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	<title>TRI-X &#187; 拡大</title>
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		<title>Vol.31：雷神の巻　第３章その9：アイアンマンと同じ参加選手は15名で始まった</title>
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		<pubDate>Tue, 23 Jun 2009 06:56:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[久留米]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
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		<category><![CDATA[普及]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />皆生、湘南、小松に次いで、日本で４番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之（当時54歳）が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月３日（水曜日）のことである。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その9</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">アイアンマンと同じ参加選手は15名で始まった</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">皆生、湘南、小松に次いで、日本で４番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之（当時54歳）が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月３日（水曜日）のことである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>皆生、湘南、小松に次いで、日本で４番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之（当時54歳）が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月３日（水曜日）のことである。</p>
<p>　岩井が営む自転車店は、先代の岩井良雄が大正８年に開業したもので、自分の代になると競輪選手の経験を踏まえ、自転車をスポーツ競技やサイクリングなど遊びの道具として普及させようと、我が国でも早い時期からトラックレーサーやロードレーサーの製作、販売を手掛け始めた。このため「イワイスポーツサイクル」に集まる者は、九州勢の競輪選手やアマチュア・サイクリスト、それにサイクリング好きのマニアなど、いずれも自転車大好き人間ばかり。だから「イワイスポーツサイクル」を拠点に&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;と自転車競技志向の&#8221;イワイ・レーシング・クラブ&#8221;がつくられていた。</p>
<div id="attachment_1770" style="width: 234px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1770" title="岩井一之氏（04年２月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai1-224x300.jpg" alt="岩井一之氏（04年２月撮影）" width="224" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">岩井一之氏（04年２月撮影）</p></div>
<p>　この２つのクラブチームの主宰者である岩井が先導し、第１回の久留米トライアスロン大会が開かれたのである。その発端となったのは、前年の1981年８月に日本で初めて行われた皆生トライアスロン大会を見物してきた地元アスリートが撮ってきた写真であった。岩井は、</p>
<p><span style="color: #800000;">「ロードレーサーを使った面白そうな競技じゃないか。そう言えば、サイクリング好きの片岡君が来年、トライアスロンに挑戦するという話だし、彼の壮行会を兼ねて自分らもやってみよう」</span></p>
<p>　当時、&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;に入会し、センチュリー・ラン（160Kmサイクリング）などで活躍していた片岡宏介（当時24歳）が、83年の皆生トライアスロンとアイアンマン・ハワイへの出場を計画していた。そこで「一度レースを経験するのも役に立つだろう」と、岩井は考えたのである。そして大会の日取りを11月３日に決めた。この日は祭日の「文化の日」で大概、お天気に恵まれることと、実は岩井が若き選手時代、第３回福岡県国体・自転車競技の1,500m速度競争で優勝した記念の日でもあったからだ。</p>
<p>　競技距離はスイムが25mプールを25往復する1,250m、バイクが60Km、ランが12Km。当時はスイム、バイク、ランとは言わず、岩井達は市内の西日本スポーツガーデンで水泳を、続いて筑後川サイクリング・ロードを原鶴まで往復する自転車、最後に神代橋～鎮西橋～大城橋を巡るマラソンと称した。参加費は１名1,000円である。<br />
　参加選手は全部で15名。ハワイ・トライアスロンの第１回大会と同じである。&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;のメンバーをはじめとする地元アスリート達が中心だったが、他に佐賀県から来た中学生の城野崇弘（当時13歳）もエントリーした。片岡はゼッケン７番、水泳は３コースで泳ぐことになった。</p>
<div id="attachment_1771" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/entry.jpg"><img class="size-medium wp-image-1771" title="第１回大会の開催要項と申込書（資料提供；岩井公一氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/entry-300x217.jpg" alt="第１回大会の開催要項と申込書（資料提供；岩井公一氏）" width="300" height="217" /></a><p class="wp-caption-text">第１回大会の開催要項と申込書（資料提供；岩井公一氏）</p></div>
<p>　そして秋晴れの下、九州で初めて開催されたトライアスロン大会の幕が切って落とされた。最初の種目、プールでの水泳は、５コースで泳いだ竹下禮二（当時35歳）が22分45秒59でトップ、次いで２コースで泳いだ中学生の城野が２位でフィニッシュした。しかし自転車に入ると、水泳を４番手で上がった片岡が前を走る３名の選手達を次々と抜いて１位でゴール、マラソンもその勢いのまま押し切り、堂々の優勝を飾ったのである。<br />
　片岡の総合タイムは３時間６分23秒、２位には水泳３位、自転車２位と堅実な走りをして総合３時間24分04秒の塚本耕治（当時33歳）、３位に竹下、４位は水泳を最下位の15位で上がった大学生の沢井孝之（当時22歳）、そして５位に城野が総合３時間55分11秒と健闘した。完走者は14名、タイヤのパンクでリタイアしたのが１名、女性として唯一、出場した堤　恭子（当時33歳）は12位だった。</p>
<div id="attachment_1772" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kekka.jpg"><img class="size-medium wp-image-1772" title="第１回大会の競技結果（資料提；岩井公一氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kekka-300x223.jpg" alt="第１回大会の競技結果（資料提；岩井公一氏）" width="300" height="223" /></a><p class="wp-caption-text">第１回大会の競技結果（資料提；岩井公一氏）</p></div>
<p>　こうして九州の一都市で産声を挙げたトライアスロン大会は無事、閉幕した。そして翌年も同じ日に、同じ場所で開かれ、市民クラブのローカルな大会は年々、参加選手が増え、ピーク時には302名もの選手を集めたのである。その立て役者となったのが、岩井の長男で大学生時代に国体の自転車競技で活躍した「イワイスポーツサイクル」の３代目である岩井公一である。中学生時代は校内マラソン大会で連続優勝した経験を生かし、片岡に誘われ自らもトライアスリートとなった。82年５月に片岡らと結成した&#8221;スーパーマン・クラブ・イワイ&#8221;と呼ぶクラブを舞台に、トライアスロンの啓蒙、普及活動に関わり、今日に至っている。</p>
<div id="attachment_1773" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1773" title="「イワイスポーツサイクル」の３代目・岩井公一氏（０２年４月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwai2-300x224.jpg" alt="「イワイスポーツサイクル」の３代目・岩井公一氏（０２年４月撮影）" width="300" height="224" /></a><p class="wp-caption-text">「イワイスポーツサイクル」の３代目・岩井公一氏（０２年４月撮影）</p></div>
<p>《次回予告》<span style="color: #d50ba0;">次回から第４章として、全国的なトライアスロン組織やクラブ組織づくりの動向について紹介していきます。また＜トライアスロン談義＞では、複合耐久種目連絡協議会」を通じて組織化を図った元日本陸上競技連盟理事であり、日本トライアスロン連合の初代理事長の佐々木秀幸氏に当時の我が国トライアスロン界の状況を語ってもらいます。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロン歴26年の染みが着いてしまった　【片岡　宏介】</h3>
<p>　ただ何となく、自転車に乗りたかったのです。独身寮の先輩がロードレーサーを磨いている様子を見ながら、そう思いました。それで、</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「自分も乗ってみたいです」</span></p>
<p>と言ったら、その先輩は早速、私を地元のサイクリング・クラブを主宰している「イワイスポーツサイクル」へ案内してくれました。早速、私はロードレーサーを買うと共に、ショップのオーナーである岩井一之さんが会長を務める&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;のメンバーとなり、九州一周のサイクリングや大会に参加していったのです。でも遊びがてら、楽しみがてら参加したまでのことで、スポーツとして取り組むとか、ましてやサイクル・ロードレースとして競技に挑んだ訳ではありません。それでも自転車に乗り始めて翌年の1980年、当時、全国各地で盛んに行われるようになったセンチュリー・ラン（鳥取市～岡山県牛窓町間160Km）ではトップでゴールインしました。<br />
　そうした自転車の経験を積み重ねるうちに、その頃、始まったハワイのトライアスロンや皆生大会の話を耳にしました。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「長い距離は魅力だな。やってみようか」</span></p>
<p>と、思い始めたのです。それで全くの我流ながら、私は82年２月に行われるハワイ大会に出場するため、練習を始めました。水泳は「イワイスポーツサイクル」の裏手にあるスポーツ・クラブのプールへ通い、３Kmが泳げるよう毎回、１時間を泳ぎ続ける練習をしました。またマラソンは、勤務先の八女市まで往復20Kmの自転車を走った後に、久留米市の東方にある標高200mほどの高良山まで登って戻る練習を行いました。この高良山までのランニング・ロードは東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲った円谷幸吉選手が、幹部候補生学校時代にトレーニングに使っていたコースで、その往復のタイム記録は今なお破られていません。また自転車競技のスクラッチで当時、世界選手権を連覇していた中野浩一選手を始めとした競輪選手達も、高良山までのコースを練習コースとして走っていました。</p>
<div id="attachment_1776" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka21.jpg"><img class="size-medium wp-image-1776" title="第24回皆生トライアスロン大会（2003年７月）のランで北村文俊氏（写真左）と共に（03年７月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka21-300x224.jpg" alt="第24回皆生トライアスロン大会（2003年７月）のランで北村文俊氏（写真左）と共に（03年７月撮影）" width="300" height="224" /></a><p class="wp-caption-text">第24回皆生トライアスロン大会（2003年７月）のランで北村文俊氏（写真左）と共に（03年７月撮影）</p></div>
<p>　こうして82年のハワイを目指し我流のトレーニングを積み重ねていたのですが、&#8221;久留米サイクリング・クラブ&#8221;では、その年の７月に北海道で行われるオホーツク・サイクリング大会に参加することを決めたのです。九州出身の私はまだ見ぬ北海道へ行ってみたかったし、その上に通常、旅費として10万円がかかるところを半額の５万円ほどで行けるということでしたので、ハワイは見送り北海道の旅を選びました。しかし、</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「一度はトライアスロンを体験してみたい」</span></p>
<p>という気持に変わりはありませんでした。ですから、皆生トライアスロン大会とハワイのアイアンマン大会は翌年の83年に出場することとし、引き続き我流のトライアスロン練習を積み重ねていたのです。その私が、来年のトライアスロンに挑戦する壮行会として岩井会長が提案し、開催したのが久留米トライアスロン大会だったのです。</p>
<p>　大会は、私にとっては距離が短かったし、内容的にも練習会のようなものでした。でも３種目とも一生懸命、頑張りました。水泳では立ち遅れたものの、バイクはトップでゴールし、そのままランも逃げ切って優勝しました。私のトライアスロン人生は、こうして始まったのですが、その時はトライアスロンを何時までも続けて行こう、などと思っていた訳ではありません。<br />
　しかし、翌年の83年７月の皆生大会（総合タイム10時間８分29秒、総合24位）、10月のハワイ大会（同13時間31分12秒、同538位、日本人14位）、そして11月の第２回久留米大会（同２位）とチャレンジして、私はいつの間にかトライアスロンの虜（とりこ）になっていたのです。<br />
　以後、皆生やハワイ大会への連続出場をはじめ、85年に初めて開催された宮古島やびわ湖、その後のオロロン、海外ではカナダ・アイアンマン、89年のウルトラマンなど、ロング・ディスタンスのトライアスロン大会に出場し、今日まで生涯現役のトライアスリートとして続けてきました。久留米トライアスロンに出場してから早26年、トライアスロン大会への出場は記憶が残る限り、およそ100回余りになります。<br />
　それにしても、私一人だったらトライアスロンはとっくに止めていたでしょう。こうして私がトライアスロンを続けてこれたのも、サイクリングの仲間や、当初、お世話になった熊本の永谷誠一さんのお陰だと思っています。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「あートライアスロンは、もういいかな。今年で終わりにしよう」</span></p>
<p>と毎年、思いながら、出場申し込み書類に記入してしまい、私の身体にはトライアスロン歴26年の染みが着いてしまいました。</p>
<div id="attachment_1777" style="width: 234px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1777" title="片岡宏介氏（05年6月、福岡市内の酒場で撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kataoka1-224x300.jpg" alt="片岡宏介氏（05年6月、福岡市内の酒場で撮影）" width="224" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">片岡宏介氏（05年6月、福岡市内の酒場で撮影）</p></div>
<p> <br />
【片岡宏介氏プロフィール】</p>
<p><span style="color: #2b97d3;">1958年生まれ。福岡県出身。中高校生時代はバスケットボールに興じていたが、特にスポーツマンだった訳ではない。社会人となり久留米市在住時代、サイクリングに親しむうちに、1982年に地元で行われた「久留米トライアスロン大会」に出場、優勝したのを機に、翌年には皆生トライアスロン大会、アイアンマン・ハワイを完走、トライアスロン人生を踏み出す。以来、今日まで現役選手として26年間に亙りトライアスロンと取り組み、国内外の主要100大会余りの出場記録をつくった。<br />
</span></p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.30：雷神の巻　第３章その8：腕時計をアンパンに引き換えた</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1748</link>
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		<pubDate>Tue, 23 Jun 2009 05:20:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[小松]]></category>
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		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[鉄人]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/climb-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」　山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。

]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その8</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">腕時計をアンパンに引き換えた</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」　山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。</p>
</div>
<p>　<br />
 市の活性化、発展を願う地元・若者達の熱意と努力が実り、皆生・湘南大会に次いで我が国３つ目のトライアスロン大会が、1982年10月17日の第３日曜日に産声を上げた。その名も「第１回小松トライアスロン大会」と呼ぶ。スイム競技の代わりに登山を採り入れたバイク～登山～バイク～ランのトライ（３つの）アスロン（競技）である。当初は北陸本線の小松駅と粟津駅の中間地に新たにオープンした木場潟（きばがた）公園内の湖でスイム競技も検討されたが、結局、標高604mの動山（ゆるぎやま）の山登りとなった。<br />
　コースは、まず木場町の木場潟公園をバイクでスタート、５Kmほど先の森林組合（東山町）まで集団でサイクリングを行う。それというのも、当初、大会開催に難色を示した警察の指示により、バイク競技は交通量が少ない地域で行わざるを得なかった為だ。それで森林組合から選手５名ずつが時差スタートを開始、途中、風光明媚な荒又峡を通り抜け、大杉谷川の水を塞き止めた赤瀬ダムの「自由の広場」まで18Km走って一端、バイクは終了。そして、いよいよ登山10Kmへと入っていく。</p>
<div id="attachment_1750" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/seien.jpg"><img class="size-medium wp-image-1750" title="住民から大声援を受けるバイクコース（第２回大会より、写真提供；小松トライアスロン実行委員会、以下同じ）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/seien-300x216.jpg" alt="住民から大声援を受けるバイクコース（第２回大会より、写真提供；小松トライアスロン実行委員会、以下同じ）" width="300" height="216" /></a><p class="wp-caption-text">住民から大声援を受けるバイクコース（第２回大会より、写真提供；小松トライアスロン実行委員会、以下同じ）</p></div>
<p>　登山は、大会実行委員会（本田　悟実行委員長）メンバーの活動拠点になっていた「大杉青年の家」がある動山を頂上まで登り詰めた後、選手達は急坂を降りて再び「自由の広場」へ戻る。さらにバイクに跨り、森林組合前を通過して隣町の連代寺町まで22Km走って終了、いよいよ最後のラン7.5Kmをこなし、木場潟公園へ戻ってフィニッシュするのである。<br />
　この変わり種のトライアスロン大会に集まった選手の総数は99人。内訳は石川県内の選手が79人、県外の選手が20人（うち外国人１人）という比較的、地元色の濃い大会となった。しかも選手の中には、バイクはロードレーサーではなく、なんと！　ママチャリで出場する者もかなりいた。何しろトライアスロンは日本で始まったばかり、当時はサイクリスト以外、ロードレーサーに乗るアスリートは極めて少ない時代である。因みに参加費は１人500円。今日と比べると、実に安いエントリー・フィーだった。</p>
<div id="attachment_1751" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sensei.jpg"><img class="size-medium wp-image-1751" title="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sensei-300x191.jpg" alt="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" width="300" height="191" /></a><p class="wp-caption-text">開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）</p></div>
<p> <br />
　レースのメイン・イベントとも言うべき登山は、選手達もさすがに息絶え絶え、もがき苦しんだ。特に動山頂上から水呑み場がある「弘法水」まで一気に下る下山道は厳しい下り坂が続く。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」</span></p>
<p> </p>
<div id="attachment_1752" style="width: 236px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb.jpg"><img class="size-medium wp-image-1752" title="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/climb-226x300.jpg" alt="開会セレモニーで選手宣誓も行われた（第１回大会）" width="226" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">上りも下りもロープを伝わっての厳しい山道が続く（第１回大会）</p></div>
<p>　山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。さらに、登山を終えバイクからランへと至る道程にはエイドステーションは一切、無く、この為、腹を減らした選手は食料品店へ駆け込み、</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「このアンパンを譲って下さい!!　でも、お金を持っていないから、この腕時計を置いていきます」</span></p>
<p>という具合に、食糧を各自、自力で調達したのだ。</p>
<div id="attachment_1753" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aidstation.jpg"><img class="size-medium wp-image-1753" title="飲み物も地元住民からサポートされた（第１回大会）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aidstation-300x204.jpg" alt="飲み物も地元住民からサポートされた（第１回大会）" width="300" height="204" /></a><p class="wp-caption-text">飲み物も地元住民からサポートされた（第１回大会）</p></div>
<p>　こうして、登山を組み込んだ過酷な鉄人レースが終わった。完走者は97人、従ってリタイアした者は僅か２人だけである。優勝者は、男子が旧根上町に住む西田　芳で総合タイムは２時間24分18秒、女子は富山県滑川市の高瀬祐子で同３時間16分56秒。また完走者の中には、この第１回大会以来、今日まで26年間、出場記録を刻んでいる西山義和（当時25歳、旧白峰村）もいた。高校生時代からスキーのクロスカントリー選手として養った体力を生かし、総合６位に食い込んだのだ。入賞者達には、白山麓から採取してきた自然石のユニークな賞状が贈られた。</p>
<p>　大会運営に当たった地元・青年達の総数は30名。エイドステーションも無ければ、完走Ｔシャツもない、ちょいと寂しいトライアスロン大会であったが、完走した選手達の顔は皆、爽やかだった。山本久夫選手と同じく第２回大会から連続出場している谷口　誠（当時20歳、大阪府和泉市）は、小松トライアスロンの魅力を次のように話す。</p>
<p><span style="color: #20a71a;">「地元の住民ボランティアと選手が一体となったホットな大会です。だから順位を争うのではなく、サイクリングも登山もマイペースで楽しんでいます」</span></p>
<p>　こうして小松トライアスロン大会は、今日まで26年余の歳月を刻んできたのである。</p>
<div id="attachment_1755" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/shirts.jpg"><img class="size-medium wp-image-1755" title="翌年の第２回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのＴシャツは、今や谷口のみが保有している」（写真提供；谷口氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/shirts-300x225.jpg" alt="翌年の第２回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのＴシャツは、今や谷口のみが保有している」（写真提供；谷口氏）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">翌年の第２回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのＴシャツは、今や谷口のみが保有している」（写真提供；谷口氏）</p></div>
<div id="attachment_1756" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1756" title="谷口　誠氏（07年９月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face1-300x225.jpg" alt="谷口　誠氏（07年９月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">谷口　誠氏（07年９月撮影）</p></div>
<p> </p>
<p>《次回予告》<span style="color: #0000ff;">1982年11月に福岡県久留米市において、地元サイクリング・クラブが手作りで開催した「第1回久留米トライアスロン大会」の模様と、優勝した片岡宏介氏の＜トライアスロン談義＞を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞竹の節の如く、精進の成果を残す　【山本　久夫】</h3>
<p>　私がトライアスロンを始めたのは33歳の時、1983年の第３回皆生大会でした。それまでスポーツとは、中学生の時が野球、高校生の時がハンドボール、そして大学生時代がマラソンと、それぞれ携わり楽しんできました。マラソンは社会人になっても続け、フルで２時間30分前後で走っていましたが、完走し疲れ切った充足感と言うのでしょうか、或いは走り切った満足感と言うのでしょうか、そんな気持がいま一つ得られず、それでトライアスロンへの挑戦を思い立ったのです。<br />
　初めて出場した皆生トライアスロン大会は総合８時間51分25秒で、若いエリート選手の梅沢君に続いて２番目にフィニッシュすることが出来ました。初トライアスロンとしては、まずまず納得出来る成績だったと思います。この準優勝の成績が知られたのでしょうか？　同じその年の９月に開催される第２回小松トライアスロン大会から参加申し込みの案内状が届きました。<br />
　小松大会は水泳の代わりに登山という変わり種のトライアスロンでしたが、</p>
<p><span style="color: #993300;">「マラソンで鍛えた健脚を生かせれば、山登りもやれる」</span></p>
<p>と考え、出場することを決めました。結果は&#8221;優勝&#8221;。山登りの途中から先頭に立ち、４時間１分56秒のタイムでゴールインしました。以来、小松大会には毎年、参戦し、昨年まで連続25回、出場しております。実は、私の娘は83年の第２回大会に出場した年に生まれましたが、その娘の成長と共に連続記録を刻んできたことになります。</p>
<div id="attachment_1758" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/finish.jpg"><img class="size-medium wp-image-1758" title="奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/finish-225x300.jpg" alt="奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）</p></div>
<p>　こうして四半世紀の年月を小松トライアスロンと共に歩んできた私ですが、それもこれも、</p>
<p><span style="color: #cca300;">「今日よりも明日、明日よりも明後日」</span></p>
<p>という気持で、日々、トレーニングに精進してきた結果だと思っています。毎日、日課となっている朝の散歩、その後に行う１時間ほどのバイク・トレーニングなど、一日一日を大切にトレーニングに励んできた成果を残していこうと、毎年１回、小松大会に参戦してきたのです。<br />
　竹が毎年、節を作って成長していくように、私も毎年、トレーニングの成果を自ら刻んできたのです。その節作りはこれからも先、私の&#8221;第二の故郷&#8221;とも言うべき小松の地で続いていくことでしょう。</p>
<div id="attachment_1759" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1759" title="山本久夫氏（07年９月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/face2-225x300.jpg" alt="山本久夫氏（07年９月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">山本久夫氏（07年９月撮影）</p></div>
<p> <br />
【山本久夫氏プロフィール】</p>
<p><span style="color: #749b00;"><span style="color: #879417;">1949年生まれ。愛知県岡崎市出身。トライアスロン・デビューは33歳の時。第３回皆生トライアスロン大会に出場し総合２位となり、同じ年の第２回小松トライアスロン大会では優勝。以後、小松トライアスロン大会には毎年出場し、連続25回完走、うち優勝４回、準優勝２回の記録をつくる。現在は高等学校の体育教師を務め、定年後には鍼灸治療の医院を開院する予定。</span></span></p>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.29：雷神の巻　第３章その7：変った事、面白いことをやろう</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1735</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1735#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 08:25:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[小松]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[鉄人]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/honda-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />小松市内に本拠を置く機械や建築業などの企業群をはじめ、食品や土建、絹織物などの地場産業、医療機関や新聞社、さらには関西方面にまで足を運んで協賛金を募った。京都の企業から30万円の協賛金が得られた時には、「やったぞぉ!!」本田は思わず皆の前で声をあげた。もう、必死だった。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その7</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">変った事、面白いことをやろう</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">中山俊行選手はラスト500ｍ当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった！」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。</p>
</div>
<p>　<br />
 石川県小松市の東南に「動山＝ゆるぎやま」という標高604mの山がある。富士山、立山と並び称される日本三名山の一つ、白山（2､702m）の日本海側に広がる山麓の一峰である。手取川や梯（かけはし）川によって形成された豊穣な扇状地・加賀平野に住む人々は、古より動山を眺めつつ、その奥に聳え立つ霊峰・白山を仰ぎ見、暮らしてきたのだ。<br />
　その動山は、彼らにとって憩い楽しむ場所でもあった。青空の下、真っ赤なキリシマツツジが花開く動山の山道をハイキングしながら、若者達は語り合った。そして山頂へと続く中腹に建つ小松市の教育施設「大杉青年の家」で、議論を交わした。彼らとは小松市に住む、将来の市の発展を願う若者達である。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「町に元気を取り戻したい。どうしたら町を活性化できるだろうか」</span></p>
<p>　当時20歳代の、市役所や青年会議所、消防団などから選ばれた若者16名による「小松能力開発研究会」の面々は思案した。研究会を立ち上げてから７年にもなるが、町を活性化する切り札は、なかなか見付からなかった。</p>
<p>　加賀平野の中央に位置し、人口約11万人を擁する小松市。その名の「小松」は、平安時代中期に花山法皇が稚松を植え「園の小松原」と呼ばれたことに起因する説や、小松内大臣だった平重盛が「小松殿」を建立し、後に「小松寺」と称した由来から名付けられたという説があるように、加賀における古い歴史と伝統がある。また、今日のような発展の基礎が築かれたのは江戸時代中期、加賀国の三大藩主だった前田利常が小松城を隠居処と定めた頃からで、以来、城下町として発展すると共に、陶磁器の九谷焼や小松綸子（りんし）と呼ぶ織物、畳表、石材などの伝統産業が生まれ育ってきた。<br />
　しかし、近年の地方都市のおける農林漁業の衰退や高齢化の進行、それに伴い若者達は町から去り都会へ出て行き地域産業・経済の空洞化現象が顕在化し、小松市でも人口の減少と共に経済や文化活動の衰退で、町は活気を失いつつあった。このため全国各地の市町村は&#8221;町興し・村興し&#8221;の策を練っていた時期である。<br />
　そんな折、研究会の講師として招かれた深江泰輔は、若者達にアドバイスをした。</p>
<p><span style="color: #00cc00;">「イベントを開催するのです。皆の力を合せて、何か事業を起こすのです」</span></p>
<p>　それを聞いて、研究会の会長役を務めていた本田　悟（当時30歳）は自得した。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「何か変わったこと、面白いことをやろう。それで町に人々を呼び戻そう」</span></p>
<div id="attachment_1738" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda.jpg"><img class="size-medium wp-image-1738" title="本田　悟氏近影（07年９月、小松ドームにて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/honda-300x225.jpg" alt="本田　悟氏近影（07年９月、小松ドームにて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">本田　悟氏近影（07年９月、小松ドームにて撮影）</p></div>
<p>　同じく、当時、市の職員として「大杉青年の家」に勤務していた寺田喜代嗣（同27歳）は思った。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「世界中の人々を呼び寄せるイベントを開催したらどうだ。そうすれば町も賑わう。町の人達も喜ぶ。小松市に活気が戻ってくる」</span></p>
<p> </p>
<div id="attachment_1739" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada.jpg"><img class="size-medium wp-image-1739" title="選手達を応援する寺田喜代嗣氏（07年９月、小松ドームにて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada-300x225.jpg" alt="選手達を応援する寺田喜代嗣氏（07年９月、小松ドームにて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">選手達を応援する寺田喜代嗣氏（07年９月、小松ドームにて撮影）</p></div>
<p>　思案の結果、提案されたのが世界中の食べ物を展示、紹介する&#8221;世界食べ物展&#8221;の開催だった。各国の大使を招いて、国際色豊かなイベントにしようというのだ。あるいは、地場産業の石材を白山の頂上へ運び上げる競技イベントも提案された。しかし、この２つの案は白紙となり、新たに浮上したのが&#8221;トライアスロン&#8221;だった。1982年６月のことである。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「トライアスロンをやれば、元気になれる！」</span></p>
<p>　82年といえば、「皆生トライアスロン大会」が日本で初めて開催された翌年に当たるが、彼らは皆生大会のことは全く知らなかった、しかし、ハワイ島で行われているアイアンマン・レースのことは、うすうす耳に入っていたようだ。とはいえ、ハワイのような大会が開ける訳もない。自分達の能力も限られているし、第一、トライアスロンの知識も十分ではなかった。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「でも、やれるだけのことはやろう。一生懸命、頑張ってみよう」</span></p>
<p>　本田は自分自身に気合いを入れた。そして大会の開催経費を賄うため、皆の先頭を切って大会スポンサー集めに乗り出した。小松市内に本拠を置く機械や建築業などの企業群をはじめ、食品や土建、絹織物などの地場産業、医療機関や新聞社、さらには関西方面にまで足を運んで協賛金を募った。京都の企業から30万円の協賛金が得られた時には、</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「やったぞぉ!!」</span></p>
<p>　本田は思わず皆の前で声をあげた。もう、必死だった。<br />
　地域の祭りや行事スケジュールを勘案して決めた大会開催日まで３箇月余りしかなかったが、地元の若者達の熱意と努力でトライアスロン大会は予定通り、1982年10月17日、99名の選手を集めて行われたのである。大会名称を「第１回小松トライアスロン大会」とし、スイム競技の代わりに動山を巡る山登りを取り入れたバイク～登山～バイク～ランのトライ（３つの）アスロン（競技）となった。</p>
<p> <br />
《次回予告》<br />
<span style="color: #00d600;">第1回小松トライアスロン大会のレース模様と、第２回大会以降25年間、トップ選手として連続出場してきた山本久夫氏の＜トライアスロン談義＞を掲載します。石川県小松市で1982年10月に開催された「小松トライアスロン大会」の模様を２回にわたって連載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞妻と二人三脚で歩んだ26年の歳月　【寺田　喜代嗣】</h3>
<p>　早や26年も前のことになります。その時、私は27歳。小松市の職員として動山の「大杉青年の家」に勤めていた私は、市内在住の若者達で構成する「小松市能力開発研究会」のメンバーと共に&#8221;元気な町づくり&#8221;を目指し、全員参加型イベントの開催に向けた取り組みを検討していました。その結果、ようやく決ったのがトライアスロン大会でした。ハワイで行われているトライアスロンにヒントを得て、</p>
<p><span style="color: #ab35a6;">「我々もやってみよう。皆で考え、皆で協力し合って、町を盛り上げよう」</span></p>
<p>ということになったのです。とはいえ、大会開催が正式決定したのは82年６月です。その年の10月の開催ということで、余り時間がありません。おまけにトライアスロンに関わる資料もないし、誰一人としてハワイ大会を見聞した者はおりません。大会開催を決めたのは好いけれど、どこからどのように手をつけようか？　まさしく私達は、五里霧中でトライアスロン大会の開催に向かって活動を開始したのです。</p>
<p>　このため私は、仕事が終わると毎晩のように研究会のメンバーやスタッフ達と会合を重ね、自分の時間が持てない慌ただしい日々を送ることになりました。実は妻の恵（めぐみ）とは５月に結婚したばかりでしたが新婚生活もどこ吹く風、毎日、大会開催のための打ち合わせと準備に追いまくられていたのです。さすがに妻も呆れて、</p>
<p><span style="color: #ff00ff;">「私は鉄人レースと結婚した??」</span></p>
<p>などと、内心ぼやいていたようです。<br />
　しかし、妻の理解と協力も得て、予定通り10月の第３日曜日の17日にトライアスロン大会を開催することが出来ました。以来、妻は26年間、私と共に大会を支えるボランティア・スタッフとして参加しております。そして妻だけでなく市内50に及ぶボランティア団体の方々をはじめ、第１回大会の開催に当たって強い懸念を示された医師会や警察の方々にも、第２回大会以降は全面的な協力を戴くことができ、今日まで26年間の歴史を刻んできたのです。<br />
　こうして長い年月を重ねてこれたのも、ひとえに多くの皆様のお陰ですが、それに加え実行委員会としては、大会運営を市民主導型とし自治体任せにしなかったこと、そのために自治体依存の高い大会でよく見られる財政難に陥るリスクが少なかったこと、さらには、この26年間に死亡事故が一度も発生しなかったことなどが、大きな要因としてあげられます。<br />
そして何よりも、「参加する選手はもちろん、大会運営に当るボランティア、そして沿道で声援してくれる皆さんすべてが主人公」。そんな考え方で運営してきたのが良かったのかも知れません。大会終了後に出場した選手達が後片付けを手伝ってくださるように、小松トライアスロン大会はボランティアも選手も一体となった&#8221;ホットな大会&#8221;として、皆の気持が一つとなって続けてこられたからだ、と思います。</p>
<div id="attachment_1741" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1741" title="26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/terada2-300x225.jpg" alt="26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻（07年９月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.28：雷神の巻　第３章その6：トライアスロン・クラブの誕生②</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1719</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1719#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 05:43:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[クラブ]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1719</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その6</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トライアスロン・クラブの誕生②</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>  1982年10月のアイアンマン・ハワイを日本人第1位で完走した矢後潔省（きよみ）は、同じ大会で日本人第３位となった愛知県出身の横井信之の存在を知った。その横井も、自分と同じく「トライアスロンを地域に広めていきたい」という共通の願いを持っていた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」</span></p>
<p>　矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。そこで発想されたのが「JTRC＝ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ」と呼ぶ、トライアスロンを目指す全国のアスリート達が参画するクラブ組織だった。矢後と横井の２人は、12月にクラブ名を決めて、それぞれの地域で仲間集めを開始した。</p>
<p>　まず矢後は、翌83年春に「静岡トライアスロン・クラブ」を設立、次いでランニング雑誌『ランナーズ』の誌上で「JTRC」への参加呼び掛けを行った。集まってきたのは関東、中部、近畿、四国のアスリート達で、主にハワイ大会や皆生大会に選手として出場したメンバーである。それら全国のアスリート達に、矢後は「JTRC」のロゴが入った帽子やＴシャツを造り配った。<br />
　全国のアスリート達との電話や郵便による情報交換、資料や用品の配送業務など、矢後は朝から夜中までクラブ活動に奔走した。当時、サラリーマンとして地元企業に勤めていた矢後だが、「JTRC」の運営業務のため何度となく勤務を休んだし、また毎月12万円ほどかかった郵便代も、すべて自分の給料から賄うくらい「JTRC」活動に投じたのだ。時間もお金も投げ打ち、それこそ１日24時間をフルタイムでトライアスロンの普及、拡大に専念したのである。</p>
<div id="attachment_1720" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1720" title="JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-300x124.jpg" alt="JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）" width="300" height="124" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）</p></div>
<p>　その結果、「JTRC」の本部を矢後が住む静岡県駿東郡小山町に置いたのをはじめ、全国規模のクラブ組織らしく地域ごとに支部を設置、83年末には合計12支部に135名の会員が集結した。ちなみに、その時の12支部の名称・所在地・連絡先名は、次の通りである。</p>
<p>◎静岡支部＝静岡県富士宮市、近藤　博<br />
◎愛知支部＝愛知県大府市、横井信之<br />
◎神奈川支部＝横浜市鶴見区、中山俊行<br />
◎東京支部＝東京都品川区、猪川三一生<br />
◎千葉支部＝千葉県市川市、市川祥宏<br />
◎埼玉支部＝埼玉県入間郡毛呂山町、奥崎　修<br />
◎群馬支部＝群馬県高崎市、諸山　司<br />
◎大阪支部＝大阪府八尾市、脇田重男<br />
◎京都支部＝京都府宇治市、北村浩士<br />
◎奈良支部＝奈良県奈良市、松井正夫<br />
◎和歌山支部＝和歌山県和歌山市、日野善生<br />
◎愛媛支部＝愛媛県松山市、浜岡隆文</p>
<p>　各支部の会員数は東京が32名、次いで静岡が30名で、この２つの支部が「JTRC」会員全体の半分近くを占めた。続いて神奈川18名、愛知13名、千葉12名、あとの７支部は一桁台の会員数である。本拠本元の静岡は別として、大都市を中心に順次、トライアスリート達が集まってきたのだ。</p>
<div id="attachment_1721" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc.jpg"><img class="size-medium wp-image-1721" title="JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、後列左端が市川氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-300x249.jpg" alt="JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、後列左端が市川氏" width="300" height="249" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、　後列左端が市川氏</p></div>
<p>　また、その中心的な役割を担ったのが、支部長として連絡窓口となったアスリート達で、その中にはエリート選手として活躍する中山や横井、84年暮れに発足した我が国最大規模のトライアスロン・クラブ「ATC＝オールジャパン・トライアスロン・クラブ」の中核的役割を担った市川、猪川の名前も連なっている。このうち猪川は85年になって“チーム・エトナ”の監督として中山、横井らを率いたほか、矢後や市川が立ち上げたびわ湖トライアスロン大会や宮古島トライアスロン大会のマーシャル・リーダーとして活躍する。<br />
　こうした「JTRC」の組織化と活動について、副会長を務めた市川は当時のことを、次のように話す。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「矢後さんはトライアスロンに燃えていました。私も関東地域のトライアスリートの組織化に傾注しましたが、彼は私以上の情熱を持って取り組んでいました。そして後に私と猪川さんはATCを立ち上げましたが、トライアスロンに対する思いは皆、同じでした。この素晴らしいスポーツを日本中に広め、楽しんでいきたいと願っていたのです」</span></p>
<p>　そうした矢後のトライアスロンに賭ける情熱が功を奏してか、「JTRC」は最終的に全国36支部、会員総数およそ1,000名の巨大クラブに成長していったのである。矢後をはじめとする数多くのトライアスリート達の熱い想いが集結した結果である。</p>
<div id="attachment_1722" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago.jpg"><img class="size-medium wp-image-1722" title="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-300x225.jpg" alt="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）</p></div>
<p>《次回予告》<br />
石川県小松市で1982年10月に開催された「小松トライアスロン大会」の模様を２回にわたって連載します。</p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロンに打ち込むため会社を辞めた　【横井　信之】</h3>
<p>　私は子供の頃からスポーツ大好き人間で、スポーツと共に日々を送っていました。水泳は小学生の時から始め、中学生３年生の時は愛知県大会の200mクロールで優勝、中部地区ジュニア大会では６位になりました。また、通学では毎日５Kmほど自転車を使っていましたし、冬場はもっぱら駅伝選手として中長距離を走っていました。つまり中学生の頃から、私はトライアスロンの３種目を経験していた訳です。<br />
　水泳は高校まで続けましたが、大学時代は同好会のアメフトで汗を流し、時にはランドナーにまたがって、九州一周のツーリングなどを楽しんでいました。そして大学を卒業し技術者として株式会社デンソー（旧日本電装）に入社しましたが、やはりサラリーマンになってからも会社の屋外プールで泳いだり、社員寮から会社までランニング出勤するなど、スポーツと共に生活していたのです。</p>
<p>　そんな私がトライアスロンに挑戦することになったのは、入社した翌年、81年２月の新聞記事を見たのがきっかけです。８名の日本人がハワイ島で開催されたトライアスロン大会に出場し、完走したという記事で、写真も沢山、掲載されていました。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「今まで自分が取り組んできたスポーツだし、水泳ならば外国の人達にも退けはとらない。やってみよう」</span></p>
<p>　周囲には誰一人としてトライアスロンをやる者はいませんでしたが、私は密かに決意し、自分一人で３種目のトレーニングを開始しました。スイムは会社が定時となる17時25分からすぐさま会社のプールで１時間ほど泳ぎ、再び職場に戻って仕事に就きました。そんな仕事のやり方が出来たのも、物分かりの良い上司の計らいでした。<br />
　また、休日の土曜ないし日曜日は、早起きして知多半島を巡る約100Kmのバイク・トレーニングを行い、社員寮へ戻ってくると今度は刈谷市から名古屋市緑区の大高緑地公園まで往復10Kmのランニング、という具合に、量と質を兼ね備えたトレーニングを積んでいきました。ちなみにロードレーサーは後輩から譲り受けたもので、それをハワイ大会に持ち込みました。</p>
<div id="attachment_1724" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1724" title="若きアスリート時代の横井選手（写真提供；横井氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-1-225x300.jpg" alt="若きアスリート時代の横井選手（写真提供；横井氏）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">若きアスリート時代の横井選手　　　　　　（写真提供；横井氏）</p></div>
<p> <br />
　ハワイのアイアンマン大会に参加したのは1982年10月、私が24歳の時です。河野禎介さん達３～４人のメンバーで、大阪発のツアーに参加しました。レースは長丁場、相当に時間がかかると思っていましたが、我ながら案外、早く済んだという印象です。スイムの3.84Kmも１時間３分17秒と当初予想したよりも速く、陸へ上がった時には何がなんだか分らないほど興奮していました。総合タイムは13時間33分51で総合460位、日本人では３番目のフィニッシュでした。<br />
　今思うに、このアイアンマン・レースを完走していなかったら、私はトライアスロンに取り組むことはなかったでしょう。しかし、最初のトライアスロンで、まずまずのタイムで完走した喜びと充足感が、その後の私の進路を変えたのです。ハワイから戻った翌83年、私はトライアスロンに打ち込むため、会社を辞めました。そして中京大学大学院修士課程で運動処方の勉学を始めるかたわら、トライアスロンのトレーニングに専念していきました。</p>
<p>　そんな決意をしてトライアスロンに取り組んだ私ですが、83年に初めて出場した皆生トライアスロン大会では、総合70位と不本意な成績でした。スイム３Kmは58分のトップでフィニッシュ、総合優勝した梅沢君よりも先に上り、バイクは途中までトップを守り続けたのですが、不運にも砂利道でパンクに見舞われ、苦手のランは７時間近くかけて歩いてしまうなど、惨めな結果に終わりました。<br />
　しかし、翌84年のアイアンマン・ハワイでは日本人として一桁順位でフィニッシュしたこともあって、中山君や山本君など日本のエリート選手で構成する“チーム・エトナ”のメンバーに迎え入れる話が届きました。もちろん、私はトライアスロンに打ち込む覚悟でしたので、その要請を受け入れ、以後、85年10月の天草トライアスロン大会を皮切りに“チーム・エトナ”の一員として数々のトライアスロン大会に出場していったのです。</p>
<div id="attachment_1725" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/etna.jpg"><img class="size-medium wp-image-1725" title="84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/etna-300x225.jpg" alt="84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手</p></div>
<p>　その一方、名古屋市内のサイクルショップ「二光製作所」に集まっていたアスリート達と共に、中京大学のプールやキャンパスを使用してトライアスロンのトレーニングを行い、地域でのトライアスロンの普及活動にも力を入れました。エリート選手として、そしてまた地域の指導者としてトライアスロンの普及、発展に力を注いだ積もりですが、そんなトライアスリートとしての私の活動に終止符が打たれることになったのは、トライアスロンを始めてから10年後のことです。<br />
　得意のスイム競技はトップレベルを維持していたものの、バイクでのドラフティング・ルールがなくなり、スイムでリードしていたアドバンテージ（優位性）がなくなってしまったからです。だからレースでは勝てなくなったし、それにレースがスピード化したため、あらかじめバイクシューズをペダルに着けておくなど、総じて競技手法が姑息になり、私には馴染まなくなりました。<br />
　1992年９月、波崎で行われたアジア・トライアスロン大会を最後に、34歳になった私はトライアスロンから引退しました。寂しい気持も残りましたが、今では若い元気の好い時代にトライアスロンに打ち込み、85年以降、次々と開かれていった新規大会にすべて参戦し、汗と涙を流していった経験を楽しく、思い出深く感じております。</p>
<div id="attachment_1726" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/result.jpg"><img class="size-medium wp-image-1726" title="横井選手の初期の競技記録" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/result-300x225.jpg" alt="横井選手の初期の競技記録" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">横井選手の初期の競技記録</p></div>
<p>《横井信之氏プロフィール》<br />
<span style="color: #38992b;">1958年、愛知県岩倉市で生まれ育つ。小・中学生時代より水泳並びに陸上選手として活躍すると共に、大学時代はアメリカン・フットボールやサイクル・ツーリングを楽しむ。1981年に永谷誠一ら８名の日本人がハワイ島で行われたトライアスロン大会に参戦した新聞記事を見て、アイアンマンへの挑戦を決意、翌82年のハワイ大会に出場し、矢後潔省、藤井真太郎に次いで日本人第３位でフィニッシュする。85年の天草トライアスロン大会には中山俊行らと共に“チーム・エトナ”のメンバーとして出場したのを始め、次々と開催される新規トライアスロン大会に参戦していった。34歳の時、トライアスロン選手を引退、現在は中部大学の体育講師として後進の指導に当たっている。<br />
</span> </p>
<div id="attachment_1727" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1727" title="横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-2-225x300.jpg" alt="横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.27：雷神の巻　第３章その5：トライアスロン・クラブの誕生①</title>
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		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 02:38:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[クラブ]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。　その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」　そう決断したのである。

]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その5</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トライアスロン・クラブの誕生①</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。　その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」　そう決断したのである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p> 我が国トライアスロンの黎明期とも言える1980年代前半は、中山俊行をはじめとしたエリート選手の活躍の一方、トライアスロンを生涯スポーツ、或いは市民スポーツとして、その普及、発展に携わっていったアスリート達の活躍も見逃せない。</p>
<p>　その最先端を切っていたのは、言うまでもなく81年２月にハワイ島コナ市で行われた第４回アイアンマン・ハワイ大会に日本人として初めて参加した永谷誠一や堤　貞一郎ら熊本県のアスリート達である。彼ら肥後もっこす達はハワイ大会を経て、同じその年の８月に第１回皆生トライアスロン大会に参加した後、翌９月に我が国で最初のトライアスロン・クラブ「熊本CTC＝熊本クレイジー・トライアスロン・クラブ」を設立した。皆生大会の打ち上げを兼ね、堤が幹事長、永谷が会計担当だったランニング同好会「熊本走ろう会」のメンバーを中心に、熊本市をはじめとする地域の仲間達に呼びかけたのである。<br />
　熊本市内の蕎麦店「山本屋」に会したメンバーは、第２回皆生トライアスロン大会に出場した田上栄一や下津紀代志ら約20名。もっぱらクラブの名称について議論し合った。その結果、決まったのが「熊本クレイジー」だったのだ。クラブ設立の趣旨について永谷は、次のように話す。</p>
<p><span style="color: #00d600;">「遊び心を第一にやろうちゅうことたい。そっじゃあ、クラブ名も堅苦しくならんよう、クレイジーと名付けたばい。まあ、気楽にトライアスロンを楽しもうということたい」</span></p>
<p>　だからクラブ組織も出来るだけ平易な組織にしようと、堤も永谷も役職に就かなかった。しかし、クラブ事務所を永谷が経営していたランナーズ・ショップ「山想」に置いた関係上、ゼネラル・マネジャーには永谷の妻・永谷安子が就任、クラブ運営の事務方としてクレージーな連中の世話役となったのである。その他の役職として、会計役を“勘定奉行”、ランニング担当を“韋駄天奉行”と呼ぶなど、ややおふざけを交えながら発足したのである。その後、会員はトライアスロンの普及、拡大と共に増え、最終的に八代、天草、人吉など熊本県全域に広がって、およそ200名ほどの大所帯になっていった。永谷夫妻を中心にトライアスロンの普及、トライアスリートの育成を献身的に図っていった成果である。</p>
<div id="attachment_1704" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/040903.jpg"><img class="size-medium wp-image-1704" title="かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏（04年９月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/040903-225x300.jpg" alt="かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏（04年９月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏（04年９月撮影）</p></div>
<p> 　このように「熊本CTC」は、我が国トライアスリートの先駆者が、まさしく先駆的に取り組んだクラブだが、その後、トライアスロンへの挑戦を試みるクラブ組織は全国的な規模で、次々と誕生していった。「熊本CTC」が誕生した翌年の82年には、茨城県で「筑波学園都市トライアスロン・クラブ」、岡山県で「岡山アイアンマン・トライアスロン・クラブ」、福岡県で「スーパーマン・クラブ・イワイ」が発足、練習会や情報交流をはじめとしたクラブ活動を開始したのである。</p>
<p>　なかでも、福岡県久留米市に本拠を置く「スーパーマン・クラブ・イワイ＝SUPERMAN CLUB IWAI」は、その名の通り地元のサイクル・ショップの店長でありサイクリストの岩井公一が、同じ「久留米サイクリング・クラブ」のメンバーである片岡宏介らと結成したトライアスロン・クラブである。そして、1982年５月にクラブを立ち上げた久留米のアスリート達は、その年の11月に『久留米トライアスロン大会』を開催したのである。クラブ独自の手作りで開いた、日本で初めてのトライアスロン大会であった。（大会の模様は、後日、紹介します）</p>
<div id="attachment_1705" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0204.jpg"><img class="size-medium wp-image-1705" title="久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏（02年４月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0204-225x300.jpg" alt="久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏（02年４月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏（02年４月撮影）</p></div>
<p>　その後、1983年に入って静岡県のアスリートである矢後潔省が「静岡トライアスロン・クラブ」を設立し、さらに同クラブを全国的に拡大、発展させようと創ったのがJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）である。まさしく全国的規模でのトライアスロン・クラブとして、当時から1980年代にわたって活躍したトライアスリートの多くが、なんらかの形でJTRCと繋がりを持つことになる。<br />
　そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。矢後は静岡県駿東郡小山町の出身で、幼い頃から運動能力に長けたスポーツマンとして育ったが、29歳の時、トライアスロンを知り、トライアスロンの世界に入った。当時のエリート選手だった中山俊行や梅沢智久よりも一世代上の矢後だったが、ランのほかスイムも得意とし、82年10月のアイアンマン・ハワイでは日本人第１位となっている。　その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、</p>
<p><span style="color: #00d600;">「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」</span></p>
<p>　そう決断したのである。</p>
<div id="attachment_1706" style="width: 151px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1706" title="83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-1-141x300.jpg" alt="83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" width="141" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）</p></div>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #3c0cd3;">トライアスロン・クラブの誕生②として、JTRCの活動を紹介すると共に、当時、中部圏のトップ・トライアスリートとして活躍した横井信之選手のトライアスロン・ライフを紹介します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞人生最大の感動を味わった　【矢後　潔省】</h3>
<p> <br />
　私は、西に富士山、南に箱根山塊、そして北東にかけては西丹沢の山々に囲まれた静岡県の小山町で生まれ育ちました。そう、私は「足柄山の金太郎」で有名な山中を舞台に、55歳になった今日まで両親や妻、そして３人の子供と共に暮らし、スポーツや登山を楽しんできたのです。</p>
<p>　そのスポーツですが、私が最初に始めたのは小学２・３年生の頃からです。駿河小山の街中にある自宅から酒匂川の支流・須川沿いの道を、町の柔道場である「日の丸道場」まで往復４Kmほど、毎日のように走りました。中学生になってからは大桐山の麓に切り開かれたツツジの名勝「富士霊園」まで起伏の強い道程を往復約10Km、走っていました。</p>
<p>　それで、中学校のマラソン大会では常にトップクラスの成績を修め、さらに高校生になってからは駅伝大会で“花の４区”を走りました。また水泳も得意で、中高校生時代は出身校の成美小学校の50mプールで泳ぎ、いつでも10Kmくらいは泳げる力を養っていました。こうして私はランニングとスイミングを社会人になるまで続け、トライアスロン時代が幕開けする時代を待っていたと、今にして思います。</p>
<div id="attachment_1708" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1708" title="若きアスリート時代の矢後選手（写真左）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-2-300x198.jpg" alt="若きアスリート時代の矢後選手（写真左）" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">若きアスリート時代の矢後選手（写真左）</p></div>
<p>　そのトライアスロンという３種目の競技があるのを知ったのは、1981年12月に私がホノルル・マラソン大会に参加した時でした。その年に日本でも皆生トライアスロン大会が開催されていたのですが、実は皆生のことはまったく知らず、ハワイ島で行われたトライアスロン大会に注目していたのです。</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「ハワイのトライアスロン、距離は長いけれど自転車さえこなせば完走できる」</span></p>
<p>　そんな予感が、私を翌年10月のハワイ大会出場へと誘ってくれたのです。ホノルル・マラソン大会から帰国した私は、早速、ロードレーサーを１台、購入しました。初めて乗るレーサーですが、幸い自転車部品メーカーの株式会社シマノ（旧島野工業）に勤める友人がいて、その友人からバイクの乗り方やメンテナンスの基礎を教えてもらったのです。<br />
　練習はまず、沼津から富士宮、そして富士五湖周辺を巡る富士山周遊道路を一周する180Kmのサイクリングから開始、次いで御殿場から山中湖に至る篭坂峠（標高1,104m）のアップダウン・トレーニング、富士スバルラインを富士山５号目まで上るヒルクライム、沼津千本浜でのクルマのタイヤを引き摺ってのパワー・トレーニング、そして御殿場のフィットネス・ジムでのマシン・トレーニングなど、周囲のロード環境や施設をフルに活用したバイク練習に明け暮れました。ある時は富士山の須走をレーサーで下りましたが、前輪が舞い上がりながら急滑降した恐ろしさを忘れることができません。</p>
<p>　こうして私は従来のスイムとランに加えバイクの練習を積んで、その後、開催を知った82年７月の皆生トライアスロン大会に参加しました。初のトライアスロン、しかもたった独りでの参加。鳥取県米子市へ向かう東名高速道路を突っ走りながら、私の胸の中は不安で一杯でした。</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「おお、なんて皆、強そうなのだろう」</span></p>
<p>　皆生温泉の大会会場に集まってきた選手達を見て、私はたじろぎました。なかでも観光バスで大挙、乗り着けた熊本の選手達の話し振りは自信に満ち溢れており、私は彼らの言動をただただ羨望の眼差しで眺めるばかりでした。</p>
<p>　その年の皆生トライアスロンは、前年の第1回大会よりも距離が延びスイム３Km、バイク103.６Km、ラン40Kmとなりましたが、レースは当初イメージしていたほど辛くなく、楽にフィニッシュできました。総合タイムは10時間42分、順位は100人中30位でした。初めてのトライアスロンだったのでレース序盤は慎重になり過ぎ、持てる体力をどのように使えばよいか？　その配分が判らず仕舞で終わった気がします。しかし、</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「これならば、ハワイもやれる」</span></p>
<p>　約２箇月後の10月９日に迫るアイアンマン・ハワイへ自信が着きました。</p>
<p>　ハワイの大会も皆生と同じく単独で参加、大会会場を探すことから始まり、片言の英語で受付けを済ませるなど、すべて自分一人で行動しました。カーボロード・パーティでも日本人と会うことができず、結局、現地滞在中の丸１週間、コテージで一人だけの自炊生活を続けたのです。<br />
　レースは、スイムで肩を掴まれ水中に潜ったり、バイクでは血糖値が下がって眠くなるなど、いろいろな経験を味わいましたが、練習の甲斐もあって自分なりに納得できる成果をあげたと思います。記録は12時間７分28秒、総合217位、参加した11人の日本人の中ではトップでした。この時、スイムでダントツの日本人トップであがったのが横井信之さんで、後に彼とは全国組織のトライアスロン・クラブ“JTRC”を立ち上げたのです。<br />
　それにしても、ハワイでフィニッシュしたその時の感動は、25年経った今もなお忘れることはありません。</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「やったあ！」</span></p>
<p>　あの衝撃的な思いは、私の人生で最大の感動とも言えるものでした。<br />
 <br />
《矢後潔省氏プロフィール》<br />
<span style="color: #0000ff;">1952年、静岡県駿東郡小山町で生まれる。子供の頃からマラソンやスイミングに長け、社会人となり29歳の時、トライアスロンに挑戦することを決意、82年の皆生大会とハワイ大会に出場し、完走する。翌83年には「静岡トライアスロン・クラブ」を設立するとともに、トライアスロンを全国規模に広げようと有志と共にJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）を立ち上げ、会長に就任する。以後、トライアスリートとして活躍する一方、JTRCを舞台にトライアスロンの拡大、発展のため、献身的な普及活動を行う。トライアスロンから引退した今は、富士山登山を楽しんでいる。</span></p>
<div id="attachment_1709" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3.jpg"><img class="size-medium wp-image-1709" title="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-300x225.jpg" alt="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.26：雷神の巻　第３章その4：若きエリートの登場②</title>
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		<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 06:51:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[中山俊行]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/73-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「もう少しやれば、新たな世界が広がる」83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その4</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">若きエリートの登場②</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「もう少しやれば、新たな世界が広がる」83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。</p>
</div>
<p><span style="color: #ff0000;">「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」</span></p>
<p>　1982年９月、トライアスロン初デビューの湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝し、そう確信した中山俊行は、その後もトライアスロン競技の練習に打ち込んでいった。そして翌83年７月、待望の皆生トライアスロン大会に出場したが、その４箇月前にピスト競技の練習中、鎖骨骨折の怪我を負って満足な練習ができず、残念ながら総合４位に留まった。</p>
<p>　この時、出会ったのが中山と同じく20歳、日本大学の学生だった梅沢智久である。梅沢は競泳出身だけあって皆生大会３Kmのスイムでは愛知県出身の横井信之に続きダントツのタイムであがり、続くバイクでもスプリット・タイム第１位と他の選手を寄せ付けず総合優勝を飾った。これに対し中山はランで迫ったものの、終始、梅沢にリードされ後塵を拝する結果となった。</p>
<div id="attachment_1682" style="width: 276px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/1.jpg"><img class="size-full wp-image-1682" title="第３回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手（全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/1.jpg" alt="第３回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手（全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋）" width="266" height="236" /></a><p class="wp-caption-text">第３回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手（全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋）</p></div>
<p> <br />
　この時代、それは日本でトライアスロン競技が始まったばかりの1980年前半だが、トライアスリートの大半がマラソン経験の豊富なラン出身者が多かった。初代アイアンマンの永谷誠一やそれに続く高石ともやのごとく、特に中高年のトライアスリート達の多くがランニングを得意とし、スイミングやサイクリングは不得手もしくは初めて経験するという初心者達だった。</p>
<p>　大雑把な数値だが、当時のトライアスリートが得意とする種目はランが５割、スイムが３割、バイクが１割、３種目とも全く初めてが１割という割合ではなかったか？　例えば、この時期、熊本では田上栄一、鳥取の村上好美と小坂雅彦、四国の渡辺克巳、関西では高石ともや、脇田重男、服部健一、静岡では矢後潔省（きよみ）、関東では北村文俊、高山信行、市川祥宏、猪川三一生（みちお）などトライアスリート達が活躍したが、そのほとんどがランナー出身者だった。なかでも、中山よりも一世代上の矢後はランのほかスイムも得意とし、82年10月のアイアンマン・ハワイでは日本人第１位となっている。</p>
<div id="attachment_1687" style="width: 270px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/22.jpg"><img class="size-medium wp-image-1687" title="中山選手が日本人２位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同８位でフィニッシュした（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/22-260x300.jpg" alt="中山選手が日本人２位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同８位でフィニッシュした（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" width="260" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">中山選手が日本人２位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同８位でフィニッシュした（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）</p></div>
<p>　これに対し次代を担う中山や梅沢といった若い選手達は、水泳や自転車の競技からトライアスロンの世界に入ってきているのが特徴的である。しかも有酸素系の持久的運動能力に優れ、練習熱心で、トライアスロンの３種目の競技を次々とマスターしていった。それら若きエリート達は都市圏で生活し、共に切磋琢磨する機会に恵まれたことも競技者としての成長を促したと言えるだろう。</p>
<p>　その当時、中山や梅沢のほかに活躍していたエリート・トライアスリートとしては、愛知の横井のほか、東京では飯島健二郎、前田芳久、山本光宏、山下光富といった名があげられる。このように80年代前半は20歳前半を中心としたアスリート達が台頭もしくは次の次代を担うためスタンバイしていたのである。</p>
<div id="attachment_1688" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/33.jpg"><img class="size-full wp-image-1688" title="左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/33.jpg" alt="左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手" width="300" height="207" /></a><p class="wp-caption-text">左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手</p></div>
<p>　その代表選手として活躍し、我が国トライアスロン界を背負ったのが中山だったことは、彼のその後の戦績が如実に物語っている。中山は83年の第３回皆生大会で梅沢に屈したが、その年10月の第７回アイアンマン・ハワイでは総合59位（日本人２位）となり、ハワイ在住の日本人、村岡康正と共に日本人として100位以内に入った。</p>
<p>　そして翌84年の第４回皆生大会では見事、優勝、同じく10月の第８回アイアンマン・ハワイでは総合17位、日本人としては第１位となり、名実ともに日本人トライアスリートの第一人者となったのである。続いて同年11月にハワイで行われたカウアイ・トライアスロン大会では18位となり300ドルの賞金を獲得、プロ・トライアスリートとしての発端が開かれた。</p>
<p>　中山はその後も次々とタイトルを獲得、85年にはニュージーランド第１回ダブルブラウン・アイアンマンで６位、４月の第１回宮古島トライアスロン大会優勝、ロサアンジェルス・タフェスト・トライアスロン大会８位、USTS（United States Triathlon Series）LA大会57位、同シカゴ大会29位、10月の第１回天草大会優勝と、国内では敵無しの活躍を見せた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「もう少しやれば、新たな世界が広がる」</span></p>
<p>　83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。</p>
<div id="attachment_1689" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/44.jpg"><img class="size-medium wp-image-1689" title="85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達（写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手＝写真提供；中山俊行氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/44-300x198.jpg" alt="85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達（写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手＝写真提供；中山俊行氏）" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達（写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手＝写真提供；中山俊行氏）</p></div>
<p> 《次回予告》<span style="color: #ff00ff;">1980年前半にトライアスリートの先駆者として活躍した矢後潔省氏のトライアスロン・ライフを紹介します。</span></p>
<p> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞心に誓った孤独な挑戦②　【中山　俊行】</h3>
<p>　自転車は大学の自転車部で鍛えたのですが、ではトライアスロンのあとの２種目、スイムとランの練習はどうしたかといいますと、まず水泳ですが、当時の私は</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「自分は普通に泳げる」</span></p>
<p>と思っていました。ところが、1983年秋のアイアンマン・ハワイに挑戦する直前、初めてスイミング・スクールへ通い出した時のことでした。スイミング・スクールのコーチが見ている前で試し泳ぎをしたところ、コーチは私に向かってこう言いました。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「君、それはクロールとは言わないんだよ。その泳ぎはクロールではないんだ」</span></p>
<p><span style="color: #1ec156;">「ガーン」</span></p>
<p>　コーチのその予期せぬ台詞を聞いた私は、頭の天辺に金槌を打たれたような思いがしました。でも、心の中では、</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「だって７月の皆生で、遅いとは言え３Km泳いだんだ」</span></p>
<p>　そんな私の自尊心を真っ向から否定され、しばらく口も利けないほどのショックを覚えました。でも、水泳の専門家から見れば、私の泳ぎは稚拙だったのでしょう。実際、その時まで水泳の基本を学んだ訳ではないし、すべて我流で練習してきたのですから。つまり私のスイムは、最初からその程度だったという訳です。<br />
　同じくランも“知らない者の恐いもの知らず”で、我流のランながら、</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「自分は速く走れる」</span></p>
<p>と、過剰な自信を抱いていました。今にして思えば恥ずかしい限りですが、当時の私のランニングは皇居１周５Kmのコースを19分程度で走っていたに過ぎません。</p>
<p>　でも、当時の私は「練習をすればするほど強くなっていく」自分を感じていました。自分一人でコツコツと、時には厳しく、ある時は激しく、３種目のトレーニングを積み重ねていきました。</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「趣味は、練習です」</span></p>
<p>　そう言っても臆することがないほど、トレーニングの日々が続きました。そうして83年７月、期待に胸膨らませ憧れの皆生トライアスロン大会へ乗り込んだのです。そこで出会ったのが私と同年で日本大学の学生だった梅沢智久君です。</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「どこかで見掛けた顔だな？」</span></p>
<p>　それもその筈です。彼は日大の自転車部員で、私とは競技会で何度か顔を会わせていたのでした。梅沢君は競泳出身だっただけにスイムが飛び抜けて速かったけれど、バイクも一般の選手と異なり素晴らしいフォームで疾走していました。そして第３回皆生トライアスロン大会の優勝者となりました。<br />
　私は残念ながら４位、総合タイムで梅沢君に14分余り遅れました。しかし、大会前の３月に立川競輪場のバンクで落車。右鎖骨を粉砕骨折して３ヶ月間、何もできない状態となり、皆生大会まであと１ヶ月と迫った６月上旬から練習を開始した状態でしたから、負けて止むなしの感がありました。それよりも次は10月のハワイへと夢を駆り立てていたのです。</p>
<div id="attachment_1692" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/55.jpg"><img class="size-medium wp-image-1692" title="83年ハワイ大会（写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手＝写真提供；中山俊行氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/55-300x195.jpg" alt="83年ハワイ大会（写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手＝写真提供；中山俊行氏、以下同）" width="300" height="195" /></a><p class="wp-caption-text">83年ハワイ大会（写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手＝写真提供；中山俊行氏、以下同）</p></div>
<p>　そのハワイのアイアンマン・レースでは、総合100位以内を狙っていました。なぜならば、それまでの大会で日本人が二桁の順位を獲ったことがなかったからです。レース結果は11時間00分57秒８で総合59位、今度は梅沢君に勝ちました。梅沢君は11時間17分42秒６でフィニッシュ、総合102位でした。しかし、もう一つの私の目標はハワイ在住の村岡康正さんによって砕かれました。村岡さんの総合タイムと着順は、私より約２分４秒早い10時間58分53秒２の総合57位だったのです。</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「なぜ！　どうして！　あと２人を抜くことができなかったのか」</span></p>
<p>　残念無念、日本人１位になれなかったことが悔やまれます。私自身、ハワイ大会に一度出場したらトライアスロンを止めるつもりでした。しかし、</p>
<div id="attachment_1694" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/64.jpg"><img class="size-full wp-image-1694" title="参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/64.jpg" alt="参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす</p></div>
<p><span style="color: #1ec156;">「もう少しトライアスロンを続ければ、違う世界が広がる」</span></p>
<p>　そんな気持がつのり、翌84年の第８回アイアンマン・ハワイに出場することにしたのです。しかし、これが私の最後のトライアスロンへの挑戦です。その時、私は大学４年生の21歳。来年は自転車と関係が深い会社に就職することが内定していました。だから大学時代に培ったすべての力を出し切り、</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「日本人トップで、しかも総合10位以内を目指そう」</span></p>
<p>　結果は総合17位、トップテンに入ることはできませんでしたが、日本のトライアスリートとしてトップレベルの実力を証明することができました。ちなみに、この年は７月の皆生トライアスロン大会で総合優勝を飾り、11月にはハワイ・カウアイ島で行われたトライアスロンの賞金レースで上位入賞し、300ドルの賞金を獲得することができました。今にして思えば“プロ・トライアスリート”として歩み出す道筋が、この年につけられたと思います。</p>
<div id="attachment_1695" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73.jpg"><img class="size-full wp-image-1695" title="84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73.jpg" alt="84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手" width="300" height="257" /></a><p class="wp-caption-text">84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手</p></div>
<p>　こうして私はトライアスロンを始めて３年、日本のトライアスリートとしていくつかの栄誉を勝ち取ることができました。とはいえ、最初から私がトライアスロンの才能があった訳ではありません。短い間にせよ一生懸命、練習に打ち込んできたからで、自分で言うのも気が引けますが、何よりも努力の積み重ねが功を奏したと言えるでしょう。それというのも、私にとって弱い剣道時代を経験してきたからこそ、強い自分を仕立てあげようという意欲を持ち続けることができたのだと思います。剣道をバネにして、自分の“弱さ”を“強さ”に替えてきたのです。</p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.25：雷神の巻　第３章その3：若きエリートの登場①</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1669</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1669#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 03:17:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[中山俊行]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1669</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/marathon-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />中山は大会主催者の橋本　昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その3</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">若きエリートの登場①</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">中山は大会主催者の橋本　昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。</p>
</div>
<p>　<br />
　優勝した北村文俊が「二度と出たくない」と思い、事実、二度と出場することがなかった“湘南トライアスロン大会”だが、翌年も同じ９月、同じ場所で開催された。この第２回大会に登場し優勝したのが若きエリート、後に我が国トライアスリートの第一人者となる“ミスター・アイアンマン”こと中山俊行である。この時、中山は若干19歳、明治大学の２年生だった。<br />
　前年の1981年、卒業を間近に控えた高校３年生の春２月、永谷誠一ら８名の日本人がハワイ・トライアスロン大会を完走した新聞記事を見て、密かにトライアスロンへの挑戦を誓った。そして大学に入ると自転車部に所属し、ピスト競技やロードレース大会に参戦した。その一方、我流ながら一人切りで水泳とマラソンのトレーニングにも励んだ。<br />
　そして１年半後に挑んだのが、1982年の第２回湘南ハーフだったのだ。中山にとって初のトライアスロン挑戦である。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「優勝する！」</span></p>
<div id="attachment_1670" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon.jpg"><img class="size-medium wp-image-1670" title="第２回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon-300x179.jpg" alt="第２回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手" width="300" height="179" /></a><p class="wp-caption-text">第２回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手</p></div>
<p>　特別の根拠があった訳ではないが、勝つ自信があった。「練習が趣味」と思えるほど、３種目のトレーニングに打ち込んできたのだから。</p>
<p>　湘南ハーフのロケーションは第１回大会と同じく江ノ島を基点とした茅ヶ崎周辺までの湘南海岸で、競技距離はスイム１.92Km、バイク89.6Km、ラン21.09Kmである。幸い雨は上がったものの海が荒れたため、スイムは近くの屋外プールを使って行われた。<br />
　それにしても、驚くべきトライアスロン・スイムである。なんと！　15m×25mのプールを25周するのである。プールを１周すると80mになるから、25周すれば2,000mになるという計算だ。しかし、４つのコーナーごとにインコースを選べば、随分と距離短縮が図れる。だから、出場選手達の多くがインを突いたが、中山は丁寧にコーナーを角張って回った。その所為もあったのだろう。スイムのタイムは48分51秒、遅い方ではなかったが、決して速くもなかった。だが中山は、得意のバイクで挽回を図った。明大の自転車部で鍛えてきたのだ。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「負ける訳にはいかない！」</span></p>
<p>　そんな思いで砂だらけのサイクリング・ロードを疾走、前を行く選手達を次々と追い抜き、ランに入る時点で中山は総合２位に浮上した。あとは先を走る東京都出身の菅野　進を抜くだけだ。菅野との差は４分余り。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「抜ける筈だ」</span></p>
<p>　気持を固めて走った。我流のランだが、「自分は速く走れる」との自信を持っていた。当時の中山のランニングは、１周５Kmの皇居を19分ほどで走っているが、決して速いとは言えない。しかし、今もって思えば、中山はランに対し不思議なくらい自信があったと振り返る。実際、最後のランで菅野を抜き去り、堂々の総合優勝でゴールテープを切ったのである。ちなみにトータル・タイムは５時間59分13秒、総合２位の菅野に３分余の差をつけた。<br />
　中山は大会主催者の橋本　昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」</span></p>
<p>　中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。</p>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #ec31a1;">前回に引き続き1980年年代前半に活躍したエリート選手達の群像と、その代表格だった中山俊行選手の＜トライアスロン談義②＞を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞心に誓った孤独な挑戦①　【中山　俊行】</h3>
<p>　「剣道」がスポーツだとするならば、私がスポーツと取り組み始めたのは小学２年生の時からです。しかし、スポーツを楽しむとか、スポーツで強くなるとかいった話のレベルではなく、幼い頃からの虚弱体質を少しでも改善しようと、親の勧めるまま町の剣道場に通い、そして中高校生時代には学校の剣道部に所属しました。兎に角、弱い剣道選手で、小学校からやっているというのに、初段を獲ったのは高校生の時でした。<br />
　そんな訳で剣道の先生には、よく「自信を持ちなさい」などと言われ、実際、“自信”と書かれた二文字の色紙まで戴いたほどです。身体も弱ければ剣道も弱い、こと体力、運動では劣等生だったのです。そんな私がトライアスロンを目指そうとしたのは、高校３年生の時です。我らの大先輩である永谷誠一さん達が1981年のアイアンマン・ハワイを完走した新聞記事を見たのがきっかけです。</p>
<div id="attachment_1672" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nec_0107.jpg"><img class="size-medium wp-image-1672" title="剣道に励んでいた高校生時代（後列右から２人目）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nec_0107-300x245.jpg" alt="剣道に励んでいた高校生時代（後列右から２人目）" width="300" height="245" /></a><p class="wp-caption-text">剣道に励んでいた高校生時代（後列右から２人目）</p></div>
<p>　三面の中段に載っていた新聞記事には、堤　貞一郎先生が25時間余りを費やし完走した話が出ており、「これならば運動音痴の自分にもできる」と思ったのです。ランニングは決して速いとは言えないが、高校２年生の時には校内マラソン大会で10番だったし、自転車も同級生と一緒に房総半島一周のサイクリングを経験したり、水泳もスイミングスクールの夏期講習会などに参加した経験もあったので、トライアスロンをこなす下地は一応、ありました。</p>
<p><span style="color: #51d71d;">「よーし、きっといつかはトライアスロンに挑戦するぞ！」</span></p>
<p>　何かしら胸の中に、ムラムラと勇気が湧いてくる思いがしました。それまで取り組んできた剣道にはない、新鮮で自分の可能性を存分に試すことができるものに出会えた気がしたのです。私はトライアスロンへチャレンジすることを、自身の胸の中に刻み込みました。</p>
<p>　それで大学へ入学した時、早速、私は水泳部と競走（陸上競技）部の門を叩きました。</p>
<p><span style="color: #00ccff;">「何？　トライアスロン？　我々のクラブは、水泳オンリー。毎日、徹底的に泳ぐのみだ」</span></p>
<p><span style="color: #d3c017;">「そんな３種目のスポーツを呑気にやっている暇はない。マラソンをやりたけりゃ、毎日、走るだけだ」</span></p>
<p>　水泳部も競走部も同じ体育会系で、兎に角、インカレを目指して日々トレーニングに明け暮れるクラブなのです。「毎日、クラブ活動に参加できない者はお断り」と言われ、門前払いを食いました。そこで、次に自転車部を訪問したところ、</p>
<p><span style="color: #00ccff;">「いいよ。土日の練習さえ参加できれば、あとは自由。好きなようにやれば」</span></p>
<p>とのこと。当時、自転車部は体育会ではなく、体同連という同好会形式のクラブだったので、参加義務も緩かったようです。もちろん、私は喜んで入部しました。そして５月、クラブ所有のロードレーサーを借りての初練習は、東京・杉並の明大前から甲州街道を西へ東京と神奈川の境にある大垂水峠までの往復約100Km。ところが、走り始めて間もなく、調布付近に差し掛かった頃、見事に落車、腕や脚に擦過傷を負う洗礼を受けました。</p>
<p><span style="color: #51d71d;">「それにしても自転車って、速いんだなあ」</span></p>
<p>　感心と驚きの初練習でした。剣道で負けると、つい惨めになる私ですが、自転車では一向に挫けることがありません。初練習は失敗したものの、以来、土日の週末は先輩達の言われるがまま目一杯、トレーニングに励む日々が続きました。私の競技種目は５万mポイント・レースと長距離ロードレースですが、競輪場を借りて早稲田・慶應大学との合同練習会にも参加、トラックでのスピード練習もやりました。</p>
<div id="attachment_1673" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/load.jpg"><img class="size-medium wp-image-1673" title="伊豆CSC（サイクル・スポーツ・センター）でロードレースに参戦した大学時代" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/load-300x212.jpg" alt="伊豆CSC（サイクル・スポーツ・センター）でロードレースに参戦した大学時代" width="300" height="212" /></a><p class="wp-caption-text">伊豆CSC（サイクル・スポーツ・センター）でロードレースに参戦した大学時代</p></div>
<p>　実力面では先輩達とかなりの差がありましたが、弱いなりに頑張って走りました。インカレの自転車競技大会に出場しても特段の成果は得られませんでしたが、練習でもレースでも常に前向きに立ち向かいました。剣道では「弱いから負けてもよい」と思いますが、こと自転車では「弱くても勝ちたい」という気持でした。その剣道は大学１年の秋まで続け、ようやく二段を取って止めました。<br />
　今思うと、「剣道は弱いからつまらない。だから嫌だ。嫌だからやりたくない。」という、剣道のこの“パッシブな連鎖”に対し、「トライアスロンは面白い。だから練習も好きだ。好きだから強くなる。」という“ポジティブな連鎖”へと、私の心や気持が完全に変化していたのです。</p>
<p>≪中山俊行氏プロフィール≫<br />
<span style="color: #9945b9;">1962年、神奈川県川崎市に生まれる。1981年に湘南トライアスロン大会で優勝、トライアスロン・デビューを果たして以来、我が国エリート・トライアスリートの先駆者として活躍、“ミスター・トライアスロン”の称号を持つ。プロ・トライアスリートが集まった「チームエトナ」主将、「NTTトライアスロン・チーム」監督、JTU（日本トライアスロン連合）監督などを務め、我が国トライアスロン界をリードしてきた。現在はスポーツ活動のほか、自家の運送業「三和運輸株式会社」代表取締役としてビジネスにも奔走している。</span></p>
<div id="attachment_1674" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3707.jpg"><img class="size-medium wp-image-1674" title="中山俊行氏近影（07年３月、川崎市の会社事務所に於いて）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3707-300x225.jpg" alt="中山俊行氏近影（07年３月、川崎市の会社事務所に於いて）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">中山俊行氏近影（07年３月、川崎市の会社事務所に於いて）</p></div>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.24：雷神の巻　第３章その2：実にアバウトな大会だ！</title>
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		<pubDate>Fri, 19 Jun 2009 06:44:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[湘南]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/3529-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「その辺りでいいよ」「実にアバウト大会だ！」北村は心の中で呟きながらも、懸命に泳いだ。折り返しのブイや標識なんて在りやしない。彼の目分量で、折り返しを指示している大雑把なコース設定である。北村は終始トップのまま58分37秒でスイムを終えた。雨が降りしきる中、北村は震えながらバイク・ジャージに着替えた。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その2</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">実にアバウトな大会だ！</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3529-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3529-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「その辺りでいいよ」「実にアバウト大会だ！」北村は心の中で呟きながらも、懸命に泳いだ。折り返しのブイや標識なんて在りやしない。彼の目分量で、折り返しを指示している大雑把なコース設定である。北村は終始トップのまま58分37秒でスイムを終えた。雨が降りしきる中、北村は震えながらバイク・ジャージに着替えた。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>雨が降っていた。早朝のせいもあるが、９月だというのに寒い。</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「こんな気象とコースで、本当にハワイ大会並みのフル・レースが出来るのだろうか？」</span></p>
<p>　まだ赤ん坊の長女を東京・世田谷の妻の実家に残し、妻と２人で駈け付けた北村文俊だが、雨が強くて、しばらくクルマの中から出る気になれなかった。北村だけではない。他の選手も、出場を躊躇しているようだった。</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「でも、出場して、自分の納得できる戦績を修めたい」</span></p>
<p>　北村は、３週間前に第1回の皆生トライアスロン大会に出場、総合５位で完走したばかり。トライアスリートとしての実績と誇りを、この大会でも再現したかった。</p>
<p>　1981年９月12日。天候は雨のち曇、普通なら残暑が厳しい9月だというのに、スターとする午前９時の気温は19℃、最高気温が23℃という寒い土曜日だった。“湘南トライアスロン大会”と称するアイアンマン・ハワイをモデルに行われるトライアスロン・イベントが、湘南海岸の江ノ島を舞台に始まろうとしていた。<br />
　当時、一周５Kmの皇居をコースにランニング記録会を主宰していたグローバルマラソン協会が企画したトライアスロン大会であり、日本では皆生トライアスロン大会に次いで２番目に開かれたイベントである。総距離はハワイと同等、もしくはその半分（ハーフ）の２つのカテゴリーで行われる予定だったが、当日の悪天候のためフルにエントリーしていた北村と神奈川出身の宇井信雄の２人がハーフの部へ変更し、結局、選手全員が同じ距離で競うことになった。</p>
<p>　集まった選手は、わずか８名。31歳になる北村をはじめレース・アドバイザー役を務めた清水仲治、宇井、岩沢淳和、吉村才夫といった地元・神奈川の若いスポーツマン達、それと埼玉県富士見市からやってきた辻谷政久・昌子・政江の辻谷ファミリー３名である。そのほか主催者であるグローバルマラソン協会の橋本　昇会長ら２名と、選手の応援に駆けつけた家族、友人が集まった。ちなみに参加賞は、ゴワゴワの手染めのＴシャツと軍手・軍足、いずれも作業着屋で売っている粗末な物だ。その割に表彰の優勝盾はとても大きく立派な物が用意されていた。<br />
　コースは、スイムが鵜沼海岸にある「いこいの広場」から江ノ島西浜海水浴場辺りまで海岸沿いを２往復する１.92Km、バイクは同じく「いこいの広場」から海岸沿いに造られたアスファルトの道路を辻堂海浜公園～汐見台～茅ヶ崎ゴルフ場前まで５Kmを９往復する89.6Km、ランはバイクと同じコース上を汐見台まで3.5Kmを３往復する21.09Kmである。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「必ず背の立つ所で泳いでください」</span></p>
<p>　役員の説明を受けた後、スタートの合図が鳴ると、北村は意を決し水温22℃の海へ飛び込んだ。スイムは最初から先頭だ。500mほど進んで折り返し点の橋桁近くで海岸の方を見やると、グローバル協会のもう一人の役員が声を発した。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「その辺りでいいよ」</span></p>
<p><span style="color: #3366ff;">「実にアバウト大会だ！」</span></p>
<p>　北村は心の中で呟きながらも、懸命に泳いだ。</p>
<p>　折り返しのブイや標識なんて在りやしない。彼の目分量で、折り返しを指示している大雑把なコース設定である。北村は終始トップのまま58分37秒でスイムを終えた。雨が降りしきる中、北村は震えながらバイク・ジャージに着替えた。<br />
　結局、北村は終始、先頭のまま、その後のバイクを３時間40分49秒、ランを１時間46分45秒で走破し、トータル６時間26分11秒でフィニッシュした。２位の宇井に約43分の差をつけるダントツの一番だった。しかし、いい加減でアバウトなコース設定と大会運営に、北村は身体より神経が擦り減り、すっかり疲れてしまった。</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「もう二度と出たくない」</span></p>
<p>　以後、湘南トライアスロン大会は５回（３回まで湘南海岸）行われ、その５回大会時に歴代優勝者が招待されたが、北村は出場を断わったと言う。</p>
<div id="attachment_1658" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3529.jpg"><img class="size-medium wp-image-1658" title="北村文俊氏近影（06年11月、東京・新宿にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3529-225x300.jpg" alt="北村文俊氏近影（06年11月、東京・新宿にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">北村文俊氏近影（06年11月、東京・新宿にて撮影）</p></div>
<p>　一方、家族３人で出場した辻谷ファミリーは、どうしただろうか？</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「無茶は承知の上だった。だけど、やってみたい。夫も娘も一緒だし…頑張らなくては」</span></p>
<p>　そんな思いで出場を決意した辻谷昌子だが、兎に角、トライアスロンの練習を始めたのが１カ月前、バイクの練習は大会１週間前に夫と共に自宅から鎌倉まで走っただけ。だから、本当に完走できるかどうか心許なかった。選手として出場する夫と娘、それに私設エイドステーションで待っていてくれる３人の子供たちが唯一の頼りだ。<br />
　それにしても、バイクとランのコースはママチャリ用に設計された遊歩道兼サイクリング・ロードで、そこに風で運ばれてきた砂が所々、深く積もっていて、実に走りにくい。選手達は滑るまいと何度も及び腰になり、あるいはバイクから降りて歩く場面もあった。また幾つもの河川橋を渡るのだが、その度に道は直角のクランク状になっているため、選手達はコーナーを曲がる際にスリップ、転倒した。<br />
　しかし、昌子は頑張った。寒さに震えながらも、バイク約90Kmを休むことなく走破した。たいして練習もしなかったのに我ながら「良く乗れた」と思った。でもバイクから降りた時、自分の体重が支え切れないかのように、両脚がぐにゃりと曲がってしゃがみ込んだ。</p>
<div id="attachment_1659" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/004.jpg"><img class="size-medium wp-image-1659" title="トライアスロンにのめり込んでいった若き日の辻谷夫妻" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/004-225x300.jpg" alt="トライアスロンにのめり込んでいった若き日の辻谷夫妻" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">トライアスロンにのめり込んでいった若き日の辻谷夫妻</p></div>
<p>　大会では、給水も食べ物類は選手自身が用意しなければならなかったので、辻谷一家は専用のエイドステーションを設置した。その私設エイドで待っている子供達の応援をバックに、辻谷ファミリーの３人はスイムもバイクも無事にこなし、ほぼ同じ時間でランへと入っていった。<br />
　ランは夫よりも速い。フル・マラソンの最高タイムは４時間３分、グローバル協会が行う１周５Kmの皇居周回では、１㎞５分イーブンの25分で走る。雨はバイクの途中で止んだが、コース上の砂は雨に濡れて、ランニング・シューズの底も滑りやすい。しかし、昌子は挫けることなく、娘も夫も置き去りにし２時間38分31秒のタイムで快走した。トータル・タイムは８時間47分32秒で総合６位、辻谷ファミリーではトップでフィニッシュした。次いで、昌子に遅れること25分余りのトータル９時間13分10秒で政江が、最後に政久が同９時間14分33秒でフィニッシュし、家族全員が完走したのである。</p>
<p>　こうして参加選手全員が無事、終了し、表彰式が行われた。そして、フル・トライアスロンの部の優勝者に贈られる大きな盾は、１位の北村ではなく辻谷ファミリーに贈られた。昌子は完走した喜びに浸った。彼女はこれまで、夫と共に数多くのトライアスロン大会に出場してきたが、その中で“湘南トライアスロン大会”は「苦しかったけれど、最も思い出に残る大会」として、今なお胸に刻んでいる。</p>
<div id="attachment_1660" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/009.jpg"><img class="size-full wp-image-1660" title="大会成績が載ったグローバルマラソン協会の会報（1981年10月号）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/009.jpg" alt="大会成績が載ったグローバルマラソン協会の会報（1981年10月号）" width="300" height="241" /></a><p class="wp-caption-text">大会成績が載ったグローバルマラソン協会の会報（1981年10月号）</p></div>
<p>会報にはトライアスロンのことを“ジョイント・スポーツ”と記し、同スポーツの「魅力、すばらしさを確信・実証しました」と述べている。</p>
<p>《次回予告》<span style="color: #660066;">1980年年代前半に活躍したエリート選手達の群像と、その代表格だった中山俊行選手の＜トライアスロン談義＞を掲載します。<br />
</span> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p> </p>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞昔のトライアスロンは良かった！　楽しかった!!　　【辻谷　政久】</h3>
<p>　私と妻・昌子、それに次男・明久と次女・政江の家族４人がトライアスロンを始めたのは1980年前半のことでした。ファミリー・トライアスリートということで、大変、珍しがられ注目されましたが、私達家族にとっては特別、意識することなく、ごくごく自然に始めたことでした。それと言うのも、どうやら私達家族の血統は持久力があるようでして、言わばロングタイプ・ピープルのようです。実際、私も距離が長くなればなるほど頑張れるというか、まさしくトライアスロン向き人間なのです。</p>
<p>　実際、トライアスロンのバイクで私はいつも他の選手に抜かれてばかりいましたが、バイク194Kmという国内最長距離大会の日本海オロロンライン・トライアスロン大会では、逆に150Kmから先は私が他の選手を抜き出したほどです。距離が長くなれば強みを発揮する。それが私であり、私の家族のようです。</p>
<p>　そんな私達がトライアスロンに初めて挑戦したのが、1981年９月に神奈川・湘南海岸で開かれた「湘南トライアスロン大会」でした。出場したのは私と妻と娘の３人。その当時、私達夫婦はマラソンに取り組んでいまして、民間のマラソン大会主催者である「グローバル・マラソン協会」の会員メンバーになっていました。その協会の会報誌で湘南海岸でのトライアスロン大会の開催を知り、親子で出場を決意したのです。私が48歳、妻が42歳の時でした。</p>
<div id="attachment_1662" style="width: 197px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/005.jpg"><img class="size-medium wp-image-1662" title="トライアスロンを存分に楽しんでいた頃の辻谷氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/005-187x300.jpg" alt="トライアスロンを存分に楽しんでいた頃の辻谷氏" width="187" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">トライアスロンを存分に楽しんでいた頃の辻谷氏</p></div>
<p>　とは言っても、私も妻も自信があった訳ではありません。トライアスロンの３種目の競技は何とか出来ましたが、マラソン以外はほとんどトレーニングしていませんでしたし、スイムも戦争の訓練で行ったノシ専門、妻は平泳ぎですが、もとより水泳は苦手だし下手でした。その年の８月に行われた皆生トライアスロン大会へ出場を見合わせたのも、そんな自分達の未熟さを知っていたからで、それで湘南大会ではフルではなく、ハーフの部門にエントリーしたのです。</p>
<p>　結果は、３人とも何とか完走、トライアスロン・デビューを果たしました。しかし、私は出場選手８名のうち８番のびりけつ、妻にも娘にも負けました。でも、それ以来、私達家族はトライアスロンが好きになって、北海道から沖縄まで、それこそ全国津々浦々、数え切れないほどトライアスロン大会に出場していきました。とは言え、大会では記録を狙うよりも“ゆっくりトライアスロンを楽しむ”ことが、私達のモットーです。</p>
<p>　だからバイクやランでは、必ずと言ってよいほどエイドステーションに立ち寄ります。だって、素通りしてしまうのは悪いではないですか！　走りながらボランティアが差し出す飲み物や食べ物を、単に受け取るだけでは物足りないですね。やっぱりエイドステーションでは自転車から降りて、ゆっくり飲んだり食べたり、そしてボランティアの方々と和気あいあいお話をしてこそ、心の交流が生まれてくるのだと思います。</p>
<p>　そんな楽しいトライアスロンを、私達は沢山、堪能してきましたし、フル・マラソンとは異なる感動の大きさをトライアスロンで味わいました。だから、昔のトライアスロンは良かった！　楽しかった!!</p>
<p> <br />
&lt;&lt;辻谷政久氏プロフィール&gt;&gt;</p>
<p><span style="color: #1acd5b;">1933年、東京・浅草で生まれる。1959年、辻谷工業を設立し、以後、砲丸をはじめ陸上用スポーツ器具やレジャー用品などの設計・製造、レンタル事業を展開、現在に至る。特に同社製の砲丸が、シドニー・アトランタの両オリンピック大会において外国人選手が金・銀・銅を独占、世界に「辻谷の砲丸」の名を轟かせた。日本ファッション協会ものつくり大賞、厚生労働大臣賞・現代の名工として表彰されると共に、全国高校生ものつくりコンテスト大会審査委員を務める。</span></p>
<div id="attachment_1663" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3578.jpg"><img class="size-full wp-image-1663" title="辻谷政久・昌子夫妻（06年11月、辻谷家にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3578.jpg" alt="辻谷政久・昌子夫妻（06年11月、辻谷家にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">辻谷政久・昌子夫妻（06年11月、辻谷家にて撮影）</p></div>
</div>
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		<title>Vol.23：雷神の巻　第３章その1：“トライアスロン・ブーム”到来</title>
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		<pubDate>Fri, 19 Jun 2009 05:37:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/j_m-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />ジェリ－・モスが脱水症状となりゴール目前で何度も倒れ、四つん這いになりながらようやくフィニッシュ、力尽き倒れてしまう劇的なシーンがアメリカABCテレビで放映され、改めてトライアスロンの魅力を世界の人々を知らしめたのである。このジュリーのゴールシーンをきっかけに、トライアスロン・ブームの旋風が全世界を駆け巡ったのだった。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その1</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">“トライアスロン・ブーム”到来</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/j_m-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/j_m-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">ジェリ－・モスが脱水症状となりゴール目前で何度も倒れ、四つん這いになりながらようやくフィニッシュ、力尽き倒れてしまう劇的なシーンがアメリカABCテレビで放映され、改めてトライアスロンの魅力を世界の人々を知らしめたのである。このジュリーのゴールシーンをきっかけに、トライアスロン・ブームの旋風が全世界を駆け巡ったのだった。</p>
</div>
<p><span style="color: #0000ff;">「ジュリー、元気を出せ！　ゴールまで、あと百メートルだ」</span></p>
<p><span style="color: #dd21a5;">「起き上がって、ジュリー」</span></p>
<p><span style="color: #3ab077;">「ジュリー、頑張れ。もう少し!!」</span></p>
<p><span style="color: #ff6600;">「その調子！　一歩一歩、進むのよ」</span></p>
<p>　ゴールゲートまで、あと400mの地点までやってきたアメリカの女子トライアスリート・ジュリー・モス（当時22歳）は突然、力尽き、バタッとコース上に倒れ伏した。だが、アイアンマン・ハワイの競技規則で、彼女を助けることは誰もできない。フィニッシュ・ゲート周辺に群がる多くの観衆も、そしてコース誘導するボランティア達も、ただただジュリーのフラフラと何度も倒れ、また起き上がりながらゴールへ向かう姿を見守るばかりだった。そして、ようやくゴールゲートへ近づいた時、ジュリーはもう立ち上がることはできず、両手を路面に着き、這いつくばったままフィニッシュ・ラインを越え、その場に倒れ伏したのである。</p>
<p>　このドラマチックなゴールシーンは1982年２月にハワイ島コナ市で開催された第５回アイアンマン・ハワイ大会で起きたことである。ハワイの鉄人レースは、それまでもニュースポーツという話題性とレースの過酷さ故に世界のアスリート達の間で大きな反響を呼んでいたが、ジェリ－・モスが脱水症状となりゴール目前で何度も倒れ、四つん這いになりながらようやくフィニッシュ、力尽き倒れてしまう劇的なシーンがアメリカABCテレビで放映され、改めてトライアスロンの魅力を世界の人々を知らしめたのである。日本から堤　貞一郎（故人）ら８名の勇者が、はるばる参戦した第４回アイアンマン大会の翌年、このジュリーのゴールシーンをきっかけに、トライアスロン・ブームの旋風が全世界を駆け巡ったのだった。</p>
<div id="attachment_1643" style="width: 260px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/j_m.jpg"><img class="size-full wp-image-1643" title="四つん這いになってゴールを目指すジュリー・モス（ランナーズ刊『Athletic Book』1984年1月号より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/j_m.jpg" alt="四つん這いになってゴールを目指すジュリー・モス（ランナーズ刊『Athletic Book』1984年1月号より）" width="250" height="182" /></a><p class="wp-caption-text">四つん這いになってゴールを目指すジュリー・モス（ランナーズ刊『Athletic Book』1984年1月号より）</p></div>
<p>　これまで見てきたように水泳・自転車・マラソンの３種目を連続して行うトライアスロン競技は1978年２月に第１回大会がハワイ州オアフ島で行われ、その規模が年々拡大され、ついに1982年10月には「世界トライアスロン選手権」の称号を得て国際的な広がりを見せるに至った。このトライアスロンの急激な成長と拡大の波紋はアメリカをはじめ欧州各国にもその輪を広げ、ついに日本へも及んだ。<br />
　その波紋が“風神の巻”で書き記した皆生トライアスロン大会である。鳥取県米子市の皆生温泉という日本海を臨んだ温泉街を舞台に、日本人が初めて参加した第４回ハワイ大会と同じ年の81年８月、第１回皆生トライアスロン大会が開催されたのである。以後、日本においてもトライアスロン大会が順次、開催され、85年の全日本宮古島トライアスロン大会やびわ湖アイアンマン大会、天草国際トライアスロン大会の開催へと結び付いていったのである。</p>
<p>　すなわち、皆生大会が開幕した81年から湘南トライアスロン大会、小松トライアスロン大会、久留米トライアスロン大会といった各大会を経て宮古島、びわ湖、玄海、天草へと波動していった1980年代前半の物語が、これから始まる“雷神の巻”の中味である。</p>
<p>　一方、この５年間は、まさしく天空に雷鳴が轟くかのような激動の５年間でもあった。それはトライアスロン大会が次々と誕生していく中で、トライアスロンのクラブチーム、競技団体や大会主催団体、エージェント、スポンサーなど関係者が全国各地、各セクトで生まれ、互いにしのぎ合い、トライアスロンの普及を図っていった時期でもあったからだ。</p>
<p>　クラブチームで言えば、第1回皆生トライアスロン大会が終了した81年９月に、我が国で最初の熊本CTC（熊本クレージー・トライアスロン・クラブ＝永谷安子ゼネラル・マネジャー）が約20名の会員によって設立されたのを皮切りに、JTRC（ジャパン・レーシング・トライアスロン・クラブ＝矢後潔省会長）、ATC（オールジャパン・トライアスロン・クラブ＝市川祥宏理事長）といった全国的なクラブ組織が次々と誕生していった。</p>
<p>　また団体・機関で言えば、83年10月に日本で初めてのトライアスロン競技団体「皆生トライアスロン協会」が発足したのを始め、翌84年11月には後のアマチュアによる全国規模のトライアスロン競技団体「日本トライアスロン協会」（JTA＝Japan Triathlon Association）の前身となる「複合耐久種目全国連絡協議会」（清水仲治代表幹事）が、翌85年春には長嶋茂雄を会長に据えた「日本トライアスロン連盟」（JTF＝Japan Triathlon Federation）が発足し、トライアスロン大会の開催並びにトライアスロンの普及啓発に乗り出したのである。</p>
<p>　そして、これらクラブや競技団体に関与したアスリートや電通などエージェント、フジテレビ・日本テレビ・NHKなどマスコミが、85年に一斉開花したトライアスロン・ブームの火付け役となる。そのキーワードとなった人物が、前述の清水仲治（故人）、矢後潔省、市川祥宏、そして中山俊行選手をはじめとする男子エリート選手を集めた「チーム・エトナ」監督の猪川三一生、JTFによる51.5Kmレースの運営に携わった大塚眞一郎、JTA事務局長を務めた㈱ランナーズ社長の橋本治朗、トライアスロン・ドクターの名で呼ばれた東京医科大学教授の岩根久夫（故人）、後に「日本トライアスロン連合」（JTU＝Japan Triathlon Union）設立の誘導役として活動した「トライアスロンを発展する会」代表代行の佐々木秀幸（当時、日本陸上競技連盟理事）らである。</p>
<p>　この“雷神の巻”では、彼らキーマンの動静をも含め、我が国トライアスロンの普及、拡大へとスパイラルに展開していった激動の1980年代前半の物語を述べることにする。 </p>
<p>《次回予告》<span style="color: #b62ab3;">1981年９月に行われた第１回湘南トライアスロン大会の模様を記します。</span></p>
<p> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロン・ブームを支えたバブル経済　　【桜井　晋】</h3>
<p>　アメリカ西海岸で発祥し、常夏のハワイで形作られたトライアスロンが、1980年代に入って世界的なレベルで普及し、特に欧米・オセアニア諸国では“ブーム”的な様相を見せるまでに至った。それはトライアスロンが包含する野生味を帯びたチャレンジングなアウトドア・スポーツが、それまでにない新鮮さを持って世界のアスリート達の心を揺り動かしたからである。</p>
<p>　そして、世界へと急激に広まったトライアスロン・ブームは、ほぼ５年遅れで日本へも上陸した。その第一歩を記したのは、永谷誠一や堀川稔之ら８名が81年に日本人として初めてハワイ大会へ出場、完走した輝かしい挑戦であり、次いで日本海に面した山陰地方の小都市で実現した皆生トライアスロン大会であったことは、誰もが知るところである。</p>
<p>　だが日本国内において本格的な普及の端緒となったのは、85年に相次ぎ開催された宮古島大会、びわ湖大会、天草大会であった。しかも、これら85年のトライアスロン・イベントのお膳立ては、実は80年代前半にエージェントやマスコミが地方自治体をも巻き込み、水面下で着々と取り組まれていたのである。</p>
<p>　例えば、宮古島大会開催の発端となったのはJAL（日本航空）の宮古島直行便の就航計画や、NHK（日本放送協会）が放送衛星を利用したBS実験など外的な誘導要因も重なったが、実は宮古島では“ウェルネス・アイランド構想”と名付く『宮古圏域長期振興ビジョン』に基づいた島興しのための盛り沢山の開発プロジェクトを実現させる大きな働き掛けがあったからであり、トライアスロン大会の開催もそのうちのワン・プロジェクトだったのだ。と同時に、島内各地域間での人的・営利的対立関係を解消するために、島内一周を巡るトライアスロン大会の開催が望まれていたのである。</p>
<p>　こうした各大会にまつわる水面下の誘導要因、そして大会主催者やトライアスロンをイベント・ビジネスに仕立て上げていく関係者達の活躍振りは、この“雷神の巻”で語られていくだろう。さらに85年以降はトライアスロン大会の開催が次々と企画、実行に移され、トライアスロンはブーム的な現象さえ見せたが、1980年代の10年間を通じ爆発的に拡大していったトライアスロンを根底から支えていたのが、日本が世界の経済の頂点に立ち社会的繁栄をもたらした日本経済そのものであったことを忘れてはならない。</p>
<p>　1970年代前半に勃発したアメリカ・ニクソン政権下での“ドルショック”さらには“オイルショック”を克服した日本経済は、1980年初頭には自動車生産台数で世界一となり、次いで「戦後政治の総決算」を標榜した中曽根政権下において、84年にはおよそ９割の国民が自身の生活程度について「中流意識」を抱くに至った。この経済の奢り、まさしく金融バブルという幻想経済の下で、日本人の多くが好景気に躍らされていたのである。</p>
<p>　このため、80年代に吹き荒れたトライアスロン・ブームの旋風下で、多くのトライアスロン関係者やアスリート達は豊かな経済力を背景に、トライアスロンという３種目の運動競技を堪能することができたし、トライアスロン大会への参加を夢見て国内のみならず世界へと旅立っていったのである。そのトライアスロン・ブームの陰にこそ、当時のトライアスロン界が抱えざるを得なかった問題が次々と山積みされていった。</p>
<p>　それら問題は、1990年代に入ってバブル崩壊という日本経済の破局化の過程で露見され、JTAなど組織の脆弱性と破綻、それ故の人材育成の欠如、大会の企画・運営のマンネリ化、その結果としての《トライアスロン文化》の不毛に及んだ。こうした問題と関係者の行動軌跡は、1980年代後半を物語る“火神の巻”で記す。</p>
<p> </p>
<p>《桜井 晋プロフィール》<br />
<span style="color: #149e49;">スポーツ・ジャーナリスト。MSPO誌『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹。「トライアスロンを発展させる会」世話人。トライアスロン関係の著書として『波と光と風のある夏』、『新トライアスロン入門』、『必勝これがトライアスロンや』などがある。</span></p>
<p> </p>
<div id="attachment_1647" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sakurai2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1647" title="第３回宮古島トライアスロン大会（1987年４月）を完走した筆者（写真右から２人目）とトライアスリートの仲間達" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/sakurai2-300x203.jpg" alt="第３回宮古島トライアスロン大会（1987年４月）を完走した筆者（写真右から２人目）とトライアスリートの仲間達" width="300" height="203" /></a><p class="wp-caption-text">第３回宮古島トライアスロン大会（1987年４月）を完走した筆者（写真右から２人目）とトライアスリートの仲間達</p></div>
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