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	<title>TRI-X &#187; トライアスロン</title>
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		<title>第１０３回コラム「２０１３年のアジア選手権。今後の行方。」</title>
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		<pubDate>Fri, 31 May 2013 08:32:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[トシ中山の「渾身の一撃」]]></category>
		<category><![CDATA[アジア選手権]]></category>
		<category><![CDATA[オリンピック]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[松本文佳]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2013/05/dscf8765-1.jpg" alt="" class="fl bdr" />今年のアジア選手権においては「トップの座を死守した」という状態だった。
アジア全体のレベルアップは喜ばしいことであるが、日本チームとしては安心できる状態ではなくなっていることを理解しておかなければならない。オリンピック翌年だからこそできる思いきった方向転換。思い切ったチャレンジ。
日本チームも２０１６年、２０２０年に向けて新たな強化策を打ち出しスタートさせた。この方策が上手くゆくかどうか。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
２０１３年も早６月。<br />
３月のＵ２３ナショナル合宿のときにＰＣをぶっ壊し、データがすっ飛んでコラムに穴を空けてしまった。<br />
ここからは心を入れ替えて更新してゆきます。</p>
<p>２０１６年リオデジャネイロ五輪への生き残りを掛けた各競技の戦いは熾烈を極めている。<br />
レスリング、野球＆ソフトボール、スカッシュが生き残った。<br />
最後の一枠は、２０２０年オリンピック開催地が決定する９月７日の翌日に決定される。<br />
ここで東京は生き残れるか。<br />
みんなで応援してゆこう。</p>
<p>トライアスロンは１９８９年に第１回世界選手権が開催されたときからオリンピック種目に入ることを視野に入れ改革を行ってきた。<br />
その過程でレースコース設定、競技ルールの変更、参加人数の限定、参加国増加のための施策など様々な手段を講じてきた。<br />
その中には選手にとって受け入れがたい内容もあったし、国によっては賛同できないという姿勢を示す場面もあった。<br />
批判や非難はあるけれど、こうしてトライアスロンが２０００年のシドニー・オリンピックから正式種目となる。<br />
その後も安定した状態でオリンピック種目として生き残っている。<br />
これはレス・マクドナルドＩＴＵ前会長や、マリソル・カサド現会長の功績でもある。<br />
ＪＴＵとしても全面的にＩＴＵに貢献し、アジア諸国をリードしてきた。<br />
また競技面においてもアジアのリーダーとして各国を引っ張り、アジア人でも世界に対抗できることを証明してきた。</p>
<p>２０１１年のアジア選手権イーラン大会においてはエリート、Ｕ２３、ジュニアのほぼすべてのカテゴリーの金・銀・銅メダルを独占した。<br />
その影響で、今年のアジア選手権の際のＡＳＴＣ（アジア）会議では１か国のメダル独占を防ごうという論議が行われたほどだ。<br />
この会議の結論はまだ出ていない。</p>
<p>だが今年のアジア選手権では中国が大きく躍進した。<br />
エリート男女、Ｕ２３男女、ジュニア女子の５カテゴリーで日本は優勝したものの、２位、３位は中国を筆頭に各国に奪われ、特にジュニア男子においてはメダルゼロという結果に終わった。<br />
今年のアジア選手権においては「トップの座を死守した」という状態だった。<br />
アジア全体のレベルアップは喜ばしいことであるが、日本チームとしては安心できる状態ではなくなっていることを理解しておかなければならない。</p>
<p>リレーにおいても中国チームが１位、２位、４位となった。<br />
日本チームはＵ２３とジュニアで構成されたチームであるから、そのままの評価にはならないが２０１１年、２０１２年と連続して獲得していた王座を奪われる結果となった。</p>
<p>特筆すべきは優勝した中国チームの選手たちの体格だ。<br />
ジュニア選手であっても身長が男子であれば１７０㎝以上、女子でも１６５ｃｍ以上の選手を揃えてきた。<br />
体格面では日本選手より１～２サイズ大きい選手だ。<br />
本腰を入れて強化に取り組んだとき日本チームにとっては大きな障壁となるだろう。</p>
<p>そして香港チーム。<br />
カナダから有力なコーチを招聘し「挨拶」「礼儀」から学ばせ直している。<br />
西洋的なスポーツ理論と東洋的な精神論のバランスを尊重する指導は、われわれ日本チームの指導者と共通するところ。<br />
香港チームの動向も見逃せない。</p>
<p>オリンピック翌年だからこそできる思いきった方向転換。思い切ったチャレンジ。<br />
日本チームも２０１６年、２０２０年に向けて新たな強化策を打ち出しスタートさせた。<br />
この方策が上手くゆくかどうか。<br />
途中でコロコロ方針を変えることなく貫き通すことが最も重要だ。</p>
<p style="text-align: left;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/05/DSCF8765.jpg"><img class="  wp-image-17622 aligncenter" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/05/DSCF8765.jpg" alt="DSCF8765" width="320" height="240" /></a></p>
<p style="text-align: center;">【写真１】</p>
<p style="text-align: center;">アジア選手権ジュニア女子の優勝者は、２０１２年世界ジュニア王者の松本文佳。</p>
<p style="text-align: center;">表彰台の真ん中に立つ彼女と、２位、３位の表彰台に立つ中国選手の体格差に注目してほしい。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/05/b1732fcda60fede2a92108dcb01e008f.jpg"><img class="  wp-image-17625 aligncenter" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/05/b1732fcda60fede2a92108dcb01e008f.jpg" alt="DSCF8855　TRI-X" width="326" height="244" /></a>【写真２】<br />
２０１６年リオデジャネイロ・オリンピックでの採用を目指すリレー種目。<br />
中国チームに一矢報いた「チームＪＡＰＡＮ　Ⅰ」。<br />
左から小原すみれ、谷口白羽、松本文佳、古谷純平。</p>
<h2 class="w_02">中山俊行プロフィール</h2>
<div class="bassui">
<p class="clearfix"><img src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/05/profile_toshiNakayama.jpg" class="fl bdr" width="100" /><b>中山俊行（なかやま　としゆき）</b><br />
1962年生まれ<br />
日本にトライアスロンが初めて紹介された18歳のときトライアスロンを始める。<br />
日本人プロ第1号として、引退までの間、長年に渡りトップ選手として活躍。<br />
引退後も全日本ナショナルチーム監督、チームNTT監督を歴任するなど、日本のトライアスロン界をその黎明期からリードし続けてきた「ミスタートライアスロン」。</p>
<p>【主な戦績など】<br />
第1回、第2回　宮古島トライアスロン優勝<br />
第1回、第2回　天草国際トライアスロン優勝</p>
<p>1989年から8年連続ITU世界選手権日本代表<br />
アイアンマン世界選手権（ハワイ・コナ）最高順位17位（日本歴代2位）<br />
初代・全日本ナショナルチーム監督<br />
元・チームNTT監督<br />
元・明治大学体育会自転車部監督</p>
</div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.47：火神の巻　第5章その9：全島が完全燃焼した</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/6559</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/6559#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 06 Nov 2012 05:16:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[全日本トライアスロン宮古島]]></category>
		<category><![CDATA[宮古島]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f-1.jpg" alt="" class="fl bdr" />
勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の４月、南海の美ぎ島（かぎすま）で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。
　大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第１回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第5章その9</p>
<h3>全島が完全燃焼した</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f-1.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f-1.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の４月、南海の美ぎ島（かぎすま）で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。<br />
大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第１回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。</p>
</div>
<p>そして、いよいよラン、最後の決戦の場である。バイク・ゴールの平良市陸上競技場東側に設置されたエイド・ステーションをスタートして、東平安名崎方面の城辺町保良地区を折り返す日本陸上競技連盟公認の国内最南端マラソン・コースを駆け抜ける42.195Kmである。昼の12時頃には太陽が中天に達し、南の島らしい蒸し暑さが戻っていた。<br />
バイクをトップでフィニッシュした中山は素早く着替えを済まし、暑さ対策も兼ね白のサン・バイザーを深く被り、同じく白の短く切り詰めたラン・シャツという出で立ちで走り出した。その年の春に明治大学を卒業したが、トライアスロンに専念する為、一旦、決った就職先を断り、この宮古島大会での優勝、そして同年10月のアイアンマン・ハワイで好成績を残すべくトレーニングに励んできた。その答えを出す時がきたのだ。中山は２番手以下をかなり離し、５Kmをほぼ22分のペースで淡々と、県道78号線をひた走る。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/78e58fb7e7b79a1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6580" title="78e58fb7e7b79a1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/78e58fb7e7b79a1.jpg" alt="78e58fb7e7b79a1" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞マラソン・コースの県道78号線</p>
<p>　保良の折り返し点では、中山に続いて飯島、山本、城本、山下の順で折り返し、山本が好調に追い上げていた。だが中山は決して慌てることなく、エイド・ステーションでは歩きつつ水分補給をしながらも、独走のまま15時過ぎ、ゴール会場の陸上競技場にその姿を現わした。するとスタンドの観客は総立ちとなり、競技場内は「ワイドーワイド」の掛け声が響き渡ったのだ。中山は場内に入ってもスピードを緩めることなく、フィニッシュ・ラインでは右人指し指を挙げてゴール・テープを切った。トータル・タイム８時間８分52秒。８時間以内という自身の目標は達成できなかったが、見事な優勝レースであった。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e4b8ade5b1b11.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6585" title="e4b8ade5b1b11" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e4b8ade5b1b11.jpg" width="203" height="300" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞首位でフィニッシュする中山選手</p>
<p>　第２位には中山を兄貴のように慕い、東京・大井埠頭で共に練習に励んできた山本が、スイムの出遅れを物ともせずバイク、ランともに素晴らしい追走劇を見せ、中山とは約８分差でﾞフィニッシュ、第３位には山本に遅れること約13分差で飯島が入った。次いで山下がランで城本を抜き４位、５位が城本という順になったが、城本は初めてのトライアスロンで若手選手に混じってのゴールを自ら喜ぶかのように、走りながら帽子を何度も振って観客の声援に応えた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/10/e8a1a8e5bdb0e58fb01.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6579" title="e8a1a8e5bdb0e58fb01" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/10/e8a1a8e5bdb0e58fb01.jpg" alt="e8a1a8e5bdb0e58fb01" width="300" height="179" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞表彰台の選手達（写真右から中山、山本、飯島、山下、城本、高石、高山）</p>
<p>　歌手の高石ともや（43歳）は健闘して６位、ランのスプリットでトップ・タイムの３時間９分46秒を記録した高山信行（38歳）が７位、８位に若手のホープ井口太郎（22歳）、そして地元・城辺町の出身でミニ大会２位だった狩俣直司（26歳）が９位と大健闘し、ランナーに相応しい軽い足取りでゴールを駆け抜けた。女子では香港在籍のイギリス人、キム・イシャーウッド（26歳）が10時間５分28秒の総合42位でトップとなった。ちなみに日本人女子１位は、ランナー出身の後藤　翠（42歳）で総合順位は136位だった。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/kim1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6581" title="kim1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/kim1.jpg" alt="kim1" width="269" height="300" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞香港から来たキム・イシャーウッド</p>
<p>　こうした上位の選手達が夕方にかけて続々とフィニッシュした後、やがて陸上競技場が暗闇に包まれるようになると、ゴールを目指す選手の姿はまばらとなり、周囲も静まり返っていく。それでも何人もの選手達が一斉に手を繋ぎ合ってゴール・テープを切る時は、競技場内にさざめきが漂った。その際、競技運営委員会にあって記録部長を務めた池村盛良ら記録スタッフ達は、手を繋ぎ合い同時にゴールする何人もの選手達のコールと順位の確認に追われた。</p>
<p>トライアスロンが朝７時にスタートしてから、制限時間である16時間後の23時が刻一刻、迫ろうとする頃である。ゴール地点に控える大会役員達に、最終走者の名前が伝えられた。制限時間に間に合うかどうかは判らない。でも頑張って走り続ければ、ゴール・テープを切ることが出来そうであった。そんな事情を知ったのか、ゴール手前２Km地点辺りから地元の人々が、そのランナーを囲い込むかのように、声援を送りながら一緒に走り出したのだ。<br />
その最終走者は、兵庫県宝塚市からやってきたゼッケン186番、榊原良明（31歳）である。真っ暗闇となった平良市の道路を重い足取りで、息も絶え絶えに、ひたすらゴールへと向かっていた。いつ、その場に倒れ伏してもおかしくはなかったが、一緒に走りながら応援する地元の人々に引き連られるかのように進む。そして22時40分を過ぎた頃、榊原を取り囲む20名余の集団が、ついにゴール会場へ辿り着いた。</p>
<p><span style="color: #03f;">「ワイドーワイド、ワイドーワイド」</span></p>
<p>榊原を応援する掛け声が場内に鳴り響いた。その声援の響きは、暗闇の天を突き抜けるほどの気迫に満ちていた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6583" title="e6a68ae58e9f1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f1.jpg" alt="e6a68ae58e9f1" width="300" height="141" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞最終走者のゴール・シーン</p>
<p>　勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の４月、南海の美ぎ島（かぎすま）で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第１回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e8a898e5bfb5e7a2911.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6582" title="e8a898e5bfb5e7a2911" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e8a898e5bfb5e7a2911.jpg" alt="e8a898e5bfb5e7a2911" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞スポーツアイランド記念碑</p>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #993300;">次回からは、宮古島大会から２箇月後の1985年６月に開催されたアイアンマン・シリーズ“アイアンマン・ジャパン・イン・びわ湖”の第１回大会について、その開催経緯や滋賀県など地元関係者の動静、日本人選手の活躍振り等を３回に亘って連載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名は総て敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h2>＜トライアスロン談義＞</h2>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #ffa500; font-size: 16px;">出会いに恵まれ感謝で一杯</span></p>
<p style="text-align: center;">池村　盛良</p>
<p>　宮古島でトライアスロン大会を開催する話が持ち上がった頃、私が所属していた宮古陸上競技協会（陸協）の会長だった豊岡静致先生は、同じく宮古体育協会（体協）の会長として体協の組織強化、立て直しに取り組んでおられました。そんな渦中、豊岡先生の命で私達が呼び集められ、陸協を中心に体協全体としてトライアスロンと取り組む意向が提案されたのです。<br />
その提案に私達は大分、戸惑いながらも、陸協として日本最南端の公認マラソン・コースを完成させ、同コースで沖縄県の高校駅伝大会を運営する等、大きなスポーツ・イベントで修練した経験もありましたので、<span style="color: #009933;">「やってやれないことはない」</span>と思いました。それと豊岡先生の<span style="color: #ffa500;">「島興しの為にやるのです」</span>というご意志に背く者は、誰一人としておりませんでした。“地域活性化”という言葉に、私達は弱かったのです。</p>
<p>こうしてトライアスロン大会の競技運営を担う部門として、スポーツ大会に熟知している陸協を核としながら体協全体で取り組む方針が定まり、私はトライアスロン３種目の競技計測と記録データを集計する記録部長を任じられました。そこでまず、信頼すべき陸協の後輩達を始め、同じ高校の教員仲間から出来そうな者を集めて協力を要請、一つの競技に10名づつ割り当てることとして３種目合計で約30名の記録スタッフを確保し、記録部の組織体制を築きました。<br />
しかし、私も含め記録部の誰もがトライアスロンというスポーツを見たことがありません。でも<span style="color: #009933;">「出来ない。やれない」</span>とは言えません。当時は皆生大会やハワイ大会が行われていましたが、その競技運営を知る由もないので、結局は自分達で試行錯誤するよりほかになかったのです。幸いその頃からプリンター付きのストップウォッチが普及していて、その便利な機械を活用すれば<span style="color: #009933;">「何とかなるだろう」</span>と思っていました。<br />
トライアスロン大会の参加選手を500名と想定し、その人数規模ならば校内マラソン大会で経験したように、選手がゴールインする度にストップウォッチをどんどん押しながら、ゼッケン番号をテープに録音していけば良いと考えました。実際、その方法で３種目とも計測しましたが、いざ集計の段になると、なかなか数合せが出来ないというか、スタートした選手の数とゴールした数が合わなかったりで、本人確認作業を含め随分と手間取ったことも事実です。</p>
<p>何よりも問題はスイムの記録でした。選手が何人が海へ入り、何人が完泳し、何人がリタイアしたかをその時その場で、出来るだけ早く確認作業を行うことは、競技管理者として最重要課題です。スイム競技が終了した後に、一人でも選手が海に残っていることは許されません。ところが、後々の大会でしたが、コール人数よりもゴール人数が少ないという由々しき事態が起こりました。この時は私達、競技役員も警察や海上保安の関係者も色めき立ったのですが、結局、コールで応えたものの海の荒れ具合を見て泳がずにホテルに戻っていた選手が判明し、胸を撫で下ろしたこともありました。また、初めて経験するバイク競技についても、スピードが速いので選手のゼッケン確認が難しく、相当、気を使いました。<br />
最後のランのゴールでは、複数の選手が手を繋ぎ合い同時にゴールする光景に記録スタッフは「どうしたら良いか？」戸惑いました。でも私は「彼らは着順を競ってはいない」と判断し、<span style="color: #009933;">「内側から順位をつけるよう」</span>指示したのです。すなわち“同タイム・着順あり”で今までやってきています。また後の大会では、同じアスリート同士、仲間同士、それに恋人やご家族等、応援団と共に一緒にゴールする微笑ましい光景が多く見られましたが、その度に記録スタッフ達は混乱を避けるよう努力しました。</p>
<p>こうして私達はトライアスロンを知らなかった故に競技運営を軽く引き受けてしまった節もありましたが、お陰で後々からいろいろ苦労を強いられることになった訳です。私は記録を第１回から第３回までを担当しその後、転勤先の那覇から戻ってからは総務を、第19回大会から水泳を担当し、第23回大会までトライアスロンの競技運営に携わらせていただきました。しかし、<span style="color: #009933;">「判断力、決断力に欠けたものは指導者にあらず」</span>との私の信念から、23回大会を最後にトライアスロンの役目を降りることにしました。<br />
その間、気も労力も沢山、使いましたが、トライアスロンを通じいろいろな方との出会いに恵まれ、感謝の気持で一杯です。そして、宮古島はトライアスロン大会のお陰で全国的にも知名度が上がったし、人と人との交流も盛んになりました。しかし、トライアスロン大会を島の大切な財産としていく為には、現状に甘んじることなく更なる創意工夫を重ねていく必要があるでしょう。末永く続けていく為にどうしたら良いか？　行政を始め関係者の方々の知恵と力が求められていると思います。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6b1a0e69d91e6b08f1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6584" title="e6b1a0e69d91e6b08f1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6b1a0e69d91e6b08f1.jpg" alt="e6b1a0e69d91e6b08f1" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞池村盛良氏（10年２月、平良市の自宅にて撮影）</p>
<p>【池村　盛良氏プロフィール】<br />
1939年、平良市出身。琉球大学体育学部卒業。62年、宮古高等学校教員となり、以後、教職を務め、同校校長として定年退職する。スポーツは高校、大学時代は野球部員として活躍。教職の傍ら沖縄県陸上競技協会審判部長を勤める等、陸上競技の競技運営に携わる。第１回宮古島トライアスロン大会では記録部長を担当、以来、同大会競技運営委員会の総務部長、水泳本部長を歴任し、第23回大会を最後に大会役員を降板する。「身体づくりを通して幸福づくり」をモットーとする体育指導並びに普及啓蒙を実践してきた。</p>
</div>
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		<title>トライアスロン2011レースダイジェスト</title>
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		<pubDate>Fri, 04 Nov 2011 08:14:40 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2011/11/tri-xdouga.jpg" alt="" class="fl bdr" />
２０１１レースダイジェスト。日本選手権、門司港レレトロアクアスロン、姫島トライアスロン、海ノ中道トライアスロンフェスタ]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>※YouTubeより転載</p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/x4z9hjtII_w" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br />
２０１１レースダイジェスト。日本選手権、門司港レレトロアクアスロン、姫島トライアスロン、海ノ中道トライアスロンフェスタ</p>
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		<title>Vol.40：火神の巻　第５章その1：美ぎ島に華咲くトライアスロン</title>
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		<pubDate>Wed, 31 Mar 2010 16:32:17 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2010/03/e784a1e9a18c-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />この南海の美ぎ島（かぎすま＝宮古諸島の方言）で初めて開かれたトライアスロン大会は、NHKの電波によって夜の11時まで、日本全国に放映され、トライアスロン・スポーツと宮古島の存在を知らしめたのである。その名も、「ストロングマン　全日本トライアスロン宮古島大会」である。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第５章その1</p>
<h3>美ぎ島に華咲くトライアスロン</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e784a1e9a18c-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e784a1e9a18c-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">この南海の美ぎ島（かぎすま＝宮古諸島の方言）で初めて開かれたトライアスロン大会は、NHKの電波によって夜の11時まで、日本全国に放映され、トライアスロン・スポーツと宮古島の存在を知らしめたのである。その名も、「ストロングマン　全日本トライアスロン宮古島大会」である。</p>
</div>
<p>沖縄本島・那覇市から南西約300㎞の南海に浮かぶ宮古島で、トライアスロン大会が開催されたのは今から25年前、1985年４月28日のことである。しかし、この宮古島でのロング・ディスタンス・タイプのトライアスロン大会が国内外から選手を集め、皆生トライアスロン大会に次ぐメジャーな大会として行われたことを知る者は、ごく少数であった。否、それよりも何も、トライアスロンとは一体どんなスポーツなのか？　或いは宮古島が日本の何処に浮かぶ島なのか？　それすら知らない者が多かった筈だ。それを知らしめたのが、このトライアスロン競技の模様をほぼ丸一日中、衛星放送を使って初めて全国に放映したNHKテレビだった。<br />
朝６時48分30秒、衛星放送の電波によって映し出されたのは、エメラルド・グリーンに染まった与那覇前浜ビーチの景色である。ビーチから広がる海上には小波が囁き、その揺らぎの下には真っ白な砂に敷き詰められた海底が透けて見えた。放送の声は、やがてこのビーチから241名の選手が泳ぎ出し、泳ぎ終えたなら自転車に乗って島内をほぼ一周した後、マラソンを行うトライアスロンを演じるのだと説明した。</p>
<p><span style="color: #ff8230;">「トライアスロン」　それは何？</span></p>
<p><span style="color: #9b74c1;">「宮古島」　それは何処？</span></p>
<p>朝のニュースを見ようとテレビのスイッチを入れたばかりの家庭の茶の間から、そんな声と共に、余りにも美しい海の色と景色に感嘆の声が漏れた。これまで日本では鳥取県の皆生温泉で始まった「皆生トライアスロン大会」や石川県小松市で登山競技を加えた「小松トライアスロン大会」等が開催されているが、いずれもメディアの報道は当該地域に限られていた。しかし、この南海の美ぎ島（かぎすま＝宮古諸島の方言）で初めて開かれたトライアスロン大会は、NHKの電波によって夜の11時まで、日本全国に放映され、トライアスロン・スポーツと宮古島の存在を知らしめたのである。その名も、「ストロングマン　全日本トライアスロン宮古島大会」である。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/324631a4065426b13a85228ee9e54cca.jpg"><img class=" size-full wp-image-19160 aligncenter" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/324631a4065426b13a85228ee9e54cca.jpg" alt="日本トライアスロン物語" width="300" height="225" /></a></p>
<p>トライアスロンのスイム・スタート会場となった与那覇前浜は、東西に４～５Kmの白い砂浜が続く東洋一のビーチと称されている。そして、このビーチの一角に建てられたのが、東京・渋谷に本社を置く東京急行電鉄株式会社（以下、東急と呼ぶ）が開発した高級リゾート・ホテル「宮古島　東急リゾート」である。<br />
実は当初、宮古島トライアスロン大会は、このリゾート・ホテルを売り出そうとする東急が仕掛けた宮古島への集客誘致の一環として企画されたのである。その仕掛け人とも言うべき者が、元東急イン事業部・販売促進課長（当時）の田中清司であった。<br />
だが、田中の企画は、現地へはそう簡単に受け入られなかった。田中は息詰まった末、早稲田大学競走部の先輩、沖縄テレビ放送株式会社・福永俊郎専務の紹介を得て、琉球新報社の伊豆見元一社長に相談を持ち掛けた。しかし、伊豆見は会議の最中だったこともあって詳しい話は事業局長の真喜屋　明とするよう促した。でも、伊豆見はその時、<span style="color: #1c7d0c;">「飛んでもない話だ。そんな危険極まりないスポーツをやるなんて…」</span></p>
<p>との思いを抱いた。だから、真喜屋に取り次いだものの、</p>
<p><span style="color: #1c7d0c;">「今そちらに東急の田中という者が行くけれど、話を聞くだけにして断われ」</span></p>
<p>と、電話で指示した。ところが真喜屋は、田中の説明を聞くうちに、ふつふつとトライアスロンに対する興味と関心が湧いてきたのだ。新聞社の事業ビジネスを掌る真喜屋としては、伊豆見社長の意向とは反対に開催への検討を試みてもよいのではないか、と思った。</p>
<div id="attachment_3312" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e79c9fe5969ce5b18be38080e6988ee6b08f1.jpg"><img class="size-medium wp-image-3312" title="真喜屋　明氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e79c9fe5969ce5b18be38080e6988ee6b08f1.jpg" alt="真喜屋　明氏近影（10年２月、琉球新報社本社前で撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">真喜屋　明氏近影（10年２月、琉球新報社本社前で撮影）</p></div>
<p><span style="color: #86b300;">「トライアスロンはリッチなスポーツですが、今や世界的なブームを巻き起こしており、ゆくゆくはオリンピック種目になると思います」</span></p>
<p>トライアスロンの意義や将来を語る田中に対し、真喜屋は、</p>
<p><span style="color: #660066;">「確かにトライアスロンは肉体を酷使し、生命の危険に晒される危ない競技だけれど、豊かで平和なこれからの時代にマッチするスポーツになるかも知れない。新聞社の新事業として取り組み、先駆的な役割を果たしていく意味は大きい」</span></p>
<p>と思った。そして、</p>
<p><span style="color: #86b300;">「トライアスロンをやるには、まずは奇麗な海があれば最高ですね。次に起伏が少ない平坦な地形、最後に交通を一切、遮断して、一日中トライアスロンを楽しめる場所が求められます。そのような条件を満たしてくれるのは、沖縄の離島、それも小さな島ではなく、フル・マラソンのコースが取れるロケーションが必要です」</span></p>
<p>と言う田中に、真喜屋は思わず頷いた。</p>
<p><span style="color: #660066;">「ならば宮古島だね」</span></p>
<p>真喜屋は田中の術中に嵌まったかもしれないと思ったが、でも、それを善しとした。ニュー・スポーツと注目されているトライアスロンを、自分達の手によって開催してみたい思いが心の中で走った。ただ「田中の話は断われ」と伊豆見社長の言葉は、頭の片鱗に残っている。真喜屋は田中にこう言った。</p>
<p><span style="color: #660066;">「明日、宮古島有線テレビ株式会社（現・宮古テレビ株式会社）へ弊社のニュースを提供する旨の契約調印式があって、私と企画局長の嶋袋　浩が宮古島へ出張します。ですので、そのハワイ大会のビデオを持参して、現地の方に見てもらいましょう」</span></p>
<p>翌日、琉球新報社の２人は、那覇から宮古島へと飛んだ。そして宮古島有線テレビ㈱との契約調印が終わった後、同社社長の砂川典昭と琉球新報社宮古支局長の照屋　直との会食の場で、トライアスロンの話になった。話を聞いていた砂川は、しばらくして、</p>
<p><span style="color: #85850a;">「それは面白いですね。観光資源が乏しい宮古島をトライアスロンで売り出せば、島の活性化にも繋がりますから、是非やりましょう。宮古島をスポーツ・アイランドとしてアピールしましょう」</span></p>
<p>砂川と呼吸を合せるように照屋も、</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「そのビデオを貸してください。丁度、明日に各市町村長が集まる会議がありますので、その時にトライアスロンを紹介しましょう」</span></p>
<p>こうして宮古島でのトライアスロンの構想は、まるで電波の波動のように田中から琉球新報社を通じ現地へと伝わっていったのである。</p>
<div id="attachment_3314" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e5aeaee58fa4e38386e383ace38393.jpg"><img class="size-medium wp-image-3314" title="宮古テレビ㈱" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e5aeaee58fa4e38386e383ace38393.jpg" alt="トライアスロン・ゴール地点に本社を置く宮古テレビ㈱" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">トライアスロン・ゴール地点に本社を置く宮古テレビ㈱</p></div>
<p>ところで、トライアスロン大会の開催が次第に現実味を帯び始めるにつけ、真喜屋にとって何よりも気掛かりなことが一つ残っていた。それは伊豆見社長の意向である。思えば、田中に会う直前、デスクの電話にかかってきた伊豆見の声の調子は、「田中の話は、危ないから断わるよう」強いものだった。しかし、その社長の意向に逆らって今、真喜屋が選択したことは「トライアスロンを宮古島で開催する」ことである。話せば反対するに決っている。否、それどころか、社長の意向に背いたとなれば、自身の進退問題にも及ぶ。真喜屋は改めて苦悶した。だが一方で、伊豆見社長を説得する目算がない訳ではなかった。<br />
それは、昨年11月に琉球新報社の主催事業として、宮古島で初めて「高校駅伝大会」を開催した際、大会会長車に乗って先頭を走った伊豆見は、コース沿道に鐘や太鼓を打ち鳴らし“クイチャー”を踊って応援する熱狂的な島の人々の姿を目の当たりにし、いたく感動したことがある。それで翌日、伊豆見は真喜屋を社長室に呼ぶと、</p>
<p><span style="color: #1c7d0c;">「真喜屋君、宮古は燃える島だね。島の人達の素晴らしい応援で、大変、盛り上がったよ。感動した。高校駅伝であんなに喜ぶのだから、他にもスポーツ・イベントをやれば、きっと喜んでくれるに違いない。君、宮古の皆さんの熱意に応えるよう、全県的なレベルのイベントを考えなさい。これは宿題だ」</span></p>
<div id="attachment_3315" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e382afe382a4e38381e383a3e383bc.jpg"><img class="size-medium wp-image-3315" title="クイチャー" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e382afe382a4e38381e383a3e383bc.jpg" alt="宮古島の伝統舞踊“クイチャー”でトライアスリートにエールを送る（STORONGMAN20年の軌跡より抜粋）" width="300" height="191" /></a><p class="wp-caption-text">宮古島の伝統舞踊“クイチャー”でトライアスリートにエールを送る（STORONGMAN20年の軌跡より抜粋）</p></div>
<p>この伊豆見の命令が、真喜屋の頭の中に残っていた。だから、真喜屋は田中の話を聞くうちに、トライアスロンで伊豆見を口説き落とすことも可能だと、密かに思っていたのである。９月初旬のある日、真喜屋は意を決し、社長室のドアを叩いた。</p>
<p><span style="color: #660066;">「かねて社長から宿題となっていた宮古でのスポーツ・イベントが、ようやく見付かりました」</span></p>
<p><span style="color: #1c7d0c;">「ほほー、それは何？」</span></p>
<p><span style="color: #660066;">「トライアスロンです。宮古の方でも受け入れる機運が高まっています」</span></p>
<p>真喜屋の顔を窺い話を聞いていた伊豆見だが、暫くしてニヤッと笑い、</p>
<p><span style="color: #1c7d0c;">「君もなかなかやるな！　僕の心の内を知っていたのかね。宜しい。やり給え。但し、絶対に安全第一で頼むよ。社を挙げて取り組むから、嶋袋君と２人で力を合せてやってくれ」</span></p>
<p>伊豆見も真喜屋も、心は宮古島へと飛んだ。</p>
<div id="attachment_3316" style="width: 213px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e4bc8ae8b186e8a68be58583e4b880e7a4bee995b7.jpg"><img class="size-medium wp-image-3316" title="伊豆見元一元琉球新報社社長" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e4bc8ae8b186e8a68be58583e4b880e7a4bee995b7.jpg" alt="第1回大会の模様を見物する伊豆見元一元琉球新報社社長（STORONGMAN20年の軌跡より抜粋）" width="203" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">第1回大会の模様を見物する伊豆見元一元琉球新報社社長（STORONGMAN20年の軌跡より抜粋）</p></div>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #993300;">宮古島トライアスロン大会の開催を巡り揺れ動く地元・市町村関係者らの動静を述べる。また＜トライアスロン談義＞では、宮古広域市町村圏協議会・事務局長として第1回大会の準備と運営に奔走した長濱幸夫氏に、行政として当時の大会への関わりや考え方を語って戴く。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p>&nbsp;</p>
<h2 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞惚れて通えば千里も一里　【田中清司】</h2>
<p>私が初めて宮古島へ赴いたのは、今から27年前の1983年春のことでした。当時、私が勤務していた東京急行電鉄株式会社は、ホテル事業の一環として「イン事業部」を設置し、リゾート開発を含めた新しいタイプのホテル「東急イン」の全国展開に乗り出していたのです。その事業の一つとして84年４月にオープンさせたのが宮古島の「東急リゾート」でした。<br />
しかし、このリゾート・ホテルは遠隔地の離島の為、航空アクセスの点で何かと不便でしたし、それに何よりも「宮古島」という島の存在そのものが国内で知られていなかったこともあって、オープンしても来客はごく僅か、閑古鳥が鳴く始末でした。</p>
<p><span style="color: #99cc00;">「この状況を打開する為には、単にホテルの宣伝をするだけではなく、宮古島全体を日本中の人々に知ってもらう必要がある」</span></p>
<p>当時、イン事業部の販売促進課長だった私は、全国35個所のホテル（うちリゾート・ホテルは４個所）の新事業の販売促進に取り組んでいましたが、取り分け総額約50億円をかけ沖縄県下、最高級の宮古島リゾートの集客減については、その抜本策を考えなければなりませんでした。この為、しばしば宮古島へ足を運ぶ等して、島の知名度アップの作戦を検討しました。そして、飛行機の窓から宮古島の平坦な地形を見下ろしながら、</p>
<p><span style="color: #99cc00;">「スポーツ競技の適地として売り込んだらどうだろう。そうだ！　この島をスポーツ・アイランドにしよう」</span></p>
<p>と思ったのです。さらに、宮古島の暖かな気候、起伏が少ない平らな地勢、島を囲む美しい珊瑚礁の海、それら自然の条件をフルに活用した上、離島故に交通量も少ない利点、日本最南端の日本陸上競技連盟公認マラソン・コースがあることが大きなヒントとなり、最終的にトライアスロン大会の開催を思い立ったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<div id="attachment_3319" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e69db1e680a5e383aae382bee383bce38388.jpg"><img class="size-medium wp-image-3319" title="宮古島　東急リゾート" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e69db1e680a5e383aae382bee383bce38388.jpg" alt="東急グループがリゾート開発に乗り出し84年春にオープンした「宮古島　東急リゾート」" width="300" height="224" /></a><p class="wp-caption-text">東急グループがリゾート開発に乗り出し84年春にオープンした「宮古島　東急リゾート」</p></div>
<p>また、やるからには話題性、将来性があって、マスメディアに乗せられる、日本を代表する魅力的なイベントにしなければならないと考えました。そうでないと２回目以降の大会は、他の地域のスポーツ・イベントに、お客をさらわれ兼ねないと思ったからです。スポーツ・アイランドの宮古島において開催するイベントを、必ずしもトライアスロンに特化した訳ではありませんが、トライアスロン大会を開くのであれば、矢張りハワイ大会の如く42.195Kmのフル・マラソンを採り入れたフル・トライアスロンとしてステータスの高いイベントにする必要がある。その結果、「何がなんでも宮古島」でなければならないステータスを築かなければならない、との確信に至ったのでした。</p>
<p>早速、私はハワイで行われているアイアンマン大会のビデオ・テープを知人に頼んでダビングしてもらい、宮古島へ出張する度に地元の宮古体育協会や学校関係者にそのビデオを見せ、トライアスロン大会の開催をアピールしました。しかし、島民の方々はその場では賛意を表されても、それ以上、一歩前へは進んでくれません。私の発想と提案は結局、空しく終わりました。</p>
<p><span style="color: #99cc00;">「もうこれ以上、宮古島の人々を説得することは出来ない。私の宮古島の発展を願う気持が地元の方々には理解して戴けなかった」</span></p>
<p>諦めの心境を抱いて那覇経由で東京へ帰る途中、ふっと大学時代の競走部の先輩で沖縄テレビ放送の福永俊郎専務の顔が浮かびました。東京便のフライトまで間があったので、「愚痴の一つでも聞いてもらおう」との思いで福永先輩の会社に立ち寄りました。すると先輩は、</p>
<p><span style="color: #ca157e;">「それはテレビ会社よりも新聞社に適したイベントだ。矢張り私達と同じ早稲田の先輩、伊豆見元一さんが琉球新報社の社長をなさっているから、彼を紹介しよう」</span></p>
<p>私は、「これは得たり」との思いで、すぐさま沖縄テレビ放送とは目と鼻の先の琉球新報社を訪ね、伊豆見社長に面会を求めたのです。伊豆見社長は取締役会の最中でしたが、会議を中座され面会して戴き、その上で、仔細は真喜屋　明事業局長と相談するよう、案内されました。私は同じ社屋にある３階の事業局長室へ駆け降りました。</p>
<div id="attachment_3320" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e4bc8ae6b3a2e383bbe4bc8ae8b186e8a68be383bbe794b0e4b8ad.jpg"><img class="size-medium wp-image-3320" title="与那覇前浜ビーチで" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/e4bc8ae6b3a2e383bbe4bc8ae8b186e8a68be383bbe794b0e4b8ad.jpg" alt="与那覇前浜ビーチで記念撮影。写真左より元伊波平良市長、故伊豆見琉球新報社社長、田中清司元東急販促課長（写真提供；田中清司氏）" width="300" height="280" /></a><p class="wp-caption-text">与那覇前浜ビーチで記念撮影。写真左より元伊波平良市長、故伊豆見琉球新報社社長、田中清司元東急販促課長　　　　　（写真提供；田中清司氏）</p></div>
<p>真喜屋局長は私の話をよく聞いて下さいました。そして真喜屋局長はトライアスロンについて大変、興味を惹かれ、かつ宮古島での大会開催に関心を示されました。その結果、</p>
<p><span style="color: #800080;">「丁度よいタイミングでした。明日、私と企画局長の嶋袋が宮古島に出張しますので、そのハワイのビデオを現地の人達に見てもらいましょう」</span></p>
<div id="attachment_3321" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/05e5b9b4efbc94e69c88e8ac9be6bc94.jpg"><img class="size-medium wp-image-3321" title="講演会" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/05e5b9b4efbc94e69c88e8ac9be6bc94.jpg" alt="度々、宮古島を訪れ、講演会の演壇に立つ" width="300" height="208" /></a><p class="wp-caption-text">度々、宮古島を訪れ、講演会の演壇に立つ</p></div>
<p>こうして再び、私の宮古島でのトライアスロン大会開催の企画が浮上することになったのです。1984年５月、「全日本トライアスロン宮古島大会」が開催される11箇月前のことです。27年前に発想したトライアスロン大会の開催が実現され、今日に至るまで日本を代表するスポーツ・イベントとして成長、発展したことを、改めて「やって良かった。頑張って良かった」と思わざるを得ません。<br />
それもこれも、私が宮古島という南海の「美ぎ島」に魅せられたからです。当初はホテルの販促ビジネスの一環として取り組み始めたことですが、次第にビジネスの領域を越えて「宮古島全体を売り出す」という気持に至ったからでしょう。何度も何度も宮古島へ足を運び、現地の方々とコミュニケーションを交わし、理解と信頼の上に立って皆で力を合せトライアスロン大会を実現させた原動力は、私自身が一個の人間として宮古島に惚れて惚れ抜いたからだと思います。宮古島へ赴く時、今も私は「惚れて通えば、千里も一里」の気持で胸が一杯になります。</p>
<div id="attachment_3322" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/cimg5846.jpg"><img class="size-medium wp-image-3322" title="田中清司氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/cimg5846.jpg" alt="田中清司氏近影（川崎市の自宅にて、10年１月撮影）" width="300" height="224" /></a><p class="wp-caption-text">田中清司氏近影（川崎市の自宅にて、10年１月撮影）</p></div>
<p>【田中清司氏プロフィール】<br />
<span style="color: #808000;">1938年、東京で生まれる。早稲田大学を卒業後、東京急行電鉄株式会社に入社。株式会社ジャパン・エア・システム（JAS)を経て、現在は「Ｊスポーツ企画」の代表としてスポーツ合宿や試合遠征の手配などスポーツ・イベントの企画、運営を行う傍ら、「奄美観光大使」や「士別ふるさと大使」に任命され、地域活性化のコンサルティング・サポート役を務めている。スポーツとの関わりは深く、高校生時代から陸上競技・中距離選手として活躍、日本のトップ・アスリートとして大学生時代に1,500mで1958～59年、２年連続で日本選手権優勝。早稲田大学「箱根駅伝」監督も務めた。</span></p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.38：雷神の巻　第４章その7：プロ・チームの誕生</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/2299</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/2299#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 15 Aug 2009 03:15:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[チーム・エトナ]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[プロ]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/08/4-7-4-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />日本のプロ・トライアスリートのJTS並びにUSTSへの参戦を目的に、中山を始めとする我が国エリート選手によって構成するトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成することにした。その名も“チーム・エトナ”である。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">雷神の巻　第４章その7</p>
<h3>プロ・チームの誕生</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-4-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-4-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">日本のプロ・トライアスリートのJTS並びにUSTSへの参戦を目的に、中山を始めとする我が国エリート選手によって構成するトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成することにした。その名も“チーム・エトナ”である。</p>
</div>
<p>　<br />
1984年12月にJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）が核分裂してATC（全日本トライアスロンクラブ）が結成される等、トライアスロンを愛好するアマチュアのアスリートによる活動の動きが盛んになる傍ら、同じトライアスリートながらアマチュアではなくプロフェッショナルとしてトライアスロンに取り組んでいこうという動きも高まってきた。その先頭に立っていたのは、JTRC神奈川支部長の役を務めていた中山俊行である。<br />
　明治大学４年生だった中山は、翌年85年４月から自転車メーカーであるブリヂストンサイクル株式会社の正社員として就職することが内定していた。中山が同社を選んだのは、自転車ロード選手として同社のレーシング・チームへの参加機会が得られると共に、トライアスロンの選手活動を続けていくことを願っていたからだ。しかし、そんな中山の気持に冷水が浴びせられた。</p>
<p><span style="color: #249664;">「普通の正社員として働いてください。我が社の自転車チームの選手は皆、高卒者の若者達で、大卒者はおりません」</span></p>
<p>　会社側からそう言われた中山は苦悶した。</p>
<p><span style="color: #840a4e;">「サラリーマンになってしまったら、練習時間も少なくなりトライアスロンの選手として活動していくことは難しい」</span></p>
<div id="attachment_2303" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-111.jpg"><img class="size-medium wp-image-2303" title="84年のハワイ大会で総合17位となった中山選手（写真右、中央が梅澤選手、左が飯島選手）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-111.jpg" alt="84年のハワイ大会で総合17位となった中山選手（写真右、中央が梅澤選手、左が飯島選手）" width="300" height="211" /></a><p class="wp-caption-text">84年のハワイ大会で総合17位となった中山選手（写真右、中央が梅澤選手、左が飯島選手）</p></div>
<p>　トライアスロンを始めた当初は「大学を卒業したら就職する」との方針だったが、気持が変わったのだ。84年のアイアンマン・ハワイで総合17位、世界の舞台で戦える力を証明すると共に、同じ年の12月にカウワイ・トライアスロン大会で８位入賞し賞金300ドルを獲得する等、押しも押されもせぬ我が国トライアスリートの第一人者となった中山にとって、最早、トライアスロンを見放すことが出来なかった。当時、アメリカで盛んになっていたUSTS（アメリカ合衆国トライアスロン・シリーズ））と呼ぶ賞金付きショート・トライアスロン・レースのプロとして活躍していたスコット・モリーナや、ハワイ大会に連続優勝しロング・トライアスロンの王者に君臨していたデイブ・スコットのように、自分もなりたいという気持が日々、増幅していった。挙げ句、中山はブリヂストンサイクル㈱の就職を蹴ったのだ。</p>
<p><span style="color: #840a4e;">「何とかなるさ。日本が駄目ならアメリカで暮らそう」</span></p>
<p>　トライアスロンのプロフェッショナルとしてアスリート修行を続けようと決意した中山は85年３月、大学卒業旅行にニュージーランド・アイアンマン大会へ単独、遠征した。そして見事、６位入勝を果たしたのだ。この時、もう中山にとって恐いものはなかった。85年４月、春爛漫の桜が咲く頃、中山は無職のプータローに過ぎなかったが、胸には漲るものがあった。</p>
<p><span style="color: #840a4e;">「今月、初めて沖縄の宮古島で開かれるトライアスロン大会では、優勝を目指そう。この大会でトップになるのは自分しかいない筈」</span></p>
<p>　そんな中山に声を掛けたのが、83年の皆生大会やハワイ大会で知り合い、同じJTRCの仲間でもあった東京支部長の猪川三一生（みちお）である。猪川は84年12月にJTRCを辞めて市川と共にATCを結成、副会長に就任した現役のアマチュア・アスリートだったが、一方でUSTSのようなショート・トライアスロン大会の開催と運営に関心を持った。それは大阪のベアリング製造販売会社である共栄精工株式会社社長・高木省三の依頼によるものだった。</p>
<div id="attachment_2306" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-21.jpg"><img class="size-medium wp-image-2306" title="猪川氏とは83年ハワイ大会で知り合った（写真中央が中山選手、右端が猪川氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-21-300x194.jpg" alt="猪川氏とは83年ハワイ大会で知り合った（写真中央が中山選手、右端が猪川氏）" width="300" height="194" /></a><p class="wp-caption-text">猪川氏とは83年ハワイ大会で知り合った（写真中央が中山選手、右端が猪川氏）</p></div>
<p>　当時、高木は本業とは別にユニインセンティブ株式会社という子会社を設立し、ベアリングのパテントを海外へ供与したり、逆に海外から商標権を輸入するライセンス・ビジネスを展開していた。そのユニインセンティブ㈱のニューヨーク支社長としてアメリカ国内の商標権獲得に奔走していたのが、ベン・マツモトである。このマツモトを通じてアメリカの先進的なエンターテインメントが日本国内にもたらされたが、それが正義の味方“エイトマン”であった。</p>
<div id="attachment_2306" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/73991e268d0737d8c02ebac6c2f95a63.jpg"><img class="size-medium wp-image-2306" title="ベン・マツモト氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/73991e268d0737d8c02ebac6c2f95a63.jpg" alt="ベン・マツモト氏" width="300" height="194" /></a><p class="wp-caption-text">ベン・マツモト氏</p></div>
<p>　こうした商標権ビジネスの俎上に上ってきたのが、ハワイ・トライアスロン大会の日本での“アイアンマン・レース”の開催であった。ところが、開催権は最終的に株式会社電通が獲得した為、高木やマツモトは国際トライアスロン連盟（FIT）が主催するショート・タイプのトライアスロン大会の日本への導入を考えた。いわゆるUSTSの日本での展開である。このショート・タイプは当初、総距離57Kmのトライアスロンだったが、USTS会長のカール・トーマス（アメリカ水泳連盟役員、ミズノの水着ブランドであるスピードのセールスマン）の提案により、今日のオリンピック競技種目となった総距離51.5Kmとなったものである。</p>
<div id="attachment_2305" style="width: 170px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/9824f170de3409a6aab1b522815debd6.jpg"><img class="size-medium wp-image-2305" title="大会で来日したカール・トーマス会長" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/9824f170de3409a6aab1b522815debd6.jpg" alt="大会で来日したカール・トーマス会長" width="160" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">大会で来日したカール・トーマス会長</p></div>
<p>　高木はショート・タイプのトライアスロン大会を日本国内で展開する受け皿として85年にJTF（日本トライアスロン連盟）を結成し、10月には熊本県の天草でスイム1.5Km、バイク40Km、ラン10Km、トータル51.5Kmの“オリンピック・ディスタンス”と称するJTS（ジャパン・トライアスロン・シリーズ）の第１戦を開催した。その前段として、日本のプロ・トライアスリートのJTS並びにUSTSへの参戦を目的に、中山を始めとする我が国エリート選手によって構成するトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成することにした。その名も“チーム・エトナ”である。<br />
　この“チーム・エトナ”を運営サポートするのが、高木の資本出資により設立されたエトナ・ライセンシング株式会社だった。東京・渋谷の代官山のマンションに本社を置いていたユニインセンティブ㈱内に併設され、後にはJTFと所帯を共にする。因みに“チーム・エトナ”のエトナとは、イタリア南部シチリア島の東部にある活火山の名、或いは当時の外国保険会社の固有名詞だが、その命名の由来は明らかではない。</p>
<p>　こうした高木らの動きをバックに猪川は、それまでのJTRCやATCにおけるアマチュア・トライアスリートとしての活動とは別に、トライアスロンのプロ化への活動に着手する。85年２月、猪川はまず自分が住む東京・品川区の区立勤労福祉会館にエリート選手だけで構成する「トライアスリート会」の結成会合を行うと共に、翌３月には沖縄においてJTSのショート・トライアスロン大会を開催する為、来日したカール・トーマスと現地視察に赴いた。<br />
　こうしたプロセスを経て結成されたのが“チーム・エトナ”であり、その最初のチーム・メンバーとして中山俊行、飯島健二郎、横井信之、山下光富、山本光宏の５名が選ばれた。その後、井口太郎、梅澤智久、田中宏昭、そして同チームが解散する88年にはサラエボ冬季オリンピックのクロカン選手だった中沢祐政が加わった。また、チームを支える監督として猪川が就任した。</p>
<div id="attachment_2307" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-4.jpg"><img class="size-medium wp-image-2307" title="85年USTSシカゴ大会に参戦した“チーム・エトナ”５名のメンバー（写真左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-4-300x205.jpg" alt="85年USTSシカゴ大会に参戦した“チーム・エトナ”５名のメンバー（写真左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手）" width="300" height="205" /></a><p class="wp-caption-text">85年USTSシカゴ大会に参戦した“チーム・エトナ”５名のメンバー（写真左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手）</p></div>
<p>　これら“チーム・エトナ”のメンバー達は、JTS やUSTSの大会遠征費用を賄ってもらうほか、レースウェアやバイク、シューズ等、トライアスロン・グッズが支給された。また、チームの中にあって唯一、エトナ・ライセンシング㈱の社員となった中山は、同社の事務やスポンサーに対する宣伝活動を行う等、プロとして従事する。給料も大卒並みの報酬が得られ、社会人として何とか独立することが出来た。</p>
<p><span style="color: #840a4e;">「これで、ご飯も食べられるし、レースにも出れる。だから。もっともっと練習しよう」</span></p>
<p>　その練習は当時、高校の教師だった飯島を始め郵便局員の山下、それに学生の山本らと一緒に行った。日曜日となるとトラック交通量が皆無となる東京・品川の大井埠頭に集まって、一周14㎞のコースを先頭交代しながらバイクで疾走した。同じ大井埠頭にはATCのトライアスリート達も集合しバイク＆ランのトレーニングを行っていたが、無論、中山達の走りに着いていける者はいなかった。</p>
<p><span style="color: #840a4e;">「たった数人のチームだけど、皆で頑張ろうや」</span></p>
<p>　若きエリート達は、世界へ羽ばたく夢を持って、お互いに励まし合いながら日々の練習に打ち込んでいったのである。</p>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #ff9900;">日本人が初めてトライアスロンに関わり、その発展と拡大に奔走した1980年代前半の動静を大会開催、愛好者によるクラブ活動、組織づくり等に関し総括すると共に、宮古島大会・びわ湖アイアンマン大会、天草ショート大会など85年から始まった我が国トライアスロンの動静について、『トライアスロン・ジャパン』誌の元編集長・勅使河原義一氏と対談インタビューし、その内容を紹介します。</span></p>
<p> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp"> ＜トライアスロン談義＞最善の道を選んできたから今も続けられる　【山本　光宏】</h3>
<p><span style="color: #ff6600;">―ゴールしたら、誰もが勝利者―</span></p>
<p>　そんなフレーズが気に入った。しかも、誰の助けも必要とせず、自分一人の力だけでやれる。1981年の第１回皆生トライアスロン大会をテレビで観た私は、トライアスロンというニュー・スポーツの魅力に強く惹かれた。この時、高校３年生だった私は、アメリカン・フットボール（アメフト）に取り組んでいた。チームワークの力で勝利の道を掴むこのスポーツは、それはそれなりに楽しいけれど、自分の力がすべてという自己完結型のトライアスロンをやってみたいと思った。<br />
　でも、私はまだ17歳。19歳にならないとトライアスロンに出場することが出来ない。翌年、大学生になった私はトライアスロンへの挑戦を胸に秘め、ランニングの練習を開始した。ランニングは中学生の時、台東区の陸上競技大会3,000m競争で優勝した経験もあり、自分でも結構、やれるという自信があった。９月から２ヶ月余の練習を経て、82年11月に東京・江東区の夢の島で開かれた第２回江東シーサイド・マラソン大会（20Km）に出場、結果は後方からのスタートだったが約1,000人もの選手を抜いて59位、１時間14分15秒でゴールした。まずまずだと思った。</p>
<div id="attachment_2311" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-5.jpg"><img class="size-medium wp-image-2311" title="アメフトに熱中していた高校生時代（写真左端、写真提供；山本氏、以下同じ）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-5-300x205.jpg" alt="アメフトに熱中していた高校生時代（写真左端、写真提供；山本氏、以下同じ）" width="300" height="205" /></a><p class="wp-caption-text">アメフトに熱中していた高校生時代（写真左端、写真提供；山本氏、以下同じ）</p></div>
<p>　ラン・トレーニングに次いで、スイムは近くの墨田区立体育館のプールで泳ぎ始めた。50mを1分ペースという、今考えたら実に遅い泳ぎだったが、それでも自分なりに泳げることに満足した。そしてバイクは、私が大学２年生の19歳となりトライアスロンへの出場資格が得られた83年、第３回皆生大会へのエントリーが決った５月からロードレーサーに乗り出した。私にとってこの新しいレーサーは、２万5,000円で購入した新品フレームに、同じ大学の友人から提供してもらった中古のパーツを取り付け、組み上げたものである。それで自宅から江ノ島まで往復120Kmを走ったが、当時としては<span style="color: #0000cc;">「我ながら凄いことをしている」</span>と思ったものだ。</p>
<div id="attachment_2312" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-6.jpg"><img class="size-medium wp-image-2312" title="皆生大会で同じ宿に泊まったアスリート達と記念撮影（写真左から２番目が山本選手）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-6-300x218.jpg" alt="皆生大会で同じ宿に泊まったアスリート達と記念撮影（写真左から２番目が山本選手）" width="300" height="218" /></a><p class="wp-caption-text">皆生大会で同じ宿に泊まったアスリート達と記念撮影（写真左から２番目が山本選手）</p></div>
<p>　そして、いよいよ初めてのトライアスロン。関西出身の西田智彦君と共に19歳で、最年少選手として出場した皆生トライアスロン大会では、総合タイム９時間57分45秒の17位でフィニッシュした。海は波が荒く３Kmのスイムを１時間37分もかかった。それでも約250人の参加者中で55位。バイクもギアの重さを終始、感じながら走ったけれど、何とか頑張り続けることが出来た。ランでは猪川三一生さんと抜きつ抜かれつの道中だったが、最終的に手を繋いで一緒にゴールした。途中、私に追い付いた猪川さんは、</p>
<p><span style="color: #dbb404;">「旅は道連れ…、一緒に走りましょう」</span></p>
<p>と誘われたものの、私は自分なりに先に走った。しかし、スピードは衰え、再び猪川さんに追い付かれて、結局は同時にフィニッシュしたのである。</p>
<div id="attachment_2314" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-71.jpg"><img class="size-medium wp-image-2314" title="結局は猪川氏と手を繋いでフィニッシュした（写真左が山本選手、右が猪川氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-71-300x238.jpg" alt="結局は猪川氏と手を繋いでフィニッシュした（写真左が山本選手、右が猪川氏）" width="300" height="238" /></a><p class="wp-caption-text">結局は猪川氏と手を繋いでフィニッシュした（写真左が山本選手、右が猪川氏）</p></div>
<p>　このように大会では、猪川さんや西田君等、多くのアスリートと知り合うことが出来た。当時、日本のトップ・トライアスリートだった中山俊行さんも、皆生大会で出会った一人だ。中山さんは競技説明会の席上、バイクのドラフティングの可否について質問していたが、 <span style="color: #0000bc;">「そんな質問をする奴は、弱いに決っている」</span>等と思った。まだほとんどの選手がドラフティングの意味すら知らない時代だったから、私がそのような思いを抱いたのは無理もないが、何と！　その中山さんが総合４位で表彰台に上がっていたのだ。</p>
<p>　こうして念願のトライアスロン・デビューを果たした私は、一緒にゴールした猪川さんに誘われ年末のJTRC忘年会に参加、その席上で中山さんを改め紹介された。自転車ロードレースを得意としていた中山さんからはバイクの走り方やトレーニング法、或いはトライアスロン・レースのノウハウなど、いろいろなことを教わりながら、一緒に練習をさせてもらった。中山さんに遅れまいと歯を食い縛り、東京・品川の大井埠頭周回コースでペダルを懸命に回した。お陰でバイクも速く走れるようになった。<br />
　翌年、84年の第４回皆生大会では６位入賞を果たし、10月にはいよいよハワイのアイアンマン大会に挑戦する運びとなった。でも、大学３年生の私はハワイへの渡航費等、全く持ち合わせがない。そこでツアー代金、約23万円を稼ぐ為、山手線・日暮里駅の立ち食いスタンド蕎麦店でアルバイトを始めた。夜の９時から12時まで、わずか3時間だったが、一生懸命に働いた。アルバイト料は時給1,000円、当時としては結構、高収入だったかもしれない。それに、同じ店で働く先輩には仕事を終えた夜中、よく酒場に連れて行かれ、ご馳走になった。こうして私は、周囲の大人達に可愛がられ、助けられ、励まされた。<br />
　お陰で私は、学生の身分ながらトライアスロンに取り組めたのだと思う。その初めての84年アイアンマン・ハワイでは、バイク走行中に低血糖となって睡魔におそわれたり、ラン・コースを熟知していなかった為、走行距離を勘違いする等、皆生大会では味わったことのない体験もしたが、総合188位でフィニッシュすることが出来た。夜の帳が下りた18時39分にゴール、ゼッケン・ナンバー1139番と同じく11時間39分のフィニッシュだった。私が参加したトライアスロンの中で、後にも先にも暗くなった夜にゴールした大会は唯一、この大会だった。でも、完走しただけで嬉しかった。また、外国の選手達とＴシャツを交換し友達になれたことも貴重な経験だった。</p>
<div id="attachment_2317" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-81.jpg"><img class="size-medium wp-image-2317" title="第１回宮古島大会で総合２位となり表彰台に上る（写真右より優勝した中山、２位山本、３位飯島、４位山下の各選手）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-81-300x273.jpg" alt="第１回宮古島大会で総合２位となり表彰台に上る（写真右より優勝した中山、２位山本、３位飯島、４位山下の各選手）" width="300" height="273" /></a><p class="wp-caption-text">第１回宮古島大会で総合２位となり表彰台に上る（写真右より優勝した中山、２位山本、３位飯島、４位山下の各選手）</p></div>
<p>　大学生にしてトライアスロンで好成績を修めることが出来た私は、翌85年から本格的に幕開けした日本のトライアスロン大会で、日本を代表する選手として中山さんや飯島健二郎さんらと肩を並べて競争するようになった。85年４月、中山さんに次いで総合２位になった第１回宮古島トライアスロン大会が終わり、その翌５月には、猪川さんから“チーム・エトナ”への勧誘があった。</p>
<p><span style="color: #e0e000;">「日本のエリートとして、チーム・メンバーに加わりませんか」</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">「世界の舞台で戦ってみたいし、中山さんとも一緒にやれるので、是非、お願いします」</span></p>
<p>　そんな経緯で“チーム・エトナ”のメンバーとなった私に付けられたニックネームが「ミッキー・ヤマモト」だった。</p>
<p>　これを機に、私のプロフェッショナルな戦いが始まった。まだ学生だった私は職業やその後の進路について深く考えていた訳ではなかったけれど、トライアスロンが好きになって、だからもっともっと強くなれるよう、続けていこうという気持でトレーニングに打ち込んだ。海外遠征では、自転車ロードレースでオリンピック３回出場のバイクのスペシャリストであるジョン・ハワードからマン・ツー・マンの指導を受ける等、世界のトップ・トライアスリートから多くのことを学ぶことが出来た。また、国内外のレースに参戦する過程で、沢山の成功と失敗の経験を重ね、自分を磨き上げることが出来た。</p>
<div id="attachment_2318" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-9.jpg"><img class="size-medium wp-image-2318" title="86年の宮古島大会では“チーム・エトナ”のウェアで最後のランを力走するが、残念ながらリタイアの憂き目にあった（エトナのＴシャツを着て応援するのは山本選手の弟）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-9-300x206.jpg" alt="86年の宮古島大会では“チーム・エトナ”のウェアで最後のランを力走するが、残念ながらリタイアの憂き目にあった（エトナのＴシャツを着て応援するのは山本選手の弟）" width="300" height="206" /></a><p class="wp-caption-text">86年の宮古島大会では“チーム・エトナ”のウェアで最後のランを力走するが、残念ながらリタイアの憂き目にあった（エトナのＴシャツを着て応援するのは山本選手の弟）</p></div>
<p>　23歳の時のアイアンマン・ハワイでは日本人として初めて総合タイム10時間を切る９時間47分17秒でフィニッシュ、或いは25歳の時、“チーム・アクエリアス”を結成直後の宮古島大会での優勝など、様々な体験が今蘇る。しかしまた22歳の時、宮古島大会でドクターストップがかかり救急車で搬送されたり、25歳の夏にバイク・トレーニングの途中でクルマと衝突し生命の危機に立たされる等、いろいろアクシデントにも見舞われた。<br />
　このように自分の身に起きた数多くの体験を積み、それを乗り越えてこれたのは、私がその時、その場の最善の道を選んで、全力を尽くしてきたからだと思う。だから今も、私はトライアスロンと関わり、トライアスロンを続けていられる。</p>
<div id="attachment_2319" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-10.jpg"><img class="size-medium wp-image-2319" title="山本光宏氏近影（東京・錦糸町のホテル内にて、09年２月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/4-7-10-300x224.jpg" alt="山本光宏氏近影（東京・錦糸町のホテル内にて、09年２月撮影）" width="300" height="224" /></a><p class="wp-caption-text">山本光宏氏近影（東京・錦糸町のホテル内にて、09年２月撮影）</p></div>
<p>【山本光宏氏プロフィール】<br />
<span style="color: #2dbb1a;">1963年、東京・浅草で生まれ育つ。未熟児で生まれたが、小学６年生と中学３年生の時には健康優良児として表彰される。高校生時代はアメフトに夢中になるが、法政大学２年生の時に初めて第３回皆生トライアスロン大会に挑戦、好成績を修める。以後、アイアンマン・ハワイを始めとする国内外のトライアスロン大会に出場、日本を代表するエリート選手として活躍する。特に23歳の時、1986年のアイアンマン・ハワイでは日本人として初めて10時間を切る快挙を成した。さらに88年の宮古島大会で優勝、同じ年のハワイ大会では総合17位となり、ラン・スプリットは優勝したマーク・アレンに次いで２位となる。アイアンマンのベストタイムは、1993年アイアンマン・ジャパンの８時間46分22秒。“チーム・エトナ”及び“チーム・アクエリアス”の中心メンバーとして活躍したが、2000年に現役選手を引退、現在は自ら立ち上げた有限会社「J-BEAT」を通じ後進の指導やレース解説者として活躍している。</span></p>
</div>
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		<title>Vol.37：雷神の巻　第４章その6：ＪＴＲＣが核分裂</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1858</link>
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		<pubDate>Sat, 27 Jun 2009 06:01:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />こうしてＡＴＣは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第６章その７</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">ＪＴＲＣが核分裂</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">こうしてＡＴＣは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。</p>
</div>
<p>　<br />
 1984年10月のアイアンマン・ハワイに42名のアスリートを送り込んだJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）は、発足してからほぼ２年の歳月を経て、全国に23支部を設けると共に、会員数は総勢300名を超える大所帯となった。その中でクラブ運営の要として活動したのが会長の矢後潔省（きよみ）であり、次いで副会長の白川春雄と市川祥宏（まさひろ）、それに東京支部長の猪川三一生（みちお）や神奈川支部長の中山俊行だった。<br />
　そのほか会員メンバーであり「全国トライアスロン協議会」の代表幹事である清水仲治（なかじ）や新たに事務局を担った吉田三千代らが、JTRCの全国的な活動を支えた。その活動のシンボルが２箇月に１回、発行する『トロピカーナ』と称するB４版サイズのクラブ会報だった。彼らJTRCの幹部達は、この会報を毎月1回、全国各支部の会員に送る為、横浜市磯子区にある清水宅に市川や猪川、中山らが集まり発送作業に携わった。彼らはクラブ活動を通じて多くの人々をトライアスロンへ勧誘し、共に楽しみながら普及、発展させていこうという気持に満ち溢れていた。</p>
<p>　しかし、その『トロピカーナ』の会報作りで、会長の矢後と清水が制作方法等で対立した。その結果、清水は怒ってJTRCを脱会したのだ。また、クラブ運営面で矢後の、やや独裁的な振る舞いが、会員の中から不平不満や批判が出ていたことも事実だった。<br />
　84年10月のハワイ大会が終わった翌11月、JTRC内は激動した。JTRC会員のうち東京・神奈川・千葉を中心とした関東地域の会員は総勢80名ほどだが、このうち猪川を中心とした東京支部のメンバー20余名が、東京駅前の東洋インキ製造株式会社の本社ビル内の酒場に集まった。</p>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「清水先生の脱会でも分るように、矢後さんのやり方は、独裁的過ぎる」</span></p>
<p>　<span style="color: #339966;">「矢後さんの居る静岡がクラブ活動の中心になっているが、これからのことを考えるとJTRCの本部が静岡ではやりにくい」</span></p>
<p>　<span style="color: #993366;">「我々、首都圏での練習会を、もっと活発化させたい」</span></p>
<p>　<span style="color: #80ab00;">「その為には矢後さんに会長を降りてもらうか、或いはJTRCを脱会して我々が新しいクラブを創るかどうかだ」</span></p>
<p>　様々な意見が出た。その結果、JTRCを脱会し、首都圏を中心としたトライアスリートの為の新しいトライアスロン・クラブを結成する方向性が確認された。折りしも、来月９日には東京・有楽町のニュー東京ビルで、JTRCの忘年会パーティが開かれようとしている矢先のことである。<br />
　翌12月、新クラブ結成の為の会合が、東京・品川の大衆酒場で行われた。集まったのは清水、市川、猪川、小野泰正（やすまさ）の４名である。清水は「全国トライアスロン協議会」の代表幹事を務めていたものの、83年の第３回皆生大会を最後にトライアスロンから足を洗い、好きな自転車で海外旅行を楽しんでいる最中だったが、市川の説得でトライアスロンに復帰したのである。</p>
<div id="attachment_1859" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kaihou.jpg"><img class="size-medium wp-image-1859" title="85年2月に刊行したATC会報第１号" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/kaihou-300x165.jpg" alt="85年2月に刊行したATC会報第１号" width="300" height="165" /></a><p class="wp-caption-text">85年2月に刊行したATC会報第１号</p></div>
<p> <br />
　そして新クラブの名称は、市川が命名した。その名も「全日本トライアスロンクラブ」、英語でAll Japan Triathlon Club（略称ＡＴＣ）と名乗った。略称は本来ならば「AJTC」だが、この４文字だとJTRCに似通った印象があるとして、敢えて「ＡＴＣ」の３文字にしたという。　<br />
　こうしてＡＴＣは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。しかし、エリート選手として活躍中だった東京の中山、飯島健二郎、山本光宏はＡＴＣメンバーには加わらなかった。すでにその時、水面下ではエリート選手達による選手会結成構想、そして翌1985年２月に発足したプロ・トライアスリートによる「チーム・エトナ」発足の話が密かに進められていたからである。</p>
<div id="attachment_1860" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima.jpg"><img class="size-medium wp-image-1860" title="85年４月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったＡＴＣのメンバー達" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/miyakojima-300x198.jpg" alt="85年４月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったＡＴＣのメンバー達" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">85年４月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったＡＴＣのメンバー達</p></div>
<p> 　JTRCに次ぎ我が国では２番目の大所帯となるトライアスロン・クラブは、こうして発足し、その後、田中宏昭や井口太郎、宮塚英也、遠藤栄子、村上純子といった日本を代表する選手を排出したほか、肥後照一、久保欽司、仙石元則、平井太郎、早川征志、北村文俊、中山嘉太郎、高村公子、後藤　翠、鈴木令子といった数々のアイアンマン、トライアスロンの強者を擁するに至った。85年以降、会員数が減退していったJTRCとは対照的に、ＡＴＣの会員数は最盛期には約800名近くに上ったのである。</p>
<div id="attachment_1861" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/party.jpg"><img class="size-medium wp-image-1861" title="大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/party-300x206.jpg" alt="大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏" width="300" height="206" /></a><p class="wp-caption-text">大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏</p></div>
<p>　JTRCもＡＴＣも共にアマチュアのトライアスリートが集まったクラブだが、後に両クラブの主要メンバー達は、「全国トライアスロン協議会」から発展し1986年３月に設立された「日本トライアスリート協会」の主導権争いを行うことになる。一方、JTRC会長の矢後は、２年後の87年には日本のトライアスロン界から一切、身を引いた。<br />
 <br />
《次回予告》<br />
<span style="color: #7eb318;">日本人トライアスリートのプロフェッショナル集団「チーム・エトナ」の発足と、トライアスロンをイベント・ビジネスとして展開しようと活動していた日本トライアスロン連盟（JTF）のオーナーである高木省三氏らの動静を紹介すると共に、当時、大学生でありながら日本のエリート選手として大活躍した山本光宏氏の当時の思い出を《トライアスリート談義》として掲載します。</span></p>
<p> </p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p> </p>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロン仲間は人生の宝物　【青木　忠茂】</h3>
<p>　小学性時代から肥満児だった私はスポーツと縁遠い存在でしたが、それでも高校と大学では軟式テニスとスキーを楽しんでいました。“お遊びスポーツ”のレベルでしたが、それでも少しは運動で汗を流す喜びは味わっていたのです。しかし、学校を卒業して家業の写真の仕事を始めましたら、スポーツどころか休日も無い程、毎日、仕事に追われ、ついに大人の肥満児とも言うべきメタボリック状態になってしまいました。30歳当時の身長は165cm、これに対し体重は、なんと85kgにもなったのです。おまけに煙草も吸っていましたので、</p>
<p>　<span style="color: #800080;">「これは、やばいぞ。運動をして減量しなければ」</span></p>
<p>などと思い詰めた挙げ句、始めたのがジョギングでした。しかし、身体が重くて重くて、最初の頃は４Kmを走るのがやっとという有り様。でも頑張って続け、３年後の1984年１月には千葉県館山市で始まった25Kmロードレース（後の館山若潮マラソン大会）に出場、自分なりに納得の成績で完走を果たしました。もうこうなるとマラソンは止められません。次いで同じ年の７月に行われた富士登山競争にもチャレンジ、残念ながら制限時間を５分オーバーしましたが、４時間35分で富士山の頂上まで走り続けることが出来ました。　その一方で、私はトライアスロンと言うニュー・スポーツがアメリカを始め世界各国でブームになっていることを、ランナーズ社が発行する『アスレティック・ブック』で知りました。その雑誌の中で“アイアンマン”と言う言葉に強く惹かれたのです。しかし、私が出来るのはランニングだけです。子供の頃の苦い経験もあって水泳嫌い、もちろんドロップ・ハンドルの自転車に乗ったことは一度もありません。</p>
<p><span style="color: #800080;">　「でも、やってみたい！　アイアンマンになってみたい」</span></p>
<p>　そこで８月から船橋駅前にあるスイミング・スクールへ通い始めました。また、千葉県柏市のプロ・ショップとして有名な「シクロウネ」でロードレーサーを注文すると共に、そこに集まるサイクリスト達と日曜日の朝に行う練習会に参加、トライアスロンへの第一歩を踏み出したのです。<br />
　そして、下総の大地が紅葉に染まる11月のことでした。「シクロウネ」でトライアスリートとして活躍中の市川祥宏さんと出会ったのです。市川さんも私とお同じ千葉県人で、お名前の通り市川市に住んでおられました。市川さんは、</p>
<p>　<span style="color: #ff9900;">「一緒に練習しましょう。今度、トライアスロンのクラブをつくりますから、入会して下さい」</span></p>
<p>等と、自宅に電話をかけてきて、盛んに私を誘ってくれます。しかし、私はクラブ加入に消極的でした。何故ならばトライアスロンは本来、独りで取り組むスポーツだと思っていたし、実際、トレーニングも何もかもを自分なりにやりたいと思っていたからです。しかし、親切な市川さんに対する義理も感じて、その年の12月に発足したＡＴＣに入会しました。</p>
<p>　年が明けた85年１月、私はランナーズ社を訪ね、発刊したばかりの『トライアスロン・ジャパン』誌で当時、取材編集を担当していた勅使河原義一さん（後に同誌編集長）に会い、ハワイ・トライアスロン大会に関わる情報を聞きました。そして、その上でランナーズ社がコーディネートするハワイ・ツアーへの参加を申し込むと共に、85年10月の大会へエントリーしたのです。<br />
　なんと無謀な！　自転車は「シクロウネ」のアサレンに参加する程度、水泳は殆どトンカチ同然の私が、事もあろうにアイアンマンに挑戦するとは…。内心そう思いましたが、何としても私は“アイアンマン”になりたい一心でした。しかし、ハワイ大会の前にクリアしなければならないことが生じました。<br />
　それは、アイアンマン・ハワイの日本における予選会として６月に開催されることが決った第１回びわ湖トライアスロン大会に出場し、完走しなければならなかったからです。でも、その年の春の段階で私が泳げる距離は、たった200mです。別途、ＡＴＣの仲間からは４月に開かれた第１回宮古島トライアスロン大会に誘われたのですが、スイムが出来なかったので、出場を断わったほどの私です。　果たして、びわ湖大会を完走することが出来るのか？　そして、ハワイ大会出場の切符を得ることが出来るかどうか？　風雨の中、琵琶湖の冷たい水を掻き分けながら、私の心は震えていました。寒さ避けでゴム手袋をはめたものの、手袋の中に水が入ってしまい泳ぐのに苦労しました。それでも、辛うじて制限タイム２時間30分よりも２分30秒早くゴールすることが出来ました。続くバイクもランも何とかこなし、総合15時間11分22秒で人生初めてのトライアスロンを完走したのです。</p>
<div id="attachment_1863" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/biwa.jpg"><img class="size-medium wp-image-1863" title="びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでＡＴＣの仲間と記念撮影（写真左から２番目）。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/biwa-300x210.jpg" alt="びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでＡＴＣの仲間と記念撮影（写真左から２番目）。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでＡＴＣの仲間と記念撮影（写真左から２番目）。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。</p></div>
<p>　びわ湖大会を完走した私は、もう自信たっぷり！　おまけに市川さんも、</p>
<p>　<span style="color: #ff9900;">「ハワイの海は静かで、宇宙遊泳のように楽しくラクチン。びわ湖を泳いだのだから、ハワイも大丈夫ですよ」</span></p>
<p>等と、私をその気にさせてくれます。しかし、実際はとんでもハップンでした。折りからのハリケーン到来で海は大荒れ、スイムは大きな波に揺られながら必死の形相で泳ぎました。次いでバイクも約150Km地点で後方からカナダ人に追突され、挙げ句、後輪のリムが振れてしまい、残りの30Km余りの距離をヨレヨレの状態で走りました。まあ、それでもスイム２時間９分、バイク６時間47分、ラン５時間８分、総合14時間５分23秒の811位でフィニッシュ、ついに憧れの“アイアンマン”になったのです。</p>
<p> </p>
<div id="attachment_1865" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiba1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1865" title="86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。（写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiba1-300x208.jpg" alt="86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。（写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長）" width="300" height="208" /></a><p class="wp-caption-text">86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。（写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長）</p></div>
<p> 　それもこれも皆、市川さんを始めとするＡＴＣの方々が私を支えてくれたお陰だと思います。当初は「すべて独力でハワイを完走する、或いはしたい」と思っていた私ですが、実際にやってみて、私独りでハワイ大会を完走することは出来なかったとつくづく感じます。トライアスロン参加の為のツールや情報、そしてトライアスロン仲間の励ましやコミュニティがＡＴＣというクラブを舞台にあったからこそ、私はアイアンマンになれたと思います。<br />
　そんな感謝の気持もあって、ハワイ大会以降、私はＡＴＣの役員としてクラブ運営に積極的に関わるようになり、後に編集委員長としてクラブ会報づくりを通じトライアスロンの仲間づくりに取り組みました。誰もがトライアスロンに参加出来るように、そして一緒にトライアスロン・スポーツに励み、楽しむ世界を広げたいという強い願いを込めて、会報を創りました。最終的にＡＴＣのクラブ員は首都圏と近畿圏を中心に780名余が加盟するトライアスロン・クラブに成長していきましたが、その過程で私は、愉快で心優しい沢山の仲間と交流が出来たことを、本当に嬉しく思っています。その意味で、トライアスロンの仲間は私にとって“人生の宝物”です。</p>
<div id="attachment_1866" style="width: 190px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aokisi.jpg"><img class="size-full wp-image-1866" title="青木忠茂氏近影（千葉・船橋市にて、09年2月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/aokisi.jpg" alt="青木忠茂氏近影（千葉・船橋市にて、09年2月撮影）" width="180" height="239" /></a><p class="wp-caption-text">青木忠茂氏近影（千葉・船橋市にて、　09年2月撮影）</p></div>
<p>【青木忠茂氏プロフィール】</p>
<p><span style="color: #14a22b;">1951年、千葉県船橋市で生まれ育つ。青山学院大学経営学部を卒業後、家業の写真店を拠点にフォトグラファーとして活動を開始する。30歳の時にダイエットの為、ジョギングを開始、ついには富士登山競争に毎年、挑戦するようになった。33歳の時、トライアスロンを知り、85年アイアンマン・ハワイを完走した。87年の宮古島トライアスロン大会を最後に現役を引退したが、ＡＴＣの主要メンバーとして会報制作を通じてトライアスリートの仲間つくりや後進の指導、育成に努める。『日本トライアスロン物語』編集委員会委員。</span></p>
<p><span style="color: #149b11;"> </span></p>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.36：雷神の巻　第４章その5：アイアンマン大会を日本でも開こう</title>
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		<pubDate>Sat, 27 Jun 2009 04:38:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/07-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その5</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">アイアンマン大会を日本でも開こうく</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」</p>
</div>
<p>　<br />
 名実共にJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）がトライアスロン・クラブの代表的な地位を確立するのに伴い、会長の矢後潔省（きよみ）の存在も自ずと大きくなっていった。それは我が国トライアスロン組織の前身として結成された「全国トライアスロン協議会＝清水仲治代表幹事」の会議の場においてもそうだったが、他方、トライアスロン大会の開催と運営に関しても、矢後は主導的な役割を担った。<br />
　1984年10月、JTRCのメンバー40名余と共にアイアンマン・ハワイを終えて帰国した矢後は、静岡県小山町の自宅の部屋で日本地図を広げていた。ハワイで大会会長のバレリー・シルクから託されたことを思い起こしていたのだ。シルクが託したこととは、</p>
<p><span style="color: #63a819;">「矢後さん、あなたの力でアイアンマン大会を日本で開いてくれませんか」</span></p>
<p>　この時、シルクはアイアンマン・トライアスロン大会の開催権を巡って日本企業と譲渡交渉を進めていた。その企業とは、大手広告代理店である株式会社電通と、大阪に本社を置く共栄精工株式会社である。共栄精工㈱の社長である高木省三は本業のベアリング製造販売の外、アメリカを拠点にブランド（商標権）ビジネスを展開しており、日本での&#8221;アイアンマン・レース&#8221;の開催に強い関心を持っていた。しかし、開催権は最終的に㈱電通が取得した為、翌85年に日本トライアスロン連盟（JTF）を結成し、10月には熊本県天草でショート・タイプのトライアスロン・シリーズを立ち上げたのである。<br />
　シルクは84年11月に来日し、㈱電通の責任者であるスポーツ文化事業局次長スポーツ１部長の西郷隆美（1990年没）らと会ったが、その際、電通を選んだ理由について、「本社ビルが大きかったので譲渡した」と言う。日本を代表する広告代理店としてテレビなどマス・メディアに通じ、またイギリスのウィンブルドン・テニスの日本での放映権を取得する等、スポーツ・イベント・ビジネスを展開してきた西郷の力量を買ったのだ。</p>
<div id="attachment_1845" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07.jpg"><img class="size-medium wp-image-1845" title="85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/07-300x203.jpg" alt="85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。" width="300" height="203" /></a><p class="wp-caption-text">85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。</p></div>
<p> 　こうした日本におけるアイアンマン・トライアスロン開催権を巡る動きをバックに、矢後は大会開催地を模索する。そして、日本地図の中央位置「滋賀県」に目を据えて、そこが日本最大の湖「琵琶湖」を擁し、バイク距離180Kmのコースづくりがし易く道路交通事情が良好な適地であることに注目したのだ。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「そう！　風光明媚な琵琶湖を舞台に、アイアンマン・レースの壮大なロケーションをセットしよう」</span></p>
<p>　矢後は早速、JTRC滋賀支部長の上村光男に応援を頼みつつ、自ら滋賀県庁へアプローチを開始した。当時、県の担当部署だった企画部企画調整課へトライアスロンのビデオテープを50本ほど送り、トライアスロンへの理解を求めたが、しかし反応は一つもなかった。そこで矢後は西郷と相談の上、㈱電通京都支局の営業担当者と共に彦根市を中心に現地探訪に出向いたのである。<br />
　ところが、初めて訪問した滋賀県庁では、門前払いに遭った。「そんな面倒なイベントに協力できない」とのことだ。そこで矢後達一行は彦根市のホテルに泊まり込み、トライアスロン３種目のコース設定を行いつつ、県庁へ乗り込むチャンスを伺った。そんなある日、彦根市のプールに後の大蔵大臣であり第５代滋賀県知事の武村正義が居ると聞いた矢後は、早速、そのプールに駆け付け武村に協力を求めた。すると武村知事は、現下に、<br />
 <br />
<span style="color: #63a819;">「よし、やろう」</span></p>
<p>と、快諾したのである。矢後は、</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「なんて物分かりの良い人なのだろう」</span></p>
<p>と、すっかり驚いた。目から鱗が落ちる思いだった。</p>
<div id="attachment_1846" style="width: 160px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiji.jpg"><img class="size-full wp-image-1846" title="当時の武村正義滋賀県知事" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/chiji.jpg" alt="当時の武村正義滋賀県知事" width="150" height="181" /></a><p class="wp-caption-text">当時の武村正義滋賀県知事</p></div>
<p>　一方、びわ湖大会と同じく85年に開催を予定している沖縄県宮古島大会へアイアンマン・トライアスロン開催の話も持ち上がっていた。この為、同じJTRCメンバーであり株式会社日本航空（JAL）の社員だった猪川三一生（みちお）を通じて、矢後はJAL幹部と話し合う機会を持った。だが条件が合わず、断わったと言う。このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。</p>
<p><span style="color: #a51eb8;">「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」</span></p>
<p> </p>
<div id="attachment_1847" style="width: 288px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/18.jpg"><img class="size-medium wp-image-1847" title="びわ湖トライアスロン第１回大会当時の西郷隆美氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/18-278x300.jpg" alt="びわ湖トライアスロン第１回大会当時の西郷隆美氏" width="278" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">びわ湖トライアスロン第１回大会当時の西郷隆美氏</p></div>
<p>《次回予告》<span style="color: #ff9900;">84年12月にJTRCから分離、独立したATC（全日本トライアスロン・クラブ）の結成について記すと共に、《トライアスロン談義》としてATC発足初期からクラブ会報作りを通じてATCのクラブ活動の中枢として活躍した青木忠成氏の談話を紹介します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞男のロマンは女の迷惑　【佐藤　文昭】</h3>
<p> 　<span style="color: #95ad14;">「あえて困難を求めたい」</span></p>
<p>　私が高校・大学と山岳部に所属したのは、あえて「困難なことに立ち向かう」格好の良さに憧れたのかもしれない。しかし、そんな私の夢は、山岳の為に行う厳しい練習や山行の度に、何度も挫けそうになった。先を歩む友に遅れまいと激しい息遣いを繰り返しつつ懸命に追う山行に、どんなに苦しくても頑張る決意は度々、崩れ去る屈辱を味わった。<br />
　山岳部においては他の運動部と同様に、上層部コーチ陣の「人事」によって山行パーティーのメンバーが決定される。この「人事」に文句を言わずに無難にやり遂げることが必要で、失敗すれば次に面白いことはさせてもらえない。私は「人事」においてしばしば員数外で、思うように活躍することが出来なかった。だから、大学を卒業した私が将来性のない零細な家業を継いだのは、自分の思うように生きたかったからだ。それからは｢人事のない世界｣でひたすら商売一筋、仕事に打ち込む傍ら、たまにスキーを楽しむ生活を20年ほど送った。</p>
<div id="attachment_1849" style="width: 210px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/image_1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1849" title="2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/image_1-200x300.jpg" alt="2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" width="200" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）</p></div>
<p> 　そんな平凡な暮らしの中で40歳を過ぎた頃、私の目が留めたのは、「ジョギングをすると特殊な脳内物質が発生し、禅僧が禅を組み瞑想しているような思いが得られる」という記事だった。折りしも日本はジョギング・ブームに湧き、そのブームに乗って出版されたジョギングを奨める一冊の本の中の話であった。</p>
<p><span style="color: #95ad14;">　「ほほう。瞑想ね。面白そうだから、やってみるか」</span></p>
<p>　息も絶え絶えにもがき苦しんだ山岳部時代のランニング練習とは全く異なり、今は自ら与えた新たな課題に対し、私の心は軽かった。人に命令されて走るのではない。自分自身で決めて、自分なりにやれば好いのだ。そう思うと、気持は爽やかだった。涙の過去をかなぐり捨て一から始めた私は、２年後に初めて出場した河口湖のフル・マラソン大会で３時間40分のタイムで走り切った。<br />
　そして、その過程でマラソン・トレーニングの手法の一つとして知ったのがトライアスロンだった。&#8221;自然流ランニング&#8221;を提唱する群馬大学教授の山西哲郎氏の著作に触発され、トライアスロンへの挑戦を思い立ったのである。早速、JTRCの矢後会長に手紙を送り、トライアスロンの仲間に入れてもらった。1983年夏、私が43歳の時である。</p>
<div id="attachment_1850" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4754.jpg"><img class="size-medium wp-image-1850" title="JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4754-225x300.jpg" alt="JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。</p></div>
<p>　トライアスロン・デビューはその年の９月、第３回湘南ハーフ・トライアスロン大会だった。出場選手101名中、32位の総合７時間01分40秒の記録で完走した。以後、私はすっかりトライアスロンに嵌まって、翌年の湘南ハーフは総合タイム５時間47分02秒と大幅にタイムを縮め40歳台で４位に入賞したのを皮切りに、皆生トライアスロン大会を経てアイアンマン・ハワイにも出場、いずれも完走を果たした。最初は５Kmのジョギングが精一杯だった私だが、それからおよそ25年間、数々の大会を経験し、今もなお現役としてトライアスロンを楽しんでいる。<br />
　こうしてトライアスロンを続けてこられたのも、トライアスロンが他人からの強要や、過度な根性を必要としないからだ。よく人は「鉄人ですね。そんな長い距離を走り切るなんて、すごい体力、精神力が必要なのでしょうね」などと感心するが、実はそうではない。トライアスロンは自分自身の判断でエントリーして、その大会に合わせたトレーニングをゆっくり積み上げていけば、余程のアクシデントが無い限り完走できる。その点でトライアスロンは老人にも相応しいスポーツだと言える。<br />
　それは登山でも同じことだ。今でもテレマークによる山岳スキーを国内だけでなくカナダ･ヨーロッパでも楽しんでいる。</p>
<div id="attachment_1851" style="width: 225px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman_2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1851" title="05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman_2-215x300.jpg" alt="05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。" width="215" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。</p></div>
<p>　しかし、である。65歳から参加、出場した佐渡トライアスロン大会（Ａタイプ）では、これまで４回、チャレンジしたが、すべてランで時間切れとなり、完走を果たしていない。だから、何としても完走をしたい！　それが今の私の夢、男のロマンでもある。でも、この私のロマンに、きっと女房は迷惑していることだろう。男のロマンは女にとって、否、人類にとって迷惑千万かも知れない。</p>
<div id="attachment_1852" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg5278.jpg"><img class="size-medium wp-image-1852" title="佐藤文昭氏近影（東京・市ヶ谷にて、08年12月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg5278-300x225.jpg" alt="佐藤文昭氏近影（東京・市ヶ谷にて、08年12月撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">佐藤文昭氏近影（東京・市ヶ谷にて、　08年12月撮影）</p></div>
<p>【佐藤 文昭氏プロフィール】<br />
<span style="color: #1b9d0f;"><span style="color: #16830c;">1940年、東京・九段で生まれ育つ。慶應義塾大学を卒業後、家業の書店「政文堂」を継ぐ。青年時代は山岳やスキーを楽しんだが、40歳を過ぎてマラソンを始め、次いでJTRCメンバーとなりトライアスロンに挑戦する。44歳の時、皆生トライアスロン大会やアイアンマン・ハワイを完走、以後、四半世紀に及びトライアスロン人生を送る。ハワイを始めびわ湖・フロリダ・海南島等のアイアンマン・レースに出場し、すべて完走を果たす。2000年11月にはネパールの「エヴェレスト・マラソン」にも参加、完走する。</span><br />
</span></p>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.35：雷神の巻　第４章その4：アイアンマンを目指して、燃えよう！</title>
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		<pubDate>Fri, 26 Jun 2009 05:40:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その4</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">アイアンマンを目指して、燃えよう！</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>  1984年11月、トライアスロン愛好者を中心とするアマチュア競技団体の前身とも言うべき「複合耐久種目全国連絡協議会」が結成されたのに伴い、トライアスロン人口は日増しに膨れ上がり、それはやがてトライアスロン・クラブの結成へと繋がっていった。その先駆けとなったのが同協議会幹事となった永谷誠一が会長を務める熊本CTC（クレイジー・トライアスロン・クラブ）や、同じく矢後潔省（きよみ）が会長のJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）であった。<br />
　そのほか福岡県久留米市を舞台にローカルなトライアスロン大会を開催する「スーパーマン・クラブ・イワイ」や、茨城県では82年２月のアイアンマン・ハワイを完走したマラソン・ランナーの松田　泉、千枝夫妻がコーチ役を務める「筑波学園都市トライアスロンクラブ」が、その年の４月に設立された。<br />
　同じ82年に「岡山アイアンマン・トライアスロンクラブ」がクラブ員７名で活動を開始したのを始め、翌83年４月には「福井トライアスロン協会」と名乗り福井県内のアスリート達10名がクラブ活動をスタートさせた。さらに84年春に発足し真砂嘉晴会長以下30名余の会員を擁する「兵庫トライアスロン・クラブ」は、先輩の「熊本CTC」とも連携を図りながらトライアスリートの養成に力を入れていった。</p>
<p>　こうしたトライアスロン・クラブ結成の全国的な広がりの中核となっていたが、会員数で圧倒的な数を擁するJTRCであったことは間違いない。82年暮れに「JTRC」と命名しクラブ活動を開始、翌83年春にランニング雑誌『ランナーズ』誌上で会員を募った会長の矢後は、自宅の在る静岡県駿東郡小山町に本部を置きながら、自ら出場、完走を果たした82年の皆生トライアスロン大会と82年10月のアイアンマン・ハワイ大会で知り合った白川春雄や鈴木将弘、市川祥宏、脇田重男、横井信之らと連絡を取り合い、全国各地域に支部を設置していったのである。</p>
<div id="attachment_1829" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753.jpg"><img class="size-medium wp-image-1829" title="JTRCのクラブ旗（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4753-300x211.jpg" alt="JTRCのクラブ旗（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）" width="300" height="211" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCのクラブ旗（写真提供；佐藤文昭氏、以下同）</p></div>
<p>　JTRCの会員は当初、地元の静岡県内を中心に構成されていたが、&#8221;アイアンマン&#8221;の名が世に知られ、次第にアスリートの間でトライアスロンへの憧れと期待が膨らむにつれ、会員は全国的な規模で増えていった。矢後はトライアスロンを広めたい一心で毎日、全国各支部へ電話をしたり手紙を書いたり、スポーツ・グッズの梱包作業を行ったり、夜を徹してクラブ発展の為に活動した。<br />
　また、その情報ツールとして作られたのが、B4版サイズの『トロピカーナ』と称するJTRCの会報で、当初は神奈川県会員だった清水仲治が中心となって編集作業が行われた。しかし、間もなく会報作りは矢後の補佐役となりクラブの会計を担当することになった「トロピカル・ケイ」こと小林恵子が当たる。</p>
<div id="attachment_1830" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan100021.jpg"><img class="size-medium wp-image-1830" title="役員リストが載った『トロピカーナ』第11号" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan100021.jpg" alt="役員リストが載った『トロピカーナ』第11号" width="300" height="250" /></a><p class="wp-caption-text">役員リストが載った『トロピカーナ』　第11号</p></div>
<p>　「トライアスロン　何と魅力のあるスポーツなんだ　俺達の心を奪うなんて!!」とのタイトルで巻頭を飾る83年12月発行の『トロピカーナ』第10号では、小林がクラブ創立1周年の記念パーティが盛況理に開催されたことについて記している。その中で小林は、「これもひとえに165名のメンバー各位様のご協力のたまものと、スタッフ一同心から御礼申し上げます」と述べ、すでにこの時点でJTRC会員が全国に165名登録されていることを明らかにした。因みに、小林は83年のハワイ大会に日本人女性４名のうちの一人として出場し、15時間台のタイムで完走を果たしている。女性トライアスリートとして活躍する傍ら、JTRCの主要メンバーとしてクラブ運営に当っていたのである。<br />
　そして、年が明けた84年１月の『トロピカーナ』第11号では、「サｱー！　本年も燃えようぜ!!」のタイトルを付して、15支部局長などクラブ役員の名を掲載している。それによると矢後会長ほか、副会長にはクラブ活動の取り纏め役として埼玉県の白川、大会・行事の開催を司る役割として千葉県の市川の２名が専任された。<br />
　その他、新たに設置された支部長として滋賀県の上村光男、長野県の林　貞治、兵庫県の下島克巳が選ばれた。また、当初からJTRCに関わった愛知県の横井信之は愛知支部の補佐役に回り支部長には藤田勝啓が、神奈川支部の補佐役には後に小林から『トロピカーナ』の編集を引き継いだ成宮芳子が、千葉支部の補佐役に田中義巳が指名されている。</p>
<div id="attachment_1831" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan10001.jpg"><img class="size-medium wp-image-1831" title="83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から２番目が市川副会長、７番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scan10001-300x208.jpg" alt="83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から２番目が市川副会長、７番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。" width="300" height="208" /></a><p class="wp-caption-text">83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から２番目が市川副会長、７番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。</p></div>
<p>　こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。<br />
　この間、JTRCに入会したトライアスリートは約1,000名近くに達するといわれ、後にトライアスロンの世界で活躍した会員として、エリート選手に中山俊行や横井信之、JTRCと袂を分かち新たなクラブATC（全日本トライアスロンクラブ）を立ち上げ会長に就任する清水仲治と理事長の市川祥宏、JTRC並びにATCを離脱してプロ・トライアスリートによる&#8221;チーム・エトナ&#8221;監督に就任する猪川三一生、猪川と同じ東京出身でJTRC東京支部長となった佐藤文昭、JTA（日本トライアスロン協会）の初代理事長となる永田　峻らの名があげられよう。</p>
<p> <br />
《次回予告》<span style="color: #993300;">1985年６月に開催された日本のアイアンマン大会「アイアンマン・ジャパン・イン・びわ湖」を巡る開催前夜の秘話を、JTRCメンバーの活動を通じて紹介すると共に、《トライアスロン談義》では、今なお現役のトライアスリートとして活躍する東京の佐藤文昭氏の話を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞何事も前向きに考えられた　【永田 峻】</h3>
<p> 　1984年の春、私は株式会社ランナーズが企画、主催した長野県池の平での&#8221;クロカンスキー・キャンプ&#8221;に参加しました。その時、偶然にも出会ったのが、熊本CTC会長の永谷誠一さんやJTRC副会長の白川春雄さん達でした。彼らと同じく私も黒のバイク・パンツを履いていたので声を掛けられ、トライアスロンの話題へと話が弾んでいったのです。<br />
　私はその年の２月に千葉県佐倉市で行われたマラソン大会に完走（３時間50分）したばかりのアスリートの駆出しでしたが、トライアスロンのことは前年の７月に日本経済新聞に掲載された熊本の外科医師で日本人最初のアイアンマンの一人である堤貞一郎さんの記事を読んでいて、大きな関心を抱いておりました。小学生の頃から水泳は得意種目だったし、サイクリングが好きで30歳過ぎてからロードレーサーを乗り回していたし、初めてながらフル・マラソンを走り切ることが出来たので、<span style="color: #50b620;">「ならばトライアスリートも同じこと」</span>と、永谷さん達に強く勧められるがまま、JTRCの会員になったのです。</p>
<div id="attachment_1833" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nagatani0612.jpg"><img class="size-medium wp-image-1833" title="オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問（06年12月、写真提供；永田氏、以下同）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/nagatani0612-300x199.jpg" alt="オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問（06年12月、写真提供；永田氏、以下同）" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問（06年12月、写真提供；永田氏、以下同）</p></div>
<p>　そして、その年の８月、第４回湘南ハーフ・トライアスロン大会に出場したところ、なんと！　自分でもビックリする程の好成績を修めました。すっかり気を良くしてしまった私は、またまた、なんと！　我ながら無謀と知りながらも、10月に行われる第８回ハワイ・トライアスロン大会への参加申し込みを行ったのです。大会では、完走出来るか？　心許ない気持ちでスタートしたのですが、14時間後半のタイムで完走し、自分としては上出来の結果に終わりました。<br />
　こうして私は84年の１年間にアイアンマンまで上り詰めてしまったのですが、だからと言って私が特段に優れたアスリートだった訳ではありません。私の経験からすれば、トライアスロンは決して激しい運動ではないし、ある程度のトレーニングは必要ですが、無理をせず自分の身体と対話しながら、ゆっくり楽しめるスポーツだと思います。だから今、思うと、当時41歳でしたが、</p>
<p><span style="color: #d42a9e;">「トライアスロンをやっていて良かった。日常生活も仕事も、何事も前向きに考えられる。朝、ランニングをやって、それから会社に出掛ける日々が続いたけれど、眠気が起きるどころか、仕事の能率も上がった」</span></p>
<p>　そんな充実したサラリーマン生活を続けることが出来ました。</p>
<div id="attachment_1834" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman1984.jpg"><img class="size-medium wp-image-1834" title="84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン（写真中央、ゼッケン783）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/ironman1984-300x232.jpg" alt="84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン（写真中央、ゼッケン783）" width="300" height="232" /></a><p class="wp-caption-text">84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン（写真中央、ゼッケン783）</p></div>
<p>　しかし、私のトライアスロン人生は短いものでした。87年秋、オランダのアムステルダム市で開かれた国際トライアスロン連盟（略称TFI）の総会にJTAの副会長として出席し帰国した後、会社から海外渡航の命令が下されたのです。アメリカ・バージニア州での原子力発電所建設プロジェクトの責任者として渡米することになりました。もっとトライアスロンと関わり、トライアスロンの普及、発展の為に尽くしたい気持はありましたが、二足の草鞋は無理と判断し、JTAの役員を辞したのです。</p>
<div id="attachment_1835" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/st_bernard0606.jpg"><img class="size-medium wp-image-1835" title="オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え（06年６月）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/st_bernard0606-300x199.jpg" alt="オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え（06年６月）" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え（06年６月）</p></div>
<div id="attachment_1836" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/mont_blanc0802.jpg"><img class="size-medium wp-image-1836" title="フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降（08年２月）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/mont_blanc0802-300x225.jpg" alt="フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降（08年２月）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降（08年２月）</p></div>
<p>　その２年余り後の1990年、私はアメリカでの任務を終え帰国しましたが、再びトライアスロンには携わることはありませんでした。そして定年を過ぎた今の私は、かねてからやりたくて出来なかったことに向き合っています。それはスポーツではなく、リコーダーの演奏や合唱等で、好きなバロック音楽のアンサンブルを楽しんでいます。また、60歳になってからBMW1200ccオートバイを購入、日本全国とヨーロッパ・アルプスの分水嶺を越える峠道を走る旅へと出掛けました。さらに６年前からはゲレンデスキーを再開し、モンブランなど欧州の雪の世界を滑走しています。<br />
　こうして今、振り返ると、トライアスロンは私の人生にとって一つの道標だったのかもしれません。</p>
<div id="attachment_1837" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4844.jpg"><img class="size-medium wp-image-1837" title="永田　峻氏近影（08年６月、横浜駅前のホテルにて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/cimg4844-300x225.jpg" alt="永田　峻氏近影（08年６月、横浜駅前のホテルにて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">永田　峻氏近影（08年６月、横浜駅前のホテルにて撮影）</p></div>
<p>【永田 崚氏プロフィール】<br />
<span style="color: #99a922;">1943年、東京で生まれ、４歳の時から大阪府豊中市に在住。大阪大学・原子力工学科卒業後、日本揮発油株式会社（現・日揮株式会社）へ入社、高速増殖炉燃料の研究・開発や核燃料再処理および放射性廃棄物処分プロジェクトのマネジメントに携わる。スポーツは、小学生時代に水泳を始め、クロールでは市内のチャンピオンとなる。大学時代は、全国各地へサイクリング旅行に出掛けた。マラソンは41歳の1984年に初めてフル・マラソンを完走、次いで同じ年の８月に湘南ハーフ・トライアスロン大会、10月にアイアンマン・ハワイ大会に出場、完走する。その後、複合耐久種目全国連絡協議会結成の呼び掛けに応じ、86年３月の日本トライアスロン協会（JTA）の初代理事長に就任した。翌87年には副会長となったが、年末から海外勤務となり渡米、90年には帰国したが、トライアスロンに復帰することはなかった。</span></p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.34：雷神の巻　第４章その3：全国組織が産声をあげた</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1809</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1809#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 26 Jun 2009 04:01:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/s02-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」

]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その3</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">全国組織が産声をあげた</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」</p>
</div>
<p>　</p>
<p>「準備委員会総会」が開かれた1984年６月から暫く経った後、それまでにアイアンマン・ハワイを始め国内外のトライアスロン大会に参加したトライアスリート達に一通の書状が届いた。それは白い封筒に入れられ、封筒の裏には「トライアスロン（複合種目）連絡会準備委員会代表幹事・佐々木秀幸」の名が記されていた。また書状には、「トライアスロンを普及、発展させる為に、全国のトライアスリートが参集する意見交換の場を設け、トライアスリートに関する情報収集や競技の安全対策などについて協議し、将来的に日本における中央団体の設立を目指す」との趣旨が述べられていた。<br />
　そして、その年の11月23日（金曜日）、東京・神宮の秩父宮ラグビー場クラブルームにおいて「複合耐久種目全国連絡協議会」の総会が開かれたのである。佐々木の呼び掛けに当日、集まったのは約70名。トライアスリートとしてJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）会長の矢後潔省を始め、後にJTA（日本トライアスロン協会）の会長となる清水仲治、同じく初代理事長となる永田　峻、JTRCと共に日本を代表する熊本CTC（クレイジー・トライアスロン・クラブ）会長の永谷誠一らが顔を揃えた。</p>
<div id="attachment_1811" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scimg4762.jpg"><img class="size-medium wp-image-1811" title="佐々木秀幸氏（08年５月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/scimg4762-300x225.jpg" alt="佐々木秀幸氏（08年５月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">佐々木秀幸氏（08年５月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影）</p></div>
<p>　総会では、初めに代表幹事の佐々木が挨拶に立ち、</p>
<p>　<span style="color: #df0a4a;">「トライアスロンを普及、発展させる為には、何よりも社会的認知を得る必要があります。それにはトライアスロンを愛するアマチュア選手達が中心となり、皆で力を合せ全国的な組織を創りあげなければなりません。その上で日本体育協会並びに日本オリンピック委員会へ加盟していくことが、日本のスポーツ界においてトライアスロンを認知して貰う唯一の道です。その前身であり将来の礎となるのが、この連絡協議会なのです」</span></p>
<p>　言わば協議会は全国的な組織を立ち上げる為の予備的な機関として設置するもので、この為、活動期間は発足から２年余とする時限立法的な組織として位置付け、その後、より広範な活動を展開する日本におけるアマチュア中央団体のJTAの設立を目指すこととした。従って協議会は、トライアスロンの普及と競技の安全対策を図ることを第一義に、その為の情報収集や研究活動に取り組むことに限定し、大会の開催や選手の派遣・選考は行わないことを規程に盛り込んだ。<br />
　次いで総会では、役員人事について専門委員会から提起された議案を協議した結果、幹事として清水仲治、永谷誠一、矢後潔省、村田統司、岩根久夫、中見隆男、橋本治朗の７名を選任、さらにこの中から代表幹事に清水、事務局長に村田が就任することが決まった。代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。</p>
<p>　<span style="color: #178d14;">「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」</span></p>
<div id="attachment_1812" style="width: 221px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s04.jpg"><img class="size-medium wp-image-1812" title="「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第１号（表紙部分）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s04-211x300.jpg" alt="「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第１号（表紙部分）" width="211" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第１号（表紙部分）</p></div>
<p>　ところで、連絡協議会の名称を「トライアスロン」とせず「複合耐久種目」としたのは、当時、中学校の間で&#8221;３種競技&#8221;と呼ぶスポーツがあって、トライアスロンと混同することを避けたからだという。しかし、翌85年５月には「全国トライアスロン協議会」へと名称変更し、その活動の輪を文字通り全国へと広げていく。</p>
<p>　総会の議事がすべて終了した後、81年２月に８名の日本人と共に第４回アイアンマン・ハワイへと旅立ち、以来、トライアスロン競技の医科学研究を続けてきた東京医科大学・循環器内科助教授（当時）の岩根久夫が「トライアスロンの安全管理について」と題する講演を行った。講演の中で岩根は、</p>
<p>　<span style="color: #f17317;">「人間がトライアスロンという長時間に及ぶ過酷な競技に耐えられるのは、ベータ・エンドルフィンと呼ぶ脳の視床下部から分泌される血液中の麻薬様物質が運動中の痛みや苦しみを緩和させ、危機的状態の生体をコントロールしているからです。しかし、決して無理をせず、悲壮にならず、マイペースで続ければ、ベータ・エンドルフィンの分泌も活発になり、アイアンマン・レースを完走することが出来るでしょう」</span></p>
<p>と述べた。この血中ベータ・エンドルフィンの上昇について、岩根はトライアスロンやマラソン競技選手の血液を採取し、世界に先駆け見事に実証したのである。</p>
<div id="attachment_1813" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s01.jpg"><img class="size-medium wp-image-1813" title="今は亡き岩根久夫氏（アイアンマン・ハワイの大会会場にて、写真左）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s01-300x198.jpg" alt="今は亡き岩根久夫氏（アイアンマン・ハワイの大会会場にて、写真左）" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">今は亡き岩根久夫氏（アイアンマン・　ハワイの大会会場にて、写真左）</p></div>
<p>《次回予告》<span style="color: #91a214;">「複合耐久種目全国連絡協議会」によるアマチュアのトライアスロン組織作りの一方で、トライアスロン愛好者によるクラブ作りも全国的な広がりを見せていた。その動静と、1984年12月に旗揚げしたATC（全日本トライアスロン・クラブ）について紹介すると共に、JTAの初代理事長となった永田　峻氏の＜トライアスロン談義＞を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞大様で明るく陽気な人生でした　【桜井　晋】</h3>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「先生、速いですね」</span><br />
　<span style="color: #339966;">「やあ、桜井さん。先に行かせてもらいました」<br />
</span>　<span style="color: #ff6600;">「先生の方がスイムを先に上がったのですね」<br />
</span>　<span style="color: #339966;">「いやいや、僕の方がきっと後だよ。おそらくトランジションで追い抜いたのだろう」</span><br />
　<span style="color: #ff6600;">「そうですか。それにしても速い。先生、頑張って下さい」</span></p>
<p>　1987年４月の第３回宮古島トライアスロン大会のバイクをスタートして、最初の東平安名崎を折り返し４Km余り走った緩く長い下り坂の途中で、私は清水仲治先生を抜きざま、声を掛けた。そして脚を休め暫く併走しながら、先生とお喋りをした。先生は３Kmのスイムを私より約14分遅れでフィニッシュしたものの、何のことはないトランジションに手間取っていた私をさっさと抜いて、バイクをスタートしていたのだ。<br />
　その後、登り坂に掛かって私は先生と別れを告げて先を急ぎ、残り100Km余りのバイクをこなしランに入ったが、何と！　私が走り出してから４Km程ほどの地点でまたもや先を走る先生と出会ったのである。</p>
<p>　<span style="color: #339966;">「やあ、また遭ったね。桜井さん、調子良さそうだね」</span></p>
<p>　先生は楽しそうに笑って、私を激励してくれた。私は内心、</p>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「また、ラン・トランジットで追い抜かれたようだ。調子が良いのは清水先生の方ではないか」</span></p>
<p>と思いながら、手を振りつつ、</p>
<p>　<span style="color: #ff6600;">「済みません。先に行かせて貰います。先生も頑張ってください」</span></p>
<p>　こうして清水先生とは、まるで兎と亀の如く追いつ追われつ、宮古島の炎天下を走り回った。最終的に先生とは50分余り先にフィニッシュした私だが、年齢が25歳も違う、言わば親子に近い年齢差を考えれば、私は先生に負けていた。</p>
<div id="attachment_1815" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02.jpg"><img class="size-medium wp-image-1815" title="1985年の「第１回宮古島トライアスロン大会」を力走する清水氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s02-300x206.jpg" alt="1985年の「第１回宮古島トライアスロン大会」を力走する清水氏" width="300" height="206" /></a><p class="wp-caption-text">1985年の「第１回宮古島トライアスロン大会」を力走する 清水氏</p></div>
<p>　<span style="color: #25b073;">「桜井さん、一緒に宮古島へ行きましょう」</span></p>
<p>　ATC（全日本トライアスロン・クラブ）が行う東京・品川区の大井埠頭での練習会で会う度、そんな言葉を掛けて私を盛んに誘ってくれた。そして、いつも先生は浅黒く日焼けした顔で口元と頬をやや膨らませながら、にこやかに話された。また、人の話に何度も何度も頷きながら、</p>
<p>　<span style="color: #25b073;">「ほほお、そりゃ凄いね。その自転車の乗り方を、教えて下さいよ。僕ももっと上手になりたい」</span></p>
<p>　こうして宮古島大会を始め他のトライアスロン大会に私を誘って戴き、苦しくも楽しい思いをさせてくれたのが、他ならぬ清水先生だったのである。</p>
<div id="attachment_1816" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s19.jpg"><img class="size-medium wp-image-1816" title="1985年の「第１回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの初期メンバーと記念撮影（前列左から３人目が清水氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s19-300x184.jpg" alt="1985年の「第１回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの初期メンバーと記念撮影（前列左から３人目が清水氏）" width="300" height="184" /></a><p class="wp-caption-text">1985年の「第１回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの　初期メンバーと記念撮影（前列左から３人目が清水氏）</p></div>
<p>　清水先生は当時、還暦を過ぎていたが、トライアスロンという新たなスポーツにチャレンジする意欲と向上心が漲っていた。そんな先生が連絡協議会の代表幹事を経て、やがてはJTAの副会長を経て会長となり組織の代表者となっていく過程で、私と個人的なアスリートとしてのお付き合いは遠ざかっていった。逆に社会組織的な観点から清水先生と私は、やがて対立的な関係に陥った。<br />
　それと言うのも、私は先生が会長を務めるJTAの組織運営を批判していたからだ。その為か、人伝えでは「清水先生は私を嫌い避けている」とのことだった。でも、先生のお人柄やお心を慕っていた私は、人伝えを気にすることもなかった。むしろ、お人好しの先生が組織の中にあって上手く論（あげつら）われていることに、一種の憤りさえ感じていた。<br />
　私がJTAを批判していたのは、組織のあり方、やり方が、余りにも稚拙で独善的だと思っていたからである。当時、JTAの幹部役員達は公の団体を運営するという意識が希薄に欠け、仲間意識ばかりが強く外部の意見を取り入れようとしない排他的な姿勢が目についた。実際、JTAは傲慢な組織運営を続けた挙げ句、JTA設立からほぼ４年後には財政的に行き詰まり自己破綻したのである。私はそうしたJTAという中途半端な組織活動の中核に、清水先生が孤立的に存在していることが悲しかったのだ。</p>
<p>　それからというもの、清水先生と私は一アスリートとして交わる機会はほとんど無かった。一度、パーティの席でお会いし、簡単な挨拶程度の言葉を交わした記憶はあるが、以後、お会いすることなく、先生は先立たれた。<br />
　1996年１月23日、先生は74歳の生涯を閉じられた。前年6月に脳梗塞で長野駅のホームで倒れて以来、闘病生活を送られていたが、不整脈を発病するなどして、その命を閉じられたのである。トライアスロンに関して言えば、結局、先生は12年間の&#8221;トライアスロン人生&#8221;だった。</p>
<p>　先生が亡くなられて10年後の2008年６月、私は横浜市磯子の先生の御自宅を訪ね、先生の位牌と面会した。今なお御健在である奥様の清水　和（かず）夫人とお会いし、先生の思い出話をお聞きした。その中で奥様は先生のことを、次のように語られた。</p>
<p>　<span style="color: #7aa300;">「大変まめな人で、海外旅行した後は、いつも写真を整理してアルバムに貼り付けていました。そのくせ、家の細かな用事はトンとしないで、自転車に乗ったり走ったりの毎日、トライアスロンのことでは一生懸命でした。まあ、大様な性格と言いますか、苦労をしない、好い人生だったのではないでしょうか」</span></p>
<div id="attachment_1817" style="width: 239px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s03.jpg"><img class="size-medium wp-image-1817" title="1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/s03-229x300.jpg" alt="1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏" width="229" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏</p></div>
<p>【故清水仲治氏プロフィール】<br />
<span style="color: #993300;">1922年２月、神奈川県出身。日本体育大学卒業後、陸軍士官学校の教官を経て満州へ出征。戦時中の1944年に和（かず）夫人と結婚。戦後は神奈川県立商工高等学校の教員を28年間、勤める。1983年に定年退職し、神奈川歯科大学の体育講師となる。1961年にスポーツ用品等の販売会社「清水スポーツ」を創立する一方、「神奈川県走友会」会長を勤める等、地域スポーツの振興に尽力する。自らスキー、マラソン、サイクリング、野球等、スポーツ万能なアスリートだが、定年後はトライアスロンにのめり込む。「日本トライアスロン協議会」代表幹事、「日本トライアスロン協会」会長としてトライアスロンの普及、発展に貢献する。1995年、脳梗塞で倒れ、翌96年１月、享年74歳でスポーツ人生を終える。</span></p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.33：雷神の巻　第４章その2：安全対策が普及の鍵だ</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1799</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1799#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 25 Jun 2009 06:32:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>
		<category><![CDATA[発展]]></category>
		<category><![CDATA[組織]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1799</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />その第一歩が1984年５月18日に東京・代々木の岸記念体育会館で開かれた「第１回トライアスロン（複合種目）連絡会」である。佐々木を代表幹事とする陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者や、医学会などの研究者、それにアイアンマン・ハワイへの出場経験を持つトライアスリート達が顔を揃えた。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第４章その2</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">安全対策が普及の鍵だ</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">その第一歩が1984年５月18日に東京・代々木の岸記念体育会館で開かれた「第１回トライアスロン（複合種目）連絡会」である。佐々木を代表幹事とする陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者や、医学会などの研究者、それにアイアンマン・ハワイへの出場経験を持つトライアスリート達が顔を揃えた。</p>
</div>
<p><span style="color: #993366;">「気象条件も違えば、ロケーションも異なる。ならば、陸上競技のマラソンと同じだけれど、マラソンが42.195Kmと決められているのに対し、トライアスロンは大会によって距離がまちまち。だからタイムの比較も出来ない。それに計測方法も整っていないし、第一、参加選手達の健康と安全の管理が余りにも不備である。こうした点からトライアスロンが記録に挑戦する競技スポーツとして成り立つかどうか？　さらに、トライアスロンが抱える問題を克服していく為の中央組織も、全く存在しない」</span></p>
<p>　佐々木秀幸は、こうしたトライアスロンの特性や現状に対し憂慮していた。だからといってトライアスロンを否定していた訳ではない。むしろ、水泳・自転車・陸上の３種目を、ほぼ連続的に長時間に及んで行う運動は、記録的に行き詰まり状態にある長距離競技やマラソン選手達のクロス・トレーニングとして有効ではないかと考えていた。</p>
<p>　<span style="color: #993366;">「それにしても、トライアスロンをより良い道へと誘導するコントロール・タワーを整備する必要がある」</span></p>
<p>　1982年２月のアイアンマン・ハワイで女子選手のジェリー・モスが四つん這いになりながら劇的なゴール・シーンを世界の人々に見せて以来、国際的なトライアスロン・ブームが到来し、日本でも次々とトライアスロン大会が開催されていく状況を垣間見ながら、佐々木や橋本治朗はトライアスロンの普及、発展の為の諸条件を整備することが必要不可欠と思った。そこで佐々木は陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者らと共に、一時、中断していた「トライアスロンを考える会」の会合を再開し、トライアスロン競技に関わる研究討論を重ねる一方、トライアスロン組織創りの具体的な検討を始めたのだ。</p>
<div id="attachment_1801" style="width: 254px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/triathlon00011.jpg"><img class="size-medium wp-image-1801" title="トライアスロン・ブームの高まりに応じて1984年12月、トライアスロンの専門誌『トライアスロン Japan』が隔月間で創刊された。" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/triathlon00011-244x300.jpg" alt="トライアスロン・ブームの高まりに応じて1984年12月、トライアスロンの専門誌『トライアスロン Japan』が隔月間で創刊された。" width="244" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">トライアスロン・ブームの高まりに応じて1984年12月、トライアスロンの専門誌『トライアスロン Japan』が隔月間で創刊された。</p></div>
<p>　その第一歩が1984年５月18日に東京・代々木の岸記念体育会館で開かれた「第１回トライアスロン（複合種目）連絡会」である。佐々木を代表幹事とする陸上、水泳、自転車などトライアスロン競技に関わるスポーツ界の指導者や、医学会などの研究者、それにアイアンマン・ハワイへの出場経験を持つトライアスリート達が顔を揃えた。この会合では、全国的に広がり始めたトライアスロン大会の情報を収集する中央センター設立の必要性が訴えられた。<br />
　次いで翌６月４日の第２回会合を経て、同じく６月24日の日曜日に東京・千駄ヶ谷の国立競技場内クラブルームにおいて全国連絡会発足の為の「準備委員会総会」が開催されたのである。この時、集まったのは佐々木を始め村田統治や浪越信夫、それに橋本や佐野など発起人グループと、東京医科大学助教授(当時)の岩根久夫、東海大学教授の中見隆男、それに熊本CTCの永谷誠一やJTRCの矢後潔省らトライアスロン・クラブの代表者、その他ジャーナリストなど35名である。</p>
<div id="attachment_1802" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260.jpg"><img class="size-medium wp-image-1802" title="日体協など日本の中央スポーツ団体が集まっている東京・代々木の岸記念体育会館" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0260-300x225.jpg" alt="日体協など日本の中央スポーツ団体が集まっている東京・代々木の岸記念体育会館" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">日体協など日本の中央スポーツ団体が集まっている東京・代々木の岸記念体育会館</p></div>
<p>　この席で挨拶に立った佐々木は、組織創りの課題を次のように語った。</p>
<p><span style="color: #993366;">「トライアスロンを普及させていくには、何よりも選手達の安全性を確保していかねばなりません。この視点を欠いてしまったら、普及も発展もありません。その為に競技ルールや大会ロケーションの整備を図る中央的な組織の設立が必要不可欠だと思います。それは全国のトライアスロン選手達の為の、選手達による組織でなければなりません。その前段として、今年中に全国のトライアスロンの代表者達が集う連絡協議会を発足したいと考えています」</span></p>
<p>　いわゆるナショナル・ガバニング・ボディの在るべき姿が提起されたのである。日本トライアスロン協会（Japan Triathlon Association＝略称JTA）は、その後、約２年後に設立された。<br />
 </p>
<p>《次回予告》<span style="color: #4c25b0;">日本トライアスロン協会（JTA）の前身である「複合耐久種目全国連絡協議会」の発足と、代表幹事に就任し、後にJTA会長となった清水仲治氏（故人）の思い出を語ります。</span></p>
</div>
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