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	<title>TRI-X &#187; 中山俊行</title>
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		<title>Vol.26：雷神の巻　第３章その4：若きエリートの登場②</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1681</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1681#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 06:51:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[中山俊行]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/73-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「もう少しやれば、新たな世界が広がる」83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その4</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">若きエリートの登場②</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「もう少しやれば、新たな世界が広がる」83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。</p>
</div>
<p><span style="color: #ff0000;">「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」</span></p>
<p>　1982年９月、トライアスロン初デビューの湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝し、そう確信した中山俊行は、その後もトライアスロン競技の練習に打ち込んでいった。そして翌83年７月、待望の皆生トライアスロン大会に出場したが、その４箇月前にピスト競技の練習中、鎖骨骨折の怪我を負って満足な練習ができず、残念ながら総合４位に留まった。</p>
<p>　この時、出会ったのが中山と同じく20歳、日本大学の学生だった梅沢智久である。梅沢は競泳出身だけあって皆生大会３Kmのスイムでは愛知県出身の横井信之に続きダントツのタイムであがり、続くバイクでもスプリット・タイム第１位と他の選手を寄せ付けず総合優勝を飾った。これに対し中山はランで迫ったものの、終始、梅沢にリードされ後塵を拝する結果となった。</p>
<div id="attachment_1682" style="width: 276px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/1.jpg"><img class="size-full wp-image-1682" title="第３回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手（全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/1.jpg" alt="第３回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手（全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋）" width="266" height="236" /></a><p class="wp-caption-text">第３回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手（全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋）</p></div>
<p> <br />
　この時代、それは日本でトライアスロン競技が始まったばかりの1980年前半だが、トライアスリートの大半がマラソン経験の豊富なラン出身者が多かった。初代アイアンマンの永谷誠一やそれに続く高石ともやのごとく、特に中高年のトライアスリート達の多くがランニングを得意とし、スイミングやサイクリングは不得手もしくは初めて経験するという初心者達だった。</p>
<p>　大雑把な数値だが、当時のトライアスリートが得意とする種目はランが５割、スイムが３割、バイクが１割、３種目とも全く初めてが１割という割合ではなかったか？　例えば、この時期、熊本では田上栄一、鳥取の村上好美と小坂雅彦、四国の渡辺克巳、関西では高石ともや、脇田重男、服部健一、静岡では矢後潔省（きよみ）、関東では北村文俊、高山信行、市川祥宏、猪川三一生（みちお）などトライアスリート達が活躍したが、そのほとんどがランナー出身者だった。なかでも、中山よりも一世代上の矢後はランのほかスイムも得意とし、82年10月のアイアンマン・ハワイでは日本人第１位となっている。</p>
<div id="attachment_1687" style="width: 270px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/22.jpg"><img class="size-medium wp-image-1687" title="中山選手が日本人２位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同８位でフィニッシュした（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/22-260x300.jpg" alt="中山選手が日本人２位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同８位でフィニッシュした（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" width="260" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">中山選手が日本人２位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同８位でフィニッシュした（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）</p></div>
<p>　これに対し次代を担う中山や梅沢といった若い選手達は、水泳や自転車の競技からトライアスロンの世界に入ってきているのが特徴的である。しかも有酸素系の持久的運動能力に優れ、練習熱心で、トライアスロンの３種目の競技を次々とマスターしていった。それら若きエリート達は都市圏で生活し、共に切磋琢磨する機会に恵まれたことも競技者としての成長を促したと言えるだろう。</p>
<p>　その当時、中山や梅沢のほかに活躍していたエリート・トライアスリートとしては、愛知の横井のほか、東京では飯島健二郎、前田芳久、山本光宏、山下光富といった名があげられる。このように80年代前半は20歳前半を中心としたアスリート達が台頭もしくは次の次代を担うためスタンバイしていたのである。</p>
<div id="attachment_1688" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/33.jpg"><img class="size-full wp-image-1688" title="左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/33.jpg" alt="左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手" width="300" height="207" /></a><p class="wp-caption-text">左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手</p></div>
<p>　その代表選手として活躍し、我が国トライアスロン界を背負ったのが中山だったことは、彼のその後の戦績が如実に物語っている。中山は83年の第３回皆生大会で梅沢に屈したが、その年10月の第７回アイアンマン・ハワイでは総合59位（日本人２位）となり、ハワイ在住の日本人、村岡康正と共に日本人として100位以内に入った。</p>
<p>　そして翌84年の第４回皆生大会では見事、優勝、同じく10月の第８回アイアンマン・ハワイでは総合17位、日本人としては第１位となり、名実ともに日本人トライアスリートの第一人者となったのである。続いて同年11月にハワイで行われたカウアイ・トライアスロン大会では18位となり300ドルの賞金を獲得、プロ・トライアスリートとしての発端が開かれた。</p>
<p>　中山はその後も次々とタイトルを獲得、85年にはニュージーランド第１回ダブルブラウン・アイアンマンで６位、４月の第１回宮古島トライアスロン大会優勝、ロサアンジェルス・タフェスト・トライアスロン大会８位、USTS（United States Triathlon Series）LA大会57位、同シカゴ大会29位、10月の第１回天草大会優勝と、国内では敵無しの活躍を見せた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「もう少しやれば、新たな世界が広がる」</span></p>
<p>　83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。</p>
<div id="attachment_1689" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/44.jpg"><img class="size-medium wp-image-1689" title="85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達（写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手＝写真提供；中山俊行氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/44-300x198.jpg" alt="85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達（写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手＝写真提供；中山俊行氏）" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達（写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手＝写真提供；中山俊行氏）</p></div>
<p> 《次回予告》<span style="color: #ff00ff;">1980年前半にトライアスリートの先駆者として活躍した矢後潔省氏のトライアスロン・ライフを紹介します。</span></p>
<p> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞心に誓った孤独な挑戦②　【中山　俊行】</h3>
<p>　自転車は大学の自転車部で鍛えたのですが、ではトライアスロンのあとの２種目、スイムとランの練習はどうしたかといいますと、まず水泳ですが、当時の私は</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「自分は普通に泳げる」</span></p>
<p>と思っていました。ところが、1983年秋のアイアンマン・ハワイに挑戦する直前、初めてスイミング・スクールへ通い出した時のことでした。スイミング・スクールのコーチが見ている前で試し泳ぎをしたところ、コーチは私に向かってこう言いました。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「君、それはクロールとは言わないんだよ。その泳ぎはクロールではないんだ」</span></p>
<p><span style="color: #1ec156;">「ガーン」</span></p>
<p>　コーチのその予期せぬ台詞を聞いた私は、頭の天辺に金槌を打たれたような思いがしました。でも、心の中では、</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「だって７月の皆生で、遅いとは言え３Km泳いだんだ」</span></p>
<p>　そんな私の自尊心を真っ向から否定され、しばらく口も利けないほどのショックを覚えました。でも、水泳の専門家から見れば、私の泳ぎは稚拙だったのでしょう。実際、その時まで水泳の基本を学んだ訳ではないし、すべて我流で練習してきたのですから。つまり私のスイムは、最初からその程度だったという訳です。<br />
　同じくランも“知らない者の恐いもの知らず”で、我流のランながら、</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「自分は速く走れる」</span></p>
<p>と、過剰な自信を抱いていました。今にして思えば恥ずかしい限りですが、当時の私のランニングは皇居１周５Kmのコースを19分程度で走っていたに過ぎません。</p>
<p>　でも、当時の私は「練習をすればするほど強くなっていく」自分を感じていました。自分一人でコツコツと、時には厳しく、ある時は激しく、３種目のトレーニングを積み重ねていきました。</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「趣味は、練習です」</span></p>
<p>　そう言っても臆することがないほど、トレーニングの日々が続きました。そうして83年７月、期待に胸膨らませ憧れの皆生トライアスロン大会へ乗り込んだのです。そこで出会ったのが私と同年で日本大学の学生だった梅沢智久君です。</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「どこかで見掛けた顔だな？」</span></p>
<p>　それもその筈です。彼は日大の自転車部員で、私とは競技会で何度か顔を会わせていたのでした。梅沢君は競泳出身だっただけにスイムが飛び抜けて速かったけれど、バイクも一般の選手と異なり素晴らしいフォームで疾走していました。そして第３回皆生トライアスロン大会の優勝者となりました。<br />
　私は残念ながら４位、総合タイムで梅沢君に14分余り遅れました。しかし、大会前の３月に立川競輪場のバンクで落車。右鎖骨を粉砕骨折して３ヶ月間、何もできない状態となり、皆生大会まであと１ヶ月と迫った６月上旬から練習を開始した状態でしたから、負けて止むなしの感がありました。それよりも次は10月のハワイへと夢を駆り立てていたのです。</p>
<div id="attachment_1692" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/55.jpg"><img class="size-medium wp-image-1692" title="83年ハワイ大会（写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手＝写真提供；中山俊行氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/55-300x195.jpg" alt="83年ハワイ大会（写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手＝写真提供；中山俊行氏、以下同）" width="300" height="195" /></a><p class="wp-caption-text">83年ハワイ大会（写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手＝写真提供；中山俊行氏、以下同）</p></div>
<p>　そのハワイのアイアンマン・レースでは、総合100位以内を狙っていました。なぜならば、それまでの大会で日本人が二桁の順位を獲ったことがなかったからです。レース結果は11時間00分57秒８で総合59位、今度は梅沢君に勝ちました。梅沢君は11時間17分42秒６でフィニッシュ、総合102位でした。しかし、もう一つの私の目標はハワイ在住の村岡康正さんによって砕かれました。村岡さんの総合タイムと着順は、私より約２分４秒早い10時間58分53秒２の総合57位だったのです。</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「なぜ！　どうして！　あと２人を抜くことができなかったのか」</span></p>
<p>　残念無念、日本人１位になれなかったことが悔やまれます。私自身、ハワイ大会に一度出場したらトライアスロンを止めるつもりでした。しかし、</p>
<div id="attachment_1694" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/64.jpg"><img class="size-full wp-image-1694" title="参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/64.jpg" alt="参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす</p></div>
<p><span style="color: #1ec156;">「もう少しトライアスロンを続ければ、違う世界が広がる」</span></p>
<p>　そんな気持がつのり、翌84年の第８回アイアンマン・ハワイに出場することにしたのです。しかし、これが私の最後のトライアスロンへの挑戦です。その時、私は大学４年生の21歳。来年は自転車と関係が深い会社に就職することが内定していました。だから大学時代に培ったすべての力を出し切り、</p>
<p><span style="color: #1ec156;">「日本人トップで、しかも総合10位以内を目指そう」</span></p>
<p>　結果は総合17位、トップテンに入ることはできませんでしたが、日本のトライアスリートとしてトップレベルの実力を証明することができました。ちなみに、この年は７月の皆生トライアスロン大会で総合優勝を飾り、11月にはハワイ・カウアイ島で行われたトライアスロンの賞金レースで上位入賞し、300ドルの賞金を獲得することができました。今にして思えば“プロ・トライアスリート”として歩み出す道筋が、この年につけられたと思います。</p>
<div id="attachment_1695" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73.jpg"><img class="size-full wp-image-1695" title="84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/73.jpg" alt="84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手" width="300" height="257" /></a><p class="wp-caption-text">84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手</p></div>
<p>　こうして私はトライアスロンを始めて３年、日本のトライアスリートとしていくつかの栄誉を勝ち取ることができました。とはいえ、最初から私がトライアスロンの才能があった訳ではありません。短い間にせよ一生懸命、練習に打ち込んできたからで、自分で言うのも気が引けますが、何よりも努力の積み重ねが功を奏したと言えるでしょう。それというのも、私にとって弱い剣道時代を経験してきたからこそ、強い自分を仕立てあげようという意欲を持ち続けることができたのだと思います。剣道をバネにして、自分の“弱さ”を“強さ”に替えてきたのです。</p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.25：雷神の巻　第３章その3：若きエリートの登場①</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1669</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1669#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 03:17:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[中山俊行]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1669</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/marathon-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />中山は大会主催者の橋本　昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その3</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">若きエリートの登場①</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">中山は大会主催者の橋本　昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。</p>
</div>
<p>　<br />
　優勝した北村文俊が「二度と出たくない」と思い、事実、二度と出場することがなかった“湘南トライアスロン大会”だが、翌年も同じ９月、同じ場所で開催された。この第２回大会に登場し優勝したのが若きエリート、後に我が国トライアスリートの第一人者となる“ミスター・アイアンマン”こと中山俊行である。この時、中山は若干19歳、明治大学の２年生だった。<br />
　前年の1981年、卒業を間近に控えた高校３年生の春２月、永谷誠一ら８名の日本人がハワイ・トライアスロン大会を完走した新聞記事を見て、密かにトライアスロンへの挑戦を誓った。そして大学に入ると自転車部に所属し、ピスト競技やロードレース大会に参戦した。その一方、我流ながら一人切りで水泳とマラソンのトレーニングにも励んだ。<br />
　そして１年半後に挑んだのが、1982年の第２回湘南ハーフだったのだ。中山にとって初のトライアスロン挑戦である。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「優勝する！」</span></p>
<div id="attachment_1670" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon.jpg"><img class="size-medium wp-image-1670" title="第２回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/marathon-300x179.jpg" alt="第２回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手" width="300" height="179" /></a><p class="wp-caption-text">第２回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手</p></div>
<p>　特別の根拠があった訳ではないが、勝つ自信があった。「練習が趣味」と思えるほど、３種目のトレーニングに打ち込んできたのだから。</p>
<p>　湘南ハーフのロケーションは第１回大会と同じく江ノ島を基点とした茅ヶ崎周辺までの湘南海岸で、競技距離はスイム１.92Km、バイク89.6Km、ラン21.09Kmである。幸い雨は上がったものの海が荒れたため、スイムは近くの屋外プールを使って行われた。<br />
　それにしても、驚くべきトライアスロン・スイムである。なんと！　15m×25mのプールを25周するのである。プールを１周すると80mになるから、25周すれば2,000mになるという計算だ。しかし、４つのコーナーごとにインコースを選べば、随分と距離短縮が図れる。だから、出場選手達の多くがインを突いたが、中山は丁寧にコーナーを角張って回った。その所為もあったのだろう。スイムのタイムは48分51秒、遅い方ではなかったが、決して速くもなかった。だが中山は、得意のバイクで挽回を図った。明大の自転車部で鍛えてきたのだ。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「負ける訳にはいかない！」</span></p>
<p>　そんな思いで砂だらけのサイクリング・ロードを疾走、前を行く選手達を次々と追い抜き、ランに入る時点で中山は総合２位に浮上した。あとは先を走る東京都出身の菅野　進を抜くだけだ。菅野との差は４分余り。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「抜ける筈だ」</span></p>
<p>　気持を固めて走った。我流のランだが、「自分は速く走れる」との自信を持っていた。当時の中山のランニングは、１周５Kmの皇居を19分ほどで走っているが、決して速いとは言えない。しかし、今もって思えば、中山はランに対し不思議なくらい自信があったと振り返る。実際、最後のランで菅野を抜き去り、堂々の総合優勝でゴールテープを切ったのである。ちなみにトータル・タイムは５時間59分13秒、総合２位の菅野に３分余の差をつけた。<br />
　中山は大会主催者の橋本　昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。</p>
<p><span style="color: #f8067a;">「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」</span></p>
<p>　中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。</p>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #ec31a1;">前回に引き続き1980年年代前半に活躍したエリート選手達の群像と、その代表格だった中山俊行選手の＜トライアスロン談義②＞を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞心に誓った孤独な挑戦①　【中山　俊行】</h3>
<p>　「剣道」がスポーツだとするならば、私がスポーツと取り組み始めたのは小学２年生の時からです。しかし、スポーツを楽しむとか、スポーツで強くなるとかいった話のレベルではなく、幼い頃からの虚弱体質を少しでも改善しようと、親の勧めるまま町の剣道場に通い、そして中高校生時代には学校の剣道部に所属しました。兎に角、弱い剣道選手で、小学校からやっているというのに、初段を獲ったのは高校生の時でした。<br />
　そんな訳で剣道の先生には、よく「自信を持ちなさい」などと言われ、実際、“自信”と書かれた二文字の色紙まで戴いたほどです。身体も弱ければ剣道も弱い、こと体力、運動では劣等生だったのです。そんな私がトライアスロンを目指そうとしたのは、高校３年生の時です。我らの大先輩である永谷誠一さん達が1981年のアイアンマン・ハワイを完走した新聞記事を見たのがきっかけです。</p>
<div id="attachment_1672" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nec_0107.jpg"><img class="size-medium wp-image-1672" title="剣道に励んでいた高校生時代（後列右から２人目）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nec_0107-300x245.jpg" alt="剣道に励んでいた高校生時代（後列右から２人目）" width="300" height="245" /></a><p class="wp-caption-text">剣道に励んでいた高校生時代（後列右から２人目）</p></div>
<p>　三面の中段に載っていた新聞記事には、堤　貞一郎先生が25時間余りを費やし完走した話が出ており、「これならば運動音痴の自分にもできる」と思ったのです。ランニングは決して速いとは言えないが、高校２年生の時には校内マラソン大会で10番だったし、自転車も同級生と一緒に房総半島一周のサイクリングを経験したり、水泳もスイミングスクールの夏期講習会などに参加した経験もあったので、トライアスロンをこなす下地は一応、ありました。</p>
<p><span style="color: #51d71d;">「よーし、きっといつかはトライアスロンに挑戦するぞ！」</span></p>
<p>　何かしら胸の中に、ムラムラと勇気が湧いてくる思いがしました。それまで取り組んできた剣道にはない、新鮮で自分の可能性を存分に試すことができるものに出会えた気がしたのです。私はトライアスロンへチャレンジすることを、自身の胸の中に刻み込みました。</p>
<p>　それで大学へ入学した時、早速、私は水泳部と競走（陸上競技）部の門を叩きました。</p>
<p><span style="color: #00ccff;">「何？　トライアスロン？　我々のクラブは、水泳オンリー。毎日、徹底的に泳ぐのみだ」</span></p>
<p><span style="color: #d3c017;">「そんな３種目のスポーツを呑気にやっている暇はない。マラソンをやりたけりゃ、毎日、走るだけだ」</span></p>
<p>　水泳部も競走部も同じ体育会系で、兎に角、インカレを目指して日々トレーニングに明け暮れるクラブなのです。「毎日、クラブ活動に参加できない者はお断り」と言われ、門前払いを食いました。そこで、次に自転車部を訪問したところ、</p>
<p><span style="color: #00ccff;">「いいよ。土日の練習さえ参加できれば、あとは自由。好きなようにやれば」</span></p>
<p>とのこと。当時、自転車部は体育会ではなく、体同連という同好会形式のクラブだったので、参加義務も緩かったようです。もちろん、私は喜んで入部しました。そして５月、クラブ所有のロードレーサーを借りての初練習は、東京・杉並の明大前から甲州街道を西へ東京と神奈川の境にある大垂水峠までの往復約100Km。ところが、走り始めて間もなく、調布付近に差し掛かった頃、見事に落車、腕や脚に擦過傷を負う洗礼を受けました。</p>
<p><span style="color: #51d71d;">「それにしても自転車って、速いんだなあ」</span></p>
<p>　感心と驚きの初練習でした。剣道で負けると、つい惨めになる私ですが、自転車では一向に挫けることがありません。初練習は失敗したものの、以来、土日の週末は先輩達の言われるがまま目一杯、トレーニングに励む日々が続きました。私の競技種目は５万mポイント・レースと長距離ロードレースですが、競輪場を借りて早稲田・慶應大学との合同練習会にも参加、トラックでのスピード練習もやりました。</p>
<div id="attachment_1673" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/load.jpg"><img class="size-medium wp-image-1673" title="伊豆CSC（サイクル・スポーツ・センター）でロードレースに参戦した大学時代" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/load-300x212.jpg" alt="伊豆CSC（サイクル・スポーツ・センター）でロードレースに参戦した大学時代" width="300" height="212" /></a><p class="wp-caption-text">伊豆CSC（サイクル・スポーツ・センター）でロードレースに参戦した大学時代</p></div>
<p>　実力面では先輩達とかなりの差がありましたが、弱いなりに頑張って走りました。インカレの自転車競技大会に出場しても特段の成果は得られませんでしたが、練習でもレースでも常に前向きに立ち向かいました。剣道では「弱いから負けてもよい」と思いますが、こと自転車では「弱くても勝ちたい」という気持でした。その剣道は大学１年の秋まで続け、ようやく二段を取って止めました。<br />
　今思うと、「剣道は弱いからつまらない。だから嫌だ。嫌だからやりたくない。」という、剣道のこの“パッシブな連鎖”に対し、「トライアスロンは面白い。だから練習も好きだ。好きだから強くなる。」という“ポジティブな連鎖”へと、私の心や気持が完全に変化していたのです。</p>
<p>≪中山俊行氏プロフィール≫<br />
<span style="color: #9945b9;">1962年、神奈川県川崎市に生まれる。1981年に湘南トライアスロン大会で優勝、トライアスロン・デビューを果たして以来、我が国エリート・トライアスリートの先駆者として活躍、“ミスター・トライアスロン”の称号を持つ。プロ・トライアスリートが集まった「チームエトナ」主将、「NTTトライアスロン・チーム」監督、JTU（日本トライアスロン連合）監督などを務め、我が国トライアスロン界をリードしてきた。現在はスポーツ活動のほか、自家の運送業「三和運輸株式会社」代表取締役としてビジネスにも奔走している。</span></p>
<div id="attachment_1674" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3707.jpg"><img class="size-medium wp-image-1674" title="中山俊行氏近影（07年３月、川崎市の会社事務所に於いて）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/3707-300x225.jpg" alt="中山俊行氏近影（07年３月、川崎市の会社事務所に於いて）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">中山俊行氏近影（07年３月、川崎市の会社事務所に於いて）</p></div>
</div>
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