》として掲載します。</span></p>
<p> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p> </p>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロン仲間は人生の宝物　【青木　忠茂】</h3>
<p>　小学性時代から肥満児だった私はスポーツと縁遠い存在でしたが、それでも高校と大学では軟式テニスとスキーを楽しんでいました。“お遊びスポーツ”のレベルでしたが、それでも少しは運動で汗を流す喜びは味わっていたのです。しかし、学校を卒業して家業の写真の仕事を始めましたら、スポーツどころか休日も無い程、毎日、仕事に追われ、ついに大人の肥満児とも言うべきメタボリック状態になってしまいました。30歳当時の身長は165cm、これに対し体重は、なんと85kgにもなったのです。おまけに煙草も吸っていましたので、</p>
<p>　<span style="color: #800080;">「これは、やばいぞ。運動をして減量しなければ」</span></p>
<p>などと思い詰めた挙げ句、始めたのがジョギングでした。しかし、身体が重くて重くて、最初の頃は４Kmを走るのがやっとという有り様。でも頑張って続け、３年後の1984年１月には千葉県館山市で始まった25Kmロードレース（後の館山若潮マラソン大会）に出場、自分なりに納得の成績で完走を果たしました。もうこうなるとマラソンは止められません。次いで同じ年の７月に行われた富士登山競争にもチャレンジ、残念ながら制限時間を５分オーバーしましたが、４時間35分で富士山の頂上まで走り続けることが出来ました。　その一方で、私はトライアスロンと言うニュー・スポーツがアメリカを始め世界各国でブームになっていることを、ランナーズ社が発行する『アスレティック・ブック』で知りました。その雑誌の中で“アイアンマン”と言う言葉に強く惹かれたのです。しかし、私が出来るのはランニングだけです。子供の頃の苦い経験もあって水泳嫌い、もちろんドロップ・ハンドルの自転車に乗ったことは一度もありません。</p>
<p><span style="color: #800080;">　「でも、やってみたい！　アイアンマンになってみたい」</span></p>
<p>　そこで８月から船橋駅前にあるスイミング・スクールへ通い始めました。また、千葉県柏市のプロ・ショップとして有名な「シクロウネ」でロードレーサーを注文すると共に、そこに集まるサイクリスト達と日曜日の朝に行う練習会に参加、トライアスロンへの第一歩を踏み出したのです。<br />
　そして、下総の大地が紅葉に染まる11月のことでした。「シクロウネ」でトライアスリートとして活躍中の市川祥宏さんと出会ったのです。市川さんも私とお同じ千葉県人で、お名前の通り市川市に住んでおられました。市川さんは、</p>
<p>　<span style="color: #ff9900;">「一緒に練習しましょう。今度、トライアスロンのクラブをつくりますから、入会して下さい」</span></p>
<p>等と、自宅に電話をかけてきて、盛んに私を誘ってくれます。しかし、私はクラブ加入に消極的でした。何故ならばトライアスロンは本来、独りで取り組むスポーツだと思っていたし、実際、トレーニングも何もかもを自分なりにやりたいと思っていたからです。しかし、親切な市川さんに対する義理も感じて、その年の12月に発足したＡＴＣに入会しました。</p>
<p>　年が明けた85年１月、私はランナーズ社を訪ね、発刊したばかりの『トライアスロン・ジャパン』誌で当時、取材編集を担当していた勅使河原義一さん（後に同誌編集長）に会い、ハワイ・トライアスロン大会に関わる情報を聞きました。そして、その上でランナーズ社がコーディネートするハワイ・ツアーへの参加を申し込むと共に、85年10月の大会へエントリーしたのです。<br />
　なんと無謀な！　自転車は「シクロウネ」のアサレンに参加する程度、水泳は殆どトンカチ同然の私が、事もあろうにアイアンマンに挑戦するとは…。内心そう思いましたが、何としても私は“アイアンマン”になりたい一心でした。しかし、ハワイ大会の前にクリアしなければならないことが生じました。<br />
　それは、アイアンマン・ハワイの日本における予選会として６月に開催されることが決った第１回びわ湖トライアスロン大会に出場し、完走しなければならなかったからです。でも、その年の春の段階で私が泳げる距離は、たった200mです。別途、ＡＴＣの仲間からは４月に開かれた第１回宮古島トライアスロン大会に誘われたのですが、スイムが出来なかったので、出場を断わったほどの私です。　果たして、びわ湖大会を完走することが出来るのか？　そして、ハワイ大会出場の切符を得ることが出来るかどうか？　風雨の中、琵琶湖の冷たい水を掻き分けながら、私の心は震えていました。寒さ避けでゴム手袋をはめたものの、手袋の中に水が入ってしまい泳ぐのに苦労しました。それでも、辛うじて制限タイム２時間30分よりも２分30秒早くゴールすることが出来ました。続くバイクもランも何とかこなし、総合15時間11分22秒で人生初めてのトライアスロンを完走したのです。</p>
<div id="attachment_1863" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/biwa.jpg"><img class="size-medium wp-image-1863" title="びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでＡＴＣの仲間と記念撮影（写真左から２番目）。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/biwa-300x210.jpg" alt="びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでＡＴＣの仲間と記念撮影（写真左から２番目）。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでＡＴＣの仲間と記念撮影（写真左から２番目）。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。</p></div>
<p>　びわ湖大会を完走した私は、もう自信たっぷり！　おまけに市川さんも、</p>
<p>　<span style="color: #ff9900;">「ハワイの海は静かで、宇宙遊泳のように楽しくラクチン。びわ湖を泳いだのだから、ハワイも大丈夫ですよ」</span></p>
<p>等と、私をその気にさせてくれます。しかし、実際はとんでもハップンでした。折りからのハリケーン到来で海は大荒れ、スイムは大きな波に揺られながら必死の形相で泳ぎました。次いでバイクも約150Km地点で後方からカナダ人に追突され、挙げ句、後輪のリムが振れてしまい、残りの30Km余りの距離をヨレヨレの状態で走りました。まあ、それでもスイム２時間９分、バイク６時間47分、ラン５時間８分、総合14時間５分23秒の811位でフィニッシュ、ついに憧れの“アイアンマン”になったのです。</p>
<p> </p>
<div id="attachment_1865" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiba1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1865" title="86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。（写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiba1-300x208.jpg" alt="86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。（写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長）" width="300" height="208" /></a><p class="wp-caption-text">86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。（写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長）</p></div>
<p> 　それもこれも皆、市川さんを始めとするＡＴＣの方々が私を支えてくれたお陰だと思います。当初は「すべて独力でハワイを完走する、或いはしたい」と思っていた私ですが、実際にやってみて、私独りでハワイ大会を完走することは出来なかったとつくづく感じます。トライアスロン参加の為のツールや情報、そしてトライアスロン仲間の励ましやコミュニティがＡＴＣというクラブを舞台にあったからこそ、私はアイアンマンになれたと思います。<br />
　そんな感謝の気持もあって、ハワイ大会以降、私はＡＴＣの役員としてクラブ運営に積極的に関わるようになり、後に編集委員長としてクラブ会報づくりを通じトライアスロンの仲間づくりに取り組みました。誰もがトライアスロンに参加出来るように、そして一緒にトライアスロン・スポーツに励み、楽しむ世界を広げたいという強い願いを込めて、会報を創りました。最終的にＡＴＣのクラブ員は首都圏と近畿圏を中心に780名余が加盟するトライアスロン・クラブに成長していきましたが、その過程で私は、愉快で心優しい沢山の仲間と交流が出来たことを、本当に嬉しく思っています。その意味で、トライアスロンの仲間は私にとって“人生の宝物”です。</p>
<div id="attachment_1866" style="width: 190px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aokisi.jpg"><img class="size-full wp-image-1866" title="青木忠茂氏近影（千葉・船橋市にて、09年2月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aokisi.jpg" alt="青木忠茂氏近影（千葉・船橋市にて、09年2月撮影）" width="180" height="239" /></a><p class="wp-caption-text">青木忠茂氏近影（千葉・船橋市にて、　09年2月撮影）</p></div>
<p>【青木忠茂氏プロフィール】</p>
<p><span style="color: #14a22b;">1951年、千葉県船橋市で生まれ育つ。青山学院大学経営学部を卒業後、家業の写真店を拠点にフォトグラファーとして活動を開始する。30歳の時にダイエットの為、ジョギングを開始、ついには富士登山競争に毎年、挑戦するようになった。33歳の時、トライアスロンを知り、85年アイアンマン・ハワイを完走した。87年の宮古島トライアスロン大会を最後に現役を引退したが、ＡＴＣの主要メンバーとして会報制作を通じてトライアスリートの仲間つくりや後進の指導、育成に努める。『日本トライアスロン物語』編集委員会委員。</span></p>
<p><span style="color: #149b11;"> </span></p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.36：雷神の巻　第４章その5：アイアンマン大会を日本でも開こう</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1844</link>
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		<pubDate>Sat, 27 Jun 2009 04:38:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
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		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/07-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その5</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">アイアンマン大会を日本でも開こうく</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」</p>
</div>
<p>　<br />
 名実共にJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）がトライアスロン・クラブの代表的な地位を確立するのに伴い、会長の矢後潔省（きよみ）の存在も自ずと大きくなっていった。それは我が国トライアスロン組織の前身として結成された「全国トライアスロン協議会＝清水仲治代表幹事」の会議の場においてもそうだったが、他方、トライアスロン大会の開催と運営に関しても、矢後は主導的な役割を担った。<br />
　1984年10月、JTRCのメンバー40名余と共にアイアンマン・ハワイを終えて帰国した矢後は、静岡県小山町の自宅の部屋で日本地図を広げていた。ハワイで大会会長のバレリー・シルクから託されたことを思い起こしていたのだ。シルクが託したこととは、</p>
<p><span style="color: #63a819;">「矢後さん、あなたの力でアイアンマン大会を日本で開いてくれませんか」</span></p>
<p>　この時、シルクはアイアンマン・トライアスロン大会の開催権を巡って日本企業と譲渡交渉を進めていた。その企業とは、大手広告代理店である株式会社電通と、大阪に本社を置く共栄精工株式会社である。共栄精工㈱の社長である高木省三は本業のベアリング製造販売の外、アメリカを拠点にブランド（商標権）ビジネスを展開しており、日本での&#8221;アイアンマン・レース&#8221;の開催に強い関心を持っていた。しかし、開催権は最終的に㈱電通が取得した為、翌85年に日本トライアスロン連盟（JTF）を結成し、10月には熊本県天草でショート・タイプのトライアスロン・シリーズを立ち上げたのである。<br />
　シルクは84年11月に来日し、㈱電通の責任者であるスポーツ文化事業局次長スポーツ１部長の西郷隆美（1990年没）らと会ったが、その際、電通を選んだ理由について、「本社ビルが大きかったので譲渡した」と言う。日本を代表する広告代理店としてテレビなどマス・メディアに通じ、またイギリスのウィンブルドン・テニスの日本での放映権を取得する等、スポーツ・イベント・ビジネスを展開してきた西郷の力量を買ったのだ。</p>
<div id="attachment_1845" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07.jpg"><img class="size-medium wp-image-1845" title="85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07-300x203.jpg" alt="85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。" width="300" height="203" /></a><p class="wp-caption-text">85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。</p></div>
<p> 　こうした日本におけるアイアンマン・トライアスロン開催権を巡る動きをバックに、矢後は大会開催地を模索する。そして、日本地図の中央位置「滋賀県」に目を据えて、そこが日本最大の湖「琵琶湖」を擁し、バイク距離180Kmのコースづくりがし易く道路交通事情が良好な適地であることに注目したのだ。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「そう！　風光明媚な琵琶湖を舞台に、アイアンマン・レースの壮大なロケーションをセットしよう」</span></p>
<p>　矢後は早速、JTRC滋賀支部長の上村光男に応援を頼みつつ、自ら滋賀県庁へアプローチを開始した。当時、県の担当部署だった企画部企画調整課へトライアスロンのビデオテープを50本ほど送り、トライアスロンへの理解を求めたが、しかし反応は一つもなかった。そこで矢後は西郷と相談の上、㈱電通京都支局の営業担当者と共に彦根市を中心に現地探訪に出向いたのである。<br />
　ところが、初めて訪問した滋賀県庁では、門前払いに遭った。「そんな面倒なイベントに協力できない」とのことだ。そこで矢後達一行は彦根市のホテルに泊まり込み、トライアスロン３種目のコース設定を行いつつ、県庁へ乗り込むチャンスを伺った。そんなある日、彦根市のプールに後の大蔵大臣であり第５代滋賀県知事の武村正義が居ると聞いた矢後は、早速、そのプールに駆け付け武村に協力を求めた。すると武村知事は、現下に、<br />
 <br />
<span style="color: #63a819;">「よし、やろう」</span></p>
<p>と、快諾したのである。矢後は、</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「なんて物分かりの良い人なのだろう」</span></p>
<p>と、すっかり驚いた。目から鱗が落ちる思いだった。</p>
<div id="attachment_1846" style="width: 160px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiji.jpg"><img class="size-full wp-image-1846" title="当時の武村正義滋賀県知事" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiji.jpg" alt="当時の武村正義滋賀県知事" width="150" height="181" /></a><p class="wp-caption-text">当時の武村正義滋賀県知事</p></div>
<p>　一方、びわ湖大会と同じく85年に開催を予定している沖縄県宮古島大会へアイアンマン・トライアスロン開催の話も持ち上がっていた。この為、同じJTRCメンバーであり株式会社日本航空（JAL）の社員だった猪川三一生（みちお）を通じて、矢後はJAL幹部と話し合う機会を持った。だが条件が合わず、断わったと言う。このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。</p>
<p><span style="color: #a51eb8;">「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」</span></p>
<p> </p>
<div id="attachment_1847" style="width: 288px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/18.jpg"><img class="size-medium wp-image-1847" title="びわ湖トライアスロン第１回大会当時の西郷隆美氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/18-278x300.jpg" alt="びわ湖トライアスロン第１回大会当時の西郷隆美氏" width="278" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">びわ湖トライアスロン第１回大会当時の西郷隆美氏</p></div>
<p>《次回予告》<span style="color: #ff9900;">84年12月にJTRCから分離、独立したATC（全日本トライアスロン・クラブ）の結成について記すと共に、《トライアスロン談義》としてATC発足初期からクラブ会報作りを通じてATCのクラブ活動の中枢として活躍した青木忠成氏の談話を紹介します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞男のロマンは女の迷惑　【佐藤　文昭】</h3>
<p> 　<span style="color: #95ad14;">「あえて困難を求めたい」</span></p>
<p>　私が高校・大学と山岳部に所属したのは、あえて「困難なことに立ち向かう」格好の良さに憧れたのかもしれない。しかし、そんな私の夢は、山岳の為に行う厳しい練習や山行の度に、何度も挫けそうになった。先を歩む友に遅れまいと激しい息遣いを繰り返しつつ懸命に追う山行に、どんなに苦しくても頑張る決意は度々、崩れ去る屈辱を味わった。<br />
　山岳部においては他の運動部と同様に、上層部コーチ陣の「人事」によって山行パーティーのメンバーが決定される。この「人事」に文句を言わずに無難にやり遂げることが必要で、失敗すれば次に面白いことはさせてもらえない。私は「人事」においてしばしば員数外で、思うように活躍することが出来なかった。だから、大学を卒業した私が将来性のない零細な家業を継いだのは、自分の思うように生きたかったからだ。それからは｢人事のない世界｣でひたすら商売一筋、仕事に打ち込む傍ら、たまにスキーを楽しむ生活を20年ほど送った。</p>
<div id="attachment_1849" style="width: 210px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/image_1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1849" title="2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/image_1-200x300.jpg" alt="2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" width="200" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）</p></div>
<p> 　そんな平凡な暮らしの中で40歳を過ぎた頃、私の目が留めたのは、「ジョギングをすると特殊な脳内物質が発生し、禅僧が禅を組み瞑想しているような思いが得られる」という記事だった。折りしも日本はジョギング・ブームに湧き、そのブームに乗って出版されたジョギングを奨める一冊の本の中の話であった。</p>
<p><span style="color: #95ad14;">　「ほほう。瞑想ね。面白そうだから、やってみるか」</span></p>
<p>　息も絶え絶えにもがき苦しんだ山岳部時代のランニング練習とは全く異なり、今は自ら与えた新たな課題に対し、私の心は軽かった。人に命令されて走るのではない。自分自身で決めて、自分なりにやれば好いのだ。そう思うと、気持は爽やかだった。涙の過去をかなぐり捨て一から始めた私は、２年後に初めて出場した河口湖のフル・マラソン大会で３時間40分のタイムで走り切った。<br />
　そして、その過程でマラソン・トレーニングの手法の一つとして知ったのがトライアスロンだった。&#8221;自然流ランニング&#8221;を提唱する群馬大学教授の山西哲郎氏の著作に触発され、トライアスロンへの挑戦を思い立ったのである。早速、JTRCの矢後会長に手紙を送り、トライアスロンの仲間に入れてもらった。1983年夏、私が43歳の時である。</p>
<div id="attachment_1850" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4754.jpg"><img class="size-medium wp-image-1850" title="JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4754-225x300.jpg" alt="JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。</p></div>
<p>　トライアスロン・デビューはその年の９月、第３回湘南ハーフ・トライアスロン大会だった。出場選手101名中、32位の総合７時間01分40秒の記録で完走した。以後、私はすっかりトライアスロンに嵌まって、翌年の湘南ハーフは総合タイム５時間47分02秒と大幅にタイムを縮め40歳台で４位に入賞したのを皮切りに、皆生トライアスロン大会を経てアイアンマン・ハワイにも出場、いずれも完走を果たした。最初は５Kmのジョギングが精一杯だった私だが、それからおよそ25年間、数々の大会を経験し、今もなお現役としてトライアスロンを楽しんでいる。<br />
　こうしてトライアスロンを続けてこられたのも、トライアスロンが他人からの強要や、過度な根性を必要としないからだ。よく人は「鉄人ですね。そんな長い距離を走り切るなんて、すごい体力、精神力が必要なのでしょうね」などと感心するが、実はそうではない。トライアスロンは自分自身の判断でエントリーして、その大会に合わせたトレーニングをゆっくり積み上げていけば、余程のアクシデントが無い限り完走できる。その点でトライアスロンは老人にも相応しいスポーツだと言える。<br />
　それは登山でも同じことだ。今でもテレマークによる山岳スキーを国内だけでなくカナダ･ヨーロッパでも楽しんでいる。</p>
<div id="attachment_1851" style="width: 225px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman_2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1851" title="05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman_2-215x300.jpg" alt="05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。" width="215" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。</p></div>
<p>　しかし、である。65歳から参加、出場した佐渡トライアスロン大会（Ａタイプ）では、これまで４回、チャレンジしたが、すべてランで時間切れとなり、完走を果たしていない。だから、何としても完走をしたい！　それが今の私の夢、男のロマンでもある。でも、この私のロマンに、きっと女房は迷惑していることだろう。男のロマンは女にとって、否、人類にとって迷惑千万かも知れない。</p>
<div id="attachment_1852" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg5278.jpg"><img class="size-medium wp-image-1852" title="佐藤文昭氏近影（東京・市ヶ谷にて、08年12月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg5278-300x225.jpg" alt="佐藤文昭氏近影（東京・市ヶ谷にて、08年12月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">佐藤文昭氏近影（東京・市ヶ谷にて、　08年12月撮影）</p></div>
<p>【佐藤 文昭氏プロフィール】<br />
<span style="color: #1b9d0f;"><span style="color: #16830c;">1940年、東京・九段で生まれ育つ。慶應義塾大学を卒業後、家業の書店「政文堂」を継ぐ。青年時代は山岳やスキーを楽しんだが、40歳を過ぎてマラソンを始め、次いでJTRCメンバーとなりトライアスロンに挑戦する。44歳の時、皆生トライアスロン大会やアイアンマン・ハワイを完走、以後、四半世紀に及びトライアスロン人生を送る。ハワイを始めびわ湖・フロリダ・海南島等のアイアンマン・レースに出場し、すべて完走を果たす。2000年11月にはネパールの「エヴェレスト・マラソン」にも参加、完走する。</span><br />
</span></p>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.35：雷神の巻　第４章その4：アイアンマンを目指して、燃えよう！</title>
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		<pubDate>Fri, 26 Jun 2009 05:40:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その4</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">アイアンマンを目指して、燃えよう！</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>  1984年11月、トライアスロン愛好者を中心とするアマチュア競技団体の前身とも言うべき「複合耐久種目全国連絡協議会」が結成されたのに伴い、トライアスロン人口は日増しに膨れ上がり、それはやがてトライアスロン・クラブの結成へと繋がっていった。その先駆けとなったのが同協議会幹事となった永谷誠一が会長を務める熊本CTC（クレイジー・トライアスロン・クラブ）や、同じく矢後潔省（きよみ）が会長のJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）であった。<br />
　そのほか福岡県久留米市を舞台にローカルなトライアスロン大会を開催する「スーパーマン・クラブ・イワイ」や、茨城県では82年２月のアイアンマン・ハワイを完走したマラソン・ランナーの松田　泉、千枝夫妻がコーチ役を務める「筑波学園都市トライアスロンクラブ」が、その年の４月に設立された。<br />
　同じ82年に「岡山アイアンマン・トライアスロンクラブ」がクラブ員７名で活動を開始したのを始め、翌83年４月には「福井トライアスロン協会」と名乗り福井県内のアスリート達10名がクラブ活動をスタートさせた。さらに84年春に発足し真砂嘉晴会長以下30名余の会員を擁する「兵庫トライアスロン・クラブ」は、先輩の「熊本CTC」とも連携を図りながらトライアスリートの養成に力を入れていった。</p>
<p>　こうしたトライアスロン・クラブ結成の全国的な広がりの中核となっていたが、会員数で圧倒的な数を擁するJTRCであったことは間違いない。82年暮れに「JTRC」と命名しクラブ活動を開始、翌83年春にランニング雑誌『ランナーズ』誌上で会員を募った会長の矢後は、自宅の在る静岡県駿東郡小山町に本部を置きながら、自ら出場、完走を果たした82年の皆生トライアスロン大会と82年10月のアイアンマン・ハワイ大会で知り合った白川春雄や鈴木将弘、市川祥宏、脇田重男、横井信之らと連絡を取り合い、全国各地域に支部を設置していったのである。</p>
<div id="attachment_1829" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753.jpg"><img class="size-medium wp-image-1829" title="JTRCのクラブ旗（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-300x211.jpg" alt="JTRCのクラブ旗（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" width="300" height="211" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCのクラブ旗（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）</p></div>
<p>　JTRCの会員は当初、地元の静岡県内を中心に構成されていたが、&#8221;アイアンマン&#8221;の名が世に知られ、次第にアスリートの間でトライアスロンへの憧れと期待が膨らむにつれ、会員は全国的な規模で増えていった。矢後はトライアスロンを広めたい一心で毎日、全国各支部へ電話をしたり手紙を書いたり、スポーツ・グッズの梱包作業を行ったり、夜を徹してクラブ発展の為に活動した。<br />
　また、その情報ツールとして作られたのが、B4版サイズの『トロピカーナ』と称するJTRCの会報で、当初は神奈川県会員だった清水仲治が中心となって編集作業が行われた。しかし、間もなく会報作りは矢後の補佐役となりクラブの会計を担当することになった「トロピカル・ケイ」こと小林恵子が当たる。</p>
<div id="attachment_1830" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan100021.jpg"><img class="size-medium wp-image-1830" title="役員リストが載った『トロピカーナ』第11号" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan100021.jpg" alt="役員リストが載った『トロピカーナ』第11号" width="300" height="250" /></a><p class="wp-caption-text">役員リストが載った『トロピカーナ』　第11号</p></div>
<p>　「トライアスロン　何と魅力のあるスポーツなんだ　俺達の心を奪うなんて!!」とのタイトルで巻頭を飾る83年12月発行の『トロピカーナ』第10号では、小林がクラブ創立1周年の記念パーティが盛況理に開催されたことについて記している。その中で小林は、「これもひとえに165名のメンバー各位様のご協力のたまものと、スタッフ一同心から御礼申し上げます」と述べ、すでにこの時点でJTRC会員が全国に165名登録されていることを明らかにした。因みに、小林は83年のハワイ大会に日本人女性４名のうちの一人として出場し、15時間台のタイムで完走を果たしている。女性トライアスリートとして活躍する傍ら、JTRCの主要メンバーとしてクラブ運営に当っていたのである。<br />
　そして、年が明けた84年１月の『トロピカーナ』第11号では、「サｱー！　本年も燃えようぜ!!」のタイトルを付して、15支部局長などクラブ役員の名を掲載している。それによると矢後会長ほか、副会長にはクラブ活動の取り纏め役として埼玉県の白川、大会・行事の開催を司る役割として千葉県の市川の２名が専任された。<br />
　その他、新たに設置された支部長として滋賀県の上村光男、長野県の林　貞治、兵庫県の下島克巳が選ばれた。また、当初からJTRCに関わった愛知県の横井信之は愛知支部の補佐役に回り支部長には藤田勝啓が、神奈川支部の補佐役には後に小林から『トロピカーナ』の編集を引き継いだ成宮芳子が、千葉支部の補佐役に田中義巳が指名されている。</p>
<div id="attachment_1831" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan10001.jpg"><img class="size-medium wp-image-1831" title="83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から２番目が市川副会長、７番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan10001-300x208.jpg" alt="83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から２番目が市川副会長、７番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。" width="300" height="208" /></a><p class="wp-caption-text">83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から２番目が市川副会長、７番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。</p></div>
<p>　こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。<br />
　この間、JTRCに入会したトライアスリートは約1,000名近くに達するといわれ、後にトライアスロンの世界で活躍した会員として、エリート選手に中山俊行や横井信之、JTRCと袂を分かち新たなクラブATC（全日本トライアスロンクラブ）を立ち上げ会長に就任する清水仲治と理事長の市川祥宏、JTRC並びにATCを離脱してプロ・トライアスリートによる&#8221;チーム・エトナ&#8221;監督に就任する猪川三一生、猪川と同じ東京出身でJTRC東京支部長となった佐藤文昭、JTA（日本トライアスロン協会）の初代理事長となる永田　峻らの名があげられよう。</p>
<p> <br />
《次回予告》<span style="color: #993300;">1985年６月に開催された日本のアイアンマン大会「アイアンマン・ジャパン・イン・びわ湖」を巡る開催前夜の秘話を、JTRCメンバーの活動を通じて紹介すると共に、《トライアスロン談義》では、今なお現役のトライアスリートとして活躍する東京の佐藤文昭氏の話を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞何事も前向きに考えられた　【永田 峻】</h3>
<p> 　1984年の春、私は株式会社ランナーズが企画、主催した長野県池の平での&#8221;クロカンスキー・キャンプ&#8221;に参加しました。その時、偶然にも出会ったのが、熊本CTC会長の永谷誠一さんやJTRC副会長の白川春雄さん達でした。彼らと同じく私も黒のバイク・パンツを履いていたので声を掛けられ、トライアスロンの話題へと話が弾んでいったのです。<br />
　私はその年の２月に千葉県佐倉市で行われたマラソン大会に完走（３時間50分）したばかりのアスリートの駆出しでしたが、トライアスロンのことは前年の７月に日本経済新聞に掲載された熊本の外科医師で日本人最初のアイアンマンの一人である堤貞一郎さんの記事を読んでいて、大きな関心を抱いておりました。小学生の頃から水泳は得意種目だったし、サイクリングが好きで30歳過ぎてからロードレーサーを乗り回していたし、初めてながらフル・マラソンを走り切ることが出来たので、<span style="color: #50b620;">「ならばトライアスリートも同じこと」</span>と、永谷さん達に強く勧められるがまま、JTRCの会員になったのです。</p>
<div id="attachment_1833" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nagatani0612.jpg"><img class="size-medium wp-image-1833" title="オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問（06年12月、写真提供；永田氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nagatani0612-300x199.jpg" alt="オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問（06年12月、写真提供；永田氏、以下同）" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問（06年12月、写真提供；永田氏、以下同）</p></div>
<p>　そして、その年の８月、第４回湘南ハーフ・トライアスロン大会に出場したところ、なんと！　自分でもビックリする程の好成績を修めました。すっかり気を良くしてしまった私は、またまた、なんと！　我ながら無謀と知りながらも、10月に行われる第８回ハワイ・トライアスロン大会への参加申し込みを行ったのです。大会では、完走出来るか？　心許ない気持ちでスタートしたのですが、14時間後半のタイムで完走し、自分としては上出来の結果に終わりました。<br />
　こうして私は84年の１年間にアイアンマンまで上り詰めてしまったのですが、だからと言って私が特段に優れたアスリートだった訳ではありません。私の経験からすれば、トライアスロンは決して激しい運動ではないし、ある程度のトレーニングは必要ですが、無理をせず自分の身体と対話しながら、ゆっくり楽しめるスポーツだと思います。だから今、思うと、当時41歳でしたが、</p>
<p><span style="color: #d42a9e;">「トライアスロンをやっていて良かった。日常生活も仕事も、何事も前向きに考えられる。朝、ランニングをやって、それから会社に出掛ける日々が続いたけれど、眠気が起きるどころか、仕事の能率も上がった」</span></p>
<p>　そんな充実したサラリーマン生活を続けることが出来ました。</p>
<div id="attachment_1834" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman1984.jpg"><img class="size-medium wp-image-1834" title="84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン（写真中央、ゼッケン783）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman1984-300x232.jpg" alt="84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン（写真中央、ゼッケン783）" width="300" height="232" /></a><p class="wp-caption-text">84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン（写真中央、ゼッケン783）</p></div>
<p>　しかし、私のトライアスロン人生は短いものでした。87年秋、オランダのアムステルダム市で開かれた国際トライアスロン連盟（略称TFI）の総会にJTAの副会長として出席し帰国した後、会社から海外渡航の命令が下されたのです。アメリカ・バージニア州での原子力発電所建設プロジェクトの責任者として渡米することになりました。もっとトライアスロンと関わり、トライアスロンの普及、発展の為に尽くしたい気持はありましたが、二足の草鞋は無理と判断し、JTAの役員を辞したのです。</p>
<div id="attachment_1835" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/st_bernard0606.jpg"><img class="size-medium wp-image-1835" title="オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え（06年６月）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/st_bernard0606-300x199.jpg" alt="オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え（06年６月）" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え（06年６月）</p></div>
<div id="attachment_1836" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/mont_blanc0802.jpg"><img class="size-medium wp-image-1836" title="フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降（08年２月）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/mont_blanc0802-300x225.jpg" alt="フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降（08年２月）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降（08年２月）</p></div>
<p>　その２年余り後の1990年、私はアメリカでの任務を終え帰国しましたが、再びトライアスロンには携わることはありませんでした。そして定年を過ぎた今の私は、かねてからやりたくて出来なかったことに向き合っています。それはスポーツではなく、リコーダーの演奏や合唱等で、好きなバロック音楽のアンサンブルを楽しんでいます。また、60歳になってからBMW1200ccオートバイを購入、日本全国とヨーロッパ・アルプスの分水嶺を越える峠道を走る旅へと出掛けました。さらに６年前からはゲレンデスキーを再開し、モンブランなど欧州の雪の世界を滑走しています。<br />
　こうして今、振り返ると、トライアスロンは私の人生にとって一つの道標だったのかもしれません。</p>
<div id="attachment_1837" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4844.jpg"><img class="size-medium wp-image-1837" title="永田　峻氏近影（08年６月、横浜駅前のホテルにて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4844-300x225.jpg" alt="永田　峻氏近影（08年６月、横浜駅前のホテルにて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">永田　峻氏近影（08年６月、横浜駅前のホテルにて撮影）</p></div>
<p>【永田 崚氏プロフィール】<br />
<span style="color: #99a922;">1943年、東京で生まれ、４歳の時から大阪府豊中市に在住。大阪大学・原子力工学科卒業後、日本揮発油株式会社（現・日揮株式会社）へ入社、高速増殖炉燃料の研究・開発や核燃料再処理および放射性廃棄物処分プロジェクトのマネジメントに携わる。スポーツは、小学生時代に水泳を始め、クロールでは市内のチャンピオンとなる。大学時代は、全国各地へサイクリング旅行に出掛けた。マラソンは41歳の1984年に初めてフル・マラソンを完走、次いで同じ年の８月に湘南ハーフ・トライアスロン大会、10月にアイアンマン・ハワイ大会に出場、完走する。その後、複合耐久種目全国連絡協議会結成の呼び掛けに応じ、86年３月の日本トライアスロン協会（JTA）の初代理事長に就任した。翌87年には副会長となったが、年末から海外勤務となり渡米、90年には帰国したが、トライアスロンに復帰することはなかった。</span></p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.34：雷神の巻　第４章その3：全国組織が産声をあげた</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1809</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1809#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 26 Jun 2009 04:01:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/s02-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」

]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その3</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">全国組織が産声をあげた</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」</p>
</div>
<p>　</p>
<p>「準備委員会総会」が開かれた1984年６月から暫く経った後、それまでにアイアンマン・ハワイを始め国内外のトライアスロン大会に参加したトライアスリート達に一通の書状が届いた。それは白い封筒に入れられ、封筒の裏には「トライアスロン（複合種目）連絡会準備委員会代表幹事・佐々木秀幸」の名が記されていた。また書状には、「トライアスロンを普及、発展させる為に、全国のトライアスリートが参集する意見交換の場を設け、トライアスリートに関する情報収集や競技の安全対策などについて協議し、将来的に日本における中央団体の設立を目指す」との趣旨が述べられていた。<br />
　そして、その年の11月23日（金曜日）、東京・神宮の秩父宮ラグビー場クラブルームにおいて「複合耐久種目全国連絡協議会」の総会が開かれたのである。佐々木の呼び掛けに当日、集まったのは約70名。トライアスリートとしてJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）会長の矢後潔省を始め、後にJTA（日本トライアスロン協会）の会長となる清水仲治、同じく初代理事長となる永田　峻、JTRCと共に日本を代表する熊本CTC（クレイジー・トライアスロン・クラブ）会長の永谷誠一らが顔を揃えた。</p>
<div id="attachment_1811" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scimg4762.jpg"><img class="size-medium wp-image-1811" title="佐々木秀幸氏（08年５月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scimg4762-300x225.jpg" alt="佐々木秀幸氏（08年５月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">佐々木秀幸氏（08年５月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影）</p></div>
<p>　総会では、初めに代表幹事の佐々木が挨拶に立ち、</p>
<p>　<span style="color: #df0a4a;">「トライアスロンを普及、発展させる為には、何よりも社会的認知を得る必要があります。それにはトライアスロンを愛するアマチュア選手達が中心となり、皆で力を合せ全国的な組織を創りあげなければなりません。その上で日本体育協会並びに日本オリンピック委員会へ加盟していくことが、日本のスポーツ界においてトライアスロンを認知して貰う唯一の道です。その前身であり将来の礎となるのが、この連絡協議会なのです」</span></p>
<p>　言わば協議会は全国的な組織を立ち上げる為の予備的な機関として設置するもので、この為、活動期間は発足から２年余とする時限立法的な組織として位置付け、その後、より広範な活動を展開する日本におけるアマチュア中央団体のJTAの設立を目指すこととした。従って協議会は、トライアスロンの普及と競技の安全対策を図ることを第一義に、その為の情報収集や研究活動に取り組むことに限定し、大会の開催や選手の派遣・選考は行わないことを規程に盛り込んだ。<br />
　次いで総会では、役員人事について専門委員会から提起された議案を協議した結果、幹事として清水仲治、永谷誠一、矢後潔省、村田統司、岩根久夫、中見隆男、橋本治朗の７名を選任、さらにこの中から代表幹事に清水、事務局長に村田が就任することが決まった。代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。</p>
<p>　<span style="color: #178d14;">「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」</span></p>
<div id="attachment_1812" style="width: 221px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s04.jpg"><img class="size-medium wp-image-1812" title="「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第１号（表紙部分）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s04-211x300.jpg" alt="「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第１号（表紙部分）" width="211" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第１号（表紙部分）</p></div>
<p>　ところで、連絡協議会の名称を「トライアスロン」とせず「複合耐久種目」としたのは、当時、中学校の間で&#8221;３種競技&#8221;と呼ぶスポーツがあって、トライアスロンと混同することを避けたからだという。しかし、翌85年５月には「全国トライアスロン協議会」へと名称変更し、その活動の輪を文字通り全国へと広げていく。</p>
<p>　総会の議事がすべて終了した後、81年２月に８名の日本人と共に第４回アイアンマン・ハワイへと旅立ち、以来、トライアスロン競技の医科学研究を続けてきた東京医科大学・循環器内科助教授（当時）の岩根久夫が「トライアスロンの安全管理について」と題する講演を行った。講演の中で岩根は、</p>
<p>　<span style="color: #f17317;">「人間がトライアスロンという長時間に及ぶ過酷な競技に耐えられるのは、ベータ・エンドルフィンと呼ぶ脳の視床下部から分泌される血液中の麻薬様物質が運動中の痛みや苦しみを緩和させ、危機的状態の生体をコントロールしているからです。しかし、決して無理をせず、悲壮にならず、マイペースで続ければ、ベータ・エンドルフィンの分泌も活発になり、アイアンマン・レースを完走することが出来るでしょう」</span></p>
<p>と述べた。この血中ベータ・エンドルフィンの上昇について、岩根はトライアスロンやマラソン競技選手の血液を採取し、世界に先駆け見事に実証したのである。</p>
<div id="attachment_1813" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s01.jpg"><img class="size-medium wp-image-1813" title="今は亡き岩根久夫氏（アイアンマン・ハワイの大会会場にて、写真左）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s01-300x198.jpg" alt="今は亡き岩根久夫氏（アイアンマン・ハワイの大会会場にて、写真左）" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">今は亡き岩根久夫氏（アイアンマン・　ハワイの大会会場にて、写真左）</p></div>
<p>《次回予告》<span style="color: #91a214;">「複合耐久種目全国連絡協議会」によるアマチュアのトライアスロン組織作りの一方で、トライアスロン愛好者によるクラブ作りも全国的な広がりを見せていた。その動静と、1984年12月に旗揚げしたATC（全日本トライアスロン・クラブ）について紹介すると共に、JTAの初代理事長となった永田　峻氏の＜トライアスロン談義＞を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞大様で明るく陽気な人生でした　【桜井　晋】</h3>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「先生、速いですね」</span><br />
　<span style="color: #339966;">「やあ、桜井さん。先に行かせてもらいました」<br />
</span>　<span style="color: #ff6600;">「先生の方がスイムを先に上がったのですね」<br />
</span>　<span style="color: #339966;">「いやいや、僕の方がきっと後だよ。おそらくトランジションで追い抜いたのだろう」</span><br />
　<span style="color: #ff6600;">「そうですか。それにしても速い。先生、頑張って下さい」</span></p>
<p>　1987年４月の第３回宮古島トライアスロン大会のバイクをスタートして、最初の東平安名崎を折り返し４Km余り走った緩く長い下り坂の途中で、私は清水仲治先生を抜きざま、声を掛けた。そして脚を休め暫く併走しながら、先生とお喋りをした。先生は３Kmのスイムを私より約14分遅れでフィニッシュしたものの、何のことはないトランジションに手間取っていた私をさっさと抜いて、バイクをスタートしていたのだ。<br />
　その後、登り坂に掛かって私は先生と別れを告げて先を急ぎ、残り100Km余りのバイクをこなしランに入ったが、何と！　私が走り出してから４Km程ほどの地点でまたもや先を走る先生と出会ったのである。</p>
<p>　<span style="color: #339966;">「やあ、また遭ったね。桜井さん、調子良さそうだね」</span></p>
<p>　先生は楽しそうに笑って、私を激励してくれた。私は内心、</p>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「また、ラン・トランジットで追い抜かれたようだ。調子が良いのは清水先生の方ではないか」</span></p>
<p>と思いながら、手を振りつつ、</p>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「済みません。先に行かせて貰います。先生も頑張ってください」</span></p>
<p>　こうして清水先生とは、まるで兎と亀の如く追いつ追われつ、宮古島の炎天下を走り回った。最終的に先生とは50分余り先にフィニッシュした私だが、年齢が25歳も違う、言わば親子に近い年齢差を考えれば、私は先生に負けていた。</p>
<div id="attachment_1815" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02.jpg"><img class="size-medium wp-image-1815" title="1985年の「第１回宮古島トライアスロン大会」を力走する清水氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02-300x206.jpg" alt="1985年の「第１回宮古島トライアスロン大会」を力走する清水氏" width="300" height="206" /></a><p class="wp-caption-text">1985年の「第１回宮古島トライアスロン大会」を力走する 清水氏</p></div>
<p>　<span style="color: #25b073;">「桜井さん、一緒に宮古島へ行きましょう」</span></p>
<p>　ATC（全日本トライアスロン・クラブ）が行う東京・品川区の大井埠頭での練習会で会う度、そんな言葉を掛けて私を盛んに誘ってくれた。そして、いつも先生は浅黒く日焼けした顔で口元と頬をやや膨らませながら、にこやかに話された。また、人の話に何度も何度も頷きながら、</p>
<p>　<span style="color: #25b073;">「ほほお、そりゃ凄いね。その自転車の乗り方を、教えて下さいよ。僕ももっと上手になりたい」</span></p>
<p>　こうして宮古島大会を始め他のトライアスロン大会に私を誘って戴き、苦しくも楽しい思いをさせてくれたのが、他ならぬ清水先生だったのである。</p>
<div id="attachment_1816" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s19.jpg"><img class="size-medium wp-image-1816" title="1985年の「第１回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの初期メンバーと記念撮影（前列左から３人目が清水氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s19-300x184.jpg" alt="1985年の「第１回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの初期メンバーと記念撮影（前列左から３人目が清水氏）" width="300" height="184" /></a><p class="wp-caption-text">1985年の「第１回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの　初期メンバーと記念撮影（前列左から３人目が清水氏）</p></div>
<p>　清水先生は当時、還暦を過ぎていたが、トライアスロンという新たなスポーツにチャレンジする意欲と向上心が漲っていた。そんな先生が連絡協議会の代表幹事を経て、やがてはJTAの副会長を経て会長となり組織の代表者となっていく過程で、私と個人的なアスリートとしてのお付き合いは遠ざかっていった。逆に社会組織的な観点から清水先生と私は、やがて対立的な関係に陥った。<br />
　それと言うのも、私は先生が会長を務めるJTAの組織運営を批判していたからだ。その為か、人伝えでは「清水先生は私を嫌い避けている」とのことだった。でも、先生のお人柄やお心を慕っていた私は、人伝えを気にすることもなかった。むしろ、お人好しの先生が組織の中にあって上手く論（あげつら）われていることに、一種の憤りさえ感じていた。<br />
　私がJTAを批判していたのは、組織のあり方、やり方が、余りにも稚拙で独善的だと思っていたからである。当時、JTAの幹部役員達は公の団体を運営するという意識が希薄に欠け、仲間意識ばかりが強く外部の意見を取り入れようとしない排他的な姿勢が目についた。実際、JTAは傲慢な組織運営を続けた挙げ句、JTA設立からほぼ４年後には財政的に行き詰まり自己破綻したのである。私はそうしたJTAという中途半端な組織活動の中核に、清水先生が孤立的に存在していることが悲しかったのだ。</p>
<p>　それからというもの、清水先生と私は一アスリートとして交わる機会はほとんど無かった。一度、パーティの席でお会いし、簡単な挨拶程度の言葉を交わした記憶はあるが、以後、お会いすることなく、先生は先立たれた。<br />
　1996年１月23日、先生は74歳の生涯を閉じられた。前年6月に脳梗塞で長野駅のホームで倒れて以来、闘病生活を送られていたが、不整脈を発病するなどして、その命を閉じられたのである。トライアスロンに関して言えば、結局、先生は12年間の&#8221;トライアスロン人生&#8221;だった。</p>
<p>　先生が亡くなられて10年後の2008年６月、私は横浜市磯子の先生の御自宅を訪ね、先生の位牌と面会した。今なお御健在である奥様の清水　和（かず）夫人とお会いし、先生の思い出話をお聞きした。その中で奥様は先生のことを、次のように語られた。</p>
<p>　<span style="color: #7aa300;">「大変まめな人で、海外旅行した後は、いつも写真を整理してアルバムに貼り付けていました。そのくせ、家の細かな用事はトンとしないで、自転車に乗ったり走ったりの毎日、トライアスロンのことでは一生懸命でした。まあ、大様な性格と言いますか、苦労をしない、好い人生だったのではないでしょうか」</span></p>
<div id="attachment_1817" style="width: 239px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s03.jpg"><img class="size-medium wp-image-1817" title="1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s03-229x300.jpg" alt="1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏" width="229" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏</p></div>
<p>【故清水仲治氏プロフィール】<br />
<span style="color: #993300;">1922年２月、神奈川県出身。日本体育大学卒業後、陸軍士官学校の教官を経て満州へ出征。戦時中の1944年に和（かず）夫人と結婚。戦後は神奈川県立商工高等学校の教員を28年間、勤める。1983年に定年退職し、神奈川歯科大学の体育講師となる。1961年にスポーツ用品等の販売会社「清水スポーツ」を創立する一方、「神奈川県走友会」会長を勤める等、地域スポーツの振興に尽力する。自らスキー、マラソン、サイクリング、野球等、スポーツ万能なアスリートだが、定年後はトライアスロンにのめり込む。「日本トライアスロン協議会」代表幹事、「日本トライアスロン協会」会長としてトライアスロンの普及、発展に貢献する。1995年、脳梗塞で倒れ、翌96年１月、享年74歳でスポーツ人生を終える。</span></p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.33：雷神の巻　第４章その2：安全対策が普及の鍵だ</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1799</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1799#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 25 Jun 2009 06:32:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1799</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />その第一歩が1984年５月18日に東京・代々木の岸記念体育会館で開かれた「第１回トライアスロン（複合種目）連絡会」である。佐々木を代表幹事とする陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者や、医学会などの研究者、それにアイアンマン・ハワイへの出場経験を持つトライアスリート達が顔を揃えた。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その2</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">安全対策が普及の鍵だ</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">その第一歩が1984年５月18日に東京・代々木の岸記念体育会館で開かれた「第１回トライアスロン（複合種目）連絡会」である。佐々木を代表幹事とする陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者や、医学会などの研究者、それにアイアンマン・ハワイへの出場経験を持つトライアスリート達が顔を揃えた。</p>
</div>
<p><span style="color: #993366;">「気象条件も違えば、ロケーションも異なる。ならば、陸上競技のマラソンと同じだけれど、マラソンが42.195Kmと決められているのに対し、トライアスロンは大会によって距離がまちまち。だからタイムの比較も出来ない。それに計測方法も整っていないし、第一、参加選手達の健康と安全の管理が余りにも不備である。こうした点からトライアスロンが記録に挑戦する競技スポーツとして成り立つかどうか？　さらに、トライアスロンが抱える問題を克服していく為の中央組織も、全く存在しない」</span></p>
<p>　佐々木秀幸は、こうしたトライアスロンの特性や現状に対し憂慮していた。だからといってトライアスロンを否定していた訳ではない。むしろ、水泳・自転車・陸上の３種目を、ほぼ連続的に長時間に及んで行う運動は、記録的に行き詰まり状態にある長距離競技やマラソン選手達のクロス・トレーニングとして有効ではないかと考えていた。</p>
<p>　<span style="color: #993366;">「それにしても、トライアスロンをより良い道へと誘導するコントロール・タワーを整備する必要がある」</span></p>
<p>　1982年２月のアイアンマン・ハワイで女子選手のジェリー・モスが四つん這いになりながら劇的なゴール・シーンを世界の人々に見せて以来、国際的なトライアスロン・ブームが到来し、日本でも次々とトライアスロン大会が開催されていく状況を垣間見ながら、佐々木や橋本治朗はトライアスロンの普及、発展の為の諸条件を整備することが必要不可欠と思った。そこで佐々木は陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者らと共に、一時、中断していた「トライアスロンを考える会」の会合を再開し、トライアスロン競技に関わる研究討論を重ねる一方、トライアスロン組織創りの具体的な検討を始めたのだ。</p>
<div id="attachment_1801" style="width: 254px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/triathlon00011.jpg"><img class="size-medium wp-image-1801" title="トライアスロン・ブームの高まりに応じて1984年12月、トライアスロンの専門誌『トライアスロン Japan』が隔月間で創刊された。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/triathlon00011-244x300.jpg" alt="トライアスロン・ブームの高まりに応じて1984年12月、トライアスロンの専門誌『トライアスロン Japan』が隔月間で創刊された。" width="244" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">トライアスロン・ブームの高まりに応じて1984年12月、トライアスロンの専門誌『トライアスロン Japan』が隔月間で創刊された。</p></div>
<p>　その第一歩が1984年５月18日に東京・代々木の岸記念体育会館で開かれた「第１回トライアスロン（複合種目）連絡会」である。佐々木を代表幹事とする陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者や、医学会などの研究者、それにアイアンマン・ハワイへの出場経験を持つトライアスリート達が顔を揃えた。この会合では、全国的に広がり始めたトライアスロン大会の情報を収集する中央センター設立の必要性が訴えられた。<br />
　次いで翌６月４日の第２回会合を経て、同じく６月24日の日曜日に東京・千駄ヶ谷の国立競技場内クラブルームにおいて全国連絡会発足の為の「準備委員会総会」が開催されたのである。この時、集まったのは佐々木を始め村田統治や浪越信夫、それに橋本や佐野など発起人グループと、東京医科大学助教授(当時)の岩根久夫、東海大学教授の中見隆男、それに熊本CTCの永谷誠一やJTRCの矢後潔省らトライアスロン・クラブの代表者、その他ジャーナリストなど35名である。</p>
<div id="attachment_1802" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260.jpg"><img class="size-medium wp-image-1802" title="日体協など日本の中央スポーツ団体が集まっている東京・代々木の岸記念体育会館" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-300x225.jpg" alt="日体協など日本の中央スポーツ団体が集まっている東京・代々木の岸記念体育会館" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">日体協など日本の中央スポーツ団体が集まっている東京・代々木の岸記念体育会館</p></div>
<p>　この席で挨拶に立った佐々木は、組織創りの課題を次のように語った。</p>
<p><span style="color: #993366;">「トライアスロンを普及させていくには、何よりも選手達の安全性を確保していかねばなりません。この視点を欠いてしまったら、普及も発展もありません。その為に競技ルールや大会ロケーションの整備を図る中央的な組織の設立が必要不可欠だと思います。それは全国のトライアスロン選手達の為の、選手達による組織でなければなりません。その前段として、今年中に全国のトライアスロンの代表者達が集う連絡協議会を発足したいと考えています」</span></p>
<p>　いわゆるナショナル・ガバニング・ボディの在るべき姿が提起されたのである。日本トライアスロン協会（Japan Triathlon Association＝略称JTA）は、その後、約２年後に設立された。<br />
 </p>
<p>《次回予告》<span style="color: #4c25b0;">日本トライアスロン協会（JTA）の前身である「複合耐久種目全国連絡協議会」の発足と、代表幹事に就任し、後にJTA会長となった清水仲治氏（故人）の思い出を語ります。</span></p>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.32：雷神の巻　第４章その1：トライアスロンは競技スポーツか？</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1788</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1788#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 25 Jun 2009 03:27:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/4826-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />競技スポーツの特性である勝敗の有無や記録の優劣よりも、自然の広いフィールドを舞台にアドベンチャー的な要素を持った、従来には無かったスポーツが誕生したと思った。そして橋本は、スポーツ・ジャーナリストとしてトライアスロンを日本へ紹介すると共に、ニュー・スポーツを社会的に受け入れる素地をつくる必要性を感じていた。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その1</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トライアスロンは競技スポーツか？</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4826-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4826-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">競技スポーツの特性である勝敗の有無や記録の優劣よりも、自然の広いフィールドを舞台にアドベンチャー的な要素を持った、従来には無かったスポーツが誕生したと思った。そして橋本は、スポーツ・ジャーナリストとしてトライアスロンを日本へ紹介すると共に、ニュー・スポーツを社会的に受け入れる素地をつくる必要性を感じていた。</p>
</div>
<p><span style="color: #0000ff;">「すごい！　なんて凄いだろう!!」</span></p>
<p>　1979年１月、オアフ島で行われた第２回ハワイ・トライアスロン大会の模様を、日本人として初めて垣間見たスポーツ・カメラマンであり㈱ランナーズの経営者である橋本治朗は、言葉には言い表せない感動と興奮を覚えた。そして直感した。長時間にも及んで運動を続ける、この耐久的なニュー・スポーツは、時代とリンクして世界の人々に、そして日本人にも大きな可能性と期待感を抱かせるであろうと。<br />
　橋本が何よりも強く感じたことは、トライアスロンにはスポーツの中に介在する原始的な魅力が潜んでいるということだった。競技スポーツの特性である勝敗の有無や記録の優劣よりも、自然の広いフィールドを舞台にアドベンチャー的な要素を持った、従来には無かったスポーツが誕生したと思った。そして橋本は、スポーツ・ジャーナリストとしてトライアスロンを日本へ紹介すると共に、ニュー・スポーツを社会的に受け入れる素地をつくる必要性を感じていた。</p>
<div id="attachment_1790" style="width: 234px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4826.jpg"><img class="size-medium wp-image-1790" title="橋本治朗氏近影（08年6月、（株）ランナーズ本社にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4826-224x300.jpg" alt="橋本治朗氏近影（08年6月、（株）ランナーズ本社にて撮影）" width="224" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">橋本治朗氏近影（08年6月、（株）ランナーズ本社にて撮影）</p></div>
<p>　そんな折り、橋本は懇意な仲である（財）日本体育協会（以下、日体協という）事務局員の佐野哲夫を通じて（財）日本陸上競技連盟（以下、陸連という）理事の佐々木秀幸と会い、トライアスロンの普及について相談を持ち掛けた。佐野は日体協の中にあって陸連幹部と関係があり、トライアスロンに興味を抱いていた佐々木を紹介したのだ。橋本は佐々木に、こう提案した。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「このニュー・スポーツを日本でも広めたいと思うのですが」</span></p>
<p>　すると佐々木も頷きながら、</p>
<p><span style="color: #c3273d;">「大変、興味深いスポーツなので、様々な角度からトライアスロンを研究したいと思っています。また、その為に関係者を集めて、いろいろ検討したいのですが、ひとつお骨折り願いませんか」</span></p>
<p>　当時、陸連の理事であり競技普及委員長の任にあった佐々木は、陸連所属のマラソン選手達が過度な練習で故障したり、世界の競技レベルから取り残されている現状に鑑み、長距離競技の副次的なトレーニング法としてトライアスロンに注目していたのである。それで81年８月に第１回皆生トライアスロン大会が開催されると聞き、密かに見学に出掛けた。そして、トライアスロンを見終わって、佐々木は思った。</p>
<p><span style="color: #c3273d;">「こんなものか」</span></p>
<p>　物事を初めて見た時の感動のようなものは、特に伝わってこなかった。むしろ、スイムをあがってからバイク・スタート地点までクルマで移動する間など、いわゆるトランジションにおけるロスタイムを、どのようにカウントすれば好いか？　など競技ルールの観点から疑問さえ覚えた。</p>
<p><span style="color: #c3273d;">「競技スポーツと呼ぶには難しい。達成感を味わう、いわゆる自己実現を満たす為のイベントなのだろう」</span></p>
<p>　そんな思いを抱いて、佐々木は東京へ戻った。そして佐野や橋本と話し合い、いろいろな角度から調査、研究する為に、</p>
<p><span style="color: #85b32d;">「スポーツ界の指導者やトライアスロンの選手達に集まってもらおう」</span></p>
<p>ということになった。３人が呼びかけたのは、アマチュア自転車競技界からスケーターの橋本聖子を実践指導した早稲田大学自転車競技部監督の村田統治、水泳競技界から第20回ミュンヘン・オリンピック平泳ぎゴールド・メダリストの田口信教を監督・指導した浪越信夫、それにトライアスリートとして矢後潔省をはじめ宮城県・愛知県・福岡県など各地域の代表者達である。<br />
　1982年も押し詰まった12月、彼らは「懇親会」という形で東京に集まった。この82年は、１月に「アメリカ・トライアスロン連盟＝Tri-Fed USA」が設立されたのを始め、２月と10月にアイアンマン・ハワイ大会がそれぞれ開かれ、６月にはショートタイプのトライアスロン&#8221;USTSシリーズ&#8221;がトライアスロン発祥の地・アメリカ西海岸サンディエゴで開幕、11月にはヨーロッパにおいてツール・ド・フランスの山岳コースを使った「ニース・トライアスロン大会」が開催されるなど、国際的にトライアスロンがブーム的な盛り上がりを見せ始めた年である。<br />
　同じく日本国内では第２回皆生トライアスロン大会のほか、第２回湘南トライアスロン大会、第１回小松トライアスロン大会、第１回久留米トライアスロン大会の４大会が開かれるなど、トライアスロンの名が世に知れる黎明期を迎えた時である。と同時に、国内でトライアスロンを普及、発展させる端緒が、佐々木や佐野、橋本らの音頭で始まろうとしていたのである。<br />
 <br />
《次回予告》<span style="color: #27a584;">「複合耐久種目全国連絡協議会」の結成に至る国内トライアスロン関係者達の動向を紹介します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞本物の組織に望まれる優秀なリーダー　【佐々木 　秀幸】</h3>
<p>　陸上競技出身の私がトライアスロンと関わりを持ち始めたのは、熊本の永谷誠一さん達８名が日本人として初めてハワイのトライアスロン大会へ参加された1981年の時でした。（財）日本体育協会や出版社の知友が、</p>
<p><span style="color: #85b32d;">「海外ではトライアスロンがブームになりつつあります。やがて日本へも、その波が伝わってくるでしょうが、その為にも普及・発展基盤を固める必要があるでしょう」</span></p>
<p>と、私に相談を持ち掛けてきたのです。</p>
<p>　それで、その年の夏に行われた第１回皆生トライアスロン大会を視察したり、トライアスロンの３種目に関わる日本オリンピック委員会の友人達や、実際に選手としてトライアスロンに携わっておられる地域の方々と懇談したりしました。具体的には、トライアスロンの競技ルールや安全性の確保、大会運営のあり方や普及・発展基盤の為の組織づくりなどについて、そのあり方と問題点を検討しました。<br />
　その結果、出された結論は、アマチュアの競技団体を47都道府県ごとに整備すると共に、全国的な統一組織をつくって日体協加盟を実現させることでした。また、その道順を模索する為の協議、検討機関として1984年11月に発足させたのが、「全国複合耐久種目連絡協議会」だったのです。</p>
<p>　そんな私の活動を続ける傍らで、トライアスロンをイベント・ビジネスとして商業化する動きが出てきたし、若いエリート選手達がプロの道を歩み出したり、さらには距離を短縮してスピード化を図り、同時にテレビ映りを重視する傾向が高まるなど、総じてトライアスロンの競技性が高まりつつありました。もともとは記録や順位を争う競技スポーツというよりも、アスリート達がそれぞれの思いで達成感を得る為の遊び的、冒険的、祭り的なスポーツ・イベントと私は見ていましたが、競技であるならば矢張り、きちんとした組織化を急ぐ必要があると考えたからです。<br />
　それで前記協議会を発展させた形で86年３月に発足させたのが「日本トライアスロン協会＝略称JTF」であり、その後、紆余曲折を経て我が国トライアスロン界の大同団結によって94年４月に誕生したのが「日本トライアスロン連合＝略称JTU」です。また、その前年には、若い選手の育成が重要になるとの判断から93年６月に「日本学生トライアスロン連合＝略称JUTU」を創立するなど、日本のトライアスロン界全体の組織体系を整えた訳です。</p>
<p>　こうして、ほぼ10年の歳月をかけて我が国トライアスロン組織の骨格が築かれてきたのですが、今改め概観してみると、本格的な組織づくりはむしろこれからという感がしないでもありません。ですから今後は帝王学を修得し、かつ浄財を集めることが出来る優秀なリーダーを迎え入れる体制を整えながら、さらに強固な組織基盤を築いていく為の人材育成を図っていくことが望まれます。その上で地域のロケーションを生かした大会の開催に取り組みつつ、ゆっくり時間をかけて普及、発展の道を歩んでいくべきでしょう。</p>
<div id="attachment_1792" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4766.jpg"><img class="size-medium wp-image-1792" title="佐々木秀幸氏近影（08年5月、東京都庁内「東京マラソン事務局」にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/4766-225x300.jpg" alt="佐々木秀幸氏近影（08年5月、東京都庁内「東京マラソン事務局」にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">佐々木秀幸氏近影（08年5月、東京都庁内「東京マラソン事務局」にて撮影）</p></div>
<p>【佐々木秀幸氏プロフィール】<br />
<span style="color: #af20be;">1932年、秋田県出身。早稲田大学教育学部卒業後、公立中学校教員、東洋大学並びに早稲田大学教授など教育畑を歩む。スポーツは大学生時代に跳躍（三段跳び）の選手として活躍。引退した後は、陸連のコーチ、指導者としてオリンピック大会に参戦したほか、専務理事として陸連組織の強化に奔走する。現在は日本陸上競技連盟名誉副会長、日本アンチドーピング機構（JADA）理事、東京マラソン組織委員会事務総長。94年日本トライアスロン連合（JTU）の初代理事長に就任。2004年瑞宝小綬章受賞。著書・翻訳として『陸上競技教室』、『現代体育スポーツ体系』、『マック式短距離トレーニング』など多数。</span></p>
</div>
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		<title>Vol.31：雷神の巻　第３章その9：アイアンマンと同じ参加選手は15名で始まった</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1768</link>
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		<pubDate>Tue, 23 Jun 2009 06:56:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
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		<category><![CDATA[普及]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />皆生、湘南、小松に次いで、日本で４番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之（当時54歳）が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月３日（水曜日）のことである。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その9</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">アイアンマンと同じ参加選手は15名で始まった</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">皆生、湘南、小松に次いで、日本で４番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之（当時54歳）が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月３日（水曜日）のことである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>皆生、湘南、小松に次いで、日本で４番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之（当時54歳）が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月３日（水曜日）のことである。</p>
<p>　岩井が営む自転車店は、先代の岩井良雄が大正８年に開業したもので、自分の代になると競輪選手の経験を踏まえ、自転車をスポーツ競技やサイクリングなど遊びの道具として普及させようと、我が国でも早い時期からトラックレーサーやロードレーサーの製作、販売を手掛け始めた。このため「イワイスポーツサイクル」に集まる者は、九州勢の競輪選手やアマチュア・サイクリスト、それにサイクリング好きのマニアなど、いずれも自転車大好き人間ばかり。だから「イワイスポーツサイクル」を拠点に&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;と自転車競技志向の&#8221;イワイ・レーシング・クラブ&#8221;がつくられていた。</p>
<div id="attachment_1770" style="width: 234px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1770" title="岩井一之氏（04年２月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-224x300.jpg" alt="岩井一之氏（04年２月撮影）" width="224" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">岩井一之氏（04年２月撮影）</p></div>
<p>　この２つのクラブチームの主宰者である岩井が先導し、第１回の久留米トライアスロン大会が開かれたのである。その発端となったのは、前年の1981年８月に日本で初めて行われた皆生トライアスロン大会を見物してきた地元アスリートが撮ってきた写真であった。岩井は、</p>
<p><span style="color: #800000;">「ロードレーサーを使った面白そうな競技じゃないか。そう言えば、サイクリング好きの片岡君が来年、トライアスロンに挑戦するという話だし、彼の壮行会を兼ねて自分らもやってみよう」</span></p>
<p>　当時、&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;に入会し、センチュリー・ラン（160Kmサイクリング）などで活躍していた片岡宏介（当時24歳）が、83年の皆生トライアスロンとアイアンマン・ハワイへの出場を計画していた。そこで「一度レースを経験するのも役に立つだろう」と、岩井は考えたのである。そして大会の日取りを11月３日に決めた。この日は祭日の「文化の日」で大概、お天気に恵まれることと、実は岩井が若き選手時代、第３回福岡県国体・自転車競技の1,500m速度競争で優勝した記念の日でもあったからだ。</p>
<p>　競技距離はスイムが25mプールを25往復する1,250m、バイクが60Km、ランが12Km。当時はスイム、バイク、ランとは言わず、岩井達は市内の西日本スポーツガーデンで水泳を、続いて筑後川サイクリング・ロードを原鶴まで往復する自転車、最後に神代橋～鎮西橋～大城橋を巡るマラソンと称した。参加費は１名1,000円である。<br />
　参加選手は全部で15名。ハワイ・トライアスロンの第１回大会と同じである。&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;のメンバーをはじめとする地元アスリート達が中心だったが、他に佐賀県から来た中学生の城野崇弘（当時13歳）もエントリーした。片岡はゼッケン７番、水泳は３コースで泳ぐことになった。</p>
<div id="attachment_1771" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/entry.jpg"><img class="size-medium wp-image-1771" title="第１回大会の開催要項と申込書（資料提供；岩井公一氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/entry-300x217.jpg" alt="第１回大会の開催要項と申込書（資料提供；岩井公一氏）" width="300" height="217" /></a><p class="wp-caption-text">第１回大会の開催要項と申込書（資料提供；岩井公一氏）</p></div>
<p>　そして秋晴れの下、九州で初めて開催されたトライアスロン大会の幕が切って落とされた。最初の種目、プールでの水泳は、５コースで泳いだ竹下禮二（当時35歳）が22分45秒59でトップ、次いで２コースで泳いだ中学生の城野が２位でフィニッシュした。しかし自転車に入ると、水泳を４番手で上がった片岡が前を走る３名の選手達を次々と抜いて１位でゴール、マラソンもその勢いのまま押し切り、堂々の優勝を飾ったのである。<br />
　片岡の総合タイムは３時間６分23秒、２位には水泳３位、自転車２位と堅実な走りをして総合３時間24分04秒の塚本耕治（当時33歳）、３位に竹下、４位は水泳を最下位の15位で上がった大学生の沢井孝之（当時22歳）、そして５位に城野が総合３時間55分11秒と健闘した。完走者は14名、タイヤのパンクでリタイアしたのが１名、女性として唯一、出場した堤　恭子（当時33歳）は12位だった。</p>
<div id="attachment_1772" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kekka.jpg"><img class="size-medium wp-image-1772" title="第１回大会の競技結果（資料提；岩井公一氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kekka-300x223.jpg" alt="第１回大会の競技結果（資料提；岩井公一氏）" width="300" height="223" /></a><p class="wp-caption-text">第１回大会の競技結果（資料提；岩井公一氏）</p></div>
<p>　こうして九州の一都市で産声を挙げたトライアスロン大会は無事、閉幕した。そして翌年も同じ日に、同じ場所で開かれ、市民クラブのローカルな大会は年々、参加選手が増え、ピーク時には302名もの選手を集めたのである。その立て役者となったのが、岩井の長男で大学生時代に国体の自転車競技で活躍した「イワイスポーツサイクル」の３代目である岩井公一である。中学生時代は校内マラソン大会で連続優勝した経験を生かし、片岡に誘われ自らもトライアスリートとなった。82年５月に片岡らと結成した&#8221;スーパーマン・クラブ・イワイ&#8221;と呼ぶクラブを舞台に、トライアスロンの啓蒙、普及活動に関わり、今日に至っている。</p>
<div id="attachment_1773" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1773" title="「イワイスポーツサイクル」の３代目・岩井公一氏（０２年４月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai2-300x224.jpg" alt="「イワイスポーツサイクル」の３代目・岩井公一氏（０２年４月撮影）" width="300" height="224" /></a><p class="wp-caption-text">「イワイスポーツサイクル」の３代目・岩井公一氏（０２年４月撮影）</p></div>
<p>《次回予告》<span style="color: #d50ba0;">次回から第４章として、全国的なトライアスロン組織やクラブ組織づくりの動向について紹介していきます。また＜トライアスロン談義＞では、複合耐久種目連絡協議会」を通じて組織化を図った元日本陸上競技連盟理事であり、日本トライアスロン連合の初代理事長の佐々木秀幸氏に当時の我が国トライアスロン界の状況を語ってもらいます。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロン歴26年の染みが着いてしまった　【片岡　宏介】</h3>
<p>　ただ何となく、自転車に乗りたかったのです。独身寮の先輩がロードレーサーを磨いている様子を見ながら、そう思いました。それで、</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「自分も乗ってみたいです」</span></p>
<p>と言ったら、その先輩は早速、私を地元のサイクリング・クラブを主宰している「イワイスポーツサイクル」へ案内してくれました。早速、私はロードレーサーを買うと共に、ショップのオーナーである岩井一之さんが会長を務める&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;のメンバーとなり、九州一周のサイクリングや大会に参加していったのです。でも遊びがてら、楽しみがてら参加したまでのことで、スポーツとして取り組むとか、ましてやサイクル・ロードレースとして競技に挑んだ訳ではありません。それでも自転車に乗り始めて翌年の1980年、当時、全国各地で盛んに行われるようになったセンチュリー・ラン（鳥取市～岡山県牛窓町間160Km）ではトップでゴールインしました。<br />
　そうした自転車の経験を積み重ねるうちに、その頃、始まったハワイのトライアスロンや皆生大会の話を耳にしました。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「長い距離は魅力だな。やってみようか」</span></p>
<p>と、思い始めたのです。それで全くの我流ながら、私は82年２月に行われるハワイ大会に出場するため、練習を始めました。水泳は「イワイスポーツサイクル」の裏手にあるスポーツ・クラブのプールへ通い、３Kmが泳げるよう毎回、１時間を泳ぎ続ける練習をしました。またマラソンは、勤務先の八女市まで往復20Kmの自転車を走った後に、久留米市の東方にある標高200mほどの高良山まで登って戻る練習を行いました。この高良山までのランニング・ロードは東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲った円谷幸吉選手が、幹部候補生学校時代にトレーニングに使っていたコースで、その往復のタイム記録は今なお破られていません。また自転車競技のスクラッチで当時、世界選手権を連覇していた中野浩一選手を始めとした競輪選手達も、高良山までのコースを練習コースとして走っていました。</p>
<div id="attachment_1776" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka21.jpg"><img class="size-medium wp-image-1776" title="第24回皆生トライアスロン大会（2003年７月）のランで北村文俊氏（写真左）と共に（03年７月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka21-300x224.jpg" alt="第24回皆生トライアスロン大会（2003年７月）のランで北村文俊氏（写真左）と共に（03年７月撮影）" width="300" height="224" /></a><p class="wp-caption-text">第24回皆生トライアスロン大会（2003年７月）のランで北村文俊氏（写真左）と共に（03年７月撮影）</p></div>
<p>　こうして82年のハワイを目指し我流のトレーニングを積み重ねていたのですが、&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;では、その年の７月に北海道で行われるオホーツク・サイクリング大会に参加することを決めたのです。九州出身の私はまだ見ぬ北海道へ行ってみたかったし、その上に通常、旅費として10万円がかかるところを半額の５万円ほどで行けるということでしたので、ハワイは見送り北海道の旅を選びました。しかし、</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「一度はトライアスロンを体験してみたい」</span></p>
<p>という気持に変わりはありませんでした。ですから、皆生トライアスロン大会とハワイのアイアンマン大会は翌年の83年に出場することとし、引き続き我流のトライアスロン練習を積み重ねていたのです。その私が、来年のトライアスロンに挑戦する壮行会として岩井会長が提案し、開催したのが久留米トライアスロン大会だったのです。</p>
<p>　大会は、私にとっては距離が短かったし、内容的にも練習会のようなものでした。でも３種目とも一生懸命、頑張りました。水泳では立ち遅れたものの、バイクはトップでゴールし、そのままランも逃げ切って優勝しました。私のトライアスロン人生は、こうして始まったのですが、その時はトライアスロンを何時までも続けて行こう、などと思っていた訳ではありません。<br />
　しかし、翌年の83年７月の皆生大会（総合タイム10時間８分29秒、総合24位）、10月のハワイ大会（同13時間31分12秒、同538位、日本人14位）、そして11月の第２回久留米大会（同２位）とチャレンジして、私はいつの間にかトライアスロンの虜（とりこ）になっていたのです。<br />
　以後、皆生やハワイ大会への連続出場をはじめ、85年に初めて開催された宮古島やびわ湖、その後のオロロン、海外ではカナダ・アイアンマン、89年のウルトラマンなど、ロング・ディスタンスのトライアスロン大会に出場し、今日まで生涯現役のトライアスリートとして続けてきました。久留米トライアスロンに出場してから早26年、トライアスロン大会への出場は記憶が残る限り、およそ100回余りになります。<br />
　それにしても、私一人だったらトライアスロンはとっくに止めていたでしょう。こうして私がトライアスロンを続けてこれたのも、サイクリングの仲間や、当初、お世話になった熊本の永谷誠一さんのお陰だと思っています。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「あートライアスロンは、もういいかな。今年で終わりにしよう」</span></p>
<p>と毎年、思いながら、出場申し込み書類に記入してしまい、私の身体にはトライアスロン歴26年の染みが着いてしまいました。</p>
<div id="attachment_1777" style="width: 234px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1777" title="片岡宏介氏（05年6月、福岡市内の酒場で撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka1-224x300.jpg" alt="片岡宏介氏（05年6月、福岡市内の酒場で撮影）" width="224" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">片岡宏介氏（05年6月、福岡市内の酒場で撮影）</p></div>
<p> <br />
【片岡宏介氏プロフィール】</p>
<p><span style="color: #2b97d3;">1958年生まれ。福岡県出身。中高校生時代はバスケットボールに興じていたが、特にスポーツマンだった訳ではない。社会人となり久留米市在住時代、サイクリングに親しむうちに、1982年に地元で行われた「久留米トライアスロン大会」に出場、優勝したのを機に、翌年には皆生トライアスロン大会、アイアンマン・ハワイを完走、トライアスロン人生を踏み出す。以来、今日まで現役選手として26年間に亙りトライアスロンと取り組み、国内外の主要100大会余りの出場記録をつくった。<br />
</span></p>
</div>
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		<item>
		<title>Vol.30：雷神の巻　第３章その8：腕時計をアンパンに引き換えた</title>
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		<pubDate>Tue, 23 Jun 2009 05:20:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[小松]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[鉄人]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/climb-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」　山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。

]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その8</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">腕時計をアンパンに引き換えた</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」　山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。</p>
</div>
<p>　<br />
 市の活性化、発展を願う地元・若者達の熱意と努力が実り、皆生・湘南大会に次いで我が国３つ目のトライアスロン大会が、1982年10月17日の第３日曜日に産声を上げた。その名も「第１回小松トライアスロン大会」と呼ぶ。スイム競技の代わりに登山を採り入れたバイク～登山～バイク～ランのトライ（３つの）アスロン（競技）である。当初は北陸本線の小松駅と粟津駅の中間地に新たにオープンした木場潟（きばがた）公園内の湖でスイム競技も検討されたが、結局、標高604mの動山（ゆるぎやま）の山登りとなった。<br />
　コースは、まず木場町の木場潟公園をバイクでスタート、５Kmほど先の森林組合（東山町）まで集団でサイクリングを行う。それというのも、当初、大会開催に難色を示した警察の指示により、バイク競技は交通量が少ない地域で行わざるを得なかった為だ。それで森林組合から選手５名ずつが時差スタートを開始、途中、風光明媚な荒又峡を通り抜け、大杉谷川の水を塞き止めた赤瀬ダムの「自由の広場」まで18Km走って一端、バイクは終了。そして、いよいよ登山10Kmへと入っていく。</p>
<div id="attachment_1750" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/seien.jpg"><img class="size-medium wp-image-1750" title="住民から大声援を受けるバイクコース（第２回大会より、写真提供；小松トライアスロン実行委員会、以下同じ）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/seien-300x216.jpg" alt="住民から大声援を受けるバイクコース（第２回大会より、写真提供；小松トライアスロン実行委員会、以下同じ）" width="300" height="216" /></a><p class="wp-caption-text">住民から大声援を受けるバイクコース（第２回大会より、写真提供；小松トライアスロン実行委員会、以下同じ）</p></div>
<p>　登山は、大会実行委員会（本田　悟実行委員長）メンバーの活動拠点になっていた「大杉青年の家」がある動山を頂上まで登り詰めた後、選手達は急坂を降りて再び「自由の広場」へ戻る。さらにバイクに跨り、森林組合前を通過して隣町の連代寺町まで22Km走って終了、いよいよ最後のラン7.5Kmをこなし、木場潟公園へ戻ってフィニッシュするのである。<br />
　この変わり種のトライアスロン大会に集まった選手の総数は99人。内訳は石川県内の選手が79人、県外の選手が20人（うち外国人１人）という比較的、地元色の濃い大会となった。しかも選手の中には、バイクはロードレーサーではなく、なんと！　ママチャリで出場する者もかなりいた。何しろトライアスロンは日本で始まったばかり、当時はサイクリスト以外、ロードレーサーに乗るアスリートは極めて少ない時代である。因みに参加費は１人500円。今日と比べると、実に安いエントリー・フィーだった。</p>
<div id="attachment_1751" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sensei.jpg"><img class="size-medium wp-image-1751" title="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sensei-300x191.jpg" alt="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" width="300" height="191" /></a><p class="wp-caption-text">開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）</p></div>
<p> <br />
　レースのメイン・イベントとも言うべき登山は、選手達もさすがに息絶え絶え、もがき苦しんだ。特に動山頂上から水呑み場がある「弘法水」まで一気に下る下山道は厳しい下り坂が続く。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」</span></p>
<p> </p>
<div id="attachment_1752" style="width: 236px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb.jpg"><img class="size-medium wp-image-1752" title="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb-226x300.jpg" alt="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" width="226" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">上りも下りもロープを伝わっての厳しい山道が続く（第１回大会）</p></div>
<p>　山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。さらに、登山を終えバイクからランへと至る道程にはエイドステーションは一切、無く、この為、腹を減らした選手は食料品店へ駆け込み、</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「このアンパンを譲って下さい!!　でも、お金を持っていないから、この腕時計を置いていきます」</span></p>
<p>という具合に、食糧を各自、自力で調達したのだ。</p>
<div id="attachment_1753" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aidstation.jpg"><img class="size-medium wp-image-1753" title="飲み物も地元住民からサポートされた（第１回大会）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aidstation-300x204.jpg" alt="飲み物も地元住民からサポートされた（第１回大会）" width="300" height="204" /></a><p class="wp-caption-text">飲み物も地元住民からサポートされた（第１回大会）</p></div>
<p>　こうして、登山を組み込んだ過酷な鉄人レースが終わった。完走者は97人、従ってリタイアした者は僅か２人だけである。優勝者は、男子が旧根上町に住む西田　芳で総合タイムは２時間24分18秒、女子は富山県滑川市の高瀬祐子で同３時間16分56秒。また完走者の中には、この第１回大会以来、今日まで26年間、出場記録を刻んでいる西山義和（当時25歳、旧白峰村）もいた。高校生時代からスキーのクロスカントリー選手として養った体力を生かし、総合６位に食い込んだのだ。入賞者達には、白山麓から採取してきた自然石のユニークな賞状が贈られた。</p>
<p>　大会運営に当たった地元・青年達の総数は30名。エイドステーションも無ければ、完走Ｔシャツもない、ちょいと寂しいトライアスロン大会であったが、完走した選手達の顔は皆、爽やかだった。山本久夫選手と同じく第２回大会から連続出場している谷口　誠（当時20歳、大阪府和泉市）は、小松トライアスロンの魅力を次のように話す。</p>
<p><span style="color: #20a71a;">「地元の住民ボランティアと選手が一体となったホットな大会です。だから順位を争うのではなく、サイクリングも登山もマイペースで楽しんでいます」</span></p>
<p>　こうして小松トライアスロン大会は、今日まで26年余の歳月を刻んできたのである。</p>
<div id="attachment_1755" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/shirts.jpg"><img class="size-medium wp-image-1755" title="翌年の第２回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのＴシャツは、今や谷口のみが保有している」（写真提供；谷口氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/shirts-300x225.jpg" alt="翌年の第２回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのＴシャツは、今や谷口のみが保有している」（写真提供；谷口氏）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">翌年の第２回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのＴシャツは、今や谷口のみが保有している」（写真提供；谷口氏）</p></div>
<div id="attachment_1756" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1756" title="谷口　誠氏（07年９月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face1-300x225.jpg" alt="谷口　誠氏（07年９月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">谷口　誠氏（07年９月撮影）</p></div>
<p> </p>
<p>《次回予告》<span style="color: #0000ff;">1982年11月に福岡県久留米市において、地元サイクリング・クラブが手作りで開催した「第1回久留米トライアスロン大会」の模様と、優勝した片岡宏介氏の＜トライアスロン談義＞を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞竹の節の如く、精進の成果を残す　【山本　久夫】</h3>
<p>　私がトライアスロンを始めたのは33歳の時、1983年の第３回皆生大会でした。それまでスポーツとは、中学生の時が野球、高校生の時がハンドボール、そして大学生時代がマラソンと、それぞれ携わり楽しんできました。マラソンは社会人になっても続け、フルで２時間30分前後で走っていましたが、完走し疲れ切った充足感と言うのでしょうか、或いは走り切った満足感と言うのでしょうか、そんな気持がいま一つ得られず、それでトライアスロンへの挑戦を思い立ったのです。<br />
　初めて出場した皆生トライアスロン大会は総合８時間51分25秒で、若いエリート選手の梅沢君に続いて２番目にフィニッシュすることが出来ました。初トライアスロンとしては、まずまず納得出来る成績だったと思います。この準優勝の成績が知られたのでしょうか？　同じその年の９月に開催される第２回小松トライアスロン大会から参加申し込みの案内状が届きました。<br />
　小松大会は水泳の代わりに登山という変わり種のトライアスロンでしたが、</p>
<p><span style="color: #993300;">「マラソンで鍛えた健脚を生かせれば、山登りもやれる」</span></p>
<p>と考え、出場することを決めました。結果は&#8221;優勝&#8221;。山登りの途中から先頭に立ち、４時間１分56秒のタイムでゴールインしました。以来、小松大会には毎年、参戦し、昨年まで連続25回、出場しております。実は、私の娘は83年の第２回大会に出場した年に生まれましたが、その娘の成長と共に連続記録を刻んできたことになります。</p>
<div id="attachment_1758" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/finish.jpg"><img class="size-medium wp-image-1758" title="奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/finish-225x300.jpg" alt="奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）</p></div>
<p>　こうして四半世紀の年月を小松トライアスロンと共に歩んできた私ですが、それもこれも、</p>
<p><span style="color: #cca300;">「今日よりも明日、明日よりも明後日」</span></p>
<p>という気持で、日々、トレーニングに精進してきた結果だと思っています。毎日、日課となっている朝の散歩、その後に行う１時間ほどのバイク・トレーニングなど、一日一日を大切にトレーニングに励んできた成果を残していこうと、毎年１回、小松大会に参戦してきたのです。<br />
　竹が毎年、節を作って成長していくように、私も毎年、トレーニングの成果を自ら刻んできたのです。その節作りはこれからも先、私の&#8221;第二の故郷&#8221;とも言うべき小松の地で続いていくことでしょう。</p>
<div id="attachment_1759" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1759" title="山本久夫氏（07年９月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face2-225x300.jpg" alt="山本久夫氏（07年９月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">山本久夫氏（07年９月撮影）</p></div>
<p> <br />
【山本久夫氏プロフィール】</p>
<p><span style="color: #749b00;"><span style="color: #879417;">1949年生まれ。愛知県岡崎市出身。トライアスロン・デビューは33歳の時。第３回皆生トライアスロン大会に出場し総合２位となり、同じ年の第２回小松トライアスロン大会では優勝。以後、小松トライアスロン大会には毎年出場し、連続25回完走、うち優勝４回、準優勝２回の記録をつくる。現在は高等学校の体育教師を務め、定年後には鍼灸治療の医院を開院する予定。</span></span></p>
</div>
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		<title>Vol.29：雷神の巻　第３章その7：変った事、面白いことをやろう</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1735</link>
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		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 08:25:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
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		<category><![CDATA[鉄人]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/honda-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />小松市内に本拠を置く機械や建築業などの企業群をはじめ、食品や土建、絹織物などの地場産業、医療機関や新聞社、さらには関西方面にまで足を運んで協賛金を募った。京都の企業から30万円の協賛金が得られた時には、「やったぞぉ!!」本田は思わず皆の前で声をあげた。もう、必死だった。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その7</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">変った事、面白いことをやろう</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">中山俊行選手はラスト500ｍ当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった！」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。</p>
</div>
<p>　<br />
 石川県小松市の東南に「動山＝ゆるぎやま」という標高604mの山がある。富士山、立山と並び称される日本三名山の一つ、白山（2､702m）の日本海側に広がる山麓の一峰である。手取川や梯（かけはし）川によって形成された豊穣な扇状地・加賀平野に住む人々は、古より動山を眺めつつ、その奥に聳え立つ霊峰・白山を仰ぎ見、暮らしてきたのだ。<br />
　その動山は、彼らにとって憩い楽しむ場所でもあった。青空の下、真っ赤なキリシマツツジが花開く動山の山道をハイキングしながら、若者達は語り合った。そして山頂へと続く中腹に建つ小松市の教育施設「大杉青年の家」で、議論を交わした。彼らとは小松市に住む、将来の市の発展を願う若者達である。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「町に元気を取り戻したい。どうしたら町を活性化できるだろうか」</span></p>
<p>　当時20歳代の、市役所や青年会議所、消防団などから選ばれた若者16名による「小松能力開発研究会」の面々は思案した。研究会を立ち上げてから７年にもなるが、町を活性化する切り札は、なかなか見付からなかった。</p>
<p>　加賀平野の中央に位置し、人口約11万人を擁する小松市。その名の「小松」は、平安時代中期に花山法皇が稚松を植え「園の小松原」と呼ばれたことに起因する説や、小松内大臣だった平重盛が「小松殿」を建立し、後に「小松寺」と称した由来から名付けられたという説があるように、加賀における古い歴史と伝統がある。また、今日のような発展の基礎が築かれたのは江戸時代中期、加賀国の三大藩主だった前田利常が小松城を隠居処と定めた頃からで、以来、城下町として発展すると共に、陶磁器の九谷焼や小松綸子（りんし）と呼ぶ織物、畳表、石材などの伝統産業が生まれ育ってきた。<br />
　しかし、近年の地方都市のおける農林漁業の衰退や高齢化の進行、それに伴い若者達は町から去り都会へ出て行き地域産業・経済の空洞化現象が顕在化し、小松市でも人口の減少と共に経済や文化活動の衰退で、町は活気を失いつつあった。このため全国各地の市町村は&#8221;町興し・村興し&#8221;の策を練っていた時期である。<br />
　そんな折、研究会の講師として招かれた深江泰輔は、若者達にアドバイスをした。</p>
<p><span style="color: #00cc00;">「イベントを開催するのです。皆の力を合せて、何か事業を起こすのです」</span></p>
<p>　それを聞いて、研究会の会長役を務めていた本田　悟（当時30歳）は自得した。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「何か変わったこと、面白いことをやろう。それで町に人々を呼び戻そう」</span></p>
<div id="attachment_1738" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda.jpg"><img class="size-medium wp-image-1738" title="本田　悟氏近影（07年９月、小松ドームにて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda-300x225.jpg" alt="本田　悟氏近影（07年９月、小松ドームにて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">本田　悟氏近影（07年９月、小松ドームにて撮影）</p></div>
<p>　同じく、当時、市の職員として「大杉青年の家」に勤務していた寺田喜代嗣（同27歳）は思った。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「世界中の人々を呼び寄せるイベントを開催したらどうだ。そうすれば町も賑わう。町の人達も喜ぶ。小松市に活気が戻ってくる」</span></p>
<p> </p>
<div id="attachment_1739" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada.jpg"><img class="size-medium wp-image-1739" title="選手達を応援する寺田喜代嗣氏（07年９月、小松ドームにて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada-300x225.jpg" alt="選手達を応援する寺田喜代嗣氏（07年９月、小松ドームにて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">選手達を応援する寺田喜代嗣氏（07年９月、小松ドームにて撮影）</p></div>
<p>　思案の結果、提案されたのが世界中の食べ物を展示、紹介する&#8221;世界食べ物展&#8221;の開催だった。各国の大使を招いて、国際色豊かなイベントにしようというのだ。あるいは、地場産業の石材を白山の頂上へ運び上げる競技イベントも提案された。しかし、この２つの案は白紙となり、新たに浮上したのが&#8221;トライアスロン&#8221;だった。1982年６月のことである。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「トライアスロンをやれば、元気になれる！」</span></p>
<p>　82年といえば、「皆生トライアスロン大会」が日本で初めて開催された翌年に当たるが、彼らは皆生大会のことは全く知らなかった、しかし、ハワイ島で行われているアイアンマン・レースのことは、うすうす耳に入っていたようだ。とはいえ、ハワイのような大会が開ける訳もない。自分達の能力も限られているし、第一、トライアスロンの知識も十分ではなかった。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「でも、やれるだけのことはやろう。一生懸命、頑張ってみよう」</span></p>
<p>　本田は自分自身に気合いを入れた。そして大会の開催経費を賄うため、皆の先頭を切って大会スポンサー集めに乗り出した。小松市内に本拠を置く機械や建築業などの企業群をはじめ、食品や土建、絹織物などの地場産業、医療機関や新聞社、さらには関西方面にまで足を運んで協賛金を募った。京都の企業から30万円の協賛金が得られた時には、</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「やったぞぉ!!」</span></p>
<p>　本田は思わず皆の前で声をあげた。もう、必死だった。<br />
　地域の祭りや行事スケジュールを勘案して決めた大会開催日まで３箇月余りしかなかったが、地元の若者達の熱意と努力でトライアスロン大会は予定通り、1982年10月17日、99名の選手を集めて行われたのである。大会名称を「第１回小松トライアスロン大会」とし、スイム競技の代わりに動山を巡る山登りを取り入れたバイク～登山～バイク～ランのトライ（３つの）アスロン（競技）となった。</p>
<p> <br />
《次回予告》<br />
<span style="color: #00d600;">第1回小松トライアスロン大会のレース模様と、第２回大会以降25年間、トップ選手として連続出場してきた山本久夫氏の＜トライアスロン談義＞を掲載します。石川県小松市で1982年10月に開催された「小松トライアスロン大会」の模様を２回にわたって連載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞妻と二人三脚で歩んだ26年の歳月　【寺田　喜代嗣】</h3>
<p>　早や26年も前のことになります。その時、私は27歳。小松市の職員として動山の「大杉青年の家」に勤めていた私は、市内在住の若者達で構成する「小松市能力開発研究会」のメンバーと共に&#8221;元気な町づくり&#8221;を目指し、全員参加型イベントの開催に向けた取り組みを検討していました。その結果、ようやく決ったのがトライアスロン大会でした。ハワイで行われているトライアスロンにヒントを得て、</p>
<p><span style="color: #ab35a6;">「我々もやってみよう。皆で考え、皆で協力し合って、町を盛り上げよう」</span></p>
<p>ということになったのです。とはいえ、大会開催が正式決定したのは82年６月です。その年の10月の開催ということで、余り時間がありません。おまけにトライアスロンに関わる資料もないし、誰一人としてハワイ大会を見聞した者はおりません。大会開催を決めたのは好いけれど、どこからどのように手をつけようか？　まさしく私達は、五里霧中でトライアスロン大会の開催に向かって活動を開始したのです。</p>
<p>　このため私は、仕事が終わると毎晩のように研究会のメンバーやスタッフ達と会合を重ね、自分の時間が持てない慌ただしい日々を送ることになりました。実は妻の恵（めぐみ）とは５月に結婚したばかりでしたが新婚生活もどこ吹く風、毎日、大会開催のための打ち合わせと準備に追いまくられていたのです。さすがに妻も呆れて、</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「私は鉄人レースと結婚した??」</span></p>
<p>などと、内心ぼやいていたようです。<br />
　しかし、妻の理解と協力も得て、予定通り10月の第３日曜日の17日にトライアスロン大会を開催することが出来ました。以来、妻は26年間、私と共に大会を支えるボランティア・スタッフとして参加しております。そして妻だけでなく市内50に及ぶボランティア団体の方々をはじめ、第１回大会の開催に当たって強い懸念を示された医師会や警察の方々にも、第２回大会以降は全面的な協力を戴くことができ、今日まで26年間の歴史を刻んできたのです。<br />
　こうして長い年月を重ねてこれたのも、ひとえに多くの皆様のお陰ですが、それに加え実行委員会としては、大会運営を市民主導型とし自治体任せにしなかったこと、そのために自治体依存の高い大会でよく見られる財政難に陥るリスクが少なかったこと、さらには、この26年間に死亡事故が一度も発生しなかったことなどが、大きな要因としてあげられます。<br />
そして何よりも、「参加する選手はもちろん、大会運営に当るボランティア、そして沿道で声援してくれる皆さんすべてが主人公」。そんな考え方で運営してきたのが良かったのかも知れません。大会終了後に出場した選手達が後片付けを手伝ってくださるように、小松トライアスロン大会はボランティアも選手も一体となった&#8221;ホットな大会&#8221;として、皆の気持が一つとなって続けてこられたからだ、と思います。</p>
<div id="attachment_1741" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1741" title="26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada2-300x225.jpg" alt="26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.28：雷神の巻　第３章その6：トライアスロン・クラブの誕生②</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1719</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1719#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 05:43:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[クラブ]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その6</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トライアスロン・クラブの誕生②</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>  1982年10月のアイアンマン・ハワイを日本人第1位で完走した矢後潔省（きよみ）は、同じ大会で日本人第３位となった愛知県出身の横井信之の存在を知った。その横井も、自分と同じく「トライアスロンを地域に広めていきたい」という共通の願いを持っていた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」</span></p>
<p>　矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。そこで発想されたのが「JTRC＝ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ」と呼ぶ、トライアスロンを目指す全国のアスリート達が参画するクラブ組織だった。矢後と横井の２人は、12月にクラブ名を決めて、それぞれの地域で仲間集めを開始した。</p>
<p>　まず矢後は、翌83年春に「静岡トライアスロン・クラブ」を設立、次いでランニング雑誌『ランナーズ』の誌上で「JTRC」への参加呼び掛けを行った。集まってきたのは関東、中部、近畿、四国のアスリート達で、主にハワイ大会や皆生大会に選手として出場したメンバーである。それら全国のアスリート達に、矢後は「JTRC」のロゴが入った帽子やＴシャツを造り配った。<br />
　全国のアスリート達との電話や郵便による情報交換、資料や用品の配送業務など、矢後は朝から夜中までクラブ活動に奔走した。当時、サラリーマンとして地元企業に勤めていた矢後だが、「JTRC」の運営業務のため何度となく勤務を休んだし、また毎月12万円ほどかかった郵便代も、すべて自分の給料から賄うくらい「JTRC」活動に投じたのだ。時間もお金も投げ打ち、それこそ１日24時間をフルタイムでトライアスロンの普及、拡大に専念したのである。</p>
<div id="attachment_1720" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1720" title="JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-300x124.jpg" alt="JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）" width="300" height="124" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）</p></div>
<p>　その結果、「JTRC」の本部を矢後が住む静岡県駿東郡小山町に置いたのをはじめ、全国規模のクラブ組織らしく地域ごとに支部を設置、83年末には合計12支部に135名の会員が集結した。ちなみに、その時の12支部の名称・所在地・連絡先名は、次の通りである。</p>
<p>◎静岡支部＝静岡県富士宮市、近藤　博<br />
◎愛知支部＝愛知県大府市、横井信之<br />
◎神奈川支部＝横浜市鶴見区、中山俊行<br />
◎東京支部＝東京都品川区、猪川三一生<br />
◎千葉支部＝千葉県市川市、市川祥宏<br />
◎埼玉支部＝埼玉県入間郡毛呂山町、奥崎　修<br />
◎群馬支部＝群馬県高崎市、諸山　司<br />
◎大阪支部＝大阪府八尾市、脇田重男<br />
◎京都支部＝京都府宇治市、北村浩士<br />
◎奈良支部＝奈良県奈良市、松井正夫<br />
◎和歌山支部＝和歌山県和歌山市、日野善生<br />
◎愛媛支部＝愛媛県松山市、浜岡隆文</p>
<p>　各支部の会員数は東京が32名、次いで静岡が30名で、この２つの支部が「JTRC」会員全体の半分近くを占めた。続いて神奈川18名、愛知13名、千葉12名、あとの７支部は一桁台の会員数である。本拠本元の静岡は別として、大都市を中心に順次、トライアスリート達が集まってきたのだ。</p>
<div id="attachment_1721" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc.jpg"><img class="size-medium wp-image-1721" title="JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、後列左端が市川氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-300x249.jpg" alt="JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、後列左端が市川氏" width="300" height="249" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、　後列左端が市川氏</p></div>
<p>　また、その中心的な役割を担ったのが、支部長として連絡窓口となったアスリート達で、その中にはエリート選手として活躍する中山や横井、84年暮れに発足した我が国最大規模のトライアスロン・クラブ「ATC＝オールジャパン・トライアスロン・クラブ」の中核的役割を担った市川、猪川の名前も連なっている。このうち猪川は85年になって“チーム・エトナ”の監督として中山、横井らを率いたほか、矢後や市川が立ち上げたびわ湖トライアスロン大会や宮古島トライアスロン大会のマーシャル・リーダーとして活躍する。<br />
　こうした「JTRC」の組織化と活動について、副会長を務めた市川は当時のことを、次のように話す。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「矢後さんはトライアスロンに燃えていました。私も関東地域のトライアスリートの組織化に傾注しましたが、彼は私以上の情熱を持って取り組んでいました。そして後に私と猪川さんはATCを立ち上げましたが、トライアスロンに対する思いは皆、同じでした。この素晴らしいスポーツを日本中に広め、楽しんでいきたいと願っていたのです」</span></p>
<p>　そうした矢後のトライアスロンに賭ける情熱が功を奏してか、「JTRC」は最終的に全国36支部、会員総数およそ1,000名の巨大クラブに成長していったのである。矢後をはじめとする数多くのトライアスリート達の熱い想いが集結した結果である。</p>
<div id="attachment_1722" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago.jpg"><img class="size-medium wp-image-1722" title="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-300x225.jpg" alt="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）</p></div>
<p>《次回予告》<br />
石川県小松市で1982年10月に開催された「小松トライアスロン大会」の模様を２回にわたって連載します。</p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロンに打ち込むため会社を辞めた　【横井　信之】</h3>
<p>　私は子供の頃からスポーツ大好き人間で、スポーツと共に日々を送っていました。水泳は小学生の時から始め、中学生３年生の時は愛知県大会の200mクロールで優勝、中部地区ジュニア大会では６位になりました。また、通学では毎日５Kmほど自転車を使っていましたし、冬場はもっぱら駅伝選手として中長距離を走っていました。つまり中学生の頃から、私はトライアスロンの３種目を経験していた訳です。<br />
　水泳は高校まで続けましたが、大学時代は同好会のアメフトで汗を流し、時にはランドナーにまたがって、九州一周のツーリングなどを楽しんでいました。そして大学を卒業し技術者として株式会社デンソー（旧日本電装）に入社しましたが、やはりサラリーマンになってからも会社の屋外プールで泳いだり、社員寮から会社までランニング出勤するなど、スポーツと共に生活していたのです。</p>
<p>　そんな私がトライアスロンに挑戦することになったのは、入社した翌年、81年２月の新聞記事を見たのがきっかけです。８名の日本人がハワイ島で開催されたトライアスロン大会に出場し、完走したという記事で、写真も沢山、掲載されていました。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「今まで自分が取り組んできたスポーツだし、水泳ならば外国の人達にも退けはとらない。やってみよう」</span></p>
<p>　周囲には誰一人としてトライアスロンをやる者はいませんでしたが、私は密かに決意し、自分一人で３種目のトレーニングを開始しました。スイムは会社が定時となる17時25分からすぐさま会社のプールで１時間ほど泳ぎ、再び職場に戻って仕事に就きました。そんな仕事のやり方が出来たのも、物分かりの良い上司の計らいでした。<br />
　また、休日の土曜ないし日曜日は、早起きして知多半島を巡る約100Kmのバイク・トレーニングを行い、社員寮へ戻ってくると今度は刈谷市から名古屋市緑区の大高緑地公園まで往復10Kmのランニング、という具合に、量と質を兼ね備えたトレーニングを積んでいきました。ちなみにロードレーサーは後輩から譲り受けたもので、それをハワイ大会に持ち込みました。</p>
<div id="attachment_1724" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1724" title="若きアスリート時代の横井選手（写真提供；横井氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-1-225x300.jpg" alt="若きアスリート時代の横井選手（写真提供；横井氏）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">若きアスリート時代の横井選手　　　　　　（写真提供；横井氏）</p></div>
<p> <br />
　ハワイのアイアンマン大会に参加したのは1982年10月、私が24歳の時です。河野禎介さん達３～４人のメンバーで、大阪発のツアーに参加しました。レースは長丁場、相当に時間がかかると思っていましたが、我ながら案外、早く済んだという印象です。スイムの3.84Kmも１時間３分17秒と当初予想したよりも速く、陸へ上がった時には何がなんだか分らないほど興奮していました。総合タイムは13時間33分51で総合460位、日本人では３番目のフィニッシュでした。<br />
　今思うに、このアイアンマン・レースを完走していなかったら、私はトライアスロンに取り組むことはなかったでしょう。しかし、最初のトライアスロンで、まずまずのタイムで完走した喜びと充足感が、その後の私の進路を変えたのです。ハワイから戻った翌83年、私はトライアスロンに打ち込むため、会社を辞めました。そして中京大学大学院修士課程で運動処方の勉学を始めるかたわら、トライアスロンのトレーニングに専念していきました。</p>
<p>　そんな決意をしてトライアスロンに取り組んだ私ですが、83年に初めて出場した皆生トライアスロン大会では、総合70位と不本意な成績でした。スイム３Kmは58分のトップでフィニッシュ、総合優勝した梅沢君よりも先に上り、バイクは途中までトップを守り続けたのですが、不運にも砂利道でパンクに見舞われ、苦手のランは７時間近くかけて歩いてしまうなど、惨めな結果に終わりました。<br />
　しかし、翌84年のアイアンマン・ハワイでは日本人として一桁順位でフィニッシュしたこともあって、中山君や山本君など日本のエリート選手で構成する“チーム・エトナ”のメンバーに迎え入れる話が届きました。もちろん、私はトライアスロンに打ち込む覚悟でしたので、その要請を受け入れ、以後、85年10月の天草トライアスロン大会を皮切りに“チーム・エトナ”の一員として数々のトライアスロン大会に出場していったのです。</p>
<div id="attachment_1725" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/etna.jpg"><img class="size-medium wp-image-1725" title="84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/etna-300x225.jpg" alt="84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手</p></div>
<p>　その一方、名古屋市内のサイクルショップ「二光製作所」に集まっていたアスリート達と共に、中京大学のプールやキャンパスを使用してトライアスロンのトレーニングを行い、地域でのトライアスロンの普及活動にも力を入れました。エリート選手として、そしてまた地域の指導者としてトライアスロンの普及、発展に力を注いだ積もりですが、そんなトライアスリートとしての私の活動に終止符が打たれることになったのは、トライアスロンを始めてから10年後のことです。<br />
　得意のスイム競技はトップレベルを維持していたものの、バイクでのドラフティング・ルールがなくなり、スイムでリードしていたアドバンテージ（優位性）がなくなってしまったからです。だからレースでは勝てなくなったし、それにレースがスピード化したため、あらかじめバイクシューズをペダルに着けておくなど、総じて競技手法が姑息になり、私には馴染まなくなりました。<br />
　1992年９月、波崎で行われたアジア・トライアスロン大会を最後に、34歳になった私はトライアスロンから引退しました。寂しい気持も残りましたが、今では若い元気の好い時代にトライアスロンに打ち込み、85年以降、次々と開かれていった新規大会にすべて参戦し、汗と涙を流していった経験を楽しく、思い出深く感じております。</p>
<div id="attachment_1726" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/result.jpg"><img class="size-medium wp-image-1726" title="横井選手の初期の競技記録" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/result-300x225.jpg" alt="横井選手の初期の競技記録" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">横井選手の初期の競技記録</p></div>
<p>《横井信之氏プロフィール》<br />
<span style="color: #38992b;">1958年、愛知県岩倉市で生まれ育つ。小・中学生時代より水泳並びに陸上選手として活躍すると共に、大学時代はアメリカン・フットボールやサイクル・ツーリングを楽しむ。1981年に永谷誠一ら８名の日本人がハワイ島で行われたトライアスロン大会に参戦した新聞記事を見て、アイアンマンへの挑戦を決意、翌82年のハワイ大会に出場し、矢後潔省、藤井真太郎に次いで日本人第３位でフィニッシュする。85年の天草トライアスロン大会には中山俊行らと共に“チーム・エトナ”のメンバーとして出場したのを始め、次々と開催される新規トライアスロン大会に参戦していった。34歳の時、トライアスロン選手を引退、現在は中部大学の体育講師として後進の指導に当たっている。<br />
</span> </p>
<div id="attachment_1727" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1727" title="横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-2-225x300.jpg" alt="横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）</p></div>
</div>
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