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Vol.53:火神の巻 第6章 その6:将来を担う選手が勢揃い

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第6章その6

将来を担う選手が勢揃い

【この記事の要点】

1985年10月13日(日曜日)、総数335名の出場選手は、それぞれ思い思いの気持を抱いて、我が国で初めて行われるインターナショナル・スタンダード(IS)タイプと称する「第1回天草国際トライアスロン大会」の当日を迎えた。そして、スターターを務めたJTFの長嶋会長は、「51.5Kmという、この競技距離こそ文字通りスタンダードなトライアスロンであり、いずれはオリンピック競技種目になるに相応しい」旨のスピーチを行った。

模擬(リハーサル)レースをトップでフィニッシュした中山俊行(当時22歳)は、2週間後に控えた本番のレースでも「勝てる!」との感触を得ることが出来たものの、我ながら目に見えないプレッシャーを感じない訳にはいかなかった。それというのも、プロトライアスリートとしてエトナ・ライセンシンズ株式会社の社員となった彼は、その会社のオーナーである高木省三社長が立ち上げた天草トライアスロン大会というスポーツ・イベントに、チーム・エトナのリーダー格として主役を演じ切ることが絶対の使命であったからだ。実際、高木社長からは、

これは君が勝たなければならないレースだ。必ず勝て!」

と言われていた。プロとしてスタートした中山にとって当然の責務であったかも知れないが、しかし、レースは水物である。いつ、どうなるかは判らない。でも彼は、高木に対し躊躇することなく応えた。

「私が勝ちます」

中山はまだ大学を出たばかり22歳の若者だが、プレッシャーを撥ね退け、むしろプレッシャーをバネに取り組んできた今までのスポーツ人生を糧に、天草大会の本番では「存分に戦い抜こう」と決意を固めた。そして、この一戦に51.5Kmのショート・ディスタンス・トライアスロンの命運がかかっていると、中山は強い思いで大会本番の日を待った。


模擬レース時の中山俊行選手(天草国際トライアスロン大会10回大会記念写真集より=以下同)

一方、熊本で大学生活を送っていた宮塚英也(21歳)は、その年の8月に宮崎で行われたハーフ・トライアスロンでトライアスロンを体験しているものの、正式かつ本格的なレースとして出場するのは天草大会が初めてのことなので、一体、どこまで自分がやれるのか? 完走の挙げ句、自分のタイムや順位がどうなるのか? まったく想像すらつかなかった。だから、スイムだけ参加した模擬レースの後も、

「まあ、やるだけのことはやってみよう」

と半分、気楽な思いで過ごしていた。

また、一般参加選手として天草大会が初めてのトライアスロン挑戦となった鈴木 進と令子夫妻は、大会の前日に東京を飛び立ち熊本経由で、同じ大会参加のトライアスリート達と共に現地入りした。本来はアイアンマン・ハワイなどロング・ディスタンスのトライアスロンへの挑戦が夢だったが、兎に角、まずは距離が短いショート大会でトライアスロンを経験することが大切との先輩のアドバイスに従いエントリーしたのだ。


大会ロケーション

こうして総数335名の出場選手は、それぞれ思い思いの気持を抱いて、我が国で初めて行われるインターナショナル・スタンダード(IS)タイプと称する「第1回天草国際トライアスロン大会」の当日を迎えた。スイムのスタート会場は熊本県本渡市(現天草市)の中心街から約3Kmほど離れた茂木根(現本渡)海水浴場である。この大会の誘致案内をした熊本CTC(クレージー・トライアスロン・クラブ)の会長である永谷誠一が、クラブの合宿地として訪れていたトライアスロン・ロケーションだ。
妻を伴って来日したアメリカのUSTS会長のカール・トーマスは、遥か島原半島中央部に聳える雲仙岳を望みつつ、海水浴場の海を砂浜がぐるりと取り巻く景観を見て、

「まるでアリーナのようだね。実に素晴らしいスイム・コースだ」

と、感嘆の声を挙げた。


雲仙岳を仰ぎ見ることができる風光明媚なスイム会場

そしてバイクは、同じく永谷ら熊本CTCメンバーが使っていた明瀬海岸道路から国道324号線を有明海に沿って市北端のイルカ生息地・通詞島(つうじしま)を折り返す40Kmの往復コースで、適度なアップダウンもあり海岸線の景色も楽しめる。バイクを終えた選手がラン・シューズに履き替え、本渡市の中心街に向かって走り出し、天草ゆかりのキリシタン遺蹟などを巡り再び茂木根海水浴場に隣接する天草国際ホテル(現ホテル・アレグリア・ガーデンズ天草)へ戻る10Kmのコースである。これら会場やコースの沿道には主催団体のJTF(日本トライアスロン連盟)や大会スポンサーとなった(旧)九州石油株式会社の幟が風にはためき、終日、アメリカン・ミュージックが大きな野外スピーカーから鳴り響いた。

1985年10月13日(日曜日)。朝の8時半現在、天候は曇、気温22℃、水温25.4℃、風は海から陸側へと吹いている。雲は厚く、いつ雨が降っておかしくない空模様であった。9時30分のスイム・スタート前に大会会長である久々山義人本渡市長(故人)は壇上に上り、

「世界最先端のスポーツとも言えるトライアスロンが、当地で開催されることを誇りに思う」

と挨拶した。また「ミスター」ことJTFの長嶋会長は、「51.5Kmという、この競技距離こそ文字通りスタンダードなトライアスロンであり、いずれはオリンピック競技種目になるに相応しい」旨のスピーチを行った。その後、会場に集まった人々を前に大会招待選手が紹介された。


スタートを待つ左から長嶋JTF会長、トーマスUSTS会長、久々山本渡市長

 海外から招待された選手はアメリカの男女各2名の合計4名で、男子がUSTSチャンピオンのスコット・モリーナの実弟・フィル・モリーナ(19歳)とビル・カールソン(24歳)、女子がアン・マクドネル(24歳)とリズ・ビタイ(21歳)である。いずれもUSTSで活躍している新鋭トライアスリートであった。


サインの求めに応じるモリーナ選手

これに対し日本からは“チーム・エトナ”のメンバーである中山を始め山本光宏(22歳)、飯島健二郎(26歳)、横井信之(26歳)の4名のほか、その年4月の宮古島大会でトライアスロン・デビューし、次いで6月のびわ湖アイアンマンで日本人第1位と大活躍した城本徳満(32歳)が招待選手に選ばれた。
また、一般参加選手は地元・天草を始めとする熊本県及び九州地域のアスリート達のほか、関東や関西地域から総計326名が出場、新人の宮塚や83年皆生大会で中山を下し優勝した梅澤智久(故人)、鈴木夫妻、それに大会誘致に尽力した永谷も選手として参加している。ちなみに、大会参加費はカーボ・パーティをはじめ飲食代、記念品、保険料などを含み1万円だった。

招待選手として紹介されたものの、中山はその晴れがましさとは裏腹に、やや緊張した面持ちでスイム・コース折り返し点の彼方を見詰めていた。トップでゴールしなければならないという、重苦しい気分を覚えながらも、一方でこれから存分に戦いゴールを一番で駆け抜けようという意識が沸沸と湧き上がっていた。でも、スタートするまで誰とも口を利きたくはなかった。今の自分の総てを、これから始まるレースに集中しようとした。

《次回予告》引き続き天草大会のレースの模様と結果、またトライアスロン談義では「座談会パート2」を記事掲載いたします。2003年春から連載してきた『日本トライアスロン物語』は、次回をもって最終回となります。

トライアスロン談義

座談会パート1

あの頃はみんな燃えていた

座談会出席者(五十言順)

猪川 三一生(いのかわ みちお)

中山 俊行(なかやま としゆき)

山下 光富(やました みつとみ)

山本 光宏(やまもと みつひろ)

司会・進行 島田 文武(しまだ ふみたけ)

<座談会>2015年2月28日(土曜日)、横浜中華街「東園」にて


左から中山、山本、猪川、山下の各氏

島田 本日はお忙しいところをお集まり戴き有り難う御座います。2003年春から連載されてきた『日本トライアスロン物語』も、今回の1985年10月に熊本県本渡市で開催された第1回天草国際トライアスロン大会の話をもって終了いたしますが、その最後を飾るに相応しく、当時、結成された日本のエリート・トライアスリート集団「チーム・エトナ」の皆さんのお話を採り上げることになりました。当時のエピソードはもちろんのこと、皆さんがトライアスロンに傾けた情熱の様々を、ざっくばらんにお話くだされば幸いです。では最初に、皆さんがトライアスロンを始めた切掛けや「チーム・エトナ」の結成へ至る道筋、その出会いなどについて、まずは猪川さんから口火を切ってください。

猪川 私がトライアスロンを知ったのは、確か1978年の頃でした。ハワイで3種目の競技を連続して行うニュー・スポーツが始まったとの記事を、日本のスポーツ紙で見たのです。詳しいことが書かれていた訳ではなく、そのような競技がハワイで行われたという程度の内容でした。それまで野球やマラソンに親しむなどスポーツ好きだった私は、その新聞記事を見て「水泳は得意ではないけれど、面白そうだからやってみようか」などと思いました。でも、当時はハワイ以外でトライアスロン大会が行われているところはなく、もちろん日本にもありません。結局、私がトライアスロン大会に出場したのは、27歳の時の82年に神奈川県で開かれた湘南ハーフ大会です。私は総合7位となりましたが、この時、優勝したのが、ここに居る中山君です。そして翌年の83年に行われた皆生大会では山本君と一緒にゴールインしたのです。


猪川三一生氏

山本 そうでしたね。あの第3回大会は海が大変、荒れて、水泳が苦手だった自分もそうですが、多くの選手達は三角波が立つ海にてこずっていました。私も何とかスイムとバイクを終え、いよいよランで走り出した時、猪川さんが「旅は道連れ世は情け、一緒に走りましょう」と声を掛けてきたのです。私は「いやです」とも言えず、何となくその流れに乗って一緒に走っていきました。この大会が私のトライアスロン・デビュー戦ですが、まだ19歳の大学2年生の時のことでレースの駆け引きも自分の実力も良く解らなかったので、猪川さんの言われるがまま走ったという感じです。それでも徐々に調子があがってきたので、少し先に行かせてもらうことにしました。でも、レース終盤になって再び猪川さんに追い着かれ、最終的に二人で手を繋ぎ9時間57分45秒でフィニッシュしたのです。


山本光宏氏

猪川 後にも先にも山本選手よりスイムを先に上がったのはこの時だけでした。一緒にゴールして友達になったというか、同じトライアスリートとして心を分かち合えた気がします。その後、山本君の良きライバルというか、同じトライアスリート仲間だった山下君とも知り合うことになり、最終的にJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)という全国的なトライアスロン・クラブのメンバーとして、共に練習を行うようになったのです。

島田 当時のトライアスロン・クラブといえば、日本のアイアンマン第1号の永谷誠一さんが率いる熊本CTCと、次いで結成された関東・中部圏を中心メンバーとしたJTRCだけでした。そのJTRCの会長は、8年前に『日本トライアスロン物語・トライアスロン談義』に登場した矢後潔省(きよみ)さんで、東京支部長として猪川さん、神奈川支部長として中山さんの名があがっていたと記憶しています。JTRCが当時のトライアスリートを集約しつつ、その過程で猪川さんや中山さんが中心的役割を担い、トライアスロンの練習会を実践していったのですね。

中山 そのような流れに間違いはないと思います。トライアスロンの大会に出場し、顔見知りになり、たびたび出会うようになって仲良くなり、実力が近いもの同士が共に練習を行い切磋琢磨していきました。徐々にトライアスロンの友達の輪を広げていった、という感じでしょうか。

猪川 兎に角、トライアスロンに関して私達は右も左も判らない子羊のような状態で、どのような練習をしてよいのやら、そのデータや知見がありませんでした。それだけに同じトライアスロンを目指す仲間の必要性が求められたのです。言わば、無から有を生み出すような手探りの作業でした。ましてやアスリート達の多くは日常のビジネスに携わりながら、アイアンマン・トライアスロンを完走する為に莫大な練習量をこなしていかねばならないという課題を抱えていたのです。

島田 その点、中山さんは早い時期からトライアスロンの世界に入ったし、83年にはハワイ大会に出場、総合59位になるなど海外の経験もあったので、練習も自分なりに組み立て易かったのではないですか? トライアスロン・トレーニングでも先駆者といってよいでしょう。

中山 そのようなおこがましい立場ではありませんが、確かに私がトライアスロンの世界に入っていったのは早かったと思います。高等学校を卒業する間近に永谷さんがハワイ大会を完走された記事が一般紙に掲載され、それを読んで自分も大学性になったらトライアスロンに挑戦しようという決意を固めました。それで大学に入ってからは同好会の自転車部へ入部し、アルバイトと練習を積み重ねながらアイアンマン・ハワイへの道を探っていました。そして手始めに出場したのが82年の湘南ハーフ大会で、台風が迫り来る大荒れの天候の下でしたが、先頭でゴールラインを踏みました。そして翌83年の皆生大会で4位、次いで同じ年のハワイで59位となり、大学性でしたがトライアスロンの道を本格的に歩み出していったのです。今思えば、当時は誰にも負けない、誰にも負けたくないという気持でした。


中山俊行氏

山下 そうそう、83年に中山さんがハワイへ向かう時です。同じJTRCのメンバーとして私は羽田空港で彼を見送りました。この時、私はトライアスロンを始めたばかりでしたが、来年は自分が見送られるようなると密かに思ったものです。

島田 JTRCは83年春に発足し、その年の暮れには全国12支部、135名のトライアスリートが集結したと聞いております。そのうち関東では東京、神奈川、千葉の地域のアスリートが積極的に活動していたようですが、山下さんは千葉の仲間との付き合いからトライアスロンの世界に入ったのですね。

山下 ええ、そうです。私は郵便局に勤めるかたわらランナーとしてマラソンなど長距離競技を楽しんでいて、市川市を中心に集まっていた同じランナーの方々の仲間に入れてもらいました。確か81年頃と記憶していますが、毎月、読んでいるランニング雑誌にトライアスロンの記事が載っていて、同僚と話題にした覚えがあります。そのうち、ランナーの仲間達がトライアスロンをやろうということでJTRCに入会したのを機に、私も「ランニングより目立ちそうなニュー・スポーツだし、一度、試してみよう」という気になったのです。そしてJTRCへ入会した翌年の84年の皆生大会で総合15位となり、またその年のハワイ大会は252位といまひとつ奮いませんでしたが、「これならばトライアスロンを続けていけそうだ」との感触を得ることが出来ました。以来、JTRCを通じて山本さんや中山さんとも知り合い、一緒に練習をやるようになったのです。


山下光富氏

山本 山下さんとはバイクの練習で、よく千葉の勝浦まで往復約180Kmのロング・ライドをやりました。ハワイや宮古島、アイアンマン・ジャパン・インのバイク距離を意識して練習をしたのです。山下さんと共にバイク練習したお陰で、私も大分、強くなれたと思います。私にとって山下さんは、素晴らしい練習パートナーでした。

島田 そしてバイクが得意だった中山さんも加わり、また83年の湘南ハーフ大会で優勝しトライアスロン・デビューした飯島健二郎さんなど首都圏のトライアスリート達が、品川の大井埠頭に集まり練習をしていましたね。84年頃のことです。大井埠頭は今も昔も船貨物の倉庫が建ち並んでいますが、休日となると貨物を運ぶ大型トラックなどの走行がないので、ちょうど格好のバイク練習場として利用できました。この頃、大井埠頭の近辺に住んでおられた猪川さんが皆さんを招き呼びかけたのでしょう。

猪川 サラリーマンの私は休日でないとバイクの練習が出来ませんが、大井埠頭の近くの団地に住んでいたので、日曜日ともなると埠頭の幅広い道路を周回する練習をしていました。それでJTRCの仲間にも声を掛けて一緒に練習を行うようになった訳で、近くの室内プールで泳いだ後に埠頭へ赴き、バイクとランのデュアスロンをやったのです。練習会は毎回、参加者が増えていって盛況でした。でも、バイクもランも、中山、山本、山下、飯島といった、後にチーム・エトナのメンバーとなった彼らに誰も着いていく者はなく、本当に速かったですね。

山下 大井埠頭の練習会にも参加しましたが、中山さん達には及びませんでした。私は公務員なので休日が限られていましたから、その分、どうしても十分な練習時間を取ることが出来ませんでした。それでも月に7日間の休日と年休を利用して、それこそ朝から晩まで一日中、練習をしました。山本さんとやったバイクのロング・ライドで結構、鍛えられたと思います。

山本 その頃の私はトライアスロンを始めたばかりの駆け出しで、ホイールが何本組みとか、ギアが何枚でどうだとか、バイクのことはさっぱり分かりませんでした。そのギアも大学の自転車部で余っていたギアをはめて走っていたレベルで、それこそ初めの頃は猪川さんにも着いていけなかったくらいです。その点、中山さんは大学の自転車部で練習されたから、強かったですね。

中山 確かに、当時はバイクに長けているトライアスリートは少なかったようです。とは言っても、トライアスロンの練習はどのようにやればよいか? どのくらいやればよいか? など、まだ取り組み始めたばかりなので、みんな試行錯誤の状態だったと思います。自分もあれこれ試しながら、自分に合った練習方法を組み立てていきました。

山本 今でも覚えていますが、中山さんは83年の皆生大会の競技説明会で「接着走行」などという言葉を使って、その是非を問われていました。つまり「ドラフティング」のことですが、ほとんどの参加者はドラフティング走行の意味を知らなかったので、訳の分からない質問をしているなあ、などと思ったのです。それがなんと、レースが終わって総合4位で表彰台に上がったのが中山さんだったので、すっかり驚いてしまいました。

猪川 今、考えると笑ってしまうことが沢山ありましたけど、それだけトライアスロンが日本の私達にとって未知なものであった証しです。だから年齢や性別を超えて、お互いに教え合い、学び合い切磋琢磨していったのだと思います。トライアスロンもゴルフと同じで年齢のギャップを超えて誰もが友達になれる世界でしたから楽しかったし、人間的な結び付きも深めたと思います。なんといっても、みんなトライアスロンに燃えていましたよ。

島田 1980年代前半の当時は、アスリート達が全国的なレベルで地域ごとに寄り集まり、お互いに協力し競い合いながら、トライアスロンに挑戦していった時代だと思います。そうした集約の典型が日本のトライアスリートのエリート集団「チーム・エトナ」だったと思いますが、そのチーム結成の経緯と、その後、我が国のトライアスロンが発展し今日に至る過程については、次回の<座談会パート2>で皆さんのご意見や感想をお聞きしたいと思います。

【出席者プロフィール】順不同

猪川 三一生(いのかわ みちお)1955年北海道旭川市出身。会社員。
81年第1回皆生大会17位、83年アイアンマン・ハワイ日本人5位、85年第1回びわ湖大会47位。
「チーム・エトナ」監督、宮古島大会アドバイザー、びわ湖大会マーシャル・リーダー、アイアンマン・ハワイ大会マーシャル。
現在は妻と子供3人の父親として静岡県熱海市で暮らす。
趣味・スポーツはゴルフ、クラシック音楽、旅行。

山下 光富(やました みつとみ)郵便局員
1958年香川県出身。84年第4回皆生大会15位、85年第1回宮古島大会4位、87年第1回オロロンライン大会2位。
現在は妻と2人で千葉県松戸市で暮らす。
趣味・スポーツはバスケットボール、テニス。

中山 俊行(なかやま としゆき)1962年神奈川県出身。三和運輸㈱代表
84年第4回皆生大会優勝・アイアンマンハワイ大会17位、85年ニュージーランドアイアンマン大会6位・第1回宮古島大会・第1回天草大会優勝、86年第2回宮古島大会・第2回天草大会優勝、89~96年ITU世界選手権日本代表。
JTU強化チーム・次世代強化リーダー。
現在は妻子と共に横浜市で暮らす。
趣味・スポーツはトライアスロン、格闘伎。

山本 光宏(やまもと みつひろ)1963年東京都出身。㈲J-BEAT代表。
85年~87年・95年アイアンマン・ハワイ大会で日本人トップ、88年第4回宮古島大会優勝。
JTU事業広報チーム・コーリーダー、TOTO陸上競技部コーチ。
現在は妻と子供2人と共に東京都多摩市で暮らす。
趣味・スポーツは魚釣り、デザート作り。

島田 文武(しまだ ふみたけ)1946年東京都出身。作家。
86年第1回JTS仙台大会完走、87年第3回宮古島大会完走、88年ワールドカップ・ゴールドコースト大会完走、90年第10回皆生大会完走。
JTU初代理事(競技本部長)、西伊豆トライアスロン実行委員長。
現在は妻と共に千葉県東金市で農業を営み暮らす。
趣味・スポーツは飲酒、囲碁、腰痛体操。

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