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	<title>TRI-X &#187; クラブ</title>
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		<title>Vol.28：雷神の巻　第３章その6：トライアスロン・クラブの誕生②</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1719</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/1719#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 05:43:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[80年代]]></category>
		<category><![CDATA[クラブ]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[拡大]]></category>
		<category><![CDATA[普及]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その6</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トライアスロン・クラブの誕生②</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p>  1982年10月のアイアンマン・ハワイを日本人第1位で完走した矢後潔省（きよみ）は、同じ大会で日本人第３位となった愛知県出身の横井信之の存在を知った。その横井も、自分と同じく「トライアスロンを地域に広めていきたい」という共通の願いを持っていた。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」</span></p>
<p>　矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。そこで発想されたのが「JTRC＝ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ」と呼ぶ、トライアスロンを目指す全国のアスリート達が参画するクラブ組織だった。矢後と横井の２人は、12月にクラブ名を決めて、それぞれの地域で仲間集めを開始した。</p>
<p>　まず矢後は、翌83年春に「静岡トライアスロン・クラブ」を設立、次いでランニング雑誌『ランナーズ』の誌上で「JTRC」への参加呼び掛けを行った。集まってきたのは関東、中部、近畿、四国のアスリート達で、主にハワイ大会や皆生大会に選手として出場したメンバーである。それら全国のアスリート達に、矢後は「JTRC」のロゴが入った帽子やＴシャツを造り配った。<br />
　全国のアスリート達との電話や郵便による情報交換、資料や用品の配送業務など、矢後は朝から夜中までクラブ活動に奔走した。当時、サラリーマンとして地元企業に勤めていた矢後だが、「JTRC」の運営業務のため何度となく勤務を休んだし、また毎月12万円ほどかかった郵便代も、すべて自分の給料から賄うくらい「JTRC」活動に投じたのだ。時間もお金も投げ打ち、それこそ１日24時間をフルタイムでトライアスロンの普及、拡大に専念したのである。</p>
<div id="attachment_1720" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1720" title="JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-1-300x124.jpg" alt="JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）" width="300" height="124" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCの仲間達（写真提供；矢後氏）</p></div>
<p>　その結果、「JTRC」の本部を矢後が住む静岡県駿東郡小山町に置いたのをはじめ、全国規模のクラブ組織らしく地域ごとに支部を設置、83年末には合計12支部に135名の会員が集結した。ちなみに、その時の12支部の名称・所在地・連絡先名は、次の通りである。</p>
<p>◎静岡支部＝静岡県富士宮市、近藤　博<br />
◎愛知支部＝愛知県大府市、横井信之<br />
◎神奈川支部＝横浜市鶴見区、中山俊行<br />
◎東京支部＝東京都品川区、猪川三一生<br />
◎千葉支部＝千葉県市川市、市川祥宏<br />
◎埼玉支部＝埼玉県入間郡毛呂山町、奥崎　修<br />
◎群馬支部＝群馬県高崎市、諸山　司<br />
◎大阪支部＝大阪府八尾市、脇田重男<br />
◎京都支部＝京都府宇治市、北村浩士<br />
◎奈良支部＝奈良県奈良市、松井正夫<br />
◎和歌山支部＝和歌山県和歌山市、日野善生<br />
◎愛媛支部＝愛媛県松山市、浜岡隆文</p>
<p>　各支部の会員数は東京が32名、次いで静岡が30名で、この２つの支部が「JTRC」会員全体の半分近くを占めた。続いて神奈川18名、愛知13名、千葉12名、あとの７支部は一桁台の会員数である。本拠本元の静岡は別として、大都市を中心に順次、トライアスリート達が集まってきたのだ。</p>
<div id="attachment_1721" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc.jpg"><img class="size-medium wp-image-1721" title="JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、後列左端が市川氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/jtrc-300x249.jpg" alt="JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、後列左端が市川氏" width="300" height="249" /></a><p class="wp-caption-text">JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、　後列左端が市川氏</p></div>
<p>　また、その中心的な役割を担ったのが、支部長として連絡窓口となったアスリート達で、その中にはエリート選手として活躍する中山や横井、84年暮れに発足した我が国最大規模のトライアスロン・クラブ「ATC＝オールジャパン・トライアスロン・クラブ」の中核的役割を担った市川、猪川の名前も連なっている。このうち猪川は85年になって“チーム・エトナ”の監督として中山、横井らを率いたほか、矢後や市川が立ち上げたびわ湖トライアスロン大会や宮古島トライアスロン大会のマーシャル・リーダーとして活躍する。<br />
　こうした「JTRC」の組織化と活動について、副会長を務めた市川は当時のことを、次のように話す。</p>
<p><span style="color: #0000ff;">「矢後さんはトライアスロンに燃えていました。私も関東地域のトライアスリートの組織化に傾注しましたが、彼は私以上の情熱を持って取り組んでいました。そして後に私と猪川さんはATCを立ち上げましたが、トライアスロンに対する思いは皆、同じでした。この素晴らしいスポーツを日本中に広め、楽しんでいきたいと願っていたのです」</span></p>
<p>　そうした矢後のトライアスロンに賭ける情熱が功を奏してか、「JTRC」は最終的に全国36支部、会員総数およそ1,000名の巨大クラブに成長していったのである。矢後をはじめとする数多くのトライアスリート達の熱い想いが集結した結果である。</p>
<div id="attachment_1722" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago.jpg"><img class="size-medium wp-image-1722" title="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-300x225.jpg" alt="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）</p></div>
<p>《次回予告》<br />
石川県小松市で1982年10月に開催された「小松トライアスロン大会」の模様を２回にわたって連載します。</p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞トライアスロンに打ち込むため会社を辞めた　【横井　信之】</h3>
<p>　私は子供の頃からスポーツ大好き人間で、スポーツと共に日々を送っていました。水泳は小学生の時から始め、中学生３年生の時は愛知県大会の200mクロールで優勝、中部地区ジュニア大会では６位になりました。また、通学では毎日５Kmほど自転車を使っていましたし、冬場はもっぱら駅伝選手として中長距離を走っていました。つまり中学生の頃から、私はトライアスロンの３種目を経験していた訳です。<br />
　水泳は高校まで続けましたが、大学時代は同好会のアメフトで汗を流し、時にはランドナーにまたがって、九州一周のツーリングなどを楽しんでいました。そして大学を卒業し技術者として株式会社デンソー（旧日本電装）に入社しましたが、やはりサラリーマンになってからも会社の屋外プールで泳いだり、社員寮から会社までランニング出勤するなど、スポーツと共に生活していたのです。</p>
<p>　そんな私がトライアスロンに挑戦することになったのは、入社した翌年、81年２月の新聞記事を見たのがきっかけです。８名の日本人がハワイ島で開催されたトライアスロン大会に出場し、完走したという記事で、写真も沢山、掲載されていました。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「今まで自分が取り組んできたスポーツだし、水泳ならば外国の人達にも退けはとらない。やってみよう」</span></p>
<p>　周囲には誰一人としてトライアスロンをやる者はいませんでしたが、私は密かに決意し、自分一人で３種目のトレーニングを開始しました。スイムは会社が定時となる17時25分からすぐさま会社のプールで１時間ほど泳ぎ、再び職場に戻って仕事に就きました。そんな仕事のやり方が出来たのも、物分かりの良い上司の計らいでした。<br />
　また、休日の土曜ないし日曜日は、早起きして知多半島を巡る約100Kmのバイク・トレーニングを行い、社員寮へ戻ってくると今度は刈谷市から名古屋市緑区の大高緑地公園まで往復10Kmのランニング、という具合に、量と質を兼ね備えたトレーニングを積んでいきました。ちなみにロードレーサーは後輩から譲り受けたもので、それをハワイ大会に持ち込みました。</p>
<div id="attachment_1724" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1724" title="若きアスリート時代の横井選手（写真提供；横井氏）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-1-225x300.jpg" alt="若きアスリート時代の横井選手（写真提供；横井氏）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">若きアスリート時代の横井選手　　　　　　（写真提供；横井氏）</p></div>
<p> <br />
　ハワイのアイアンマン大会に参加したのは1982年10月、私が24歳の時です。河野禎介さん達３～４人のメンバーで、大阪発のツアーに参加しました。レースは長丁場、相当に時間がかかると思っていましたが、我ながら案外、早く済んだという印象です。スイムの3.84Kmも１時間３分17秒と当初予想したよりも速く、陸へ上がった時には何がなんだか分らないほど興奮していました。総合タイムは13時間33分51で総合460位、日本人では３番目のフィニッシュでした。<br />
　今思うに、このアイアンマン・レースを完走していなかったら、私はトライアスロンに取り組むことはなかったでしょう。しかし、最初のトライアスロンで、まずまずのタイムで完走した喜びと充足感が、その後の私の進路を変えたのです。ハワイから戻った翌83年、私はトライアスロンに打ち込むため、会社を辞めました。そして中京大学大学院修士課程で運動処方の勉学を始めるかたわら、トライアスロンのトレーニングに専念していきました。</p>
<p>　そんな決意をしてトライアスロンに取り組んだ私ですが、83年に初めて出場した皆生トライアスロン大会では、総合70位と不本意な成績でした。スイム３Kmは58分のトップでフィニッシュ、総合優勝した梅沢君よりも先に上り、バイクは途中までトップを守り続けたのですが、不運にも砂利道でパンクに見舞われ、苦手のランは７時間近くかけて歩いてしまうなど、惨めな結果に終わりました。<br />
　しかし、翌84年のアイアンマン・ハワイでは日本人として一桁順位でフィニッシュしたこともあって、中山君や山本君など日本のエリート選手で構成する“チーム・エトナ”のメンバーに迎え入れる話が届きました。もちろん、私はトライアスロンに打ち込む覚悟でしたので、その要請を受け入れ、以後、85年10月の天草トライアスロン大会を皮切りに“チーム・エトナ”の一員として数々のトライアスロン大会に出場していったのです。</p>
<div id="attachment_1725" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/etna.jpg"><img class="size-medium wp-image-1725" title="84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/etna-300x225.jpg" alt="84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から２番目が中山選手、３番目が横井選手、右端が山本選手</p></div>
<p>　その一方、名古屋市内のサイクルショップ「二光製作所」に集まっていたアスリート達と共に、中京大学のプールやキャンパスを使用してトライアスロンのトレーニングを行い、地域でのトライアスロンの普及活動にも力を入れました。エリート選手として、そしてまた地域の指導者としてトライアスロンの普及、発展に力を注いだ積もりですが、そんなトライアスリートとしての私の活動に終止符が打たれることになったのは、トライアスロンを始めてから10年後のことです。<br />
　得意のスイム競技はトップレベルを維持していたものの、バイクでのドラフティング・ルールがなくなり、スイムでリードしていたアドバンテージ（優位性）がなくなってしまったからです。だからレースでは勝てなくなったし、それにレースがスピード化したため、あらかじめバイクシューズをペダルに着けておくなど、総じて競技手法が姑息になり、私には馴染まなくなりました。<br />
　1992年９月、波崎で行われたアジア・トライアスロン大会を最後に、34歳になった私はトライアスロンから引退しました。寂しい気持も残りましたが、今では若い元気の好い時代にトライアスロンに打ち込み、85年以降、次々と開かれていった新規大会にすべて参戦し、汗と涙を流していった経験を楽しく、思い出深く感じております。</p>
<div id="attachment_1726" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/result.jpg"><img class="size-medium wp-image-1726" title="横井選手の初期の競技記録" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/result-300x225.jpg" alt="横井選手の初期の競技記録" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">横井選手の初期の競技記録</p></div>
<p>《横井信之氏プロフィール》<br />
<span style="color: #38992b;">1958年、愛知県岩倉市で生まれ育つ。小・中学生時代より水泳並びに陸上選手として活躍すると共に、大学時代はアメリカン・フットボールやサイクル・ツーリングを楽しむ。1981年に永谷誠一ら８名の日本人がハワイ島で行われたトライアスロン大会に参戦した新聞記事を見て、アイアンマンへの挑戦を決意、翌82年のハワイ大会に出場し、矢後潔省、藤井真太郎に次いで日本人第３位でフィニッシュする。85年の天草トライアスロン大会には中山俊行らと共に“チーム・エトナ”のメンバーとして出場したのを始め、次々と開催される新規トライアスロン大会に参戦していった。34歳の時、トライアスロン選手を引退、現在は中部大学の体育講師として後進の指導に当たっている。<br />
</span> </p>
<div id="attachment_1727" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1727" title="横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yokoi-2-225x300.jpg" alt="横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">横井信之氏近影（07年９月、名古屋市内にて撮影）</p></div>
</div>
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		</item>
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		<title>Vol.27：雷神の巻　第３章その5：トライアスロン・クラブの誕生①</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/1703</link>
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		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 02:38:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
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		<category><![CDATA[普及]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/article/?p=1703</guid>
		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-100x100.jpg"="0" alt="" class="fl bdr" />そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。　その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」　そう決断したのである。

]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第３章その5</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">トライアスロン・クラブの誕生①</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-100x100.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-100x100.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。　その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」　そう決断したのである。</p>
</div>
<p>　</p>
<p> 我が国トライアスロンの黎明期とも言える1980年代前半は、中山俊行をはじめとしたエリート選手の活躍の一方、トライアスロンを生涯スポーツ、或いは市民スポーツとして、その普及、発展に携わっていったアスリート達の活躍も見逃せない。</p>
<p>　その最先端を切っていたのは、言うまでもなく81年２月にハワイ島コナ市で行われた第４回アイアンマン・ハワイ大会に日本人として初めて参加した永谷誠一や堤　貞一郎ら熊本県のアスリート達である。彼ら肥後もっこす達はハワイ大会を経て、同じその年の８月に第１回皆生トライアスロン大会に参加した後、翌９月に我が国で最初のトライアスロン・クラブ「熊本CTC＝熊本クレイジー・トライアスロン・クラブ」を設立した。皆生大会の打ち上げを兼ね、堤が幹事長、永谷が会計担当だったランニング同好会「熊本走ろう会」のメンバーを中心に、熊本市をはじめとする地域の仲間達に呼びかけたのである。<br />
　熊本市内の蕎麦店「山本屋」に会したメンバーは、第２回皆生トライアスロン大会に出場した田上栄一や下津紀代志ら約20名。もっぱらクラブの名称について議論し合った。その結果、決まったのが「熊本クレイジー」だったのだ。クラブ設立の趣旨について永谷は、次のように話す。</p>
<p><span style="color: #00d600;">「遊び心を第一にやろうちゅうことたい。そっじゃあ、クラブ名も堅苦しくならんよう、クレイジーと名付けたばい。まあ、気楽にトライアスロンを楽しもうということたい」</span></p>
<p>　だからクラブ組織も出来るだけ平易な組織にしようと、堤も永谷も役職に就かなかった。しかし、クラブ事務所を永谷が経営していたランナーズ・ショップ「山想」に置いた関係上、ゼネラル・マネジャーには永谷の妻・永谷安子が就任、クラブ運営の事務方としてクレージーな連中の世話役となったのである。その他の役職として、会計役を“勘定奉行”、ランニング担当を“韋駄天奉行”と呼ぶなど、ややおふざけを交えながら発足したのである。その後、会員はトライアスロンの普及、拡大と共に増え、最終的に八代、天草、人吉など熊本県全域に広がって、およそ200名ほどの大所帯になっていった。永谷夫妻を中心にトライアスロンの普及、トライアスリートの育成を献身的に図っていった成果である。</p>
<div id="attachment_1704" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/040903.jpg"><img class="size-medium wp-image-1704" title="かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏（04年９月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/040903-225x300.jpg" alt="かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏（04年９月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏（04年９月撮影）</p></div>
<p> 　このように「熊本CTC」は、我が国トライアスリートの先駆者が、まさしく先駆的に取り組んだクラブだが、その後、トライアスロンへの挑戦を試みるクラブ組織は全国的な規模で、次々と誕生していった。「熊本CTC」が誕生した翌年の82年には、茨城県で「筑波学園都市トライアスロン・クラブ」、岡山県で「岡山アイアンマン・トライアスロン・クラブ」、福岡県で「スーパーマン・クラブ・イワイ」が発足、練習会や情報交流をはじめとしたクラブ活動を開始したのである。</p>
<p>　なかでも、福岡県久留米市に本拠を置く「スーパーマン・クラブ・イワイ＝SUPERMAN CLUB IWAI」は、その名の通り地元のサイクル・ショップの店長でありサイクリストの岩井公一が、同じ「久留米サイクリング・クラブ」のメンバーである片岡宏介らと結成したトライアスロン・クラブである。そして、1982年５月にクラブを立ち上げた久留米のアスリート達は、その年の11月に『久留米トライアスロン大会』を開催したのである。クラブ独自の手作りで開いた、日本で初めてのトライアスロン大会であった。（大会の模様は、後日、紹介します）</p>
<div id="attachment_1705" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0204.jpg"><img class="size-medium wp-image-1705" title="久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏（02年４月撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/dscf0204-225x300.jpg" alt="久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏（02年４月撮影）" width="225" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏（02年４月撮影）</p></div>
<p>　その後、1983年に入って静岡県のアスリートである矢後潔省が「静岡トライアスロン・クラブ」を設立し、さらに同クラブを全国的に拡大、発展させようと創ったのがJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）である。まさしく全国的規模でのトライアスロン・クラブとして、当時から1980年代にわたって活躍したトライアスリートの多くが、なんらかの形でJTRCと繋がりを持つことになる。<br />
　そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。矢後は静岡県駿東郡小山町の出身で、幼い頃から運動能力に長けたスポーツマンとして育ったが、29歳の時、トライアスロンを知り、トライアスロンの世界に入った。当時のエリート選手だった中山俊行や梅沢智久よりも一世代上の矢後だったが、ランのほかスイムも得意とし、82年10月のアイアンマン・ハワイでは日本人第１位となっている。　その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、</p>
<p><span style="color: #00d600;">「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」</span></p>
<p>　そう決断したのである。</p>
<div id="attachment_1706" style="width: 151px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-1706" title="83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-1-141x300.jpg" alt="83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）" width="141" height="300" /></a><p class="wp-caption-text">83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手（『Athletic Book』84年１月ランナーズ刊より）</p></div>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #3c0cd3;">トライアスロン・クラブの誕生②として、JTRCの活動を紹介すると共に、当時、中部圏のトップ・トライアスリートとして活躍した横井信之選手のトライアスロン・ライフを紹介します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h3 class="mceTemp">＜トライアスロン談義＞人生最大の感動を味わった　【矢後　潔省】</h3>
<p> <br />
　私は、西に富士山、南に箱根山塊、そして北東にかけては西丹沢の山々に囲まれた静岡県の小山町で生まれ育ちました。そう、私は「足柄山の金太郎」で有名な山中を舞台に、55歳になった今日まで両親や妻、そして３人の子供と共に暮らし、スポーツや登山を楽しんできたのです。</p>
<p>　そのスポーツですが、私が最初に始めたのは小学２・３年生の頃からです。駿河小山の街中にある自宅から酒匂川の支流・須川沿いの道を、町の柔道場である「日の丸道場」まで往復４Kmほど、毎日のように走りました。中学生になってからは大桐山の麓に切り開かれたツツジの名勝「富士霊園」まで起伏の強い道程を往復約10Km、走っていました。</p>
<p>　それで、中学校のマラソン大会では常にトップクラスの成績を修め、さらに高校生になってからは駅伝大会で“花の４区”を走りました。また水泳も得意で、中高校生時代は出身校の成美小学校の50mプールで泳ぎ、いつでも10Kmくらいは泳げる力を養っていました。こうして私はランニングとスイミングを社会人になるまで続け、トライアスロン時代が幕開けする時代を待っていたと、今にして思います。</p>
<div id="attachment_1708" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-2.jpg"><img class="size-medium wp-image-1708" title="若きアスリート時代の矢後選手（写真左）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-2-300x198.jpg" alt="若きアスリート時代の矢後選手（写真左）" width="300" height="198" /></a><p class="wp-caption-text">若きアスリート時代の矢後選手（写真左）</p></div>
<p>　そのトライアスロンという３種目の競技があるのを知ったのは、1981年12月に私がホノルル・マラソン大会に参加した時でした。その年に日本でも皆生トライアスロン大会が開催されていたのですが、実は皆生のことはまったく知らず、ハワイ島で行われたトライアスロン大会に注目していたのです。</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「ハワイのトライアスロン、距離は長いけれど自転車さえこなせば完走できる」</span></p>
<p>　そんな予感が、私を翌年10月のハワイ大会出場へと誘ってくれたのです。ホノルル・マラソン大会から帰国した私は、早速、ロードレーサーを１台、購入しました。初めて乗るレーサーですが、幸い自転車部品メーカーの株式会社シマノ（旧島野工業）に勤める友人がいて、その友人からバイクの乗り方やメンテナンスの基礎を教えてもらったのです。<br />
　練習はまず、沼津から富士宮、そして富士五湖周辺を巡る富士山周遊道路を一周する180Kmのサイクリングから開始、次いで御殿場から山中湖に至る篭坂峠（標高1,104m）のアップダウン・トレーニング、富士スバルラインを富士山５号目まで上るヒルクライム、沼津千本浜でのクルマのタイヤを引き摺ってのパワー・トレーニング、そして御殿場のフィットネス・ジムでのマシン・トレーニングなど、周囲のロード環境や施設をフルに活用したバイク練習に明け暮れました。ある時は富士山の須走をレーサーで下りましたが、前輪が舞い上がりながら急滑降した恐ろしさを忘れることができません。</p>
<p>　こうして私は従来のスイムとランに加えバイクの練習を積んで、その後、開催を知った82年７月の皆生トライアスロン大会に参加しました。初のトライアスロン、しかもたった独りでの参加。鳥取県米子市へ向かう東名高速道路を突っ走りながら、私の胸の中は不安で一杯でした。</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「おお、なんて皆、強そうなのだろう」</span></p>
<p>　皆生温泉の大会会場に集まってきた選手達を見て、私はたじろぎました。なかでも観光バスで大挙、乗り着けた熊本の選手達の話し振りは自信に満ち溢れており、私は彼らの言動をただただ羨望の眼差しで眺めるばかりでした。</p>
<p>　その年の皆生トライアスロンは、前年の第1回大会よりも距離が延びスイム３Km、バイク103.６Km、ラン40Kmとなりましたが、レースは当初イメージしていたほど辛くなく、楽にフィニッシュできました。総合タイムは10時間42分、順位は100人中30位でした。初めてのトライアスロンだったのでレース序盤は慎重になり過ぎ、持てる体力をどのように使えばよいか？　その配分が判らず仕舞で終わった気がします。しかし、</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「これならば、ハワイもやれる」</span></p>
<p>　約２箇月後の10月９日に迫るアイアンマン・ハワイへ自信が着きました。</p>
<p>　ハワイの大会も皆生と同じく単独で参加、大会会場を探すことから始まり、片言の英語で受付けを済ませるなど、すべて自分一人で行動しました。カーボロード・パーティでも日本人と会うことができず、結局、現地滞在中の丸１週間、コテージで一人だけの自炊生活を続けたのです。<br />
　レースは、スイムで肩を掴まれ水中に潜ったり、バイクでは血糖値が下がって眠くなるなど、いろいろな経験を味わいましたが、練習の甲斐もあって自分なりに納得できる成果をあげたと思います。記録は12時間７分28秒、総合217位、参加した11人の日本人の中ではトップでした。この時、スイムでダントツの日本人トップであがったのが横井信之さんで、後に彼とは全国組織のトライアスロン・クラブ“JTRC”を立ち上げたのです。<br />
　それにしても、ハワイでフィニッシュしたその時の感動は、25年経った今もなお忘れることはありません。</p>
<p><span style="color: #f01c0e;">「やったあ！」</span></p>
<p>　あの衝撃的な思いは、私の人生で最大の感動とも言えるものでした。<br />
 <br />
《矢後潔省氏プロフィール》<br />
<span style="color: #0000ff;">1952年、静岡県駿東郡小山町で生まれる。子供の頃からマラソンやスイミングに長け、社会人となり29歳の時、トライアスロンに挑戦することを決意、82年の皆生大会とハワイ大会に出場し、完走する。翌83年には「静岡トライアスロン・クラブ」を設立するとともに、トライアスロンを全国規模に広げようと有志と共にJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）を立ち上げ、会長に就任する。以後、トライアスリートとして活躍する一方、JTRCを舞台にトライアスロンの拡大、発展のため、献身的な普及活動を行う。トライアスロンから引退した今は、富士山登山を楽しんでいる。</span></p>
<div id="attachment_1709" style="width: 310px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3.jpg"><img class="size-medium wp-image-1709" title="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/yago-3-300x225.jpg" alt="矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）" width="300" height="225" /></a><p class="wp-caption-text">矢後氏近影（07年４月、小山町の自宅前にて撮影）</p></div>
</div>
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